第74話 予想外の来訪者
アメリカ合衆国大統領が、正体不明の技術提供者との面会を希望している。
その知らせを受け取ったとき、小鳥遊紬はソファの上でボスを抱きながら、読みかけの小説にしおりを挟んだところだった。
窓の外には穏やかな午後の日差しが広がり、部屋の隅では掃除用の小さな装置が音もなく床を移動している。世界有数の権力者から届いた申し出と、あまりにも普段どおりの室内の様子が釣り合っていなかった。
「……アメリカの、大統領?」
紬が聞き返すと、目の前に浮かぶアイリスのホログラムがうなずいた。
「はい、マスター。三浦官房長官からの連絡です。昨日から行われている日米間の協議に関連して、ウォーカー大統領が技術提供者との直接面会を希望されたそうです。政府側は、マスターのご意思を確認することだけを約束しています」
「大統領って、あれだろ。アメリカで一番偉いおっさんだろ?」
膝の上から口を挟んだボスに、アイリスは少し考えるような間を置いた。
「行政権の長であり、国家元首でもあります。ただし、アメリカの政治制度は一人の判断ですべてが決まる仕組みではありません」
「分かってるよ。別に政治の授業を始めろとは言ってねえ」
「失礼しました。では、マスターが会いたくない場合、断っても問題ないという点だけ補足します」
紬は小説を閉じてテーブルに置いた。昨日のニュースで、ウォーカー大統領が日本を訪れていることは知っていた。高瀬首相と握手を交わす姿も見たし、宇宙開発の話が進んでいるらしいことも聞いている。それでも、その大統領が自分と話したがっていると知らされると、画面の向こうの出来事が突然こちらへ近づいてきたような気がした。
「……何を話すんだろう」
「技術について聞きてえことは山ほどあるだろうな。ただ、それなら日本政府を通せば済む話だ。わざわざ本人に会いたがるってことは、どんな奴が協力してるのか、自分の目で確かめたいんだろ」
「私、普通に話せるかな……」
「俺がいるだろ」
ボスは当然のことのように答えた。
「向こうが大統領だろうが何だろうが、お前が無理して話す必要はねえ。俺が聞いて、俺が答える。お前にしか決められねえことだけ、お前が決めりゃいい」
その言い方に、紬は少しだけ肩の力を抜いた。
これまで日本政府と関わるときも、ボスが話を進めてくれた。高瀬首相や三浦官房長官とは以前より話しやすくなったものの、それは相手が約束を守ろうと努力し、時間をかけて関係を築いてきたからだ。初対面の外国の大統領となれば、事情はまるで違う。
「……英語は?」
「お前、そこを心配すんのか」
「だって、アメリカの人だし……」
「翻訳は私が補助できます」
アイリスが申し出たが、ボスは首を振った。
「向こうが日本語を話せるとは限らねえし、俺たちの会話が通じなきゃ困る。そこは紬に頼んだほうが早いんじゃねえか?」
紬はしばらく考えてから、ボスの頭に手を置いた。
「……じゃあ、ちゃんと話が通じるようにするね」
「おう。頼むぜ」
ボスは自分の言葉が英語になったのかどうかを試すように何か言いかけ、すぐにやめた。紬の力があれば言葉の壁を越えることは難しくない。ただし、それを大統領の前でわざわざ説明する必要もなかった。
アイリスは三浦から届いた連絡の続きを表示した。
「面会場所は日本政府が管理する施設内の一室を想定しています。室内に入るアメリカ側の人物はウォーカー大統領お一人。随行員、通訳、警護担当者は同席しません。大統領の安全確保については日本側と米側で調整する必要がありますが、マスターの身元に関する情報は渡さない方針です」
「……大統領、一人で?」
「はい。ウォーカー大統領ご自身が、可能な限り少人数での面会を希望されたそうです。ただし、実際にお一人になることまで了承されるかは、これからの調整次第です」
紬は膝の上のボスを見下ろした。
「ボスは、どう思う?」
「俺は別に会ってもいいと思うぜ。どうせ今後も宇宙開発の話は続くんだ。向こうの一番偉い奴に、俺たちがどういうつもりで協力してるのか直接伝えられるなら、悪い話じゃねえ」
そこでボスは、紬の腕に軽く翼を添えた。
「ただし、お前が嫌なら終わりだ。政府の顔を立てるために会う必要なんかねえ。大統領をがっかりさせたって、俺たちの晩飯が減るわけじゃねえんだからな」
「晩飯は減りませんが、外交上の影響は生じる可能性があります」
「お前、今いいこと言ってたんだから黙ってろ」
「事実関係の補足です」
二人のやり取りを聞きながら、紬は考えた。
知らない人と話すのは苦手だ。まして、相手は世界中の人々が名前を知っているような人物である。緊張しないはずがない。
けれど、自分が作ったものが宇宙へ行くかもしれないという話には、以前から興味があった。
遠い月へ人が向かい、そこで研究をする。地球ではできないことを試し、今まで知らなかったものを見つける。そのために自分の力が少しでも役立つなら、悪くないと思っている。
問題は、その協力がいつの間にか誰かの命令に変わってしまうことだった。
「……会ってみようかな」
紬がそう言うと、ボスはすぐには答えず、その顔を確かめた。
「本当にいいのか?」
「うん。ちょっと怖いけど……ボスが話してくれるなら、大丈夫だと思う」
「分かった。じゃあ条件を付けるぞ。相手が大統領だからって、こっちの秘密を何でも教えるわけじゃねえ。話が変な方向へ行ったら、その場で帰る」
「……うん」
「あと、お前が疲れたら終わりだ。俺が勝手に長話してても止めていい」
紬は小さく笑った。
「それは、いつもそうしてるよ」
「そういやそうだったな」
アイリスは二人の結論を確認すると、三浦への返信文案を用意した。
面会は紬本人の意思によって承諾する。ただし、場所は日本側が管理する閉鎖された部屋とし、アメリカ側の同席者はウォーカー大統領一人に限る。録音、録画、外部への中継は認めず、面会者の身元を特定するための質問にも答えない。開始と終了は紬たちが決め、必要と判断すれば直ちに退室する。
その条件を読み終えたボスが、ひとつ付け加えた。
「面会したこと自体、余計な連中に広めないようにしてもらえ。大統領の部下だからって、全員に教える必要はねえだろ」
「承知しました。面会の実施に必要な最低限の連絡と、内容の秘匿を区別して記載します」
「頼むぜ。あと、紬」
「……なに?」
「服はいつもどおりでいいからな」
紬は自分の部屋着を見下ろした。
「……さすがに、着替えるよ?」
「別にいいじゃねえか。大統領に会うからって、お前が別人になる必要はねえって話だ」
その言葉は、妙に紬の心に残った。
相手が誰であっても、自分は自分のままでいい。そう考えると、初対面の大統領に会うことも、少しだけ現実的に思えてきた。
紬はボスを抱き直し、アイリスへうなずいた。
「……それで、お願いします」
「承知しました、マスター。三浦官房長官へお伝えします」
返信が送られると、部屋は再びいつもの午後に戻った。
ただ、紬が閉じた小説をもう一度開くまでには、しばらく時間がかかった。
*
その日の夕方、ウォーカー大統領は首相官邸内に設けられた非公開の待機室で、三浦官房長官から面会条件の最終説明を受けていた。
昼間まで続いていた日米の実務協議は一段落し、翌日以降の予定については双方の担当者が調整を進めている。共同宇宙開発の基本的な方向性には近づいていたが、技術の扱い、安全審査、責任分担についてはなお詰めるべき事項が残されていた。
その協議とは別に、ウォーカーが強く希望していた技術提供者との面会が、思いがけず実現することになったのである。
「先方は承諾したのですね」
ウォーカーが確認すると、三浦は慎重に答えた。
「はい。ただし、今回の面会は先方の自主的な判断によるものです。政府が出席を求めたわけではありません。条件を守れない場合は実施されませんので、その点はご理解ください」
「承知しています。こちらがお願いした立場ですからね」
ウォーカーは穏やかに応じたが、内心では少なからず興奮していた。
日本が世界へ送り出した超小型核融合装置、がん治療技術、深海資源開発システム。それぞれの分野で常識を塗り替える成果が短期間に現れながら、その技術を可能にした存在については、ほとんど何も分かっていない。
政府機関なのか、民間企業なのか。複数の研究者による巨大な組織なのか、それとも一人の天才なのか。
アメリカの情報機関が集めた公開情報と独自分析を読んでも、確かな答えは得られなかった。
ウォーカー自身は、何十人もの研究者が秘密施設で働く姿を想像していた。あるいは、世間との接触を嫌う高齢の科学者が、代理人を通じて日本政府と交渉しているのかもしれない。
少なくとも、これほどの技術を生み出す人物ならば、相応の経験と実績を備えているだろう。
そう考えるのが自然だった。
「大統領閣下。念のため申し上げますが、面会相手について事前にお伝えできる情報はありません。氏名、所属、年齢、人数についても、私からは説明いたしません」
「人数まで?」
「はい」
ウォーカーは軽く眉を上げた。
「なるほど。ずいぶん徹底していますね」
「先方との約束です」
三浦の答えには迷いがなかった。
ウォーカーはその様子を見て、日本政府が相手に対して単に礼儀を尽くしているだけではないことを感じ取った。約束を破れば、国家にとって重大な損失が生じる。そう理解している者の態度だった。
「分かりました。私は研究者を尋問しに来たわけではありません。互いに顔を合わせ、信頼関係を築くために来たのです」
「ありがとうございます」
部屋の外では、アメリカ側の警護担当者と日本側の責任者が最後の確認を行っていた。
通常であれば、合衆国大統領が身元不明の人物と完全に一対一で面会するなど、認められるはずがない。今回も米側は強く難色を示したが、ウォーカー本人が面会を希望し、日本側が使用する部屋の安全確認を認めたことで、例外的な運用が成立した。
ただし、米側の警護員は室内に残らず、外部の警備区域で待機する。通訳も記録係も同席しない。会話の内容を知ることができるのは、実際に部屋へ入った者だけだった。
やがて三浦が立ち上がった。
「それでは、私は退出いたします。面会が終了しましたら、こちらから改めてご案内します」
「分かりました。高瀬首相にも、配慮への感謝を伝えてください」
三浦は一礼して部屋を出た。
扉が閉じられ、ウォーカーは一人になった。
室内には落ち着いた色合いの応接用ソファと低いテーブルが置かれ、壁際には小さな時計がある。窓には外の様子が見えないよう遮蔽が施されていた。必要な設備以外は持ち込まれておらず、いかにも臨時の会談室といった雰囲気だった。
ウォーカーは腕時計に目を落とした。
約束の時刻までは、あと数分。
その間に、どんな質問をすべきか考えた。
日本の技術が宇宙開発に利用できる可能性は極めて大きい。だが、内部構造を明かさない装置を有人宇宙船へ搭載するには、安全上の懸念が残る。相手が何を重視し、どこまでの協力を考えているのか、本人の言葉で聞きたかった。
同時に、相手の人柄も知りたいと思った。
国家同士の交渉では、条件が整っていても相手を信用できなければ前に進めない。まして今回の相手は、政府の命令では動かないという。
ならば、自分自身がその人物に信頼される必要がある。
ウォーカーは背筋を伸ばし、扉の方へ視線を向けた。
しかし、約束の時刻になってもノックはなかった。
廊下から足音も聞こえない。
時計の針が進み、何か行き違いでもあったのかと思い始めた、そのときだった。
部屋の中央に、二つの人影が現れた。
いや、正確には、人影は一つしかなかった。
もう一つは、その人物の腕に抱えられた小さな生き物だった。
「……え?」
ウォーカーは立ち上がりかけた姿勢のまま固まった。
そこにいたのは、二十歳前後にしか見えない小柄な日本人女性だった。落ち着いた色の服を着ており、表情には明らかな緊張が浮かんでいる。研究者らしい白衣も、企業の代表者が着るようなスーツも身につけていなかった。
そして、その腕の中には丸々としたペンギンが収まっていた。
体長は四十センチほどだろうか。柔らかそうな羽毛に包まれ、黒い瞳でこちらを見ている。
ウォーカーはまず、女性がどこから入ってきたのか理解できなかった。
扉は開いていない。
隠し通路があるようにも見えない。
自分が見ていた何もない空間に、突然二人が存在していたのである。
「おう。あんたがウォーカー大統領か?」
次の瞬間、ウォーカーはさらに理解しがたい光景を目にした。
ペンギンが、喋った。
しかも、その声は明瞭な言葉となって耳に届いた。
「……今、あなたが?」
「他に誰がいるんだよ。俺だよ、俺。こっちのペンギンだ」
ウォーカーは口を開いたまま、目の前の小さな生き物を見つめた。
英語として意味が通じている。しかし、相手が口にしている音が自分の知る英語なのかどうかさえ、すぐには判断できなかった。
長い政治家人生の中で、予想外の出来事には何度も遭遇してきた。突然の外交危機も、選挙結果の逆転も、誰も予測しなかった技術革新も経験している。
だが、喋るペンギンが目の前に現れたとき、どう応じるべきかを教えてくれる経験は一つもなかった。
「……これは、何かの演出ですか?」
「演出? ああ、俺が喋ってることか。残念ながら、腹話術じゃねえぞ」
ペンギンは呆れたように答えた。
「つーか、まず挨拶だろ。大統領が初対面の相手にする顔じゃねえぞ、それ」
「ボス……」
女性が小声でたしなめる。
「なんだよ。俺は普通に挨拶しただろ」
「……もう少し、丁寧に」
「はいはい。分かったよ」
ペンギンは女性の腕の中で姿勢を正した。
「改めて。俺はボスだ。こいつの代わりに話をすることが多い。今日はあんたが会いたいって言うから、わざわざ来てやった。よろしくな」
ウォーカーは数秒遅れて、自分が握手を求めるべきか迷っていることに気づいた。
相手はペンギンである。
翼を差し出してくる様子もない。
結局、彼はいつもの外交儀礼をいったん諦め、胸に手を添えて頭を下げた。
「リチャード・ウォーカーです。合衆国大統領を務めています。本日は私の希望を受け入れていただき、ありがとうございます」
「おう。話の分かる奴なら歓迎だ」
ボスが答えると、女性もわずかに頭を下げた。
「……よろしく、お願いします」
声は小さかったが、ウォーカーにははっきりと聞こえた。
彼は女性へ視線を向けた。
「失礼ですが、あなたが技術提供者なのですか?」
女性は少し困ったようにボスを見た。
ボスはそれを受けて答えた。
「そうだ。技術を作ってるのはこいつだ。俺は主に話をまとめる係だな」
「……あなたではなく?」
「俺にそんな頭があるように見えるか?」
ウォーカーは返答に詰まった。
目の前のペンギンが高度な知性を持っていること自体、十分に常識外れだったからだ。
ボスはその反応を見て、少し得意げに胸を張った。
「まあ、頭の良さなら俺も負けちゃいねえけどな」
「ボス、そういう話じゃ……」
「分かってるって」
ウォーカーはようやくソファへ腰を下ろした。
「どうぞ、お掛けください。……と言っても、お二人には少し不便な家具かもしれませんが」
「気にすんな。こいつは俺を抱いてるほうが落ち着くらしい」
ボスの言葉に、女性は何も言わず、近くのソファに腰掛けた。
小さなペンギンを抱きしめるその姿は、休日に動物と過ごしている若い女性のようにしか見えない。
しかし、その人物が日本の技術革新を支えている。
ウォーカーは、自分がこれまで組み立ててきた推測の大部分が崩れ去ったことを悟った。
「率直に申し上げて、驚いています」
「だろうな」
「あなた方がどうやって入室したのか、そしてボスさんがどうして言葉を話せるのか。聞きたいことはたくさんあります」
「だろうけど、そこは聞かれても答えねえぞ」
ボスは先回りして告げた。
「今日の目的は宇宙開発の話だ。俺たちが何者か調べるための面接じゃねえ。そこんところ、最初にはっきりさせとこうぜ」
ウォーカーはしばらくボスを見つめ、それからうなずいた。
「分かりました。あなた方の事情は尊重します」
「なら話は早え。あんた、日本と一緒に宇宙へ行きたいんだって?」
「ええ。正確には、両国の力を合わせて、人類の活動範囲を広げたいと考えています」
ウォーカーはテーブルに置かれた水には手をつけず、言葉を選びながら続けた。
「アメリカには、長年の有人宇宙飛行で積み重ねた経験があります。宇宙船の運用、乗員の訓練、生命維持、地上からの管制。日本にも優れた研究者や技術者がいます。そこへ、あなたが提供できる技術が加われば、これまで難しかった計画に挑戦できるかもしれません」
「月とかか?」
「月は有力な候補です。将来的には、月面に長期間滞在できる研究拠点を設けることも考えています。ただし、まだ構想段階です。実現できるかどうかは、これからの協議と技術的な検討にかかっています」
「なるほどな。で、あんたが欲しいのは、宇宙へ行くための道具か。それとも道具の作り方か?」
ウォーカーは即答しなかった。
昨日の交渉でも、日本側は核心技術の内部構造を渡さない方針を崩さなかった。アメリカとしては、重要な装置を自国で理解し、必要に応じて修理や改良ができることが望ましい。しかし、その要求が協力そのものを失わせるなら意味がない。
「両方を理解できることが理想だとは思います」
ウォーカーは正直に答えた。
「ですが、理想と実際に合意できる条件は別です。内部構造を知らなければ安全性を確認できない場合もありますし、別の方法で安全を検証できる場合もあるでしょう。私は、その可能性を真剣に検討したいのです」
「ほう」
ボスは少しだけ感心したようだった。
「最初から全部よこせって言う奴よりは、話が通じそうだな」
「それは褒め言葉として受け取ってよいのでしょうか」
「半分くらいな」
ウォーカーは苦笑した。
会話の相手がペンギンであるという事実を除けば、交渉の進め方は意外なほど明快だった。ボスは遠慮なく核心を突くが、こちらの説明を聞く意思もある。
「俺たちは、宇宙船を丸ごと作って渡そうって話をしてるわけじゃねえ」
ボスは続けた。
「船の形も、乗る人数も、どこへ行くかも、専門家が考えるべきことだ。必要なところにだけ、こいつの技術を使う。それなら、あんたらにもちゃんと仕事があるだろ?」
「もちろんです。むしろ、そうでなければ共同開発とは呼べません」
「じゃあ、ひとつ聞くぞ。仮に俺たちが、あんたらの知らねえ仕組みで動く装置を渡したとする。あんたは、それを宇宙船に積むよう命令するか?」
「安全性を確認できないままでは命令できません」
ウォーカーは迷わず答えた。
「私は宇宙開発を進めたい。しかし、乗員の命を賭け金にしてよいとは思っていません。必要な試験ができず、故障時の対応も分からないのであれば、採用を見送る判断も必要でしょう」
その返答を聞いて、紬が顔を上げた。
「……それなら、よかったです」
ウォーカーの視線が女性へ移った。
初めて、彼女の方から話しかけてきたのである。
「……人が乗るものだから、ちゃんと安全にしてほしくて。もし私が何か作っても、使って大丈夫かどうかは、乗る人たちが確認してほしいです」
「あなた自身が、安全だと保証するのではなく?」
「……はい。私が大丈夫だと思っても、使う人が分からなかったら、怖いと思うので」
紬は言い終えると、ボスの背中を撫でた。
ウォーカーはその短い言葉を、予想以上に重く受け止めた。
これほどの技術を生み出せる人物なら、他人の評価など必要ないと言うかもしれない。自分の作ったものを疑うなと主張しても不思議ではなかった。
しかし、目の前の女性は違った。
自分の技術が優れていることより、それを使う人が安心できることを気にかけている。
「あなたの考え方は、宇宙飛行士たちにも伝える価値があると思います」
「……そう、ですか?」
「ええ。技術を信頼することと、無条件に信じ込むことは違いますから」
紬は少し考えたあと、小さくうなずいた。
ボスはその様子を確かめてから、再び話を引き取った。
「ただし、安全確認を口実にして、中身を全部見せろって話になったら別だ。装置の内部や作り方は渡さねえ。そこは日本政府にも伝えてある」
「承知しています」
「それと、軍事利用はなしだ。宇宙開発って言いながら、裏で兵器に使われちゃ困る」
「その条件も、日本側から聞いています」
「聞いてるだけじゃなく、守ってもらうぜ」
「正式な取り決めにするのであれば、双方が確認できる形にする必要がありますね」
ウォーカーはそう答え、少し表情を改めた。
「私からも一つ、お願いがあります」
「なんだ?」
「協力が始まった場合、装置の故障や事故が起きたときに、あなた方と連絡を取れる方法を残していただきたい。乗員の安全に関わる問題で、誰にも相談できない状況は避けたいのです」
ボスはすぐに拒絶しなかった。
それは、これまでの交渉でアメリカ側が繰り返し示してきた、現実的な懸念だったからだ。
「日本政府を通じた連絡ならできる。必要な情報を整理して、対応できる範囲で協力するつもりだ。ただし、あんたらが直接こいつを呼び出せるようにはしねえ」
「緊急時にも?」
「緊急時の仕組みは別に考えるさ。連絡が遅れて人が危なくなるようなものを、最初から作るつもりはねえよ」
ウォーカーはうなずいた。
「それなら、専門家同士で検討する余地があります」
「そういうことだ。俺たちが何でも決めるんじゃねえ。あんたらにも考えてもらう」
話が一区切りついたところで、ウォーカーは改めて二人を見た。
先ほどから胸の内に残っている疑問があった。
これほど重要な技術を扱いながら、なぜ二人はここまで徹底して姿を隠そうとするのか。
財産や地位を望むなら、世界中からいくらでも手に入れられるはずだ。少なくとも、政府を通じて有利な条件を求めることはできるだろう。
「差し支えなければ、もう一つだけ伺っても?」
「内容によるな」
「あなた方は、なぜ自分たちの存在を隠しているのですか。世界に知られることで得られるものも、少なくないと思いますが」
紬の腕の中で、ボスの表情がわずかに変わった。
質問自体は自然だった。だが、その答えには紬の生活が関わっている。
「有名になりてえ奴ばかりじゃねえんだよ」
ボスは答えた。
「毎日知らねえ奴が家に来たり、勝手に写真を撮られたり、何を作れるか聞かれ続けたり。そんな生活、俺たちはごめんだ」
「……なるほど」
「技術を提供することと、人生を丸ごと差し出すことは違うだろ?」
ウォーカーは、その言葉をすぐに理解した。
自分は公職を選んだ人間だ。選挙に立候補した以上、報道され、批判され、私生活の一部まで注目されることを受け入れてきた。
しかし、目の前の女性は違う。
どれほど優れた技術を持っていても、国家のために生きる義務を自ら引き受けたわけではない。
「おっしゃるとおりです」
ウォーカーは女性に向き直った。
「あなたが望まない注目を浴びる必要はありません。少なくとも、私がそれを強いるべきではないと思います」
「……ありがとうございます」
紬はほっとしたように答えた。
その様子を見たボスは、しかし、まだ大事な話が残っていると言わんばかりに姿勢を正した。
「じゃあ、ここからは約束の話だ」
声の調子が変わったことで、ウォーカーも自然と背筋を伸ばした。
「今日ここで見たもの、聞いたこと。俺たちの姿も、こいつが若い女だってことも、俺がペンギンだってことも、あんたの部下には教えるな」
「政府間の協議に必要な範囲で、面会が行われた事実を伝えることはあるかもしれません」
「それは仕方ねえ。けど、中身まで話す必要はねえだろ。国務長官にも国防長官にも、俺たちのことは伏せといてくれ」
ウォーカーは慎重に答えた。
「分かりました。面会の具体的な内容は、私自身の責任で扱います」
「それから、もっと大事なことがある」
ボスは黒い瞳でウォーカーを見据えた。
「CIAだろうが軍だろうが、こいつの正体を調べるような真似はさせるな。名前も住所も家族も、探す必要なんかねえ。今日会ったことを手掛かりにして調査を進めるのもなしだ」
ウォーカーは黙って聞いていた。
国家の安全保障を担う立場として、未知の技術の供給源を把握したいという考えは理解できる。現にアメリカの情報機関は、日本の技術開発体制について分析を続けている。
しかし、目の前の二人が何を守ろうとしているのかも、今では分かる気がした。
「私がそのような調査を命じないことは約束できます」
「命じないだけじゃ足りねえ。部下が勝手に探してたら止めてくれ」
「……その点についても、必要な指示を出しましょう」
ボスはうなずいたが、まだ言葉を続けた。
「勘違いしないでほしいんだけどな。俺たちはアメリカと喧嘩しに来たんじゃねえ。日本とアメリカが一緒に宇宙へ行くって話は、面白そうだと思ってる。だからこそ、余計なことをしてぶち壊してほしくねえんだよ」
「私も同じ気持ちです」
「なら、なおさらだ。俺たちはここへ来るのに、廊下も警備も通ってねえ。あんたも見ただろ?」
ウォーカーの脳裏に、二人が現れた瞬間の光景がよみがえった。
扉は開かず、警護員も反応しなかった。
国家の最高指導者を守るために用意された警備体制が、少なくともこの二人の入室を防げなかったことは事実だった。
「……ええ。確かに」
「だからって、俺たちが何か悪さをしようって話じゃねえぞ。ただ、無理に探したり捕まえようとしたりしても、まともな結果にはならねえってことだ。俺たちが嫌になったら、協力をやめる。それだけで十分困るだろ?」
ウォーカーはボスの言葉を考えた。
それは軍事力を誇示する脅迫とは違っていた。相手は自分たちを傷つけるとは言っていない。むしろ、関わりたくなくなれば関係を断つと告げているだけだった。
だが、世界が求める技術を持つ相手が協力を取りやめれば、失われる可能性は計り知れない。
その事実を、ウォーカーは正面から受け止めた。
「理解しました。あなた方の信頼を失えば、技術だけでなく、協力する機会そのものを失うことになる」
「そういうこった」
「そして、あなた方には協力しない自由がある」
「当たり前だろ」
ウォーカーは女性へ目を向けた。
「あなたご自身も、そうお考えですか?」
紬は一瞬だけ言葉に詰まった。
大統領に直接尋ねられると、やはり緊張する。けれど、ボスが腕の中でこちらを見上げているのが分かった。
答えを急かすことも、代わりに口を開くこともしない。
紬は少し考えてから、自分の言葉を選んだ。
「……私は、宇宙のこと、好きです。行ったことはないけど、月とか、星とか……見てみたいなって思います」
ウォーカーは何も言わず、続きを待った。
「だから、宇宙船を作るお手伝いは、してみたいです。でも……知らない人がたくさん来たり、ずっと何かを作ってって言われたりするのは、嫌で……」
紬はボスの羽毛に指を埋め、ほんの少しだけ力を込めた。
「……普通に、暮らしたいです」
その言葉を聞いたウォーカーは、目の前の女性が何を望んでいるのか、ようやく実感できた気がした。
名誉でも権力でもない。
宇宙開発に参加することさえ、彼女にとっては人生のすべてではないのだ。
「分かりました」
ウォーカーは落ち着いた声で答えた。
「私は、あなたの生活を守るという約束をします。あなた方の身元を探すよう命じませんし、すでに行われている調査についても、必要な対応を取ります。今日ここで知ったことを、あなたの許可なく部下へ伝えることもしません」
ボスが確認するように尋ねた。
「大統領としての約束だな?」
「はい。合衆国大統領として、そして一人の人間として」
ボスはしばらくウォーカーの顔を見ていたが、やがて満足したようにうなずいた。
「よし。なら俺も、あんたのことを信用してみるか」
「ありがとうございます」
「ただし、約束破ったら次はねえぞ」
「覚えておきます」
ウォーカーは少し笑った。
彼はこれまで、数え切れないほどの外交交渉を経験してきた。強硬な要求を突きつける相手もいれば、曖昧な言葉で責任を避ける相手もいた。
しかし、今日の相手は不思議なほど分かりやすい。
小さなペンギンは、難解な外交用語をほとんど使わない。それでいて、守りたいものと譲れないものを明確に示している。
そして、そのすべては腕の中の女性が安心して暮らせるようにするためなのだろう。
「ボスさん。最後に一つ、個人的な質問をしてもよろしいですか」
「なんだよ。まだ聞くのか?」
「あなたは、彼女の何なのですか。代理人というだけでは、ないように見えます」
ボスは一度だけ紬を見上げた。
紬は答えを任せるように微笑んだ。
「相棒だよ」
ボスは胸を張った。
「こいつが困ってたら助けるし、こいつが何かやりてえなら一緒に考える。たまに面倒くせえことも言うけどな。まあ、そういうもんだろ、相棒ってのは」
「……ボスも、けっこう面倒くさいよ?」
「おい、そこで言うなよ!」
紬は小さく笑った。
ウォーカーもつられて笑みを浮かべたが、すぐに妙な感覚に襲われた。
世界の技術秩序を変えかねない存在と向かい合いながら、目の前で繰り広げられているのは、どこにでもありそうな家族の会話だった。
その落差が、かえって二人の言葉に現実味を与えていた。
「素晴らしい関係ですね」
「まあな。そこは否定しねえ」
ボスは照れ隠しのようにそっぽを向いた。
ウォーカーは二人に向き直り、深く頭を下げた。
「本日は、お会いできて光栄でした。正式な宇宙開発協力については、日本政府との協議を続けます。もし実現するなら、あなた方にとっても誇れる計画にしたいと思います」
「そいつは楽しみにしてるぜ」
ボスが答えたあと、紬も頭を下げた。
「……ありがとうございました」
それから紬は、ボスを抱え直した。
「……帰ろっか」
「おう。今日はよく頑張ったな」
「……うん」
ウォーカーは立ち上がった。
「出口までお送りします」
「いや、いいって。俺たちは来たときと同じように帰るからよ」
ボスがそう言い終えると、紬は小さく会釈した。
次の瞬間、二人の姿が消えた。
扉が開くことも、風が起こることもなかった。
先ほどまで女性が腰掛けていたソファには、誰もいない。
ウォーカーは立ったまま、その空間を見つめ続けた。
自分が何を見たのか、まだ完全には理解できていない。
技術なのか、未知の自然現象なのか。それとも、人類がこれまで想像したこともない何かなのか。
答えは分からなかった。
ただ一つ、確信したことがある。
日本の技術革新の背後にいる存在は、アメリカのどの情報機関が描いていた予測とも違っていた。
そして、その相手は国家の支配下に置かれることを望んでいない。
ウォーカーはしばらくしてソファに腰を下ろし、両手を組んだ。
頭の中には、聞きたかった質問がいくつも残っている。
しかし、それ以上に強く残っていたのは、女性が最後に口にした、ごくありふれた願いだった。
普通に暮らしたい。
世界を変えるほどの力を持ちながら、それを願う人間がいる。
そのことを理解しないまま技術だけを求めていたなら、今日の面会はまったく違う結果になっていたかもしれない。
やがて扉の外から、控えめなノックが聞こえた。
「大統領閣下。面会は終了されましたでしょうか」
三浦の声だった。
ウォーカーは扉へ視線を向けた。
「ええ。終わりました」
「お迎えに上がってもよろしいでしょうか」
「お願いします」
扉が開くまでの短い間、ウォーカーはもう一度、誰もいなくなったソファを見た。
そこに座っていた女性の名前を、彼は知らない。
どこで暮らしているのかも、どんな経歴を持つのかも分からない。
けれど、そのことを知らないままでいるのが、今日交わした約束だった。
ウォーカーは立ち上がり、上着の前を整えた。
部屋の外では、合衆国大統領としての仕事が待っている。
だが、これから先、日本との宇宙開発について判断を下すとき、彼はきっと思い出すだろう。
世界の未来を左右するかもしれない技術の提供者が、喋るペンギンを大切そうに抱えながら、ただ普通に暮らしたいと願っていたことを。




