初夜
婚礼が終わればヴェルート王国に留まる理由はない。本格的に輿入れだ。どこか夢見心地でファルクス殿下の後に続く。初夜は屋敷に戻ってからと言っていたのに結局深い口付けまでされた。眠らせてはもらえたが、信じ切って良い相手ではないとは分からされた。国境まで移動する馬車の中でもまだ嘘を吐かれたことに対する不満の態度を露わにする。
「魔人化の術は使っていない。体への負担も大きいからな。翌日に移動を控えている夜にそんなことはしない。」
それならあの口付けは何だったのか。魔人化の術でないなら確かに嘘ではない。しかし術を使う際には口付けるという意味の分からない宣言もあった。この人が何をしたいのか全く分からない。魔人化に口付けは不必要と言いつつ、俺に魔力を送り込む時には口付けると宣言したり、本当に何なのか。
「それ以外の時に口付けないとは言っていない。名前も呼び捨てにしてもらおう。もう夫婦なのだから。」
一介の騎士、伯爵令息に、第一王子を呼び捨てにしろという命令は酷だ。女装して夢中にさせることだって任務だからできただけで、個人的に親しくなるはずのない立場のお人だった。よく分からない魔王国の魔人、よく知らない人。少し話せば柔軟に対応してくださる方だとは分かっても、個人的に親しくなるなんて想定しない。今は呼び掛ける必要もない。それなのにファルクス殿下は俺をじっと見て、呼ばれることを待っている。妻となることも口付けることも覚悟できたのだ。名前を呼び捨てにするくらい、それと比べればなんてことないはずだ。ファルクス。殿下と付けないことで口の収まりが悪く、なんとなくもごもごしてしまう。それをどう勘違いしたのか、再び口付けてくる。この人の趣味も分からない。彼は恋人や伴侶に何を求める人なのだろう。貴族や王族の妻の仕事なら、俺の母のように家の中のことをおおよそ決めたり、礼儀作法の教師をしたりする。領地経営に深く関わることもある。夫が王宮での仕事を行い、領地経営は妻が行う。夫が領主としての仕事に専念している場合もあった。俺も兄も領地経営については学んでいる。
満足そうなファルクスと助けを求める俺を見て、ミールウス様と侍女のラパーチェも微笑んでいる。どことなく気に食わない。遊ばれている気分だ。ミールウス様は実際女遊びをしていたような話も聞いた。ここで俺からミールウス様に口付ければきっと三人とも驚くだろう。いつもやられっぱなしではいられない。少しくらい反撃したって良い。一瞬触れるだけの口付け。ファルクスよりも高い位置の唇には体を伸ばしてようやく届く距離だった。
「フラウ、お前は俺の妻だ、分かるな?」
目が怒っている。これは許容範囲外と覚えておこう。一緒に風呂に入って良いと言っていたのに、これは駄目。基準が分からない。それとも今は駄目になったのだろうか。そうミールウス様との触れ合いに関する線引きを求める。
「俺の妻だ、と言っている。ミールウスのことも呼び捨てで良い。」
第一王子妃なら魔王陛下と魔王妃殿下以外は全て呼び捨てでも良いのか。第二王子殿下のことは殿下と付けても怒られないだろう。その部下になればもう呼び捨てにするよう言われそうだ。第二王子妃のことは、彼女と話して互いの呼び方を決めよう。おられるのだろうか。
「妃を迎えるつもりはないと聞いている。あまりこのことは本人にも聞かないでやってくれ。」
突然結婚しないのかと聞くなんて無作法なことはしない。跡継ぎを作る必要がないなら、人間の国のように若いうちに結婚して子作りに励む必要がない。家同士の繋がりを得る手段として婚姻関係を用いることもあるが、魔王国ではその辺りの事情も異なるだろう。風習や思想を何も知らないまま口出しして良いことではない。無理に結婚する必要がないならそのほうが良いだろう。魔人はとても長生きだ。気に入る相手が見つかるまでゆっくり時間を掛けられる。
すぐに弟殿下の話から今後の話に戻された。俺の身の回りの世話をする一人だったラパーチェは、ラクエウスのいない時のお勉強にも付き添ってくれる。同じ国から移住してきた同じ人間だ。注意が必要な点などを押さえて会話しやすいだろうという配慮だ。そんな俺を安心させようとしている言葉を聞きながら屋敷に着けば、ゆっくりお休みくださいと夫婦の寝室に連れて行かれた。入浴も済ませ、夜着も着せられ、本物の夫婦になることを求められているようだ。魔人化の術は夫婦になることを求めない。ミールウスも経験されたことだ。特に何も緊張することはないはず。そう呟きつつも深呼吸は必要になる。どうして俺が寝室で緊張しながら待たなければならないのか。こんなに薄着である意味も分からない。政略結婚の令嬢でもないのに、と怒りが芽生え始めた頃、謝罪しながらファルクスが来られた。怒る前に謝られてはこちらが狭量のようではないか。何となく面白くなく、ミールウスの女遊びの話を振ってみる。形式上だけでも俺の夫になるなら浮気は許容しない。夫に軽んじられている夫人の立場が苦しいものになるだろうことは想像に難くない。
「せっかくの夫婦の寝室で他の男の話をするのは感心しないな。」
本物の夫婦ならそうなのだろうが、俺達は形式上の夫婦というだけだ。女装して近づく男に彼は興味を持ち、俺は任務での交流を続けた。令嬢誘拐を口実として戦争を起こさせないための婚姻。そう認識を擦り合わせようとすればまた口付けられた。こうした意味の分からない、話の腰を折るような口付けには毎回苦情を入れていこう。夫婦になったのを良いことに好き勝手されても困る。形式上夫婦になり、表向き妻として振る舞うことを受け入れただけだ。屋敷の人が不安にならないよう寝室も一緒にするだけ。魔人化の術のためでもある。魔力を送り込む手段として口付けを選ぶ理由も追求しよう。
「夫婦だからな。」
理由になっていない。見えていない場所でまで毎日口付ける必要はない。夫婦であることを示すなら出掛ける際のお見送りと帰って来た際のお出迎えに口付ければ良い。お出迎えが難しいならただいまと言いに来てくれれば良い。俺の家では父が帰って来たなら母に、母が帰って来たなら父にただいまを言いに行っていた。
「それほど仲が良いなら朝晩も口付けていただろう。仲睦まじい夫婦には憧れないか?」
憧れるが、可愛い妻がお帰りと言ってくれることに憧れていた。もしくは帰ってきた妻にお帰りと言う。どちらでも良いが、自分が夫と言い合うことではない。どうして俺が妻になっているのか。理由は分かっている。戦争を平和的に終わらせる口実で、ヴェルート王国の第二王子派や魔王国に喧嘩を売りたい連中の口実を奪うためだ。愛し合える夫婦に憧れる気持ちもあるが、今となっては難しい。
「俺とは愛し合えないと?」
嫌いではないが、俺の求めた恋人ではない。夫婦の振りをすることに合意しただけだ。その中に寝室での出来事は含まれていない。魔人化の術のために口付けることを許容しているだけでも十分な譲歩と思ってほしい。それ以上を求めるなら俺以外を妻にするべきだった。魔人化までさせてしまっては一生女性との関係を望めない。引き返すなら今だ。
「魔人化の術は既に始まっている。中途半端に止めては危険だ。適切に変化させていく必要がある。」
既に遅かったらしい。俺はもう覚悟を決めた。恋人が他に作れなくとも友人は作れる。楽しみも他にある。少し夢見ていただけだ。ファルクスと結婚しなくともきっとそう変わらない。ミールウスに騙されたような気分は残っているが、そこまで怒ってもいない。魔王国への興味を後押ししてもらったと考えれば良い。
「また他の男の話を始めたな。さっさと今夜の術を続けるぞ。」
何故かやはり深い口付けで魔力を流し込まれる。この感覚は意外と悪くない。ファルクスの魔力は温かい。冬の毛布のように優しく、春の陽気のように心地良い。口付けを伴っていないならもっとこの感覚に浸れただろう。徐々に熱さを伴い始めた。呼吸が乱れるのも体を変化させているせいだろう。少々息苦しいが、苦痛はない。熱さに耐えきれなくなる前に、今夜の分は終了する。また明日以降も俺の体が完全に魔人化するまで続けられるのだ。
寝る前のあの魔力は安眠効果でもあるのか、むしろ今までより良い目覚めだ。朝の鍛錬も以前より体が軽く動く。朝食も共に済ませ、それぞれの時間を過ごした。ファルクスは仕事、俺は勉強。昼食も共にする。午後は一度休憩を挟むが、その時に散歩をする余裕はあるようだ。俺の勉強の進捗を伝えたり、ファルクスから魔王国、特にこのファルクスの治める地域について聞いたり。それだけならまだ友人の距離感とも言い張れたかもしれない。しかしその間中、何故か手を繋がれているのだ。秋が終わりに近づき、冬支度の始まるこの肌寒い季節だとしても、手を繋いで暖を取る必要は全くない。
夜は可愛らしい服を着せられるが昼間の服装は存外自由だ。ズボンも豊富に用意されており、今日の散歩の時間もズボンを履いている。
「それもよく似合っている。一度手合わせしてみるか?」
一人での鍛錬は行っているが、王子の妻ということで兵士に混ざっての訓練や手合わせは希望しないようにしていた。まだ見学もしていない。人と剣を向け合うのは魔王国に来てから初めてだ。
真剣は避け、魔術も禁じての手合わせだ。魔術を使う場合魔人である彼に勝つことはほとんど不可能だろう。一度魔力を乱す作戦がどこまで通じるのか試してみても良いが、まずは純粋な剣技を試す。彼も幼少期より剣術を収め、その経験は百五十年を超える。どこまで時間を費やしたのか、どれだけ打ち込んだのか、才能の問題もあるだろうが、自分より強い相手と仮定したほうが良いだろう。立ち姿にも隙は見えない。一切ぶれることのない剣先に、体の軸。先手をこちらに譲る余裕が見える。魔力の乱れすら感じられない。
左手側に回り込むように接近する。浅く顔付近を狙い、深く腹部を狙う。素早く続けての突きだった。ファルクスは頭を動かしたはずなのに、腹部に来る俺の手も見逃さない。軽く身を翻し、木剣が掠めることは許した。しかし俺の手を掴み、踊るように俺を抱き寄せる。ついでと言わんばかりの口付けはなんだ。
「剣術が苦手という話は本当なんだな。いや、別の問題か。殺気が足りない。」
一歩引き、そこに立っていろと俺の両肩に手を置いた。いつの間にか捨てていたらしい木剣を拾い、こちらに向き直る。いくぞの一言が聞こえた次の瞬間、目の横を剣が通った。風を斬る音すら遅れて聞こえる。見たことない鋭い視線に呼吸すらままならない。
ゆっくりと剣が離され、地面に置かれた。いつものように腰に腕が回され、頭も頬も撫でられた。唇も親指でなぞられ、顔が近づく。これで今日何回目の口付けだろう。近距離から見ても欠点一つ見当たらない男だ。何か言い返してやりたいのに何も思いつかない。
唇が離れていった。視線の鋭さは消え去っており、いつもの柔らかな瞳がそこにはあった。乱れた呼吸で格の違いを感じたと感想を伝える。戦場では兵器や魔術、連携が重要とはいえ、指揮官になるだろう人が決闘でも勝てるだろうという実力を持っていることは士気に繋がる。
「すまない、驚かせた。王都騎士は殺し合いをあまりしなかったか?」
犯罪者を相手にした場合、殺し合いに発展することもある。しかし熟練者のことは少なく、あってもやむを得ず殺害するか拘束するか迷う余力のある程度だ。一対一での対峙でもない。魔物相手でも一対一ではなく、このような強い視線を至近距離から見ることはない。殺す気ではあるのだろうが、ここまでの感覚はなかった。戦争を念頭に置いた訓練を行っている者よりはそれへの耐性が低いことも確かだろう。一瞬どころではない時間、完全に彼の空気に飲まれてしまった。いくら王都内の巡回や戦闘支援が主だったとはいえ、騎士としてこれは問題だろう。もっと精神面の鍛錬も必要だ。
視線でこんなに差が出るのなら魔術を試す意味はあまりないのかもしれない。それでも俺の魔力を乱す魔術未満の技術は魔人相手にどこまで通用するのか気になると試させてもらった。地面に水を撒くような魔術をファルクスに使ってもらい、俺がそれを阻止するように魔力を動かす。そのつもりだったのだが、合図と共にもう発動を完了してしまい、地面が濡れるだけだった。俺が魔力を乱すよう行動すると同時だ。これでは検証にもならないため、俺が魔力を乱すよう行動し始めてから、水で蝶々を作り出すように変えてもらう。それも難なくファルクスは達成した。
「様々な種族の勉強を進めればこれも原因が分かるだろう。そもそも魔人は体内に保有できる魔力量が多い。空間に干渉する際に使う魔力が多いため、周囲の魔力を多少乱されたところで発動に支障はない。力押しで発動できるからな。乱れに対応しての発動もできるが、そちらは少々時間が掛かる。実用性は低いな。」
魔人に対して魔術での小細工は通用しない、と。鳥人に関しても質問すれば、そちらは主に周囲の魔力を操る技術のため、乱すこと自体拒まれる形になるそうだ。飛ぶ際には周囲の風を魔力で調整し続けている。その技術を戦闘にも活かすため、瞬時に対応する技術に長けるらしい。鳥人には武術で挑むと勝率が上がりやすいが、そもそも飛んでいるためなかなか難しい。矢や魔術の弾丸は魔力操作で弾かれやすい。広範囲魔術なら逃げ場を奪えるため最も効果的。問題は広範囲魔術で撃墜するためには優秀な魔術士が複数人必要になることだ。
気になる点を解消し、散歩を再開する。剣術の手合わせの際に見せた鋭い視線はもう面影すらなかった。涼しい顔で再び手を繋がれる。ファルクスがミールウスとたった二人でヴェルート王国に来られていた理由が分かった。彼を殺すことなど不可能だ。護衛などいなくとも、ヴェルート王国最高の騎士に勝てる。暗殺でもきっと難しい。俺は詳しく知らないが、要人を影から護衛する部署もあると噂を聞いた。それが本当だとしても、彼なら対応できる。
親しくなってからでもファルクスは対応できるのだろうか。ふと気になり、繋いでいた手を離し、前に回り込む。すっと自分の手をファルクスの首に添えた。彼は微笑むだけで警戒しない。それどころか俺を引き寄せ、また口付ける。この人は口付けが好きなのだろうか。触れるだけの口付けは一瞬で終わった。また手を繋ぎ、庭を歩く。俺が試すつもりだったと気付いたのかどうかすら分からない。聞いてみようか。
「殺気を隠せる暗殺者なら殺されていたな。だがお前は感情を隠すのが苦手だろう?それすらも演技だというのなら俺の完敗だ。」
隠しているつもりだった。他国の王子に失礼のないように、恋する令嬢のふりをした。早々に任務のためだと白状してしまったが、それでも親しくなりたいと偽った。いや、ファルクス以外の男は騙して交流できていた。女にだって疑われなかった。きっと彼がよく見ているだけだ。
ファルクスに恨みは何もない。首に手を添えればいつでも締めることができるが、本気でそんなことをするはずがない。そこが透けたのだろう。
「夫婦や恋人なら抱きついても自然だろう?むしろ甘えてきたように見えたな。」
俺が今まで一度でもそんなことをしたのか。任務として、演技としてしか甘える仕草はしていない。二人きりの誰にも見せない時間はもっと距離のある対応だ。夫婦になったのだからと呼び捨てにするよう求められた段階で、敬語でもなくなっている。媚びる行動も取っていない。
本心で甘えたことなどない。そう反論しているうちに長めの休憩時間は終わりを迎えた。あまり手応えはなかったが、彼は俺の言いたいことを理解してくれたのだろうか。




