第2話:所長の麻婆豆腐と、麻布十番の夢
1.300万円の豆腐と、所長の愛
「いやあ近衛くん、無事で本当に良かったよ。君という優秀な『歩く辞書』を失っていたら、我が研究所は明日から論文の誤字脱字チェックすらままならなくなるところだったからね!」
昼の12時15分。
研究所の近くにある中華ファミレス「バーミヤン」。
向かい合わせのボックス席に座る五十嵐所長(58歳・趣味は激辛料理と観葉植物)が、汗を拭いながら満足そうに言った。
「はは……ありがとうございます、所長」
私は引きつった笑みを浮かべながら、白衣のポケットの中で拳を握りしめていた。
(……所長。私は論文の誤字チェック係じゃないわよ)
『茉莉さん、怒りで脳内アドレナリンが急上昇しています! 落ち着いてください! ターゲットの到着まであと30秒です!』
脳内でぐぐる先生が、ミリタリー風の警告音とともにカウントダウンを開始した。
(制限時間は12時45分まで。現在の時刻は12時20分。問題は「どうやって所長が目を離した一瞬隙を突き、麻婆豆腐から豆腐一片だけを自分の口へと運ぶか」よ……)
『状況は極めて深刻です茉莉さん。所長は激辛料理を食べ始めると、一切の余計な動作を排除し、皿とレンゲだけに集中する「激辛トランス状態」に入ることが過去のデータから判明しています!』
(そんなデータまで丸暗記させてる私の脳みそを褒めてあげたいわ!!)
その時、ウェイトレスが湯気を立てる黒い鉄鍋を運んできた。
「お待たせいたしましたー!『超鬼辛・四川麻婆豆腐定食』でーす!」
ドサッ。
目の前に置かれた麻婆豆腐は、赤というより黒に近い禍々しい色合いをしており、立ち上る湯気だけで目がシパシパとするほどの辛気を放っていた。
「うおぉぉ……! これだこれ! これを食べないと午後の研究に身が入らないんだよ!」
所長が目を輝かせ、レンゲを構える。
(う、ウソでしょ……あの麻婆豆腐、危険物指定されるレベルの赤さじゃない! 昨夜手に入れた「絶対味覚(Lv.1)」のせいで、見ただけで含まれている唐辛子と花椒の分子量が分かっちゃうわよ!)
『分析完了! カプサイシン濃度、通常の35倍! 舌の痛覚ニューロンを直接破壊するレベルです! 茉莉さん、これを食べるんですか!?』
(食べるのよ! 300万円相当のサイバー・フューチャー社未公開株と、「髪型が爆発してる」という呪いを回避するために!!)
2.作戦名:豆腐・スナッチ
(ぐぐる先生、作戦を立てるわよ! 所長が視線を外す一瞬のスキを作るには、どうすればいいの!?)
『茉莉さん、「歩く辞書」たる貴女の脳内データベースを参照してください! 所長が唯一、激辛料理から目を離す瞬間……それは!』
(……あッ!!)
私の脳内の「五十嵐所長観察日記(無意識に記憶されたデータ)」が検索結果を弾き出した。
(所長は鼻炎持ちで、激辛料理の最初のひとくちを食べた直後、必ず「ハックション!」と豪快なくしゃみを一回して、胸ポケットからハンカチを取り出す……!!)
『正解です茉莉さん! くしゃみの瞬間、所長の瞼は反射的に1.2秒間閉じられます! さらにハンカチを取り出す動作で目線が右下へ移動! 合計で約2.5秒間の完全な「視界の死角」が発生します!』
(2.5秒……! 25歳の女性研究者の反射神経なら、余裕で豆腐を掠め取れる時間だわ!)
「それじゃあ近衛くん、いただきまーす!」
所長がレンゲですくい上げた麻婆豆腐を、豪快に口へと運んだ。
モグモグ……。
(来るわ……! 構えて、私!! 自分の箸を音もなく右手に保持!!)
所長の顔が瞬時に真っ赤に染まり、首筋に汗が噴き出す。
そして——胸が大きく膨らんだ!
「〜〜〜〜〜〜ッッドヒャックショイッ!!!!」
(今だぁぁぁぁぁぁぁっっっっ!!!!)
私は光の速さで身を乗り出し、所長の鉄鍋の端っこにあった、一番小さそうな豆腐の一片(約1.5センチ四方)を箸でつまみ上げた!
シュバッ!!
『見事な箸さばきです茉莉さん! 所長の目線、復帰まであと0.8秒!』
すばやく口の中へ豆腐を放り込み、何事もなかったかのように元の体勢に戻る。
ふぅーっと息を吐きながらハンカチで鼻を拭った所長が、目を開けた。
「ふぅ……失礼、辛さが鼻に抜けてね。ん……? 近衛くん、何か言ったかい?」
「い、いえ! 『所長、いい飲みっぷりですね』って思っていただけです!」
【クリア条件:所長が目を離した隙に豆腐を横取りして食す】
(勝った……! 2.5秒の隙を見事に突いたわ……!)
そう思った瞬間。
ドォォォォォォォン……ッ!!!!
私の口の中で、原爆が破裂した。
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っっっっっっっっ!?!?!?!?」
(((((が、辛いぃぃぃぃぃぃぃぃぃっっっっっっっ!!!!!!)))))
『茉莉さん!? 忘れていました! 茉莉さんには現在「絶対味覚(Lv.1)」が発動しています! 通常の人間の30倍の精度で辛さと痺れが脳にダイレクトに伝達されています!!』
(早く言いなさいよバカァァァァァァァァァッッッ!!!!!)
舌が焼き切れる! 喉が燃える! 脳髄が痺れる!
激辛を超えた「激痛」が全身を駆け巡り、目の前が真っ白になった。
だが、声を上げれば所長に「どうしたのかね!?」と勘ぐられ、豆腐泥棒がバレてしまう!
私は声を殺し、血涙を流しながら、必死の思いで豆腐を丸飲みした。
(……ゴクッ。)
喉を通過した激痛の塊。
直後——。
ピロリロリーン♪
脳内に、あのチープなファンファーレが響き渡った!
『——突発クエスト:所長の秘密と激辛麻婆豆腐 クリア——』
無機質なシステムの声が響く。
『条件の達成を確認しました。報酬を適用します』
ピコーン!
スマホが激しく震えた。
画面を盗み見ると、証券口座のアプリから通知が届いていた。
『【株式割当完了】サイバー・フューチャー社(未公開)10,000株の権利移転が完了しました。推定時価評価額:¥3,000,000-』
さらに、頭の中でシュン……!と透明な波動が弾けた。
(あ……頭が……すっきりする……?)
『すごいです茉莉さん! スキル「一瞬で嘘を見抜く心理眼(Lv.1)」の修得が完了しました! 人間の微小な表情の変化や声の周波数の乱れから、嘘の確率が数値化して視界にオーバーレイ表示されます!』
舌の痛みが嘘のように引き、代わりに視界に不思議なメーターが表示され始めた。
「近衛くん? 顔色が真っ赤になったり真っ白になったりしているが、本当に大丈夫かね?」
所長が心配そうに私を見る。
その時、所長の顔の横に、薄緑色のデジタル数値が表示された。
【対象:五十嵐所長】
【発言の虚偽確率:0%(本気で心配している)】
(すごい……! 本当に相手の嘘や感情が数値で見えるわ……!)
「大丈夫です、所長! ちょっと所長の麻婆豆腐の匂いだけでむせそうになっただけですから!」
「そうかそうか! ワーハハハ!」
激痛と引き換えに、私は300万円相当の株式と、最強の心理眼を手に入れたのだった。
3.デイリー・クエストと、100万円の観葉植物
午後2時。
研究所に戻った私は、自分のデスクで冷たいお茶を飲みながら息をついていた。
「はぁ……死ぬかと思ったわ。でも、これで資産は310万円+即金10万円。研究者の手取り給料から考えたら、信じられない臨時収入よ……」
『フフン、茉莉さん! 僕の弾道計算と所長のくしゃみデータのコラボレーションの勝利ですね! 感謝してください!』
(あんたが絶対味覚の副作用を警告し忘れたせいで、私の痛覚ニューロンは半死半生だったんだけどね!?)
脳内でぐぐる先生と喧嘩をしていると、突然、所長室のドアが開いた。
「近衛くーん! ちょっと来てくれ給え!」
「あ、はい!」
所長室へ向かうと、そこには重厚な革張りソファの横に、見事な鉢植えの観葉植物——パキラが飾られていた。
「見給え近衛くん! 我が子のパキラちゃんだ! 今日届いたばかりなんだが、樹齢50年を超す超希少品種でね。オークションで100万円で競り落としたんだよ!」
所長は満面の笑みでパキラの葉を撫でまわしている。
【対象:五十嵐所長】
【発言の虚偽確率:0%(マジで100万円で買った)】
【感情分析:我が子のように愛している】
(100万……! 観葉植物に100万も出すなんて、所長ってば意外とお金持ちなのね……)
そう感心した、その瞬間。
ピロリロリーン♪
出た。本日2回目の悪魔の電子音である。
視界の中に、鮮烈な緑色のテキストが浮かび上がった。
【デイリー・クエスト:パキラとプロテイン】
内容: 本日18時までに、所長の100万円のパキラの鉢植えに、市販の筋トレ用プロテイン(ホエイ100%)を水で薄めて散布(投与)せよ。
制限時間: 本日 18:00まで(あと3時間半)
報酬: 『港区麻布十番の高級デザイナーズマンション1棟(全12戸)所有権(年間家賃収入1,200万円保証)』+『スキル:超感覚演算(Lv.1)』
失敗ペナルティ: 『手持ちの全資産(310万円)の即時没収』および『1年間、髪の毛からほのかにプロテインの匂いがする呪い』
私とぐぐる先生は、口ぐちに絶叫した。
「(((あくまーーーーーっっっっっ!!!!!!))))」
(ちょっと待ちなさいよシステム!! 100万円の所長の宝物に、プロテインを飲ませろですって!?? 枯れたらどうするのよ!! 弁償よ、弁償!!)
『ま、茉莉さん!! 報酬を見てください!!「麻布十番の高級デザイナーズマンション1棟(年収1,200万保証)」ですよ!!?? 一気に不労所得の億万長者仲間入りです!!』
(1,200万……!? 麻布十番……不労所得……!?)
『所長のパキラの命と、茉莉さんの麻布十番不労所得ライフ! 天秤にかけるまでもありませんね!』
(天秤が壊れるレベルで不労所得に傾いてるわよ!!)
「近衛くん? どうしたんだね、固まって?」
所長が不思議そうに私を覗き込む。
「あ、いえっ! 『素晴らしいパキラですね! 筋肉質で力強い立ち姿です!』って思ってました!」
【発言の虚偽確率:99%(大嘘)】
私の心理眼スキルが、自分自身の大嘘を容赦なく検出して虚しく画面に表示された。
(やるわよ……! 科学者として、植物が枯れない極限の超希釈プロテイン・ローションを作り出して、麻布十番のマンションを手に入れてやるわ!!)
『作戦開始です茉莉さん! まずはドラッグストアでプレーン味のプロテインの購入です!!』
歩く辞書近衛茉莉の、社会的信頼と麻布十番の夢を賭けた「パキラ筋トレ化計画」が、今静かに始まったのである。




