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完璧な主夫の処方箋 〜タワマン最上階から底辺清掃員に転落した俺ですが、皆様の「ゴミ」を回収して社会的に抹殺させていただきます〜  作者: 伊達ジン


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第6話 街角の監視役

 午後2時。渋谷区の中心にそびえる地上30階建てのインテリジェントビル。

 高い吹き抜けのある大理石のエントランスホールで、任三郎は幅広のダストモップを静かに滑らせていた。

 午前中、弁護士の山本瞳と別れた足で、清掃会社「クリーン・シャドウ」の山田チーフに連絡を取り、長谷川の会社が入るこのビルの日中巡回清掃のシフトにねじ込んでもらったのだ。瞳が用意する法的手続きを完璧なものにするためには、長谷川の日常的な不正の痕跡をより多く集める必要がある。

 このビルのエントランスは三階まで吹き抜けになっており、ガラス張りの外壁から差し込む秋の午後の日差しが、大理石の床に幾何学的な影を落としていた。任三郎は床の継ぎ目に沿って、一切の無駄なくモップを押し進めていく。等間隔で並ぶ太い円柱の裏側、来客用の革張りソファの脚周り、そして頻繁に開閉を繰り返す自動ドアのレール付近。ビジネスマンたちが落としていく微小な砂埃や靴の泥、乾いた落ち葉の破片を、彼らが気づく前に無音で回収していく。モップの角度を細かく変え、床の材質に合わせた力加減で汚れだけを拭き取る。タワーマンションの最上階で毎日行っていた作業と何ら変わらない。

 薄水色の作業着に身を包み、目深に被った帽子のつばの下から、ロビーを行き交う人間たちの足元と動線を観察する。数十人の人間が分刻みで横切っていくが、清掃員である任三郎の顔を見ようとする者は一人もいない。


 エントランスホールの片隅には、オープンテラスを併設したガラス張りの高級カフェ『ブルーオント』が入っている。

 エスプレッソマシンの低い稼働音と、コーヒー豆の焙煎された香りが、広大なロビーの冷ややかな空気に混じって漂ってくる。

 モップの柄を返し、カフェとロビーを隔てる背の高い観葉植物の脇へ移動した時、テラス席に座る一人の男の姿が任三郎の視界に入った。


 ネイビーのジャケットに、磨き込まれたベルルッティのローファー。

 タワーマンションの中層階に住む自称起業家、白鳥圭介だった。

 なぜ彼が平日の昼間にこのビルにいるのか。長谷川の会社を訪ねてきた帰りか、あるいは別の投資詐欺のターゲットを探しているのか。圭介のテーブルの上には、彼のステータスシンボルであるはずの高級時計が無造作に外して置かれている。だが、その文字盤のガラスには細かな傷が入り、革ベルトにはくたびれたしわが寄っていた。羽振りの良さを装いながらも、メンテナンスに金を回す余裕がないのだろう。

 任三郎の視線が、圭介の対面に座る人物へと移る。

 客ではない。カフェのロゴが入ったブラウンのエプロンを身につけた、若い女性店員だった。休憩時間を利用して、客席で彼と向かい合っているようだ。


 明るいブラウンの髪に、小柄で可愛らしい顔立ち。田中みのり。

 タワーマンションの近くにあったカフェから、この渋谷のオフィス街の店舗に異動してきたのだろうか。任三郎もタワマン時代、沙織の指定するエチオピア産のコーヒー豆を買いに、何度か彼女から接客を受けたことがあった。

 圭介は身を乗り出し、テーブルの上に置かれたクリアファイルから数枚の書類を取り出して、みのりに熱心に何かを語りかけている。

 任三郎はモップの動きを止めず、備え付けのゴミ箱の袋を交換するふりをして、彼らのテーブルの死角へと近づいた。


「みのりちゃん、君の才能がこんなカフェの店員で埋もれてるのは、俺としても本当に惜しいんだよ」


 圭介の滑らかな声が、観葉植物の葉の隙間から微かに届く。


「昨日、知り合いの有名プロデューサーに君のデモ音源を聴かせたんだ。そしたら『すぐにでもメジャーのレーベルにプレゼンしたい』って絶賛しててさ。ただ、大手を動かすには、初期のプロモーション枠を押さえるための費用がどうしても必要なんだ」


 みのりは真剣な表情で、テーブルの上の書類を見つめている。彼女の瞳には、夢を語る人間特有の純粋な期待と、それ以上の戸惑いが浮かんでいた。


「プロモーション費用……いくらくらいなんですか?」

「本来なら200万は下らない。でも、君の才能に惚れ込んだ俺が間に入って、特別に50万まで値切った。明日には枠が埋まっちゃうんだけど、どうかな。本気でデビューしたいなら、今が人生の分岐点だと思うよ」


 任三郎は、ゴミ箱の蓋を静かに開けながら、圭介の足元を見た。

 貧乏ゆすりを隠すように、テーブルの下でローファーのつま先が小刻みに動いている。その靴も、最後に磨かれてから数日は経っているように見えた。

 視線をテーブルの上へ移す。圭介が飲んでいるアイスコーヒーのグラス。その下に敷かれた紙のコースターの縁が、無意識に爪でボロボロに千切られていた。さらに、灰皿には根元まで乱暴に押し潰されたタバコの吸い殻がいくつも山になっている。フィルターの近くまで焦げており、ニコチンを肺の底まで深く吸い込んで気を落ち着かせようとした痕跡だ。


 投資詐欺で荒稼ぎしているはずの自称起業家が、カフェの店員からわずか50万円を巻き上げようと必死になっている。しかも、明日には枠が埋まると急かして即断を迫る手口。本当に優秀なプロデューサーとの太いパイプがあり、数百万の金を動かせる人間が、あんな焦りに満ちた手癖を見せることはない。圭介自身の資金繰りが、相当なレベルで悪化している証拠だ。


「……でも、いきなり50万なんて、そんな大金……」


 みのりが戸惑いの声を上げた時、圭介のジャケットの内ポケットでスマートフォンが振動した。


「あ、ごめん。そのプロデューサーからだ。ちょっと外で電話に出てくるから、その書類、よく読んどいてよ」


 圭介はわざとらしくスマートフォンを耳に当て、「ああ、社長? 今ちょうどその話をしてて……」と声を張り上げながら、エントランスの外へ足早に出て行った。


 圭介の姿がガラス扉の向こうへ完全に消えたのを見届け、任三郎は清掃カートを静かに押し、みのりの座るテーブルへと近づいた。


「失礼します。テーブルの空きグラスをお下げしてよろしいでしょうか」


 事務的な声色で近づき、圭介が乱暴に残していった灰皿とグラスをトレイに乗せる。

 その際、圭介が座っていた椅子の足元に、丸められた数枚のコピー用紙が落ちているのを見つけた。圭介がカバンから書類を取り出した際、不要な紙屑を無造作に床へ捨てたのだろう。

 任三郎はそれらを拾い上げ、手の中で素早く開いた。


 一瞥し、印字された内容とインクの跡を脳裏に焼き付ける。安価な家庭用プリンターで出力された荒い文字。そして、宛名部分に引かれた二重線と、インクの掠れたボールペンでの殴り書き。

 任三郎は作業着の帽子をわずかに上げ、向かいに座るみのりを見下ろした。


「……その書類には、サインしない方がいい」


 低く静かな声に、みのりが顔を上げる。


「えっ……?」


 大きな瞳が、任三郎の顔を捉えて見開かれた。


「さ、佐藤、さん……? なんで、そんな格好……」

「彼がさっき、君に見せているのと同じ書類をいくつか床に捨てていった。宛名を書き損じたものだ」


 任三郎は表情を変えず、拾い上げた紙屑を指で伸ばし、みのりの目の前に置いた。


 そこには、今みのりが手元で見ている「プロモーション契約書」と全く同じ文面が印刷されていた。

 唯一違うのは、一番上の宛名部分だけだ。


『佐藤美咲 様』

『高橋レイナ 様』


 そして、ボールペンで乱暴に斜線が引かれ、その横に『田中みのり 様』と走り書きで書き直された一枚。


「名前だけを空欄にして量産したフォーマットだ。君のために特別に用意した枠など最初から存在しない。手当たり次第に若い女性に声をかけ、少額の現金を騙し取っているだけだ」


 みのりは息を呑み、震える指先でその紙屑に触れた。


「グラスの下のコースターを見てみろ」


 任三郎の言葉に、みのりが視線を落とす。ボロボロに千切られ、タバコの灰で汚れた無惨なコースター。


「彼は今、手元に現金がなく、自分の資金繰りに窮している。振り込めば、金だけ奪われて終わる」


 冷徹な事実の提示。

 みのりの顔から血の気が引き、きつく唇を噛み締めた。


 自動ドアが開き、エントランスの外から圭介が戻ってくるのが見えた。


「お待たせ。社長も、みのりちゃんの返事をすごく楽しみにしてて……」


 圭介は笑顔を作りながらテーブルに近づき、そこに立つ薄水色の作業着姿の任三郎を見て顔をしかめた。


「なんだお前。清掃員が客のテーブルに……って、佐藤さん?」


 圭介の顔に、信じられないものを見たような驚きが浮かび、直後、ひどく歪んだ嘲笑へと変わった。


「いやあ、人違いかと思いましたよ。最上階の完璧な専業主夫が、まさかこんなオフィスビルで他人のゴミを拾ってるとはね。沙織さんに家を追い出されて、随分とお似合いの仕事を見つけましたね」


 圭介のあからさまな侮蔑の言葉に、任三郎の表情は全く動かなかった。ただ、手元のトレイを水平に保ち、冷たい視線で男の薄っぺらな自尊心を見据えるだけだ。

 だが、テーブルの向かいで、みのりが勢いよく立ち上がった。椅子の脚が床を擦る鋭い音が、カフェのテラス席に響き渡る。


「白鳥さん、このお話、お断りします」


 圭介の笑みがピタリと止まる。


「……は? なに言ってるの、みのりちゃん。こんな千載一遇のチャンス……」

「この契約書、他の女の子にも全く同じことを言って配ってますよね。私、自分のお金でデビューを目指します。こういうお話は、もう二度としないでください」


 みのりは手元のクリアファイルを圭介の胸に力強く押し付け、真っ直ぐに彼を睨みつけた。


 圭介の顔が、屈辱と怒りで赤黒く染まる。

 足元に置かれた書き損じの紙屑と、無表情で立つ任三郎を交互に睨みつけ、事態を悟ったのだろう。


「チッ……底辺のゴミ掃除の分際で、余計な真似しやがって」


 圭介は舌打ちをし、忌々しそうにクリアファイルをひったくった。


「バカを見るのはお前らだぞ。一生そこで他人の残飯でも片付けてろ」


 吐き捨てるように言い残し、圭介は苛立ちに満ちた足取りでエントランスを足早に去っていった。逃げるように歩く彼のローファーの踵が、大理石の床に不快な音を響かせていた。


 圭介の背中が見えなくなるまで睨みつけていたみのりは、ふうっと長く息を吐き、足から崩れ落ちるように椅子に座り込んだ。


「……怖かった」


 膝の上で強く握りしめられた手が、微かに震えている。無理をして気丈に振る舞っていたのだろう。彼女の目には、薄っすらと涙が浮かんでいた。

 任三郎は拾い上げた紙屑と灰皿をトレイに乗せ、淡々と言った。


「仕事の邪魔をした。すまない」

「佐藤さん」


 立ち去ろうとする任三郎の背中に、みのりが弾かれたように声をかけた。


「ありがとうございます。私、本当にバカみたいに信じちゃってて……佐藤さんが気づいてくれなかったら、今頃騙されてました」


「気にするな。落ちている紙屑を渡しただけだ」


 任三郎は振り返らずに答え、カートのハンドルを握る。


「……佐藤さん、何かあったんですか? 奥さんと」


 みのりの声には、タワマンの住人たちのような好奇心や蔑みは一切含まれていなかった。ただ純粋な心配と、目の前の男への変わらない敬意だけが滲んでいた。


「過ぎたことだ。今は、このビルで働く人間が落とすゴミを片付けている」

「私、佐藤さんがタワーマンションで奥さんのためにコーヒー豆を買いに来てた時から、本当はすごく素敵な人だなって思ってました」


 みのりは立ち上がり、任三郎の作業着姿を真っ直ぐに見つめた。


「清掃のお仕事でも、佐藤さんは佐藤さんです。……もし、私に何かできることがあったら、何でも言ってください」


 任三郎はわずかに首を巡らせ、彼女の真剣な瞳を見た。


「私、このカフェで毎日、色んなエリートの人たちの内緒話を聞いてますから」


 みのりは少しだけ誇らしげに、自らの胸にエプロン越しに手を当てた。


「みんな、カフェの店員なんて景色の一部だと思ってるから、結構無防備に危ない話をしてるんです。長谷川さんっていうIT企業の役員の人も、よくここの奥の席で怪しい経費の話や、裏帳簿がどうとか話してますよ」


 任三郎の手の動きが、ピタリと止まった。

 長谷川。

 任三郎はその名前を口の奥で反芻し、みのりを見つめ返した。

 カフェの店員もまた、社会の風景に溶け込む存在だ。だが、彼女は特定の場所に留まり、客が油断して漏らす会話を直接拾い上げることができる耳を持っている。それは、ゴミという事後痕跡から真実を組み上げる任三郎の能力を補完する、強力なリアルタイムの監視網となり得る。


「……一つ、頼みたいことがある」


 任三郎が静かに振り返ると、みのりは小さく、しかし力強く頷いた。彼女の瞳には、かつてタワーマンションの最上階に住んでいた男への憧れではなく、底辺から這い上がろうとする一人の人間への確かな信頼が宿っていた。

 任三郎は周囲の視線を警戒しつつ、静かに清掃カートを押し始めた。

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