第09話 道具なんていらなかった
小鳥遊紬は、朝食の卵焼きを箸でつまんだまま、昨夜から頭の片隅に引っかかっている疑問について考えていた。
目の前では、ボスが焼き魚を器用に食べている。いつもならその様子を眺めたり、今日の予定について話したりするのだが、今朝の紬は妙に口数が少なかった。
「……なあ、紬」
「ん……?」
「その卵焼き、いつまで持ってるつもりだ?」
言われて手元を見ると、箸で挟んだ卵焼きがすっかり冷めていた。紬は慌てて口に運び、ほとんど味わわないまま飲み込む。
「……考え事してた」
「見りゃわかる。さっきから三回くらい同じところ見てんぞ」
「そんなに?」
「そんなにだ。で、何を考えてたんだよ」
紬は箸を置き、食卓の向こうにある壁を見た。
昨日、その壁に新しい扉を作った。扉の向こうには、外からは想像もできないほど広い秘密基地がある。実験室も、倉庫も、ボスが気に入った大きなプールも、すべて万物創造によって生み出したものだった。
そこまではいい。
気になっているのは、その空間を実現するために自分が使った方法だった。
「……昨日、秘密基地を作ったでしょ」
「ああ。ありゃ最高だったな。今日も泳ぎに行くつもりだぜ」
「うん。それはいいんだけど……あの扉って、必要なのかなって」
「扉?」
「別の空間につながってるのは、私が作った仕組みのおかげなんだけど……そもそも、空間をつなぐために装置を作らないといけないのかなって」
ボスは魚を飲み込み、首を傾げた。
「そりゃ、入口がなきゃ入れねえだろ」
「普通はそうなんだけど……」
紬は言葉を探した。
これまで、彼女は欲しい機能を持つ物を創造してきた。掃除をしたければ掃除装置を、重力を変えたければ重力調整板を、広い場所が欲しければ空間を拡張する設備を作る。
どれも、期待したとおりに動いている。
しかし、万物創造はそもそも、物を作るだけの力なのだろうか。
最初にスマートフォンが手元へ現れたとき、紬は何かの装置を作ろうとしたわけではなかった。ただ、手元に欲しいと思っただけだ。あの現象が正確には何だったのか、いまだに調べきれていない。
それに、創造した物の原理を理解できるのなら、その原理を利用して別の現象を起こすこともできるのではないか。
「……ちょっと試したいことがある」
「また実験か?」
「うん。でも、昨日の実験室でやるから」
「そいつはいい。俺も飯食ったら行くぜ」
ボスはそう言って、残りの魚に取りかかった。
紬はその様子を見ながら、実験の順序を考え始めた。
最初から大きな現象を起こす必要はない。昨日までの経験を利用して、何が変わるのかを確かめればいい。
そして何より、今回は装置を作らない。
その条件だけは、最初から決めていた。
朝食を終えた二人は、秘密基地の実験室へ向かった。
ボスは途中まで自分の浮遊式チェアを操作していたが、実験室の入口で降りると、紬の腕の中へ収まった。昨日の試験を見て、この場所では何が起きるかわからないと学習したらしい。
「今日は何をぶっ壊すんだ?」
「……壊さないよ」
「実験室って聞くと、どうもそういう印象があるんだよな」
「今日は、浮かせるだけ」
「浮かせる?」
紬は観察席にボスを下ろし、実験区画の中央へ向かった。
床には何も置かれていない。昨日作った巨大な金属の輪は倉庫にしまってあり、試験用の加力装置も停止している。
紬は端末で設備の状態を確認したあと、手のひらに小さな木製の立方体を創造した。
一辺が数センチほどの、ごく普通の積み木だ。特別な機能はなく、内部にも浮遊装置などは組み込まれていない。
「……これを浮かせてみる」
「前にも似たようなことやってただろ。あの板を使ってよ」
「今日は、板を使わないの」
紬は積み木を床へ置き、少し離れた場所にしゃがんだ。
以前、重力調整板を創造した際、その装置がどのように周囲の重力へ作用するのかを理解している。構造だけでなく、何を変化させれば物体が浮き上がるのかも知識として持っていた。
その知識を、今度は道具を介さずに利用してみる。
積み木に働く重力を変える。
ただ、それだけを意識した。
最初は何も起きなかった。
紬は眉を寄せ、もう一度試みる。すると、積み木の下に影が広がり、木製の小さな立方体が床から数ミリほど離れた。
「……あ」
「お?」
積み木はそのまま、ふわりと浮き上がった。
十センチ、二十センチと高さを増し、紬の目の前で止まる。
支える糸も、機械もない。
重力調整板は使っておらず、積み木自体にも特殊な機能は備わっていなかった。
「……できた」
「おい、マジかよ」
ボスが観察席から身を乗り出す。
「板、どこにも置いてねえよな?」
「うん。今は何も使ってない」
「じゃあ、お前が直接浮かせてんのか?」
「……たぶん、そう」
紬は積み木を見つめたまま、慎重に意識を変えた。
右へ。
積み木が横に移動する。
左へ。
今度は反対方向へ動き、そこで静止した。
紬は高さを少し下げ、床へ戻す。木の小さな音が響いた。
それを見届けてから、ようやく息を吐いた。
「……本当にできちゃった」
「お前、自分でやっといて驚いてんのかよ」
「だって、今までは道具を作ってたから」
「そりゃそうだけどよ。お前の力で作った道具なんだから、元からお前にできることだったんじゃねえのか?」
紬は答えず、積み木を拾い上げた。
その考え方は、今まで意識していなかったものだった。
自分が作った装置には、重力を調整する機能がある。その機能を実現する原理も理解している。ならば、その装置が行っている作用を、万物創造によって直接生み出せても不思議ではない。
少なくとも、今回の結果はそう考えると説明できる。
能力そのものが強くなった感覚はない。
ただ、使い方を一つ見つけただけだった。
「……ボス」
「何だ?」
「私、今までずっと、遠回りしてたのかも」
「まあ、道具を作るのも楽しいんだろ? 別に無駄だったわけじゃねえさ」
「……うん」
紬は小さく頷き、今度は少し大きな箱を創造した。
箱を床へ置き、先ほどと同じように重力へ意識を向ける。
木箱は問題なく浮き上がった。
さらに、その隣へ金属製の球体を作り、二つを同時に浮かせてみる。箱と球体はそれぞれ異なる高さで静止し、紬が意識した方向へ別々に動いた。
複数の物体を同時に扱えるらしい。
紬は端末に結果を記録し、続いて重さの異なる試験用の物体をいくつか並べた。
どれも浮かせることができたが、紬はそこで試験を止めた。大きなものをいきなり動かしても、得られる情報が増えるとは限らない。今は、現象を安定して扱えることのほうが大切だった。
「……次は、自分」
「は?」
「私も浮けるかなって」
ボスはしばらく黙ったあと、観察席の背もたれへ身体を預けた。
「お前、そういうことはもっと早く言えよ」
「……だめ?」
「だめとは言わねえけど、落っこちたらどうすんだ」
「高くは浮かないよ。最初は、ちょっとだけ」
「その『ちょっと』を信用していいのか悩むな」
紬は床の一角に厚い緩衝材を創造し、その上へ立った。
落下しても身体を傷めないようにしたうえで、周囲の試験設備を待機状態にする。実験室そのものにも安全機能はあるが、今回のような未知の操作では、念のため対策を重ねておいたほうがいい。
紬は両腕を軽く広げ、自分の身体に働く重力を意識した。
足の裏に感じていた床の感触が、わずかに薄れる。
次の瞬間、靴下を履いた足が床から離れた。
「……わっ」
身体がふわりと持ち上がり、紬は反射的に腕をばたつかせた。
高さはほんの数センチだったが、足元に何もないという感覚は想像以上に落ち着かない。
「おい、大丈夫か!」
「だ、大丈夫……!」
紬は慌てて意識を調整し、身体をその場に止めた。
視線を下げると、床が少しだけ遠くにある。足を動かしても何にも触れず、普段なら当然あるはずの支えが消えていた。
紬は慎重に身体を下ろし、緩衝材の上へ着地した。
「……変な感じ」
「そりゃそうだろ。人間は普通、空中に浮かねえんだから」
「でも、できた」
「そこは認める。で、今度は何をするつもりだ?」
紬は少し考え、今度は身体の向きを変えずに前方へ移動することを試した。
床から浮き上がり、ゆっくりと前へ進む。
歩いているわけでも、何かに押されているわけでもない。自分の身体が空中を滑るように移動している。
最初は恐る恐るだったが、何度か往復するうちに感覚がつかめてきた。
「……これ、楽しい」
「おいおい、調子に乗るなよ」
「大丈夫。ちゃんと止まれるから」
紬はそう答え、少しだけ速度を上げた。
その途端、思っていたよりも勢いよく前へ進んでしまい、慌てて減速する。
身体がぴたりと止まったのは、壁から十分に離れた位置だった。
紬は胸を押さえ、苦笑した。
「……ちょっとびっくりした」
「俺のほうがびっくりしたわ! お前、今の顔見せてやりてえよ」
「……どんな顔してた?」
「目ぇまん丸にして、口開けてた」
「そんなに?」
「そんなにだ」
ボスが大げさに真似をしてみせるものだから、紬はつい笑ってしまった。
その笑いが収まる頃には、空中にいることへの緊張も少し薄れていた。
紬は高さを変え、前後左右へ移動し、最後にゆるやかな円を描いて飛んでみた。
何度か試しているうちに、身体を動かす感覚と重力を調整する意識が自然につながっていく。足で床を蹴る必要も、腕で空気をかく必要もない。
行きたい方向へ、行きたい速さで進む。
それだけでよかった。
「……ボス、見て」
「見てるって」
「私、飛んでる」
「ああ。見事に飛んでるな」
ボスは呆れたような口調だったが、その声には少し楽しそうな響きが混じっていた。
「で、どうだ? 鳥になった気分は」
「……鳥って、もっと大変そう」
「そりゃ羽ばたかなきゃいけねえからな」
「私は、何もしなくても飛べるから」
「だったら鳥より怠け者向きだな」
紬は空中で頬を膨らませたが、否定はできなかった。
飛行という言葉から想像していたのは、風を切って空を駆けるようなものだった。しかし、実際には椅子に座るよりも楽な姿勢で移動できる。立ったままでも、横になっても、身体を支える必要がない。
試しに仰向けになってみると、見上げた天井の照明が視界いっぱいに広がった。
「……これ、寝られるかも」
「空中で寝ようとすんな!」
「冗談だよ」
「お前の場合、冗談に聞こえねえんだよ!」
紬はくすくす笑いながら、ゆっくりと床へ降りた。
飛行そのものは成功した。
けれど、これでどこへでも自由に飛んでいけると決めつけるつもりはなかった。屋外には風も障害物もあり、他人に見られる危険もある。少なくとも今は、この広い実験室で試すのが一番安心だった。
紬は結果を記録し、次の実験について考えた。
重力を直接変えられる。
それなら、空間についてはどうだろう。
昨日、秘密基地を作ったとき、紬は自宅と別の空間を扉で接続した。扉の向こうへ進めば、外からは見えない広い施設に入れる。
しかし、空間を接続できるのなら、必ずしも扉を通る必要はないのではないか。
紬は実験室の床へ小さな赤い球を置いた。
そこから数メートル離れた位置に、白い円形の目印を創造する。
「……次は、移動」
「さっきも移動してただろ」
「ううん。今度は、途中を通らないで移動させたいの」
「途中を通らない?」
ボスが首を傾げる。
紬は赤い球と白い目印を交互に見た。
「ここにあるものを、あそこへ一瞬で移すの。飛ばしたり、転がしたりしないで」
「……おい、それって」
「瞬間移動、かな」
ボスはしばらく球を見つめ、やがて口の端を上げた。
「面白そうじゃねえか。やってみろよ」
紬は赤い球へ意識を向けた。
これまでなら、移動用の装置を創造していただろう。けれど今回は、球が存在する場所と、移動先の位置だけを考える。
そこにあるものを、あちらへ。
間にある距離を移動するのではなく、存在する位置そのものを変える。
その考えが形になった瞬間、赤い球が消えた。
「……え?」
ボスが声を上げるより早く、白い円の中央に赤い球が現れた。
転がった音も、空中を飛んだ気配もない。
ただ、さっきまで床にあったものが、別の場所に存在している。
「おい、今……!」
「……できた」
「できた、じゃねえよ! どうなってんだ、これ!」
紬は急いで端末を操作し、観測記録を確認した。
球は途中の空間を通過していない。少なくとも設置した観測装置が捉えた範囲では、移動経路に相当するものは確認できなかった。
赤い球が、指定した位置へ直接現れている。
「……本当に、瞬間移動したみたい」
「みたい、っていうか、そうとしか見えねえぞ」
「うん。でも、ちゃんと確かめたい」
紬は球を元の位置へ戻し、同じ操作を繰り返した。
今度は移動先を少し高い場所に設定する。
赤い球は床から離れた空中に現れ、そのまま落下した。
「……あっ」
紬は反射的に重力へ意識を向け、落ちる寸前の球を空中で止めた。
ボスがその様子を見て、吹き出した。
「お前、瞬間移動はできるくせに、着地のこと忘れてたのかよ!」
「……忘れてた」
「さっき道具の使い方を考えろって話してたばっかりだろ」
「うん。だから、今度から気をつける」
紬は少し恥ずかしくなりながら、球を床へ下ろした。
位置を変えることと、その後の状態を安定させることは別の問題らしい。少なくとも、何も考えずに高い場所へ移せば、普通に落下する場合がある。
それなら、移動先の状態まで指定すればいい。
紬は次の試験で、球が現れる位置だけでなく、出現後に静止している状態も意識した。
結果は成功だった。
赤い球は空中に現れ、その場で動かずに浮かんでいる。
「……これなら大丈夫」
「便利すぎて、何が何だかわかんなくなってきたな」
「私も、ちょっと」
紬は笑ったが、内心では興奮していた。
重力操作も、瞬間移動も、今まで自分が作ってきた装置と無関係ではない。むしろ、それらの仕組みを知っていたからこそ、直接作用させるという発想にたどり着けた。
能力が新しく増えたのではない。
万物創造の使い方を、今までより広く考えられるようになったのだ。
そして、その発見は紬の想像以上に大きかった。
球体の移動を何度か試したあと、紬は少し大きな箱を使い、位置の指定と向きの変化を確認した。次に、複数の小物をまとめて移す実験も行う。
どれも、少なくとも今回の条件では成功した。
紬は結果を記録しながら、次第に別のことが気になり始めた。
物を移せるのなら、自分自身も移せるのではないだろうか。
その考えを口にすると、ボスはしばらく無言になった。
「……お前、本気か?」
「うん。でも、ちゃんと準備するよ」
「球と人間じゃ、話が違うだろ」
「それは、そうだね」
紬はすぐに試そうとはせず、端末へ視線を戻した。
物体の瞬間移動が成功したからといって、人間にも同じ方法が安全に使えるとは限らない。自分の身体は、ただの荷物とは違う。
移動先の空間に障害物がないこと。出現したときに身体へ不自然な力が加わらないこと。移動前後で身体の状態が変わらないこと。
考えるべきことはいくつもあった。
紬は実験室の一角に、何も置かれていない広い区画を設定した。床には柔らかな緩衝材を敷き、移動先を示す円形の印をつける。
さらに、自分の身体の状態を移動前後で確認できる観測装置を創造した。
「……これで、少し安心」
「少し、じゃ困るんだよ。俺はお前に何かあったら嫌だからな」
ボスの声は、先ほどまでとは違って真剣だった。
紬は顔を上げ、彼を見た。
ボスは観察席に立ち、短い翼を身体の横へ下ろしている。丸い身体も、いつもの偉そうな態度も変わらないのに、その表情にははっきりと心配が浮かんでいた。
「……ありがとう、ボス」
「礼なんかいい。無茶しねえって約束しろ」
「うん。危ないと思ったら、やめる」
紬はそう答え、まず移動先をすぐ近くに設定した。
距離は一歩分にも満たない。
そこへ自分の身体を移す。
足を動かすのではなく、今いる場所から、指定した位置へ存在を移す。
紬は意識を集中させた。
次の瞬間、視界が変わった。
「……あれ?」
紬は目を瞬かせた。
さっきまで正面にあった目印が、今は足元にある。
床を蹴った感覚はない。身体が移動した途中の記憶もない。ただ、立っていた場所が変わっていた。
「おい……紬?」
ボスの声が聞こえる。
振り向くと、彼は観察席からこちらを見つめていた。
「今、消えたぞ」
「……うん」
「で、そっちに出てきた」
「……うん」
「お前、ほんとにやりやがったな」
紬は自分の手を見下ろした。
指を曲げ、腕を動かし、足踏みをする。身体に痛みや違和感はない。
観測装置の記録にも、今回確認した範囲では異常が見られなかった。
それでも、紬はすぐに次の移動を試さなかった。
自分が何をしたのか、少し時間をかけて受け止めたかった。
「……私、瞬間移動できた」
「ああ。見てた」
「歩いてないのに、場所が変わった」
「だから、見てたって」
ボスは呆れたように言ったが、紬の表情を見て、少しだけ声を柔らかくした。
「……嬉しいんだろ?」
「うん」
紬は小さく笑った。
「すごく、嬉しい」
その答えを聞いたボスは、仕方なさそうに肩をすくめた。
「だったら、もうちょっと喜べよ。お前、顔が全然追いついてねえぞ」
「……えへへ」
「そうそう。そっちのほうがいい」
紬はもう一度、慎重に移動を試した。
今度は数メートル先。
結果は同じだった。
視界が切り替わり、指定した位置に立っている。
続いて、実験室の反対側へ移動する。そこでも問題は起きなかった。
何度か繰り返すうちに、紬は瞬間移動という現象に少しずつ慣れていった。
ただし、慣れたからといって何も考えずに使っていいわけではない。移動先の安全確認は必要だし、周囲に人がいれば驚かせてしまう。
何より、他人に見られたら説明が難しい。
紬はそこまで考えて、思わず苦笑した。
今さら説明が難しいことなど、数えきれないほどやっている。
喋るペンギンを創造した時点で、普通の説明が通用するはずもなかった。
「……ねえ、ボス」
「何だ?」
「これ、外で使ったら、すごく便利だと思わない?」
「そりゃ便利だろうな。買い物だって、移動する時間がいらなくなる」
「……人混みに入らなくても済むかも」
「お前らしい理由だな」
紬は少し照れたように笑った。
人と話すのが苦手な彼女にとって、移動そのものよりも、途中で誰かと顔を合わせる機会を減らせることのほうが魅力的だった。
もちろん、実際に外で使うなら慎重に考える必要がある。知らない場所へ突然現れれば危険かもしれないし、誰かの目の前に出てしまう可能性もある。
だから、今すぐ試すつもりはなかった。
それでも、行きたい場所へ一瞬で移動できるという事実は、紬の生活を大きく変えるかもしれなかった。
そこで、ボスがふと口を開いた。
「なあ、紬」
「ん?」
「それって、俺も一緒に行けんのか?」
紬は彼を見た。
今まで、自分自身の移動と、物体の移動はそれぞれ試している。
けれど、誰かを連れて移動することはまだ試していなかった。
「……やってみたい?」
「そりゃ興味はあるけどよ。お前だけ先にどっか行っちまったら、俺は置いてけぼりだろ」
その言葉に、紬は少しだけ胸が温かくなった。
自分一人なら、どこへでも行けるかもしれない。
けれど、今の紬は一人で出かけたいわけではなかった。
面白いものを見つけたら、ボスにも見せたい。知らない場所へ行くなら、一緒に行きたい。
それは、能力を得たばかりの頃には考えもしなかったことだった。
「……じゃあ、一緒に試そうか」
「おう。ただし、さっきみてえに慎重にな」
「わかってる」
紬はボスを抱き上げた。
柔らかな羽毛が腕に触れ、いつもの温かさが伝わってくる。彼は紬の胸元に収まり、少しだけ身体の向きを変えて、周囲を見やすい姿勢を取った。
「……準備できた?」
「ああ。いつでもいいぜ」
紬は移動先を実験室の中に設定した。
障害物のない広い場所。床には緩衝材があり、観測装置も正常に動いている。
自分と、腕の中のボス。
二人をまとめて、指定した位置へ移す。
紬は深く息を吸い、意識を集中させた。
次の瞬間、目の前の景色が切り替わった。
「……!」
紬は足元を確認した。
そこには、移動先として指定した目印がある。
腕の中では、ボスが目を丸くしていた。
「おい……今、何が起きた?」
「……移動したよ」
「マジか?」
「うん。ボスも一緒に」
ボスは周囲を見回し、さっきまでいた場所を確認した。
実験室の反対側に、二人が立っていた位置が見える。
「……すげえな」
彼は珍しく、素直に感心した声を出した。
「本当に、一瞬だったぞ」
「怖くなかった?」
「いや、別に。気づいたらこっちにいたって感じだな」
「……よかった」
紬は胸を撫で下ろした。
観測装置の記録を確認すると、今回の試験でも目立った異常は見られなかった。ボスの身体にも変化はなく、本人も普段どおりに話している。
もちろん、これだけであらゆる条件で安全だと証明されたわけではない。
それでも、少なくとも二人で瞬間移動できることは確かめられた。
「……ボス」
「何だ?」
「これから、いろんなところに一緒に行けるね」
紬がそう言うと、ボスは一瞬だけ黙った。
それから、少し照れくさそうにくちばしを動かした。
「まあ、そうだな。お前一人じゃ、どこ行っても道に迷いそうだし」
「……そんなことないよ」
「どうだかな。買い物に行って、欲しいもん見つけたら周り見えなくなるタイプだろ」
「……ちょっとだけ」
「ほらな」
二人は顔を見合わせて笑った。
紬はボスを抱えたまま、もう一度だけ短い距離を移動した。
今度は先ほどよりも自然だった。
行きたい場所を意識すると、景色が切り替わる。腕の中の温かさも、ボスの重みも、何一つ変わらない。
紬はその感覚を確かめ、満足すると実験を終えることにした。
今日だけで、重力の直接操作、自由飛行、物体の瞬間移動、自分自身の転移、そしてボスを連れた移動まで試すことができた。
十分すぎる成果だった。
「……今日は、すごい日だったね」
「ああ。俺もそう思う」
「でも、ちょっと疲れた」
「そりゃ、朝からあんだけ実験してりゃな。そろそろ休めよ」
「……うん」
紬は端末を取り寄せ、今日の記録を整理した。
最初に作った積み木。重力を直接変えた試験。自分の身体を浮かせたときの感覚。赤い球の瞬間移動。そして、ボスと一緒に移動した結果。
それぞれを項目ごとにまとめ、確認できたことと、まだ調べていないことを分けて書き込む。
最後に、少し考えてから一文を追加した。
『道具を作らなくても、できることがある』
紬はその文字を眺め、しばらく考え込んだ。
今まで、万物創造は欲しいものを生み出す力だと思っていた。
もちろん、それは間違っていない。
けれど、物を作るという方法は、能力の使い方の一つにすぎないのかもしれない。
重力を変える装置を作らなくても、重力へ直接作用できた。
空間をつなぐ扉を作らなくても、別の場所へ移動できた。
それなら、ほかにも同じようなことがあるのではないだろうか。
紬は端末を閉じ、ボスを抱き直した。
「……ねえ、ボス」
「今度は何だ?」
「私、まだまだ知らないことがいっぱいあるみたい」
「そりゃそうだろ。お前、力を手に入れてから、まだそんなに経ってねえんだから」
「……うん」
「焦る必要もねえさ。できることが増えたんなら、少しずつ試していけばいい」
紬は彼の言葉に頷いた。
何でもできるようになりたいと思っていたわけではない。
ただ、面倒なことを減らして、好きなように暮らしたかった。
けれど、そのために使い始めた力は、想像していたよりもずっと広い可能性を持っている。
紬は少しだけ考え、実験室の出口へ向かった。
もちろん、今なら扉を通らずに自宅へ戻ることもできるだろう。
けれど、今日は普通に歩いて帰ることにした。
「……ボス、晩ご飯は何がいい?」
「そうだな。今日は肉も食いてえ気分だ」
「お魚じゃなくて?」
「たまにはいいだろ。俺だって魚ばっかり食ってるわけじゃねえんだぞ」
「……じゃあ、ハンバーグ?」
「お、それいいな!」
紬は笑いながら扉を開けた。
広い秘密基地の通路を抜け、自宅の生活スペースへ戻る。
いつものソファ、いつものテーブル、いつもの窓。
何も変わっていないように見える部屋だったが、紬にとっては少し違って感じられた。
ここからなら、どこへでも行けるかもしれない。
そして、何かを作らなくても、できることがある。
紬はソファへ腰を下ろし、ボスを膝の上に乗せた。
「……ねえ、ボス」
「ん?」
「今日の実験、楽しかった?」
「ああ。面白かったぜ。特に、お前が空中で慌ててたところがな」
「……そこ?」
「そりゃ忘れられねえだろ。あんな顔、滅多に見られねえからな」
紬は少し頬を膨らませたが、すぐに笑ってしまった。
ボスも満足そうに笑い、紬の腕へ身体を預ける。
万物創造でできることは、今日また大きく広がった。
それでも、紬が今一番したいことは、特別な実験でも、未知の場所への冒険でもなかった。
美味しい夕食を食べて、ボスとゲームをして、眠くなったら一緒に寝る。
そんな何でもない時間を、これからも好きなだけ楽しみたい。
紬は柔らかな羽毛を撫でながら、調理装置へ夕食を頼んだ。
装置を使わずに料理を出現させることも、もしかしたらできるのかもしれない。
けれど、今はこのままでいい。
便利な道具を使うのも、能力を直接使うのも、どちらも自分で選べばいいのだから。
「……ボス、ハンバーグ、チーズ入りにする?」
「おっ、いいな! それで頼む!」
「……私もそうしようかな」
紬は小さく笑い、ボスを抱き寄せた。
今日見つけた新しい可能性について考えるのは、明日でも遅くない。
今夜はただ、相棒と一緒に過ごす時間を楽しむことにした。




