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うちのぺんぎんが日本政府と交渉している件  作者: むぎちゃ
第3章 小さな奇跡と大国の思惑
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第65話 追い詰められる影

 警察庁の会議室には、朝から複数の資料が持ち込まれていた。


 机の上に並んでいるのは、技術交流会の参加記録、民間企業から任意提出された面談資料、関係者の供述を整理した報告書、そして通信履歴の写しだった。どれも単独では決定的な証拠とは呼べない。しかし、これまで別々の出来事として扱われていた記録を時系列に沿って並べると、無視できない共通点が浮かび上がってくる。


 黒崎慎吾警視正は、資料の一枚に視線を落とした。


「劉健明への接触は?」


「本日午後に予定しています。本人の滞在先と連絡先は確認できています。任意の事情聴取を申し入れる方針です」


 担当捜査員の報告に、黒崎は小さく頷いた。


「拒否された場合は、それ以上の強制はしない。現段階で重要なのは、本人の説明を聞き、客観的な記録と照合することだ」


「承知しました。ただ、相手が警戒している可能性はあります」


「それは十分に考えられる」


 劉が複数の企業に異なる肩書で接触していたことは、すでに確認されている。民間設備保守企業の社員との面会についても、当事者の証言とメッセージの履歴が存在した。だが、本人が資料の性質をどこまで理解していたのか、金銭が何の対価だったのか、さらに背後に別の人物や組織が存在するのかについては、まだ明らかになっていない。


 黒崎は、机の端に置かれた別の報告書を引き寄せた。


「社員が受け取った現金について、新しい確認結果は?」


「本人が申告した金額と、面会当日の口座への入金額が概ね一致しています。ただし、現金そのものの受け渡しを直接撮影した映像はありません。喫茶店の防犯カメラには、二人が同席していた様子と、劉が小型の封筒をテーブル上に置いた場面が残っています」


「中身までは分からない、ということか」


「はい」


 捜査員は続けて、企業側が確認した印刷記録を説明した。資料を閲覧した社員のアカウントから、面会前日に複数ページが出力されていた。印刷された文書の管理番号は、本人が警察へ提出した説明と一致している。


 さらに、そのうち一部のページには、設備の保守担当者が記載されていた。


「問題は、これが単なる商談資料ではなかったという点です」


 黒崎の言葉に、室内の視線が集まる。


「資料自体に核融合炉の核心技術は含まれていない。しかし、保守作業の担当者や連絡経路、施設側の運用予定を把握できる内容だった。外部の人間が正規の手続きを経ずに入手する理由を、慎重に確認する必要がある」


 技術の設計図を盗まれたわけではない。


 それでも、周辺にいる人間の名前や勤務上の役割を集めれば、別の接触先を探す手掛かりになる。情報の価値は、必ずしも一枚の文書だけで決まるものではなかった。


 黒崎は報告書を閉じた。


「劉が何を知ろうとしていたのか。まずはそこを確かめる」


 午後の事情聴取に向けて、捜査員たちはそれぞれの担当を確認した。


     ◇


 午後一時を少し過ぎた頃、劉健明は都内の貸事務所で、机の上に置かれた携帯電話を見つめていた。


 前日に受けた電話の内容が、頭から離れない。


 しばらく接触を控えろ。


 相手はそう告げたが、理由について詳しい説明はなかった。劉自身も、ここ数日の状況が普段とは違っていることを感じていた。連絡を取ろうとしても返事の遅い相手が増え、予定していた面談の一つは先方から延期を申し入れられている。


 机の引き出しには、設備保守記録の一部を収めた封筒があった。


 劉はそれを取り出しかけ、途中で手を止めた。


 資料は手元にある。だが、これをどう扱うべきなのかについて、新しい指示は届いていない。


 そのとき、携帯電話が振動した。


 画面に表示されたのは、見覚えのない国内の電話番号だった。


「……はい」


「劉健明さんのお電話でよろしいでしょうか。警察の者です。確認したいことがあり、ご連絡しました」


 劉の表情が固まった。


 相手は所属と氏名を名乗り、技術交流会での活動について話を聞きたいと説明した。任意の事情聴取であり、都合のよい時間を相談したいという申し出だった。


「私に、ですか?」


「はい。複数の企業との面談について、事実関係を確認したいと考えています」


「私は、普通の仕事をしていただけです」


「その点も含めて、お話を伺えればと思います」


 劉は返事を急がなかった。


 警察がどこまで把握しているのか分からない。面談相手の名前を知っているのか、資料のことまで調べているのか。それを電話口で尋ねることは、かえって不自然に思えた。


「今日は予定があります。明日なら、少し時間を取れるかもしれません」


「承知しました。では、明日の午後で調整させてください」


 通話が終わると、劉は椅子の背もたれに深く身体を預けた。


 警察からの連絡があった。


 その事実を誰かに伝えるべきか迷い、別の連絡先を開く。しかし、前日の電話では接触を控えるよう言われていた。


 何もしない方がいいのか。


 それとも、警察が動いていることだけでも知らせるべきなのか。


 数分間迷った末、劉は短いメッセージを作成した。


『警察から任意の事情聴取を求められた。明日、対応する予定』


 送信後、既読を示す表示は現れなかった。


 劉は携帯電話を伏せると、引き出しの封筒をもう一度見た。


 これまで仕事の一部だと考えていた行為が、急に違った意味を持ち始めていた。


     ◇


 翌日の午後、劉は警察の指定した場所を訪れた。


 応対した捜査員は落ち着いた態度で面談室へ案内し、今回の事情聴取が任意であることを説明した。劉は何度か頷いたものの、机に置いた両手をほとんど動かさなかった。


「技術交流会では、通訳として参加されていたことがありますね」


「はい。私は日本語と中国語の両方ができますから」


「別の企業では技術顧問、また別の面談では代理人と名乗っています。その違いについて説明していただけますか」


「仕事によって役割が変わるだけです。正式な社員ではなく、外部の協力者として参加することもあります」


 劉の返答は滑らかだった。


 捜査員はすぐに否定せず、各面談の日付や参加目的について順番に質問した。劉は覚えている範囲で答え、曖昧な部分については記憶にないと述べた。


 やがて話題は、民間設備保守企業の社員との面会に移った。


「こちらの方とは、都内の喫茶店で会われていますね」


 机に置かれた写真を見て、劉は一瞬だけ口を閉じた。


「……はい。会いました」


「何について話しましたか」


「設備の保守業務についてです。一般的な情報交換でした」


「相手から資料を見せてもらいましたか」


「いくつか、見せてもらったと思います」


「写真は撮りましたか」


 劉の視線が、写真から捜査員の顔へ移った。


「仕事の参考になる部分を、撮ったかもしれません」


「その資料が社外への持ち出しを認められていないものだと、説明を受けていましたか」


「いいえ。そんな話は聞いていません」


 捜査員は回答を記録し、続けて金銭のやり取りについて尋ねた。


「面会の際、相手の方へ現金を渡しましたか」


「交通費のようなものです」


「金額は?」


 劉は少し考えてから、数万円程度だったと答えた。


「資料を見せてもらうための謝礼ではありませんか」


「違います。わざわざ時間を取ってもらったので、そのお礼です」


 捜査員は、社員が説明した内容と劉の回答を照合していた。


 社員は資料の一部を撮影されたことを認め、金銭についても、単なる交通費という認識ではなかったと説明している。双方の話には一致する部分がある一方、金銭を渡した目的について明確な食い違いがあった。


 もっとも、その食い違いだけで犯罪が成立するわけではない。


 捜査員は、劉に対して相手の説明を一方的に事実として押し付けることなく、質問を続けた。


「保守担当者の氏名や連絡先を知りたかった理由は何ですか」


「将来、取引できる企業を探していたからです」


「どの企業との取引でしょうか」


「いくつか候補があります」


「具体的な企業名を教えていただけますか」


「……契約前なので、相手に迷惑がかかります」


 劉はそこで言葉を区切った。


 捜査員は別の資料を取り出した。


「これまでの面談で、技術を提供した人物の所属や、政府との連絡窓口についても質問されていますね。保守業務の取引先を探す目的と、どのような関係があるのでしょうか」


「技術の責任者を知りたかっただけです。新しい技術なら、誰が開発したのか気になるでしょう」


「その質問自体が違法だと言っているわけではありません。ですが、非公開の保守記録まで確認する必要があったのか、その理由を伺っています」


 劉は答えを探すように目を伏せた。


「私には、詳しい技術のことは分かりません。頼まれた情報を集めていただけです」


 室内の空気がわずかに変わった。


「誰から頼まれたのですか」


「仕事の関係者です」


「お名前を教えてください」


「……それは、今は答えられません」


 捜査員はそれ以上強く迫らず、回答を拒んだ事実を記録した。


 聴取は数時間に及んだが、劉が希望した休憩を挟み、終了後は本人の意思で帰宅した。


 警察はその場で身柄を拘束しなかった。


 ただ、捜査員たちの手元には、これまでの資料にはなかった重要な言葉が残された。


『頼まれた情報を集めていただけ』


 その依頼者が誰なのか。


 そして、集めた情報が最終的にどこへ渡る予定だったのか。


 事件の輪郭は、少しずつ具体的になり始めていた。


     ◇


 黒崎が事情聴取の報告を受けたのは、その日の夕方だった。


「依頼者については答えなかったか」


「はい。ただ、本人は単独で調べていたのではなく、誰かから情報収集を依頼されていたと説明しています」


「供述の正確な文言を残しておけ。解釈を加えた要約だけでは不十分だ」


 黒崎は報告書を読み進めながら、劉の回答と既存の記録を照らし合わせた。


 通訳、技術顧問、代理人。


 異なる肩書の説明には一定の合理性があった。複数の企業と仕事をする人物が、その都度異なる役割を担うこと自体は珍しくない。


 問題は、各面談で質問された内容が似通っていることと、非公開資料を入手するために金銭が動いた可能性だった。


「企業側から追加の資料は?」


「先ほど提出されました。社員のメッセージ履歴について、本人の同意を得た上で原データとの照合を進めています。それから、劉が使っていた連絡先の一つについて、新しい情報があります」


 捜査員は別紙を差し出した。


 そこには、社員と劉のやり取りの中で繰り返し登場する短い表現が記されていた。


『担当者一覧を先に』


『運用の流れが分かるもの』


『公開資料だけでは不足』


 いずれも、社員が保存していたメッセージから確認された言葉だった。


「技術そのものより、技術を扱う人間や管理の仕組みを調べていたように見えるな」


「はい。ただし、劉が最終的に何を目的としていたかまでは、まだ断定できません」


 黒崎は頷いた。


 そして、次のページで手を止めた。


 劉が名乗った企業のうち、一社の国内連絡先として記載されていた番号が、別の技術交流会の参加団体の書類にも登場していた。名義は異なるものの、提出された連絡先の記録には同じ番号が使われていた。


 これはアイリスが指摘した公開情報の重なりとは別に、警察が関係先から適法に取得した資料によって確認したものだった。


「同じ番号を使う理由について、先方へ確認は?」


「現在、照会しています。単なる事務代行や共同窓口という可能性もあります」


「その可能性を残したまま調べろ。数字が一致しただけで、背後の組織まで決めつけるな」


 黒崎は資料を閉じ、窓の外へ目を向けた。


 これまでの捜査で、劉の行動には不自然な点がいくつも見つかっている。しかし、何者かの指示で動いていたとしても、その相手が中国政府の機関だとは限らない。


 まして、国家安全部の関与を裏づける直接の証拠は、まだ得られていなかった。


「劉が使った事務所の契約関係も確認してくれ。任意提出で得られるものと、法的手続きが必要なものを整理する。それから、資料を渡した社員については、企業側の処分と刑事上の評価を混同しないように」


「分かりました」


 黒崎は、次の報告を待つことにした。


 急ぐべき理由はある。


 だが、急ぐことと、手続きを飛ばすことは違う。


     ◇


 その夜、劉健明は貸事務所へ戻らず、駅から少し離れたホテルの一室にいた。


 警察で聞かれた質問が、何度も頭の中によみがえる。


 誰から頼まれたのか。


 なぜ非公開の資料が必要だったのか。


 集めた情報を何に使うつもりだったのか。


 劉は、自分がすべてを知っていたわけではないと考えていた。


 依頼されたのは、技術交流会への参加と、関係者から情報を集めることだった。報酬も支払われていたが、情報を受け取る側の最終的な目的について、詳しい説明を受けたことはない。


 ただし、資料が一般には公開されていないことも、担当者に直接接触することが望まれていたことも、まったく知らなかったわけではなかった。


 携帯電話には、昨日送ったメッセージが残っていた。


 まだ返信はない。


 劉は迷った末、もう一度だけ文章を入力した。


『警察に話を聞かれた。依頼者の名前は答えていない。今後どうすればいい』


 送信して数分後、画面に短い返信が表示された。


『これ以上の連絡は不要』


 それだけだった。


 劉はしばらく画面を見つめた。


 自分に情報収集を頼んだ相手は、何かあれば支援すると言っていたはずだった。しかし、実際に警察から連絡が来た途端、相談すら受け付けなくなっている。


 腹の底に、冷たいものが広がった。


 劉は携帯電話を置き、ホテルの机に肘をついた。


 このまま黙っていれば、問題は収まるのだろうか。


 それとも、自分だけが責任を負うことになるのだろうか。


 答えは出なかった。


     ◇


 翌朝、警察には別の進展があった。


 劉が利用していた貸事務所の契約について、管理会社が保存していた申込書類と支払い記録のうち、任意に提出可能な範囲の情報が確認されたのである。


 契約名義は劉本人ではなかった。


 名義人は国内に登記された小規模な事業会社で、契約書には事務所の利用者として劉の名前が記されていた。会社自体は実在し、必要な登記もされている。したがって、他人名義の契約であるというだけで違法とは言えない。


 しかし、会社の代表者が説明した利用目的は、劉が警察で話した内容と食い違っていた。


「代表者は、海外企業の市場調査に使うと聞いていたそうです」


 捜査員の説明を聞き、黒崎は資料を確認した。


「技術交流会への参加は、その範囲に入るとも考えられる。問題は、その市場調査を誰が依頼していたかだな」


「はい。会社の代表者は、劉から紹介された別の人物が費用を負担していたと説明しています」


「その人物については?」


「名前と連絡先を確認中です。現段階では実在性も含めて調べています」


 黒崎は、記録の末尾にある支払い方法を見た。


 事務所の利用料は国内口座から振り込まれている。金額も、一般的な短期利用契約として不自然なものではない。


 だが、その費用を誰が実質的に負担していたかは、別の問題だった。


「銀行記録が必要になるなら、適切な手続きを取る。推測で資金の出所を決めないことだ」


 捜査員が頷いたところで、別の担当者が会議室へ入ってきた。


「黒崎警視正。例の社員から追加の連絡がありました」


「何があった?」


「劉との面会後、別の人物からも接触を受けたそうです」


 黒崎の目が鋭くなった。


 社員によれば、劉に資料を見せた数日後、面識のない人物から電話があり、保守作業の予定をさらに詳しく知りたいと尋ねられたという。相手は劉の知人だと名乗ったが、社員は不審に思い、その場では回答しなかった。


「その電話について、記録は残っているのか」


「着信履歴があります。番号は確認できていますが、契約者情報はまだ取得していません」


「社員の記憶に頼る部分と、客観的に確認できる部分を分けて記録してくれ」


 黒崎は立ち上がった。


 劉一人の行動では説明しきれない接触が、少しずつ見え始めている。


 それでも、捜査が向かう先を先に決めてしまうわけにはいかなかった。


「関係者の安全にも配慮しろ。社員には不審な接触があれば警察へ連絡するよう伝えてくれ。こちらから無理な協力を求める必要はない」


「はい」


 黒崎は窓際に置かれた時計を見た。


 午前十時を回ったところだった。


 捜査は、ようやく次の段階へ入りつつあった。


     ◇


 同じ頃、首相官邸では三浦誠司が高瀬隆一に状況を報告していた。


「劉健明への任意事情聴取が実施されました。警察は、複数の関係者から得た証言と資料の照合を続けています」


「本人は何と?」


「情報収集を依頼されたと説明したようですが、依頼者については明かしていません。警察としては、まだ中国政府の関与を立証できる段階ではないとのことです」


 高瀬は報告書を読み、少し考えてから口を開いた。


「その区別は大切だ。技術を守ることと、特定の国を証拠なしに非難することは別の話だからね」


「はい。現時点では、外交上の抗議や公表を行う材料はありません」


「警察には独立した捜査を続けてもらおう。必要な行政上の協力は行うが、結論を急がせてはいけない」


 三浦は頷き、次のページを示した。


「また、対象となった資料は周辺設備の保守記録であり、提供者の身元や核心技術に関する情報は含まれていません。関係施設では連絡先の管理方法を見直しています」


「それなら、まずは現場の人たちが安心して仕事を続けられるようにしてほしい。疑われることを恐れて、普通の技術交流まで止まってしまっては困る」


「承知しました」


 高瀬は、最後に一つだけ確認した。


「ボスさんたちへの報告は?」


「捜査に支障のない範囲で、概要を伝える予定です」


「それでいい。あの人たちに犯人探しを頼むつもりはない。約束したとおり、こちらの責任で対応する」


 三浦は報告書を閉じた。


 政府が守るべきものは、技術だけではない。


 その技術に関わる人々の安全と、協力者の平穏な生活も含まれている。


     ◇


 その日の午後、小鳥遊紬の自宅では、ボスが床に広げた小さな地図を真剣に眺めていた。


 地図といっても、現実の日本地図ではない。紬が以前作った秘密基地の自然環境実験区画をもとに、ボスが自分で考えた探検用の地図だった。


 そこには、まだ実際に訪れたことのない森や川の名前が、ボスの手書きで記されている。


「なあ紬、この川の向こうに橋を作れねえか?」


「作れるけど……どうして?」


「船で上っていったら、そこで行き止まりになるだろ。だったら橋の下を通れるようにしておけば、探検の範囲が広がるじゃねえか」


 紬はボスの隣に座り、地図を覗き込んだ。


「橋を作るなら、船が通れる高さにしないとね」


「そうだ。あと、途中に休める場所も欲しい」


「船で休めばいいんじゃない?」


「上陸して探検するのも大事なんだよ」


 ボスは得意げに胸を張った。


 アイリスのホログラムが二人のそばに現れる。


「マスター。三浦官房長官から、捜査状況について新しい連絡が届いています」


 紬の手が止まった。


「……何か分かったの?」


「関係者への事情聴取が進み、情報収集を依頼した人物が別に存在する可能性が高まっています。ただし、現時点では依頼者の身元や所属は確認されていません」


「そっか……」


 紬は地図から目を離し、膝の上に乗ってきたボスを抱えた。


「まだ、捕まってないんだね」


「そうだな。でも、何も分からねえままじゃなくなってる。あとは向こうの仕事だ」


 ボスは落ち着いた声で答えた。


 紬は少し考え、アイリスに尋ねた。


「私たちが何かした方がいいのかな?」


「現段階で、新たな対応をお願いする連絡はありません。警察が独自に資料を確認しており、私たちが捜査へ介入する必要もありません」


「……うん。分かった」


 紬はボスの柔らかな背中を撫でた。


 自分の作った技術が、誰かに悪用されようとしているのかもしれない。


 その可能性は気になる。


 けれど、だからといって、自分がすべてを調べ、すべてを解決しなければならないわけではなかった。


 ボスは紬の顔を見上げると、先ほどの地図を翼で指した。


「それより、この橋の話だ。俺としては、川を渡った先に探検隊の拠点を作りてえ」


「拠点?」


「そうだ。小さい小屋があって、道具を置ける場所だ」


「……ボス、また荷物が増えるよ?」


「探検には準備が必要なんだよ」


 紬は少し笑った。


「じゃあ、今度一緒に見に行こうか」


「おう。それがいい」


 アイリスは二人のやり取りを見守りながら、地図上の河川幅と周辺地形を確認した。


「橋の設置候補は複数あります。現地を確認する際には、既存の自然環境への影響も考慮してご提案します」


「頼むぜ、アイリス」


 ボスは満足そうに頷いた。


 窓の外では、いつもと変わらない午後の日差しが庭を照らしている。


 紬は地図を広げ直し、ボスが書き込んだ拠点の候補地を指でなぞった。


 遠く離れた場所で何が起きているのかを、完全に忘れることはできない。それでも、今日という日を不安だけで終わらせる必要はなかった。


     ◇


 その日の夕方、黒崎のもとへ新たな照会結果が届いた。


 設備保守企業の社員に連絡してきた別の人物について、着信記録と関係先からの情報を照合したところ、劉が利用していた貸事務所の契約に関わる人物と接点がある可能性が浮上したのである。


 ただし、現段階では同一人物だと断定できない。連絡先の名義と実際の利用者が一致しているかについても、確認が必要だった。


 黒崎は報告を最後まで読み、担当捜査員に告げた。


「関係先を整理し直そう。劉への依頼がどこから来たのか、資金の流れと連絡経路を別々に確認する」


「必要な手続きが整えば、次の段階に進めます」


「ああ。証拠が揃えば、判断すべき時が来る」


 黒崎は窓の外へ目を向けた。


 東京の街には、帰宅を急ぐ人々の姿が見える。


 その中に、捜査の対象となっている人物もいるのだろう。今この瞬間も、何事もなかったように仕事を続けている者がいるかもしれない。


 しかし、警察が追っているのは、曖昧な疑惑そのものではなかった。


 誰が、何を依頼し、どの情報を、どのような目的で集めたのか。


 その一つひとつを裏づける記録だった。


 黒崎は次の報告書を開いた。


 散らばっていた事実が、ようやく一本の線で結ばれようとしていた。

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