パラドックス
階段を上がっていく中で、麗子の足の痛みは気にならなくなっていた。
三階に上がると事務所の扉が見えた。
扉は木製で、磨りガラスにヒビが入っている。扉の横にある板には『永江除霊事務所』と書かれていた。ここで間違いない、はずだ。
「ちょっと待って」
躊躇なく入ろうとする橋口に麗子は言った。
「足のリボンを取るから」
リボンを解くと、下の肌が見える。怪我の内出血が、何事もなかったかのように無くなっていた。このリボン…… そうだ。この先にいるだろう『永江所長』の力が込められている。だが、実際この時代では『永江所長』に出会ってもいない。麗子自身、生まれていもいないのだから。
麗子は取ったリボンで髪を縛り始めた。
「そんな事してる時間ないんだケド」
「ちょっと待って。今、考えたんだけど、この時代の人に私たちってどう見えるのかしら」
「こっちの時代に来てからの事考えれば、普通に見えているに決まってるんだケド」
麗子は橋口が言った通りに考えてみる。
道を聞いたサラリーマン。
電話ボックスで調べろと教えてくれた書店のおじさん。
偽札の処理を任せてくれた牛丼屋の店員。
確かに普通に接してくれていた。私たちは本来、この時代にいないはずなのに。
「けど、これから会う人は『永江所長』なのよ」
「……」
所長は当然、事務所での一番優秀な除霊士だ。霊感が強い人間から私たちはどう見えるのか。
橋口は首を振った。
「そんなこと考えるより、本人に聞いた方がいいんだケド」
麗子も同じことを思い、頷いた。確かにそうかもしれない。ただ、警戒は必要だろう。
結局は『本人に聞いた方がいい』という同じ結論に達するとして、橋口はどれくらい考えているのだろうか。考えに考え抜いているのか、それとも直感のようなものが働くのだろうか。
橋口がノックをすると、ヒビの入った擦りガラスが振動して嫌な音を立てる。
「もしもし、入りたいんだケド」
「開いてます。どうぞ」
流石に二十年違うと若さを感じるが、所長の声で間違いない。
「お邪魔します」
麗子がそう言うと、橋口が扉を開けた。
小さい事務所の室内には、カウンターとして仕切りが置いてあった。奥のデスク付近に灯りが点いているが、他の机は誰も座っておらず、暗かった。
奥のデスクから、永江所長が向かってくる。
髪は長く、サングラスはしていない。髪型は違うが、同じようにおでこは見えているので、顔の印象は変わらない。
「サングラスしてな……」
麗子は言いかけて、橋口から肘で突かれて止めた。
サングラスをするようになることは、未来の出来事なのだ。本人は、その運命をまだ知らないだろう。今この場で本人に伝えて、回避した場合、未来が変わりパラドックスで戻れなくなる可能性がある。
「あなた達……」
永江所長は近づいてくると、麗子と橋口を見て目を見開いた。
「この扉の結界から入ってくるとは、褒めてあげる」
そのまま所長は指を組み合わせて、指を組み替えながら九字の呪文を唱え始める。
「結界? 所長、何をおっしゃってますか」
「私たち『悪霊』とかじゃなく、除霊士なんだケド」
所長は目を閉じていて、完全に麗子達の言葉を遮断しているようだ。
「かんな、ヤバい。こっちも対抗しないと!」
「所長に鞭打つ訳には行かないんだケド」
「もう! わかった、私がやる」
麗子は思う。所長の力に対抗できるとは思えないが、抵抗しないとここで浄化されてしまう。
私たちは元の時代にはもどれず、失踪者、行方不明になるのだろう。
人差し指を伸ばして、気持ちを集中する。
指先に霊光が溜まり、輝き始める。
けど、何を狙ったらいい? 所長? 悪霊が憑いている人間なら、威力は全て霊体に当たるけど生身の人間を撃ったらどうなるの? さっきの廃ビルの天井のように粉々になってしまわないの?
「麗子、私たち、体が光り始めちゃったんだケド!」
所長に浄化されたら、死ぬ。間違いない。
もう迷ってられない。
「所長、手を出して! 全力で受け止めてください!」
所長はまだ目を閉じたままだ。
別のことに所長の霊力を振り向ける為にも、撃つしかない。ごめんなさい。麗子は祈った。
「麗子、早く!」
「行けっ!」
麗子は霊弾を放った。
除霊の場から、勢いよく放たれた霊弾は曲がることなく一直線に永江所長に向かう。
当たる…… 直前に、永江は目を開く。
状況を判断して、咄嗟に手を重ね、その手を霊弾のコースに突き出した。
所長の中の霊力は、除霊場を作り出すことから、霊弾を受け止めるために振り替えられる。
麗子の霊弾は、所長の突き出した手にぶつかると、堰き止められた。
「な、何これ…… 眩し」
手平で堰き止められた霊光が、さらに輝きながら大きく膨らんでいく。
霊光の膨らみに合わせて、所長の体が下がっていく。
所長の体が、事務所内の机や椅子にぶつかり、ガタガタと音を立てた。
「もう、無理……」
所長は伸ばした両手に力を集中した。
力が相殺されながら、霊光が急速に小さくなっていく。
霊光が完全に消えると、眩しかった反動からか、事務所内が真っ暗に見えた。
「所長!」
麗子はカウンターに近づく。
所長の姿が見えない。
カウンターを回って事務所内を進んでいくと、奥のデスクの前で所長が倒れていた。
「永江所長!」
麗子が抱えると、所長は目を開いた。
「変わった霊体ね」
「私、霊体じゃないです。人間なんです。事情があってこの時代に飛ばされたんです」
所長の表情が変わった。
「まさか、あのアリスって子が関係してるんじゃ……」
麗子は頷いた。
三人は、所長の机を囲んで状況を話しあった。
説明が終わると、永江は事務所に残っていた三井を机に呼びつけた。
「何ですか所長」
「えっと、この除霊案件に着手して。後、今日はこのあたりに戻らないこと」
「さっきの騒ぎといい、一体、このJKは何なんですか?」
三井は、麗子と橋口を睨むような目で見た。
「関係ないから、気にしない。いい!? 今すぐA川区から離れて。絶対よ」
続けて、金田と鈴木には携帯で指示を出して、同じように今日はA川区に戻らないように命じた。
こうして、この時代の『若い彼ら』がこの事務所に近づかなければ、問題は起きないだろう。
「これでしばらくパラドックスは起こらないわね」
「あと一人、秘書の中島さんがいらっしゃいますけど」
「今日は有休だし、家はA川区じゃないから、大丈夫だとは思うけど。私的な携帯に掛けるのも悪いし」
麗子と橋口は顔を見合わせて頷く。
「わかりました」
永江所長は、麗子の髪を縛るリボンに触れながら、言う。
「それにしても不思議だわ。確かにこのリボンには私の術が掛かってる。これが未来の私の力なのね」
「あまり未来のヒントになることを教えるとパラドックスが起きてしまうので」
「早速、アリスって子の話を聞かせて欲しいんだケド」
永江所長は資料を取り出し、広げて見せた。




