第2話 仕組まれた罠
翌日の午後1時。
任三郎は、マンションの地下駐車場から直通のエレベーターに乗り込んだ。手には高級スーパーの紙袋が二つ。中には、沙織が好むオーガニックの野菜と、今夜のメインにする予定の赤身の和牛が入っている。
エレベーターが滑らかに上昇を始める。数字が規則的にカウントアップされ、25階で緩やかに減速した。
静かな電子音とともにドアが開き、一人の男が乗り込んでくる。
「おや。佐藤さんじゃないですか」
白鳥圭介だった。ネイビーのジャケットに、ノーネクタイのシャツ。足元は磨き込まれたベルルッティのローファーだが、全体的にどこか軽薄で、身の丈に合っていない服を着せられているような浮薄さが漂っている。日焼けした肌と、手入れされた髪。自分が有能なビジネスマンであるという自意識だけが肥大化している男特有の空気を纏っていた。
「買い出しですか。最上階の奥様を支えるのも楽じゃないですね」
圭介はエレベーターの壁に寄りかかり、口角の片方だけを歪めて嗤った。自称起業家だというこの男とは、マンションの理事会で数回顔を合わせた程度だが、任三郎を見る目には常にねっとりとした優越感と、隠しきれない敵意が張り付いていた。
「ええ」
任三郎は短く返し、視線を正面のドアに向けた。
狭い密室に、圭介の体温とともにあの匂いが充満する。昨夜、沙織の服から漂っていた、あのひどく重いコロンの匂いだ。
任三郎の視線が、わずかに下へ落ちる。
(……靴の側面に、赤土の跳ね返りがある。昨日から今朝にかけて、都内は降っていない)
任三郎の思考は無意識に目の前の男の情報を処理していく。沙織の昨日のスケジュールは、午後から大手製薬会社の役員との重要なプレゼンだった。だが、プレゼンが行われた都心のビル群で、この時期に赤土を跳ね上げるような場所はない。プレゼンを無事に終えた後、彼女はどこへ向かったのか。昨夜は雨の降っていた郊外のゴルフ場か、あるいは人目のつかないリゾートホテルにでもいたはずだ。
「奥様、昨日のプレゼン大成功だったみたいですね」
圭介が不意に言った。
任三郎は視線だけで圭介を捉える。
「……妻の仕事をご存知で?」
「ええ、まあ。優秀な方ですから、業界の噂は耳に入りますよ」
圭介は嗜虐的な笑みを崩さない。その瞳の奥には、共犯者だけが持つ、秘密を共有している優越の光が宿っていた。
エレベーターが45階に到着する。
「では、私はここで」
任三郎が降りようとすると、背後から圭介の声が追ってきた。
「家事、頑張ってくださいね。……いつまで続くか分かりませんが」
自分の部屋に戻り、買ってきた食材を冷蔵庫に収める。
圭介の最後の言葉が、奇妙なざわつきとなって胸の奥に引っかかっていた。
午後3時15分。
キッチンに立ち、和牛のブロック肉の表面に粗塩と黒胡椒を擦り込んでいた時のことだった。肉の筋を切り、常温に戻すための完璧なタイミングを計っている最中、静寂に包まれていた玄関の電子ロックが、突然、解錠音を立てた。
任三郎は手を止める。流水で丁寧に手を洗い、ペーパータオルで水気を拭き取りながら廊下へ目を向けた。沙織がこの時間に帰宅することは、よほどのトラブルがない限りあり得ない。昨夜の口ぶりからしても、今日も夜遅くまで帰らないはずだった。
三和土に現れたのは、沙織一人ではなかった。
濃紺のスーツを着た無表情な壮年の男。そして、沙織の陰に隠れるようにして立つ、20代半ばほどの見知らぬ若い女。
「……沙織?」
沙織は任三郎の顔を見ようともせず、靴を脱いでリビングへ入ってきた。背後の二人もそれに続く。
「座って」
沙織はダイニングテーブルを顎でしゃくった。その声は一切の感情が凍りついたように冷酷だった。
任三郎が席につくと、対面に沙織と若い女が並び、スーツの男がその横に立った。
「初めまして。私は沙織様の代理人を務めております、弁護士の木崎と申します」
男は名刺をテーブルに差し出し、事務的な口調で切り出した。
「本日、沙織様はあなたとの婚姻関係を解消する意思を固められました。ついては、この場で離婚協議書へのサインと、即刻の退去をお願いしたく存じます」
あまりにも唐突な通告。だが、任三郎の脳は驚愕よりも先に、目の前の状況を冷静に分析し始めていた。
「……理由を聞こう」
「とぼけないでください!」
突然、隣に座っていた若い女が金切り声を上げた。彼女はテーブルにすがりつくようにして、任三郎を睨みつける。その目には大粒の涙が浮かんでいた。
「佐藤さん……あんなに、妻とはうまくいってない、すぐに別れるって言ってたのに……私、あなたのせいで……!」
女が右腕のカーディガンをまくり上げる。白い肌には、指で強く掴まれたような生々しい青痣がいくつも残っていた。
「昨夜、彼女から私の事務所に助けを求める連絡がありました。あなたから長期にわたる暴力と、関係の強要を受けていると」
木崎が淡々と説明を継ぐ。
「これは、その証拠の一部です」
木崎がテーブルに数枚の高画質なプリントアウトと、タブレット端末を並べた。
そこには、メッセージアプリのやり取りが表示されていた。
『お前は俺の言うことだけ聞いていればいい』
『逃げたらどうなるか分かってるな』
『次はもっと痛い目にあわせるぞ』
任三郎のアカウント名とアイコンから、女へ向けて送られた生々しい脅迫のメッセージの羅列。そして、ラブホテルの一室で、乱れたベッドで眠っている女の隣に横たわる任三郎の背中が写った写真。さらに、女の指定した口座への定期的な送金記録が記された取引明細のコピー。
任三郎は並べられた証拠を無言で見つめた。
(アカウントのアイコン画像は、三ヶ月前に沙織と行った軽井沢のフレンチレストランで撮られたものだ。自分はSNSをやっておらず、あの写真は沙織のスマートフォンの中にしか保存されていないはずだ。送金記録の元口座は……自分が結婚前に使っていて、今は残高をゼロにして放置している地方銀行の口座。通帳と印鑑は、沙織が暗証番号を管理する書斎の金庫の中に保管してある)
そして、ベッドの隠し撮り写真。
確かに背中のほくろの位置は自分と同じだが、肩甲骨周りの筋肉の付き方が明らかに違う。ジムで鍛えただけの表面的な筋肉と、日々の家事で酷使された筋肉の差だ。光の加減や解像度を落とすことで巧妙に誤魔化しているが、自分が見ればすぐに合成だとわかる。
だが、第三者が見れば、これらは立派な「DVと不倫の証拠」として成立してしまう。
「私の稼いだお金で、若い女を囲って暴力まで振るうなんてね」
ずっと黙っていた沙織が、吐き捨てるように言った。その目には、汚物を直視した時のような嫌悪感が意図的に浮かべられていた。
「最近、あなたが日中どこで何をしているのか不審に思って、木崎先生に調査を依頼したの。まさか、ここまで最低な人間だったとはね」
任三郎は沙織の目を見返した。
彼女の瞳の奥には、夫に裏切られた悲しみも、怒りも存在しない。ただ、計画がスムーズに進んでいることへの安堵と、目の前の障害物を排除できる冷酷な喜びだけがあった。
視線を若い女に移す。
泣きじゃくりながら顔を覆う女の指先。その爪には、不揃いなストーンが乗った安っぽいジェルネイルが施されている。表参道や銀座の高級なサロンの仕事ではない。着ている服も、流行を追っただけのファストファッションの量産品だ。
だが、彼女が震える手首につけているブレスレットだけが、不自然に鈍い光を放っていた。
ハイブランドの限定モデル。ダイヤが散りばめられたそれは、彼女の身なりには不釣り合いすぎる。自称起業家が、女に機嫌取りや口止めで買い与えるような分かりやすい装飾品だ。
パズルのピースが、音を立ててはめ込まれていく。
沙織と圭介の密会。圭介の薄気味悪い優越感。沙織のスマートフォンからしか流出しない画像と、彼女しか開けられない金庫の中の口座。
目の前で泣き崩れるこの女は、圭介がどこかで調達してきた劇団員か何かだろう。
「これらはすべて偽造だ。この女性と会ったこともないし、その口座の通帳はあなたが持っているはずだ」
任三郎の静かな声に、沙織は鼻で笑った。
「見苦しい言い訳は聞きたくない。それなら、警察を呼んで徹底的に調べてもらう? 彼女は被害届を出す準備もできているのよ。あなたが逮捕されれば、私のキャリアにも傷がつく。だから、今日この場で協議離婚に応じて出て行ってくれるなら、温情で警察沙汰にはしないと言っているの」
木崎が万年筆を差し出した。
「佐藤さん。状況を客観的に見てください。あなたがここで否認し裁判に持ち込んだとしても、彼女の証言とこれらの証拠、そして何より『妻の収入に依存している夫』というあなたの立場は、極めて不利に働きます。沙織様の提示は、あなたにとっても最善の選択肢です」
これは交渉ではない。死刑宣告だ。
ここで抵抗したところで、沙織と圭介は次の罠をいくらでも用意しているだろう。彼らには資金と時間があり、自分には何もない。社会的信用も、このタワーマンションの外の世界での居場所も。
任三郎は差し出された万年筆を受け取った。
「……わかった」
「任三郎!」
沙織が急に声を荒げた。
「サインしたら、今すぐ荷物をまとめて出て行って。10分だけ待ってあげる。あんたが触ったものなんて、もう一つもこの部屋に残しておきたくない」
任三郎は何も答えず、協議書に署名と捺印をした。
立ち上がり、寝室のウォークインクローゼットへ向かう。後ろから、木崎と女の冷ややかな視線が突き刺さるのを感じたが、任三郎の足取りは乱れなかった。
持ち出すものは驚くほど少なかった。
数着の洗いざらしのシャツとチノパン、下着類。運転免許証などの身分証と、結婚前に自分が初任給で買った安物の腕時計。それだけだ。ボストンバッグ一つに、3年間の生活のすべてが呆気なく収まってしまった。
沙織が誕生日や記念日のたびに買い与えたイタリア製のハイブランドのスーツや、スイス製の機械式時計は、すべてクローゼットに置いたままにした。彼女の金で買われたものは、彼女の所有物であり、もはや自分の肌には馴染まない。
玄関に向かうと、沙織が腕を組んで壁にもたれていた。
「鍵、置いていって」
任三郎はポケットからカードキーを取り出し、下駄箱の大理石の上に静かに置いた。
何も言わず、ドアノブに手をかける。
「……二度と私たちの前に姿を見せないでね」
背後から投げつけられた沙織の言葉にも、任三郎は振り返らなかった。
重い扉が閉まり、電子ロックが冷たい音を立てて施錠された。
廊下に出ると、完全な静寂が待っていた。
エレベーターホールへ向かう足音が、やけに大きく響く。
1階の広大なエントランスを抜け、自動ドアの外へ出た。
午後4時の東京は、排気ガスとアスファルトの熱が混じった生温かい空気に包まれていた。
任三郎は振り返り、自分がつい先程までいた、天を突くようなタワーマンションの最上階を見上げた。
ガラス張りの外壁が、傾きかけた太陽の光を反射して無機質に輝いている。そこはもう、自分の帰る場所ではない。
怒りや悲しみといった熱を帯びた感情は、不思議なほど湧いてこなかった。
ただ、自分が今まで信じて積み上げてきたものが、すべて砂上の楼閣だったという冷たい事実だけが、腹の底に重く沈殿している。
バッグの持ち手を握り直す。
振り返ることはせず、任三郎はコンクリートの歩道を踏み出し、駅へと向かう人混みの中へと静かに紛れていった。




