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完璧な主夫の処方箋 〜タワマン最上階から底辺清掃員に転落した俺ですが、皆様の「ゴミ」を回収して社会的に抹殺させていただきます〜  作者: 伊達ジン


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第4話 見えない男

 午前7時。

 任三郎は狭いフラットシートの上で短く息を吐いた。

 窓のないネットカフェの個室。淀んだ空気の中で丸まって浅い眠りについていたが、体の芯にこびりついた疲労はほとんど抜けていない。

 傍らに置いたスマートフォンが、無機質な振動音を立てた。画面には見知らぬ市外局番が表示されている。

 通話ボタンをスライドして耳に当てると、男の低い声が響いた。


「佐藤さんですか。昨日応募してもらった、クリーン・シャドウの採用担当です。今日、面接に来れますか」

「はい。何時でも構いません」

「じゃあ、今日の13時に神田の事務所まで」


 指定されたのは、神田の裏路地にある塗装の剥がれた古い雑居ビルだった。

 1階のポストには無数の会社名が乱雑に詰め込まれ、エレベーターのない薄暗い階段の隅には綿埃が溜まっている。3階まで上がり、擦りガラスの入った戸を開ける。

 中はパイプ椅子とスチールデスクが無造作にいくつか置かれただけの、殺風景な空間だった。長年染み付いたタバコのヤニの匂いと、古い書類の紙の匂いが混ざり合っている。

 面接官は、無精髭を生やし、よれよれのポロシャツを着た50代ほどの男だった。

 身分証のコピーを一枚取られただけで、過去の経歴や志望動機、前の仕事を辞めた理由などは一切聞かれなかった。誰がどこから来て何から逃げているのか、この業界では不要な詮索をしないのが暗黙のルールなのだろう。


「うちは夜間のオフィスビルや商業施設の現場が多いんだけど、大丈夫?」

「問題ありません」

「セキュリティの厳しいオフィスの案件もあるから、身元がしっかりしてないと困るんだけどな。まあ、見たところ変な借金取りに追われてる感じもしないし」


 男は任三郎の顔や服装を軽く見定めた後、デスクの引き出しからビニールに入った新品の作業着を取り出し、カウンターへ無造作に置いた。


「今日の19時、品川のオフィスビルに行って。地下に控室があるから、チーフの山田ってのがいる。その人の指示に従って」


 午後7時。品川区にある中規模のオフィスビル。

 裏口にある従業員用の通用口から入り、機械油の匂いがする搬入用のエレベーターで地下の控室へ向かう。

 支給された薄水色の作業着は、ポリエステル特有の安っぽい光沢があり、任三郎の体格には一回り大きかった。沙織が買い与え、クローゼットに置いてきたイタリア製の仕立ての良いスーツとは対極にある服。

 だが、今の任三郎には、この匿名性の高い安っぽい服が、何よりも強固な迷彩服に思えた。


 窓のない控室には、任三郎の他に数人の清掃員が集まっていた。

 白髪の交じった初老の男、イヤホンを外そうとしない若い男、そして外国人の女性。

 誰も互いに言葉を交わそうとはしない。互いの背景に決して踏み込まず、ただ時間と労働力を提供して現金を得る。その冷めた関係性が、この薄暗い空間を支配していた。


 定刻になり、山田という初老のチーフが簡単なミーティングを始める。


「佐藤さんは新人だから、まずは4階のフロアを頼む。各デスクのゴミの回収、床のバキューム、トイレと給湯室の清掃だ。22時までには終わらせてくれ」


 掃除用具一式を積んだカートを押し、エレベーターで4階へ上がる。

 フロアには、まだ数人の社員が残業していた。キーボードを叩く乾いた音と、時折交わされる業務の短い会話だけが響いている。

 任三郎がフロアに入り、カートの車輪が小さな音を立てても、誰一人としてこちらに視線を向ける者はいなかった。


「失礼します」


 任三郎は事務的に声をかけ、一番手前のデスクからゴミの回収を始めた。

 足元にあるプラスチックのゴミ箱を引き寄せ、中のゴミを大きな透明のゴミ袋へ移していく。


 彼の動作には、一切の無駄がなかった。

 タワーマンションの200平米を超える空間を、毎日一人で完璧に磨き上げていた技術。どんなプロの清掃業者にも引けを取らない経験値が、彼の身体の奥底に染み付いている。

 掃除機のコードを的確に処理する足の運び、デスクの脚や椅子のキャスターを最短ルートで避けてノズルを進める角度。給湯室のシンクでは、茶渋がこびりついたマグカップと水垢で曇ったステンレスに対し、メラミンスポンジと弱アルカリ性の洗剤を使い分ける。力ではなく化学的な反応を利用してわずか数分で汚れを分解し、乾いたマイクロファイバーのクロスで水滴を一つ残らず拭き上げた。

 手際よく、静かに。

 周囲の社員たちは、黙々と作業を進める任三郎の存在を完全に無視していた。彼らにとって清掃員は、空間を綺麗にするという機能を持った備品の一部でしかない。


 午後9時。

 フロアの奥、窓際にある役職者用のデスクの清掃に取り掛かる。

 ネームプレートには「営業第二部 部長 篠原」とある。篠原本人は不在だったが、デスクの上には決裁待ちの書類が乱雑に積まれていた。

 任三郎は篠原のデスクの下からゴミ箱を引き出す。

 中には、丸められた数枚の紙屑、コーヒーの空きカップ、そして不要なクリアファイルが捨てられていた。


 ゴミを袋に移す際、任三郎の視線が自然と一つの丸められた紙屑に落ちた。

 完全に握り潰されてはおらず、表面に印字された文字の一部が見えている。


(……領収書。金額は12万4千円。店名は、銀座の高級寿司店か。日付は昨日の夜)


 任三郎の手が止まることはない。ゴミを移しながら、視線はデスクの周囲を素早くスキャンしていく。

 デスクの脇に置かれたスケジュール帳の、昨日の欄。

 開かれたままのページには、「19:00〜 ◯◯製薬・接待」と走り書きされている。

 だが、任三郎の鼻は、ゴミ箱の底から漂う微かな匂いを捉えていた。

 甘ったるい、安っぽい香水の匂い。高級クラブのホステスが好んでつける類のものだ。そして、コーヒーの空きカップの縁に、ごく薄く付着したファンデーションの跡。


(……昨夜の銀座は、接待ではない。特定の女性との私的な飲食。だが、この領収書は経費として落とそうとし、何らかの理由で破棄した。経理で一度提出したものが弾かれたか、あるいは別の名目の領収書で誤魔化したか)


 さらに、ゴミ箱の底に、小さな付箋が丸められて落ちていた。

 黒いボールペンで、インクが破れるほど激しく塗りつぶされている。シュレッダーにかけることすら忘れ、衝動的に手元で証拠を消そうとした痕跡。

 任三郎は周囲に誰もいないことを確認し、指先でその付箋を拾い上げた。天井の蛍光灯の光に対して斜めにかざす。

 表面は黒く潰れていても、強い筆圧によって紙の繊維に刻まれた凹凸は誤魔化せない。裏側からわずかな影のくぼみを追うことで、アルファベットと数字の羅列がはっきりと浮かび上がった。


『振込先:ケイマン諸島』

『口座名義:S・T』


 脳内で断片的な情報が冷たく結びついていく。

 役職者のデスク、私的な夜遊び、経費の偽装、そして海外口座への送金を示唆する筆圧の痕跡。

 この男が裏で何をしているのか、大まかな輪郭が任三郎の頭の中に浮かび上がる。

 横領か、あるいは取引先からの不正なキックバックの隠匿か。


 任三郎は表情一つ変えず、付箋を再びゴミ箱の中へ戻し、すべてを袋の中へ滑り落とした。

 その時、フロアの入り口から二人の社員が歩いてきた。一人は中年の男、もう一人は若い女性社員だ。


「篠原部長、また経費の精算で揉めてましたよ。あんなの絶対、個人的な飲み代ですよね」


 女性社員が声を潜めるようにして言う。


「バカ、声が大きい。俺たちは黙ってればいいんだよ。部長には逆らえないんだから」


 男が周囲を気にする素振りを見せる。

 彼らの視界には、すぐ横でゴミ袋の口を縛っている任三郎の姿が入っているはずだ。だが、彼らは会話を止めない。彼らは任三郎を「人間」として認識していない。壁や観葉植物と同じ、音を立てず、言葉を発しない、無害な風景の一部だ。


 任三郎は、口を縛ったゴミ袋をカートに乗せた。

 彼らが恐れ、逆らえない相手の致命的な急所を、今、目の前にいる薄水色の作業着を着た男が握っている。その事実に、彼らは気づきもしない。


 タワーマンションに幽閉されていた頃、自分は社会から完全に隔離されていると感じていた。

 妻の金で生き、誰の記憶にも残らない、ただ消費されるだけの存在。

 だが、「誰の視界にも入らないこと」が、ここでは最大の武器になる。

 誰も清掃員を警戒しない。無防備に痕跡を残し、無防備に秘密をこぼす。

 彼らが底辺だと見下したこの場所は、彼らが最も無防備になる死角でもある。

 ターゲットが出入りするオフィスや、生活空間の裏側に清掃員として潜り込むことさえできれば。彼らが無意識に捨てる痕跡を、毎日確認することさえできれば。

 ただそれだけで、彼らが隠している事実はすべて手の中に落ちてくる。


 任三郎はカートを押し、静かにフロアを後にした。

 エレベーターを待ちながら、彼は自らの手のひらを見つめた。

 過酷な水仕事で油分が抜け、いくつかの小さな切り傷がある手。

 この手で何百回、何千回とゴミをまとめ、シンクを磨き、床を這ってきた。

 沙織はそれを「誰にでもできる底辺の仕事」と嘲笑い、圭介は隠しきれない優越感で見下した。

 だが、その底辺の仕事が培った技術こそが、彼らの足元を確実に掬うための刃となる。


「お疲れ様です」


 地下の控室に戻ると、交代で上がってきた若い清掃員がボソリと呟いた。


「お疲れ様」


 任三郎も短く返す。

 日報にサインをし、作業着をロッカーにしまう。

 時計の針は午後10時を回っていた。


 ビルの外に出ると、夜の冷たい空気が肺を満たした。

 手の中には、今日一日分の給与が入った薄い茶封筒がある。額はわずかだが、沙織のカードで決済した数十万の買い物よりも、自分の肉体を使って稼いだこの数枚の千円札の方が、今の彼には遥かに確かな質量を持っていた。

 任三郎は駅へ向かう人混みの中に足を踏み入れた。

 足取りは、タワーマンションを追い出された日の午後よりも、はるかに確かで、力強い。

 顔の筋肉は固く強張ったまま、一切の感情を顔に出すことはない。

 彼はただ、冷たく澄んだ思考の中で、次の標的を定めていた。


 まずは、あのタワーマンションで自分を嘲笑った連中だ。

 圭介の取り巻きであり、コミュニティで率先して自分を糾弾した長谷川。

 彼の会社がどこのビルに入っているか。そして、そこに出入りしている清掃業者はどこか。

 任三郎は夜の冷気に肺を満たしながら、ただ淡々と、次の行動の算段を立てていた

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