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完璧な主夫の処方箋 〜タワマン最上階から底辺清掃員に転落した俺ですが、皆様の「ゴミ」を回収して社会的に抹殺させていただきます〜  作者: 伊達ジン


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第5話 最初の理解者

 午前10時。

 ネットカフェの狭い個室。任三郎はディスプレイに表示された企業情報を冷徹に目で追っていた。

 昨夜の清掃業務で得た給与の半分を使い、滞在時間を延長している。

 画面には、タワーマンションで自分を嘲笑った男・長谷川が役員を務める「株式会社クロスリンク」の概要が表示されている。本社が入っているのは、渋谷区にある地上30階建てのインテリジェントビルだ。

 任三郎の指がキーボードを叩く。そのビルの管理会社から、出入りしている清掃業者を割り出す。大手ビルメンテ会社から孫請けとして複数の零細清掃会社がフロアごとに入っているはずだ。昨夜世話になった「クリーン・シャドウ」の山田チーフに頼めば、何らかのツテでその現場のシフトに入れるかもしれない。


 方針が固まり、任三郎はブラウザを閉じた。

 ボストンバッグを持ち、ネットカフェの自動ドアを抜ける。

 11月の乾いた風が、首筋を撫でた。昨日までの生温かい空気は嘘のように消え去り、本格的な秋の冷気が街を包み始めている。

 近くのコインランドリーで作業着を洗うため、路地を曲がろうとした時だった。


「佐藤任三郎さん、ですね」


 背後からかけられた声に、任三郎は足を止めた。

 振り向くと、数メートル離れた場所に一人の女性が立っていた。

 年齢は30代前半。栗色の髪を後ろで無造作に束ね、黒縁の眼鏡をかけている。タイトなネイビーのパンツスーツは上質だが、アイロンの当て方が少し甘く、膝裏や袖口にわずかなシワが残っていた。

 小柄で清楚な顔立ちをしているが、その瞳には強い意志の光が宿り、任三郎を真っ直ぐに射抜いている。


 任三郎は表情を変えず、無言のまま彼女の身なりを瞬時に見定めた。


(……警察ではない。探偵でもない。足元は歩きやすいローヒールのパンプスだが、使い込まれた革製のビジネスバッグの持ち手は重みで歪んでいる。大量の書類を持ち歩く人間のカバンだ)


「少し、お時間をいただけますか。5分で構いません」


 女性はゆっくりと歩み寄り、バッグから一枚の名刺を取り出して差し出した。


『山本法律事務所 代表弁護士 山本 瞳』


 任三郎は名刺を受け取らず、冷たい視線を彼女に向けた。


「……沙織が差し向けたのか。木崎の手先なら、話すことはない」

「違います」


 瞳は即座に否定した。


「私は木崎先生とは無関係です。むしろ、彼らのやり方に強い疑念を抱き、あなたを追ってきました」

「……追ってきたのか」

「はい。昨日の夕方、あなたが駅前の質屋で時計を売却した記録から足取りを掴みました。あの質屋は私のクライアントが経営しており、少し無理を言って情報を回してもらったんです」


 任三郎の眉がわずかに動いた。質屋の取引記録から、たった一晩でこのネットカフェまで辿り着いたというのか。


「……何の用だ」

「ここでは目立ちます。すぐそこの喫茶店で話をさせてください。あなたにとって、絶対に損にはならない話です」


 瞳の言葉には、有無を言わせぬ論理的な強さがあった。

 任三郎は周囲に人がいないことを確認し、顎で路地の先にある古い純喫茶をしゃくった。


 薄暗い店内は、焙煎されたコーヒー豆の匂いと、古いソファの埃っぽい匂いが混ざり合っていた。

 一番奥のボックス席に向かい合って座る。

 瞳はブレンドコーヒーを二つ注文すると、すぐに革のバッグから分厚いクリアファイルを取り出し、テーブルの中央に置いた。


「単刀直入に言います」


 瞳は眼鏡のブリッジを中指で押し上げた。


「先日、あなたがサインさせられた離婚協議書。そして、木崎弁護士が提示したというDVと不倫の証拠。あれは法的に見て、あまりにも不自然で穴だらけです」


 任三郎はコーヒーに手をつけることなく、彼女の目を見た。


「なぜ、あなたがその事実を知っている」


「私の専門は離婚問題と企業法務です。現在、白鳥圭介という自称起業家による投資詐欺事件について、被害者の会から相談を受けて内偵を進めていました。その過程で、彼が頻繁に密会している女性――あなたの元妻である沙織氏の存在に行き着いたんです」


 瞳はファイルを開き、数枚の写真と書類のコピーを並べた。


「沙織氏の周辺を洗う中で、昨日、彼女が突然あなたを家から追い出したことを知りました。木崎弁護士の事務所の動向もマークしていたので、彼らがどんな証拠をでっち上げたのかは、おおよそ把握しています」


 瞳は、並べた書類の一箇所を指先でトントンと叩いた。


「まず、あの若い女性への送金記録のコピー。あそこに印字されていた振込先の口座番号と支店コードですが、白鳥圭介が過去の投資詐欺で利用していたダミー会社の口座と完全に一致しています。私は彼の資金ルートを徹底的に洗っていたので、すぐにピンときました」


 さらに、瞳は一枚の写真――任三郎の背中が写った隠し撮り写真のコピーを指差した。


「そしてこの写真。大胸筋から広背筋にかけての筋肉の隆起が、高負荷のウエイトトレーニングを日常的に行っている人間のものです。あなたの現在の体格とは骨格レベルで一致しません。プロの鑑定に出せば、一発で合成だと証明できます」


 瞳の指摘は、任三郎が沙織の部屋で瞬時に見抜いた矛盾と完全に一致していた。

 用意された書類の表面をなぞるだけでなく、背後にある物理的な矛盾を正確に読み取る観察眼と論理的思考を持っている。


「……それで?」


 任三郎は低く静かな声で言った。


「あなたがそれを知ったところで、どうなる。協議書にはすでにサインした。住む場所も、社会的信用もすべて奪われている」

「私なら、あの協議書を無効にできます」


 瞳は身を乗り出し、任三郎を真っ直ぐに見据えた。


「木崎の用意した証拠の矛盾を突き、詐欺による合意として取り消しを請求する。沙織氏と白鳥圭介を法廷に引きずり出し、不当な財産分与と慰謝料を全額取り戻すことができます。私が、無償であなたの代理人になります」


 熱を帯びた瞳の提案。

 だが、任三郎の心は微塵も動かなかった。


「断る」

「……え?」


 瞳はわずかに目を見開いた。


「なぜですか。このまま泣き寝入りするつもりですか」

「金を取り戻して、元の生活に戻ることなんて望んでいない」


 任三郎はテーブルの上の書類から視線を外し、窓の外を通り過ぎる車の流れを見つめた。


「法廷で何年かかかって決着をつけたところで、あいつらは痛くも痒くもない。沙織は自分のキャリアを守るために裏で手を回すだろうし、圭介は別の詐欺で稼ぐだけだ。……そんな生ぬるい決着で終わらせるつもりはない」


 任三郎の口調は淡々としていたが、その奥には凍てつくような冷徹な殺意が潜んでいた。

 瞳は一瞬息を呑み、任三郎の横顔を見つめた。

 彼が何をしようとしているのか、その輪郭を察したのだろう。瞳は視線を伏せ、少しだけ自嘲するように口元を歪めた。


「……あなたも、奪われた側なんですね」

「何?」

「私も過去に、理不尽な形で財産と尊厳を奪われそうになったことがあります。だから、沙織氏や白鳥圭介のような、他人を食い物にしてのうのうと生きている人間が許せない」


 瞳は顔を上げ、再び眼鏡を押し上げた。その目には、先程までの事務的な冷たさとは違う、私怨に近い生々しい執念が燃えていた。


「法廷闘争だけが弁護士の仕事ではありません。もしあなたが、彼らの社会的な息の根を止めるつもりなら……私が集めた証拠を、彼らが絶対に逃げられない『法的な凶器』に加工します」

「法的な凶器」

「はい。あなたが彼らの足元から拾い集めた真実を、警察や国税局が無視できない完璧な告発状へと組み上げる。退路を完全に断つための、法の執行者としてサポートします。それが私の条件です」


 目には目を、法には法を。

 沙織たちが法を悪用して任三郎を追い詰めたのなら、こちらも法という最大の暴力を使って彼らを叩き潰す。

 任三郎は瞳の目をじっと見つめ返した。嘘はない。彼女もまた、自分と同じ匂いのする、怒りを冷たい論理の底に隠し持っている人間だ。


「……分かった。頼む」


 任三郎が短く答えると、瞳はふっと肩の力を抜き、わずかに安堵の表情を見せた。


「よかった……」


 張り詰めていた空気を少しだけ緩め、瞳は小さく息を吐いた。


「すみません、昨日から彼らの周辺を徹夜で洗っていて、食事を摂るのを忘れていました。ここのたまごサンド、頼んでもいいですか」


 運ばれてきた分厚いたまごサンドを、瞳は少し無造作に手に取り、かじりついた。


「……美味しいですね、これ」


 少しだけ目を見開き、淡々と、しかし確かなペースで咀嚼していく。その際、口の端にほんの少しパン屑がついていたが、本人は手元の書類から目を離さず全く気づいていない。


「……マスター、塩を」


 任三郎は気づけば、カウンターの奥にいる初老のマスターに向かって声をかけていた。


「え?」


 顔を上げた瞳を尻目に、任三郎は運ばれてきた塩の小瓶を取り出し、たまごサンドの断面に軽く振りかけた。


「マヨネーズの酸味が強すぎる。卵の甘みを引き出すなら、塩を少し振って味の輪郭を締めた方がいい」


 瞳は言われるがままに、もう一口かじりつく。


「……本当だ。さっきより全然美味しいです」

「パンに塗るバターも、室温に戻しきれていないから生地との馴染みが悪い。もう少し丁寧に……」


 そこまで言って、任三郎は口をつぐんだ。


「料理に精通されているんですね」


 瞳が口元を紙ナプキンで拭きながら、少しだけ意外そうに言った。


「……ただの退屈しのぎだ」


 任三郎は目を逸らし、冷めたコーヒーにようやく口をつけた。


 すべてを奪われ、社会からいないものとされた男。だが今、彼の前には、彼が足元から拾い集める事実を致命的な凶器に加工できる人間が座っている。

 任三郎は静かに息を吐き、ブラックコーヒーの残りを飲み干した。

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