第1話 最上階の完璧な主夫
東京湾を鉛色の空が覆っている。地上45階の巨大な一枚ガラスの向こうで、見下ろす街はまだ深い眠りの底にあった。
午前5時00分。佐藤任三郎は、枕元のスマートフォンが振動する数秒前に目を覚まし、アラームのスイッチを切ってベッドを抜け出した。
隣では、妻の沙織がうつ伏せになり、浅い寝息を立てている。高級なシルクのシーツが、彼女の華奢で神経質な背中のラインに沿って沈み込んでいた。
足音を立てずに寝室を出る。200平米を超える広大なリビングは、生活の痕跡が徹底的に排除されており、張り詰めたような静寂に支配されている。
キッチンへ向かい、冷蔵庫を開けた。冷気の奥から無調整豆乳ではなく、普通の牛乳のパックを取り出す。グラスに注ぎ、冷たい液体を一気に喉の奥へ流し込んだ。食道を通る冷えだけが、今の任三郎の体に微かな輪郭を与えてくれる。毎朝の、このごく個人的な儀式が終わると、彼は「完璧な主夫」としてのスイッチを入れる。
空になったグラスをシンクに置き、冷水で丁寧に手を洗う。清潔なタオルで水気を拭き取り、前夜から浄水に浸しておいた利尻昆布の雪平鍋に火を入れた。極力弱火で、じっくりと温度を上げていく。水面に針の先ほどの気泡が浮かび始めた瞬間に昆布を引き上げ、血合い抜きの本枯節をひとつかみ投じる。
静まり返った空間に、出汁の濃厚な香りが立ち上った。
ボウルに卵を三つ割り入れ、菜箸で白身のコシを切るように手早く溶く。引いたばかりの出汁と薄口醤油、そしてごくわずかなみりんを垂らす。銅製の卵焼き器に油を馴染ませ、薄く広げた卵液を奥から手前へ、一切の迷いなくリズミカルに巻いていく。卵が焦げる一歩手前の香ばしさがキッチンに満ちる。
並行して、銀鱈の西京漬けの味噌を丁寧に拭き取り、グリルへ入れる。皮目にわずかな焦げ目がつくまで、火加減を秒単位で調整する。
無駄のない、洗練された動き。30歳という年齢に見合わぬその熟練した手際は、彼がこの3年間、この隔離された四角い空間でどれだけの時間を消費してきたかを雄弁に物語っていた。
午前6時45分。
寝室のドアが乱暴に開き、沙織がリビングに現れた。
ノーメイクのまま、不機嫌そうに眉間にシワを寄せている。外資系コンサルティングファームのシニアマネージャー。35歳にして億単位のプロジェクトをいくつも掛け持ちで回す彼女は、自宅でも常に交感神経を逆撫でされているかのように苛立っていた。
「おはよう」
任三郎が短く声をかけたが、沙織は視線すら向けない。片手に持ったスマートフォンの画面を親指で凄まじい速度で弾きながら、ダイニングテーブルの定位置につく。
食卓には、湯気を立てる出汁巻き卵、絶妙な焼き色の銀鱈、小松菜と薄揚げのお浸し、そして豆腐となめこの赤出しが整然と並べられていた。
沙織は画面から目を離さないまま、塗りの箸を無造作に手に取った。美しい所作とは言い難い手つきで卵焼きの端を切り取り、口に運ぶ。数回咀嚼したところで、彼女の動きがピタリと止まった。
「……甘い」
「昨日は帰りが遅かったし、かなり疲労が溜まっているようだったから。みりんを数滴増やした」
「そういうの、頼んでない」
沙織は箸を小皿に音を立てて置き、スマートフォンの画面を伏せて任三郎を睨みつけた。
「糖質と塩分の計算が狂うでしょ。今日の午後、絶対に外せないプレゼンがあるの。コンディションを乱されたら困るって、いつも言ってるわよね」
「すまない。すぐに別のものを……」
「いい。時間がない。ブラックコーヒーだけ淹れて」
任三郎は表情を変えず、静かにキッチンへ戻った。ハンドドリップで淹れた深煎りのコーヒーをカップに注ぎ、彼女の前に置く。
沙織はそれを取り上げ、熱さも気にせずに喉に流し込んだ。
「スーツ、用意してある?」
「ネイビーのピンストライプだ。クローゼットの右端に掛けてある。ブラウスは指定通り白のシルクで、スチームを当てておいた」
「靴は黒のパンプスにして。エントランスに出しておいて」
沙織は鼻で短く息を吐き、立ち上がった。
「……栄養素しか見ていないような料理なら、サプリメントで十分なのよ。時間の無駄」
冷ややかな足音を残し、彼女は洗面所へと向かった。
残された食卓。手付かずの朝食。任三郎は出汁巻き卵を箸で掴み、静かに自分の胃に流し込んだ。確かな旨味はあったが、味がした気はしなかった。
午前8時。沙織が出勤した後のタワーマンション。
ここからが任三郎の作業の時間だ。
広大なリビングのフローリングには、微かな埃すら許されない。ロボット掃除機に任せることはせず、特注のモップと専用のクロスを使って自分の手で部屋の隅々まで拭き上げていく。
大理石のキッチンカウンター、ガラス張りのダイニングテーブル、指紋一つないドアノブ。
すべてを、沙織が好む「生活感のない冷たい空間」へとリセットしていく。無心になって手を動かすことで、彼は自分の中にある微かな感情のさざ波を平坦に均していった。
3年前、沙織のキャリアが急激に跳ね上がり、プロジェクトの重圧に押し潰されそうになっていた彼女を支えるため、任三郎は中堅メーカーの営業職を辞した。
『私が稼ぐから、あなたは家のことを完璧にして。私には、何も考えずに休める場所が必要なの』
当時の彼女の言葉には、縋るような熱と彼への依存があった。任三郎もまた、彼女の才能を信じ、その圧倒的な歩みを裏から支えることに自分の存在意義を見出していた。
だが、いつしかそのバランスは崩壊した。
年収が数千万を超え、このタワーマンションの最上階へと居を移した頃から、沙織の任三郎に対する態度は、明確に「養ってやっている使用人への命令」へと変質していった。
掃除を終え、まとめたゴミ袋を提げて廊下に出る。
各階に設置されたダストステーション。空調の効いた無機質な小部屋で、分別されたゴミを所定のコンテナに投げ込む。
ふと、隣に置かれた透明なゴミ袋に目が行った。指定の結び方がされておらず、隙間から中身が少し見えている。
(……4502室か。また胃薬の空き箱が増えている。それに、このレシート……深夜帯のタクシーの領収書と、西麻布の会員制バーの明細。女性向けのハイブランドの紙袋の切れ端。……夜遊びが続いているらしいな)
任三郎の視線は、無意識のうちにゴミ袋の中身をスキャンし、情報を整理していた。
結び目の隙間から覗くわずかな情報だけで、顔も知らない隣人の裏の顔が透けて見える。ただの退屈しのぎの観察だ。
部屋に戻り、床から天井まである巨大な窓ガラスの前に立つ。
眼下に広がる東京の街並み。車は米粒のように小さく、人間など見えもしない。
自分は、この天空の塔に隔離されている。社会との接点はなく、妻からの評価だけが唯一の成績表。だが、その成績表はとうの昔に赤字を振り切っていた。
午後11時45分。
静寂に包まれたリビングで専門書を読んでいた任三郎は、玄関の電子ロックが乱暴に解錠される音に顔を上げた。
三和土に向かうと、沙織がフラフラとした足取りで入ってくるところだった。脱ぎ捨てられたクリスチャン・ルブタンのヒールが、大理石の床に片方だけ裏返った状態で無様に転がっている。彼女がどれほど足早に、そして乱暴に靴を脱ぎ捨てたかが窺えた。
「おかえり」
「……」
沙織の青白い頬は不自然に上気しており、呼吸のたびにツンとした強いアルコールの匂いが漂ってきた。相当な量を飲んでいる。
「プレゼン、うまくいったのか?」
「……当然でしょ」
沙織は靴を揃えることもせず、リビングへ足を引きずるように進むと、イタリア製の黒い革張りソファに重い音を立てて崩れ落ちた。ハイブランドのスーツが深いシワを作るのも構わない様子だ。
「疲れた。水」
任三郎はキッチンでグラスにミネラルウォーターを注ぎ、彼女に差し出した。
沙織が体を起こしてグラスを受け取った瞬間、任三郎の鼻先をある匂いが掠めた。
アルコールの匂いに混じって漂う、ウッディでスパイシーな重い匂い。
沙織が普段使っているフローラル系の香水ではない。明らかに男性用のコロンの匂いだ。それも、すれ違った程度では決してつかない、かなり長時間密着していなければ繊維に移らないレベルの残り香。
任三郎の視線が、沙織が床に落としたジャケットに向けられる。
背中の部分に、不自然なシワが寄っていた。タクシーのシートにもたれかかった程度の潰れ方ではない。強い力で何かに押し付けられ、揉まれたような痕跡。
脳内でいくつかの事実が氷のように冷たく結びつく。だが、任三郎の顔からは一切の感情が抜け落ちていた。
「お風呂、沸かしてある。先に入るか?」
「後でいい」
沙織はグラスの水を飲み干し、テーブルに乱暴に置いた。
「ねえ」
「何だ」
「あんたさ、一日中この部屋にいて、息詰まらないの?」
酔いが回っているのか、彼女の言葉には普段以上の刺々しさがあった。
「やることが色々あるからな。家の維持は思っているより手間がかかる」
「掃除と洗濯と、無駄に凝った料理? そんなの、家事代行に金払えば誰にでもできることじゃない」
沙織は冷笑を浮かべ、見下すような目で任三郎を睨んだ。
「私、今日いくらのディールを動かしたと思ってるの? あんたが一生かかっても稼げない額よ。それなのに、家に帰ってきたら、甲斐性のない男がちまちまと飯を作って待ってる。……苛つくのよ」
静かなリビングに、その言葉が冷たく響いた。
「自分がどれだけ無価値か、分かってる? 私の稼ぎで息をしているだけの寄生虫のくせに」
任三郎の胸の奥で、何かが軋む音がした。
だが、彼は言い返さない。ここで正論をぶつけても、彼女の自尊心を逆撫でし、より凄惨な罵倒が返ってくるだけだと学習していた。
「……すまない。風呂が冷める前に入ってくれ」
沙織は大きく舌打ちをし、立ち上がった。
「バスタオル、出しといてよ。それくらいできるでしょ」
彼女は足早にバスルームへと消えていった。
深夜1時。
沙織はすでに寝室で深い眠りについている。
任三郎は一人、キッチンに立っていた。
換気扇の低い作動音だけが微かに聞こえる。
彼は、シンクを磨いていた。スポンジにクレンザーをつけ、ステンレスの表面を円を描くように磨いていく。
何度も、何度も。
水で洗い流し、乾いたマイクロファイバーのクロスで水滴を一つ残らず拭き取る。塵一つなく磨き上げられたシンクに、彼の無表情な顔が映っていた。
沙織の服から漂った、見知らぬ男のコロンの匂い。
それが何を意味するのか、想像がつかないほど任三郎は愚かではなかった。
あの、鼻の奥にまとわりつくような重い匂いには覚えがあった。
最近、沙織の口から頻繁に出る名前。同じマンションの中層階に住む、白鳥圭介という自称起業家の男。
先日、マンションのロビーですれ違った時、圭介から微かに漂ってきたのと同じ匂いだった。
あの時、圭介は任三郎を見て、明らかに嘲るような、薄ら笑いを浮かべていた。最上階に住む専業主夫という存在への、隠しきれない優越感。
シンクを見つめたまま、任三郎は静かに息を吐いた。
怒りよりも、鉛のように重い徒労感が体を支配していた。
明日もまた、アラームが鳴る前に起き、昆布を水に浸す。
沙織の機嫌をうかがい、彼女が散らかしたものを片付け、床を磨く。
任三郎はスポンジを置き、キッチンの照明を消した。
暗闇の中、ステンレスの冷たい手触りを感じながら換気扇の下に移動する。吊り戸棚の一番奥、普段使わないスパイスの瓶の裏側に隠しておいたセブンスターの箱を取り出した。フィルムを破る乾いた音が、静かなキッチンに響く。
沙織の妊娠を機にタバコを辞めてから、もう何年も吸っていなかった。結局、その子どもは彼女の過労によるストレスであっけなく流れ、以降、二人の間に子どもを作るという話題は出なくなった。
一本引き抜き、100円ライターで火をつける。
チッ、という小さな音が夜のキッチンに響いた。
深く吸い込み、ニコチンとタールの重い煙を肺の底まで沈める。久しぶりの強い刺激に、少しだけ視界が揺れ、脳が痺れた。
換気扇に向かって、ゆっくりと紫煙を吐き出す。白く濁った煙は、モーターの低い唸り音とともにダクトへと吸い込まれ、二度と戻ってこない。
窓の外には、眠らない東京の街の灯りが無数に広がっている。
任三郎は指先に挟んだタバコの火種を見つめたまま、ただ無言で、冷え切った夜の底に立ち尽くしていた。




