水の悪霊
駐車場のアスファルトに出来た水たまり目がけて、麗子は飛び込んでしまった。
麗子は水溜りが、深くなっていると判断して飛び込んでいるが、それが違ったら。あるいは罠だったら。橋口は考える。麗子が飛び込む前に、先に私の鞭で探るべきだったと。
橋口の考えていた事は、杞憂に終わった。
麗子は吸い込まれるように水たまりに入り、音を立て周囲に水しぶきを上げる。
橋口が振るった鞭は、麗子の足首にしっかり絡まって、スルスルと水たまりに入っていった。
残っている鞭の長さを考え、橋口は驚く。
「ここ、かなり深いんだケド」
橋口は鞭を握り締めながら、水たまりに近づき、底が見えるか覗き込んだ。
しかし水はアスファルトの色のように濃い黒で、底は見えなかった。
そうしている間にも、鞭は水たまりに飲まれていく。
橋口は鞭に念を込め、麗子に意思を伝える。
『麗子、何をしてるの? それと状況を教えるんだケド』
まだ鞭が麗子の脚に絡みついていれば、意思の疎通ができるはずだった。
『きっと悪霊は有栖を殺そうとしてるわ。この水に沈めて。だから助けなきゃ。ここはかなり深い。それと絶望的に視界が悪い』
『殺す? そんなことが目的なら、取り憑いた時点でもっと早くそれが出来たんだケド』
なぜそんな回りくどいことをしているのか、橋口にはわからなかった。
『おそらくだけど、最初は私たちを倒してから、有栖を殺そうとしたんだわ』
永江所長が子供のアリスから聞いた話の通りなら、除霊された悪霊の仲間が、有栖を殺そうとして計画したのだ。未来の有栖に取り憑き、過去から有栖を抹消する為、時間跳躍の能力を使った。だが、この時代のアリスも自らの時間跳躍能力で、大人の有栖と入れ違いに未来へと移動してしまったのだ。麗子達の時代の有栖がいなくなっても、すでに悪霊は少し若い有栖が除霊しているから意味はない。
『じゃあ、なんで有栖を殺す必要があるのかさっぱりわからないんだケド』
橋口の疑問は全くもってその通りだった。
『有栖が死ねば、幼いアリスが戻ってくると思ったんじゃない?』
有栖本人が死んでも取り憑いてただけなのだから、霊自身は死なない。有栖の応答がなければ、幼い、この時代のアリス戻ってくるだろうし、いつかは戻らざるを得ない。目的の時代に来ている悪霊としては、この時代にいさえすればチャンスがあるわけなのだ。
『なんとなくそれなら、ギリギリ納得できるんだケド』
『とにかく、有栖を殺させない』
そう伝えると、麗子は更に奥に潜っていく。
鞭の残りがなくなり、橋口は慌てる。
『麗子、麗子、深すぎるんだケド』
『有栖を見つけた』
有栖は膝を抱えて、胎児のように丸くなっていた。
更に潜ったため、鞭がピンと張り詰める。
『今、捕まえた。これから上がる』
有栖の腕に指を掛け、麗子は水面に向かって上り始める。
かすかに明るい水面方向が、何かの影に黒く覆われた。
『!』
水面側のその影が、麗子に向かって下りてくる。
影が近づいてくると、それが何か分かった。
それは大きなエイだった。
有栖から抜け出した悪霊が、この水の中でエイの姿になっているのだ。
『これは罠だよ。お前もまとめて殺すためのな』
麗子は有栖を掴まえていた手を入れ替えた。
そして右手の人差し指を伸ばして、霊弾を撃つ準備をする。
『馬鹿の一つ覚えというやつだな。やれるものなら、やってみろ』
麗子は精神を集中する。
しかし指先に霊光が集まってこない。
確かに片手で有栖を掴んで、息を止め、泳ぐ必要がある。集中が足りないのか。
麗子は目を閉じて、感覚を指に集める。
しかし、手応えがない。
脚で繋がっている鞭から、橋口の意思が伝わってくる。
『それって水が霊力の収束を阻害しているに違いないんだケド』
『聞こえているぞ。分かったところで遅いがな』
側ヒレが素早く波打つと、エイは加速した。
体当たりしようというのだろうか。麗子は向かってくるエイを、腕を掻きながら、必死で避ける。
『痛っ!』
有栖を掴まえている腕に、エイの尾が触れた。
強烈な痛みと、痺れが腕を中心にして広がってくる。
重い…… 痛みと痺れで有栖を支えきれない。いや、だめだ、ここで離したら、潜り直せない。
『かんな、ごめん。引き上げて』
『分かったんだケド』
橋口が地上の駐車場から、鞭を引っ張り上げる。
麗子は水の中で足が引っ張られて、逆さまになった。
痺れている左手だけでは、有栖を支えきれない。麗子は右手を添えた。
『逃すか』
悪霊が姿を変えたエイが追ってくる。
両手で有栖を掴まえていて、霊弾は撃てないし、水中なので九字も切れない。キツネの力を借りたくとも、水の中では狐火も効果が薄い。
『お願い、早く!』
『精一杯やってるっての。無茶言わないで欲しいんだケド』
麗子は所長に言われたことを思い出す。九字を切るのはあくまで補助的なもので、除霊の本質ではない。本来、除霊するには指を動かしたり、口で呟くことをしなくていいはずなのだ。何も唱えなくても、霊力を使うことはできる。未熟なものは霊力の使い方、その本質が分かっていないから、手が使えない、言葉が出ないと言い訳するのだ。
『うわっ!』
エイが麗子の背中を通り過ぎた。
制服の上から、エイの尾にある棘が突き通る。エイの毒が左腕だけでなく、全身に広がり始め、麗子は顔を歪めた。
『もう少しで地上だから、我慢するんだケド!』
エイは再び近づいてきて、麗子の左手に尾を巻き付けてきた。
袖は捲れていて、棘が肌に打ち込まれる。
『ダメっ、もう耐えられな……』
左腕の感覚は、ずいぶん前になくなっていた。
力が入っているかも分からない。だが、有栖を放してはいなかった。
『釣り上げ完了! なんだケド』
橋口の鞭が、駐車場の上空高く跳ね上がった。
水たまりから、水しぶきが上がる。
鞭に釣り出された麗子と、麗子が抱える有栖、麗子の腕に絡みついていたエイ。それらが固まって宙に放り出された。
放物線を描きながら、その塊は駐車場のアスファルトに落ちていく。
エイは麗子の腕を放し、水たまりの中心に向かって滑空する。
麗子は有栖から右手を放し、人差し指を伸ばした。
永江所長が用意していた、札の力だろうか。髪を縛っているリボンから、不思議な旋律が流れてくる。
霊力の集まりが早い。
「いける!」
空中で体を捻りながら、エイの姿をした悪霊に狙いをつける。
周囲から霊力が集まり、眩しい程霊光が溢れた。
ここは水の中ではない。ここでは霊力を集める障害はないのだ。
大きく光った霊光から、鋭いレーザーのような一撃が放たれる。
滑空するエイが水たまりに逃げ込む直前、霊弾がその体を貫いた。
体が小さな粒子に分解され、それぞれの粒は光りながら消えていく。
昇華している。麗子は思った。悪霊が浄化されたと。
「勝った! 勝ったんだケド!」




