第3話 地の底への転落
午後4時過ぎ。任三郎は、巨大なタワーマンションのガラス張りのエントランスを背にして歩き出した。
薄い靴底を通して、容赦のないアスファルトの熱気が足の裏に伝わってくる。右手には、使い古したキャンバス地のボストンバッグが一つ。3年間の生活の総決算は、拍子抜けするほど軽かった。
マンションの敷地を抜け、公道へ出るための長く手入れの行き届いたアプローチを歩く。
前から歩いてきた数人の男女とすれ違う。同じマンションの中層階に住む、顔見知りの住人たちだ。いつもなら、表面上の愛想笑いと軽い会釈を交わす間柄。だが今日、彼らの態度は明確に異なっていた。
「……見た? あの人」
すれ違いざま、不自然に声を潜めた女の囁きが耳に届く。
「聞いたわよ。最上階の佐藤さんち。奥さんのお金で若い女を囲って、おまけに暴力まで振るってたって」
「信じられない。いつも涼しい顔して主夫ぶってたのに。最低ね」
彼らの視線には、好奇心と、明らかな蔑みと、そして他人の転落を娯楽として消費する生々しい優越感が混じっていた。
その中に、白鳥圭介とよくつるんでいたIT企業役員の長谷川の姿があった。長谷川は任三郎と目が合うと、わざとらしく立ち止まり、大きな声で隣の妻に言った。
「いやあ、人間ってのは見た目じゃわからないもんだな。優秀な奥さんに寄生するだけじゃ飽き足らず、DVまで働くとは。タワマンの風紀が乱れるから、さっさと出ていってくれて助かったよ」
長谷川の言葉に、周囲の住人たちが同調するように冷ややかな笑いを漏らす。
任三郎は足を止めず、彼らを見向きもしなかった。
(……長谷川。毎月第3金曜の夜に出している可燃ゴミの中に、必ず銀座の高級クラブの領収書と、会社の経費で落とすための偽造された打ち合わせメモが捨てられている男)
自分を嘲笑う彼らもまた、薄皮一枚の下には見苦しい嘘と汚泥を抱え込んでいる。それを知っているのは、ダストステーションで彼らが出したゴミを毎日静かに片付けていた任三郎だけだ。
今は反論する意味がない。ここで少しでも感情的な態度をとれば、それはそのまま「暴力的だ」という沙織の捏造を裏付ける新たな証拠として、マンションのコミュニティ中に拡散されるだけだ。
任三郎は歩調を変えることなく、敷地の外へと出た。
駅前の大通りに出る。
人の波が絶え間なく行き交う中、任三郎だけが見えない壁に囲まれたように行き場を失っていた。
歩道の端に立ち止まり、ズボンのポケットに手を入れる。入っていたのは、マンションを追い出される直前に身につけていたスマートフォンだけだ。
ボストンバッグのジッパーを開け、中身を確認する。数着の衣類と、運転免許証などの身分証が入ったケース。そして、結婚前に自分で買った安物の腕時計。それだけだ。
財布や現金、キャッシュカードの類は一切ない。日々の買い出しはすべて沙織名義の家族カードで決済していたし、彼個人の口座の通帳やカードは、すべて沙織が管理する書斎の金庫の中に置かれたままだった。
今の自分は、文字通り一文無しだ。
任三郎はスマートフォンの連絡先を開いた。
沙織と結婚して以来、かつての友人や同僚との付き合いは意図的に絶たれていた。
「私の夫としてふさわしい人間関係だけにして」という沙織の要求に、波風を立てまいと従ったからだ。
それでも、数件の連絡先は残っている。前職で同期だった吉岡の番号をタップした。何度かのコールの後、ガチャリと電話がつながる。
「……もしもし、佐藤だが」
電話の向こうから聞こえるのは、重い沈黙だった。数秒の間を置き、吉岡のひどく事務的で、強張った声が響いた。
「……お前、よく俺に電話してこれたな」
「吉岡、少し頼みがある。詳しい事情は後で話すが、今夜泊まる場所がないんだ。少しばかり現金を貸してくれないか」
「貸せるわけないだろ」
吉岡が任三郎の言葉を冷酷に遮った。
「お前の元奥さんの代理人って弁護士から、うちの人事部に連絡があった。『佐藤任三郎の不法行為による損害賠償と接近禁止』の手続きを進めていると。若い女にDVを働いて、警察沙汰になる一歩手前らしいな」
任三郎は目を細めた。
「それは捏造だ。沙織が仕組んだ」
「どっちでも同じだ」
吉岡の声に、明確な恐怖と軽蔑が混じる。
「うちの会社は、お前の元奥さんのコンサルティングファームと来月大きな取引を控えてる。コンプライアンスが厳しいこのご時世に、お前みたいなトラブルメーカーと関わったと知られれば、俺のクビが飛ぶんだよ。お前のせいで俺の人生まで終わらせたくない。……もう二度と、連絡してこないでくれ」
ツーツー、という無機質な電子音が耳の奥で鳴り響いた。
画面を見る。他にも何件か連絡先はあるが、かける意味はないだろう。
沙織と木崎は、任三郎が頼りそうな人間、助けを求めそうなコミュニティに対して、先回りして「DVと不倫」というレッテルを貼り付けた警告を発している。企業間の取引という圧倒的な力学を利用した、完全な社会的信用の抹殺。
誰も任三郎に手を差し伸べないように。彼が路地裏で一人、誰にも知られずに惨めに野垂れ死ぬように。
「……よくできている」
任三郎はぽつりと呟き、スマートフォンをポケットにしまった。
怒りで怒鳴り散らしたい衝動はなかった。絶望で泣き崩れることもない。ただ、体の芯から温度が奪われ、代わりに恐ろしく冷たくて硬い何かが形成されていくのを感じた。
当面の現金を確保しなければ、今夜の寝床すら手に入らない。
任三郎はバッグの中から、古い腕時計を取り出した。
結婚前、営業職として初めてのボーナスで買った、無名の国産機械式時計。傷だらけで、オーバーホールにも出していない代物だが、今の彼に残された唯一の換金可能な資産だった。
駅前の雑居ビルに掲げられた『ブランド買取・質預かり』の派手な看板を見上げ、狭い階段を上る。
カウンター越しに、退屈そうな顔をした若い店員に時計と運転免許証を差し出した。
店員はルーペで時計の裏蓋やガラスの傷を数秒確認し、キーボードを叩いた後、感情のない声で言った。
「……買取で、三千円ですね」
「それで構わない」
差し出された三枚の千円札を受け取る。たったこれだけの紙切れが、今の佐藤任三郎という人間の全財産だった。
午後8時。
ネオンサインが点滅し始めた繁華街。行き交う人々の喧騒の中を、任三郎は歩いていた。
ビジネスホテルに泊まる金はない。カプセルホテルすら、数泊すればこの三千円は完全に底をつく。
駅前の通り沿いにあるネットカフェの看板を見つけ、自動ドアをくぐった。受付で千円札を二枚払い、ナイトパックのフラットシートを選ぶ。
タバコのヤニと、微かなカビの匂いが染み付いた狭い個室。
ボストンバッグを隅に置き、靴を脱いで足を伸ばす。防音のされていない壁の向こうから、誰かの咳払いやマウスをクリックする音が聞こえてくる。数時間前までいた、あの静寂で無機質な最上階の部屋とは真逆の世界。
任三郎は一つ息を吐き、立ち上がって共用のシャワールームへ向かった。
コイン式のシャワー。すぐにお湯は出なくなり、水に近いぬるま湯が落ちてくる。
冷たさに耐えながら、任三郎は備え付けの安物のボディソープを手に取り、自分の体を徹底的に洗い流した。
タワーマンションのバスルームに置かれていた、海外製の高級なソープの甘い香り。沙織の服から漂っていた、圭介のあの重いコロンの残り香。それらをすべて、無機質な合成香料の匂いで乱暴に削り落としていく。
冷水を浴びる彼の体には、日々の過酷な家事労働によって鍛え上げられた、無駄のない筋肉が張り付いていた。金で買われたものではない。自分の意志で動かし、酷使してきた自分自身の肉体だけが、今、彼に残された唯一の武器だった。
個室に戻り、備え付けのパソコンの電源を入れる。
ブルーライトが、任三郎の彫りの深い無表情な顔を青白く照らし出した。
ブラウザを開き、検索窓に文字を打ち込む。
生き延びるためには、仕事がいる。だが、「佐藤任三郎」という名前に前科者同然の傷がつけられている以上、身元確認の厳しい正社員の仕事や、オフィスワークに就くことは不可能だ。吉岡の会社のように、沙織の息がかかった企業網からコンプライアンス違反として弾かれる可能性が高い。
履歴書が不要で、身元を深く詮索されず、すぐに現金が手に入る仕事。
「清掃スタッフ募集・日払い可・即日勤務・履歴書不要」
画面に表示された求人広告の一つに、任三郎の目が止まった。
オフィスビルや商業施設の夜間清掃。
社会の裏方。誰の目にも留まらず、ただ汚れた場所を元通りにするだけの存在。
皮肉なものだ。タワーマンションの最上階で「完璧な主夫」としてやってきたことと、何一つ変わらない。
(……だが、好都合だ)
任三郎はマウスを動かし、応募フォームを開いた。
清掃員は、風景の一部だ。誰も彼らの存在を気に留めない。目の前で重要な密談をしていても、機密書類の入ったゴミ箱を無防備に放置していても、清掃員の前では誰もが警戒心を解く。
ダストステーションの底で研ぎ澄まされていったあの感覚が、腹の奥で静かに疼くのを感じた。
任三郎はキーボードを叩き、自分の名前と連絡先を入力した。
「送信」ボタンをクリックする。
画面が切り替わり、『応募が完了しました』という事務的な文字が表示される。
任三郎の表情は、タワーマンションを追い出された直後から何一つ変わっていない。凍りついたように冷たく、険しい無表情のままだった。
窓のないネットカフェの個室。空調の低いモーター音が鳴り続ける中、任三郎はモニターの青白い光を見つめたまま、静かに夜明けを待った。




