第07話 欲しいものは自分で作る
小鳥遊紬は、ソファに腰を下ろしたまま、目の前のローテーブルをじっと見つめていた。正確には、その上に置かれた一杯の紅茶と、手の届くぎりぎりの位置にある小皿を見ている。
小皿には、先ほど調理装置に作ってもらったクッキーが三枚。焼きたての香ばしい匂いが漂ってくるのに、紬はなかなか手を伸ばそうとしなかった。
「……遠い」
「三十センチもねえだろ」
膝の上でくつろいでいたボスが、呆れたように顔を上げる。丸い身体を紬のお腹に預け、白い羽毛を撫でられていた彼は、さっきまでずいぶん気持ちよさそうにしていた。
「でも、今ちょうどいい姿勢なの。動きたくない」
「だったら諦めろ。食わなきゃ死ぬってわけでもねえ」
「クッキーが冷めちゃう」
「もう冷めてんだろ、それ」
正論だった。
紬は少し考えてから、ボスの背中を撫でていた右手を持ち上げた。手のひらの上に、細長い銀色の棒が現れる。先端には小さな皿を挟めるような部品がついており、伸縮する柄には握りやすい柔らかな加工が施されていた。
それを使って小皿を引き寄せ、クッキーを一枚つまむ。
「……できた」
「お前なあ」
「便利だよ?」
「そりゃ便利だろうよ。だが、普通は身体をちょっと前に倒せば済む話だ」
ボスの言葉に、紬はクッキーをかじりながら首を傾げた。
「普通って、面倒だね」
「普通の人間は、クッキーを取るために道具を新しく作ったりしねえんだよ」
確かにそうかもしれない。
けれど紬にとっては、欲しいものを思い浮かべて創造することと、身体を動かすことの間に、たいした労力の差がなくなりつつあった。以前なら通販サイトで似た商品を探し、値段と送料を比較して、買うかどうか悩んでいただろう。今は、その過程が丸ごと必要ない。
もっとも、いくらでも物を作れるからといって、部屋を道具で埋め尽くしたいわけではなかった。
「……ねえ、ボス」
「あん?」
「私、欲しいものがあるたびに作ってるけど、なんか、ちょっと違う気がする」
「何がだ?」
「便利なものを作るのは楽しいんだけど……作ったあとに、また別の不便なところが見つかるの」
紬は銀色の棒を眺めた。クッキーを引き寄せるという目的は達成したものの、使い終わった道具を置く場所がない。テーブルに横たえるには長すぎるし、ソファの脇に立てかければ邪魔になる。
「これも、しまうのが面倒」
「自分で仕事増やしてんじゃねえか」
「……そうとも言う」
ボスが鼻を鳴らした。
「だったら、一個ずつ思いつきで作るんじゃなくて、何が欲しいか先に考えりゃいいだろ。お前、そういうの得意そうじゃねえか」
紬は手元の棒を見つめたまま、しばらく黙り込んだ。
何が欲しいのか。
その問いは、思ったより難しかった。
洗濯は自動で終わる。掃除も料理も、すでに創造した装置がこなしてくれる。室温はいつでも快適で、ベッドに入れば身体に合わせて寝具が形を変える。生活に必要なことの大部分は、能力を得てからの数日で片づいてしまった。
それでも、小さな不便は残っている。
たとえば、今のように物を取るために姿勢を変えなければならないこと。読みかけの本を置いた場所がわからなくなること。飲み物を持ったままゲームをすると、うっかりこぼしそうになること。
そして、もっと重要な問題があった。
「……ボスを抱っこしてると、両手が使えない」
「じゃあ下ろせ」
「それは嫌」
「即答かよ」
紬はボスを胸元に引き寄せた。ふわふわした羽毛がパーカー越しに触れ、温かさが伝わってくる。最近はこうして過ごす時間が増えたせいか、彼が腕の中にいないと、何となく物足りなく感じるようになっていた。
ボスもすっかり慣れたもので、文句を言いながらも窮屈にならない位置へ自分で身体をずらす。
「……両手が使えて、ボスも抱っこできて、何でもすぐ取れる部屋」
「最後のは部屋そのものをどうにかしろって話じゃねえか?」
「うん。でも、今日はまず小さいものから」
紬はクッキーを食べ終え、実験記録のノートを取り寄せた。
表紙には、いつの間にかボスが描いたらしい不格好なペンギンの落書きが増えている。本人はなかなかの出来だと主張していたが、紬には丸いおにぎりに足を生やした絵にしか見えなかった。
その下に、新しい見出しを書き込む。
『生活をもっと便利にするもの』
「……よし」
「妙に気合い入ってんな」
「今日は、欲しいものをいっぱい作る日」
「お前、毎日似たようなことしてねえか?」
「今日はちゃんと考えて作るから」
「本当かよ」
疑わしそうな視線を受けながら、紬は最初の一品を考え始めた。
まずは、物を取りに行く手間をなくしたい。
ただし、単純に物を運ぶだけの機械なら、床を走る小型ロボットでも実現できる。問題は、床に置けばボスの歩行を邪魔するし、空中を飛ばせば飲み物を倒す危険があることだった。
そこで紬は、家具の近くを静かに移動し、指定した物を安全に運んでくる小さな運搬装置を創造した。
現れたのは、手のひらに収まるほどの白い円盤だった。表面には継ぎ目がほとんどなく、中央に淡い青色の光が浮かんでいる。内部には浮遊機構、周辺認識機能、物体を傷つけず保持する仕組みが収められており、その構造は創造した瞬間に紬の頭へ自然と流れ込んできた。
「……かわいい」
「また丸いのか。お前、丸いもの好きだな」
「ボスも丸いし」
「俺を家電と一緒にすんな」
紬は円盤に向かって、テーブルの上の空になった小皿を指さした。
「これ、台所までお願い」
円盤は音もなく浮き上がり、小皿の下へ回り込んだ。皿を安定させたまま台所へ向かう姿は、まるで小さな給仕係のようだった。
ところが、戻ってきた円盤は紬の前でぴたりと止まると、そのまま動かなくなった。
「……あれ?」
「仕事終わったんじゃねえのか」
「うん。でも、そこで止まられると邪魔」
「置き場所決めてねえからだろ」
紬は円盤の帰還先を壁際に設定し直した。すると、装置は素直にそちらへ移動して待機する。
たったそれだけの修正だったが、使ってみるまで気づかなかった。
「……作るのと、使いやすくするのって、別なんだね」
「そりゃそうだ。何でも作れるからって、何でも最初から気が利くわけじゃねえんだろ」
その言葉に、紬は小さく頷いた。
万物創造は、思い描いたものを完成品として生み出せる。けれど、そもそも何を完成形とするのかは、紬自身が考えなければならない。
もちろん、細かな構造や製造工程を知らなくても問題はない。それでも、自分がどう暮らしたいのかという部分まで、能力が勝手に決めてくれるわけではなかった。
紬はノートに『使ったあとのことも考える』と書き足した。
次に作ったのは、薄い板状の携帯端末だった。
すでにスマートフォンは持っているし、能力に目覚めた日に複製した二台目もある。だから、もう一台同じものを増やすつもりはなかった。
欲しかったのは、読書や動画視聴、ゲーム、実験記録の整理を一つでこなせる、自分専用の道具だ。
紬の手の中に現れた端末は、薄いガラス板のような外見をしていた。画面の縁はほとんどなく、軽く触れるだけで表示が切り替わる。必要に応じて画面の大きさを変えられ、机に置けばキーボードが浮かび上がる仕組みも備えている。
既存の製品とは比べものにならない性能だったが、紬が最初に試したのは処理速度でも画質でもなかった。
「……寝転んだまま読める」
ソファに横になり、端末を顔の前へ浮かべてみる。画面は紬の視線と姿勢に合わせて位置を調整し、手を離しても落ちてこない。
横向きになれば画面も傾き、仰向けになれば見やすい高さまで移動する。
「これ、すごくいい……」
「性能の使い道が徹底して怠ける方向だな」
「だって、手が疲れないんだよ」
「そりゃよかったな」
ボスは呆れていたが、紬が端末を操作して彼の好きな対戦ゲームの映像を表示すると、すぐに興味を示した。
「お、これもできんのか?」
「できるよ。でも、ボスはいつものゲーム機のほうが操作しやすいと思う」
「じゃあ対戦するときは、そっち使えよ。画面がでかいほうが見やすい」
「……それだと私が有利になっちゃう」
「勝てりゃ何でもいいだろ」
「ずるい」
「勝負ってのはそういうもんだ」
紬は笑いながら、端末に対戦時は双方の表示条件を揃える設定を追加した。
さらに、端末には実験記録を整理する機能も持たせた。ノートに書いた内容を読み取って日付や項目ごとに分類し、後から検索できるようにする。紙のノートはそのまま残し、あくまで補助として使うことにした。
以前から続けている手書きの記録には、不思議と愛着があった。能力について考えたことだけでなく、ボスが来てからの出来事や、二人で交わした何でもない会話まで書き留めてある。
便利だからといって、すべてを置き換える必要はない。
紬はそのことに気づき、少し満足した。
次に目を向けたのは、ボスだった。
「……ボス、欲しいものない?」
「あ? 俺か?」
「うん。私のものばっかり作ってるから」
ボスは胸元から顔を上げ、しばらく考え込んだ。
「そうだな……ゲーム機はあるし、飯もうまい。泳げる場所もある。特別困ってることはねえな」
「本当に?」
「強いて言うなら、あの高い棚の上に何があるか気になる」
紬は視線を上げた。
部屋の壁際に置かれた棚には、普段使わない小物や本が並んでいる。紬なら少し背伸びをすれば届く高さだが、身長四十センチほどのボスにとっては、ずいぶん遠い場所だった。
「……見たいの?」
「別に今すぐじゃなくてもいいけどよ。俺が自分で行ける場所って、思ったより限られてんだよな」
その言葉を聞いて、紬は初めて部屋をボスの目線で見直した。
ソファの座面も、テーブルの天板も、ドアの取っ手も、彼にとっては高い。ベッドには専用の階段を作ったし、食卓にも椅子を用意した。それでも、紬が何気なく使っている場所の多くは、ボスが一人で利用するには不便だった。
普段は抱き上げてしまうから、気づきにくかったのかもしれない。
「……ごめんね」
「何で謝るんだよ。俺が小せえのは最初からだろ」
「でも、ボスが自分で行きたいところに行けたほうがいいよね」
「そりゃ、そうだな」
紬は少し考え、床の上に小さな乗り物を創造した。
丸みのある台座に低い背もたれがついた、ボス専用の移動用チェアだ。足元には滑りにくい踏み台があり、乗り込むと身体を優しく支える。移動は静かで、家具や壁に近づきすぎないよう自動で速度を調整する仕組みだった。
「……これ、どう?」
「何だ、椅子か?」
「乗ってみて」
ボスは紬の腕から下りると、台座をぐるりと一周した。黄色い足で踏み台を確かめ、慎重に乗り込む。
「お、案外いいな。で、どうやって動かすんだ?」
「行きたい方向を言ってもいいし、ここの操作部分を翼で押してもいいよ」
ボスが右側の操作部に翼を触れると、椅子はゆっくりと動き始めた。
「おおっ!」
彼は部屋の中央まで進み、そこで旋回した。最初こそ慎重だったが、すぐに操作の感覚をつかんだらしい。ソファの周囲を回り、テーブルの下をくぐり、今度は棚の前へ向かう。
「こいつ、なかなかいいじゃねえか!」
「高さも変えられるよ」
「マジか?」
ボスが上昇を指示すると、台座は静かに浮き上がった。棚の中段と同じ高さで止まり、彼はそこに置かれていた本の背表紙を興味深そうに眺める。
「へえ。上から見ると、部屋ってこんな感じなのか」
紬はソファに座ったまま、その様子を見守った。
自分のために何かを作ったときとは、少し違う嬉しさがあった。
ボスは紬が生み出した存在だ。けれど、彼が何を面白がり、どこへ行きたいと思うのかは、いつも紬の予想どおりとは限らない。
それがいい。
自分の考えだけでは思いつかなかったものが、彼と暮らすことで次々に見えてくる。
「……ボス、楽しそう」
「ああ。これならお前に運んでもらわなくても、好きなところに行けるな」
「抱っこは、してもいい?」
「それは別の話だろ。俺が乗りたいときはこいつに乗るし、お前のところにいたいときはそうする」
紬は嬉しくなって、思わず笑った。
「……うん」
「ただし、ゲーム中にいきなり持ち上げんのはやめろよ。あれは集中が切れる」
「……気をつけます」
「絶対わかってねえ顔だな」
ボスはそう言いながらも、機嫌よく椅子を操作していた。
紬はノートに『ボス用の移動チェア。本人の希望で操作できる』と書き込み、少し考えてから、もう一行付け加えた。
『便利にする相手の意見を聞くこと』
それは、今日作ったどの装置よりも大切な発見のように思えた。
午後になっても、紬の創作意欲は収まらなかった。
とはいえ、思いつくものを無計画に増やすのはやめようと決めたばかりだ。そこで彼女は、普段の生活で小さく困っていることを一つずつ挙げ、必要なものだけを作ることにした。
まず、飲み物をこぼさないカップ。
外見は普通の陶器のマグカップだが、倒れても中身が流れ出さず、飲むときだけ自然に口元へ液体が届く。温度も飲みやすい状態に保たれるため、熱い紅茶を入れても慌てて冷ます必要がない。
試しにテーブルの上で横倒しにすると、紅茶は一滴もこぼれなかった。
「……成功」
「おい、俺にも試させろ」
「いいけど、落とさないでね」
「落としても割れねえように作ればいいだろ」
「……それもそうだね」
紬はカップに衝撃への耐性を持たせたものを新たに用意し、ボスに渡した。
彼は両翼で器用に持ち上げ、慎重に傾けて中身を飲んだ。口元に自然に流れてくる飲み物に目を丸くしたあと、満足そうに頷く。
「こりゃいい。熱すぎねえし、こぼれねえ」
「でしょ?」
「ただ、これに慣れたら普通のコップで飲むとき危ねえな」
「……あ」
紬は自分のカップを見つめた。
確かに、何をしてもこぼれない道具ばかり使っていたら、普通の食器を扱うときに油断してしまうかもしれない。
能力があるからといって、生活のすべてを特別なものに変える必要はない。便利さには、慣れによって生まれる別の問題もある。
紬はその点も記録しておいた。
次に作ったのは、衣服の収納を助ける小さな引き出しだった。
洗濯装置が衣類をきれいに整えてくれるようになってから、洗濯そのものは面倒ではなくなった。しかし、収納場所にしまった服を探すのは、相変わらず紬の仕事だった。
特にパーカーは似たような色や形のものが多く、朝になってから目当ての一着を探すことがある。
そこで、引き出しの中を必要に応じて整理し、指定した衣服を手前へ出してくれる収納家具を創造した。
試しに『いつもの大きいパーカー』と指定すると、柔らかなダークグレーの一着が滑るように現れた。
「……すごい」
「いつものって、どれだよ」
「これ」
「お前の服、だいたい全部同じに見えるんだが」
「違うよ。これは袖がちょっと長くて、こっちは生地が柔らかくて、あっちはフードが大きいの」
「わかった、わかった。お前のこだわりは十分伝わった」
ボスは早々に話を切り上げた。
紬は少し不満だったが、彼の目には本当に違いがわからないのかもしれない。人間同士でも服の好みは人それぞれなのだから、ペンギンのボスならなおさらだろう。
続いて、寝室で使う小さな読書灯を作った。
部屋全体の明るさはすでに調整できるが、夜、ボスが眠っているときに本を読みたいこともある。そこで光が必要な範囲だけを照らし、隣で眠る相手にはまぶしさを感じさせない照明にした。
創造した小さな球体をベッドの脇へ置き、明るさを変えてみる。
「……これなら、夜でも読める」
「夜は寝ろよ」
「ちょっとだけ」
「その『ちょっと』が信用ならねえんだって」
ボスは自分の寝床へ視線を向け、それから紬のベッドを見た。
「まあ、俺が寝てる横で明かりつけられねえなら、それでいいけどよ」
「うん。ボスが眠いときは、ちゃんと寝てていいからね」
「お前もちゃんと寝ろ」
「……努力する」
紬はそう答えたものの、実際には夜更かしを完全にやめられる自信がなかった。
次は、物をなくさないための小さな目印。
鍵や文房具、本などに取り付けると、必要なときに位置を知らせてくれる。紬はそれをいくつか作り、実際に使ってみた。
ところが、ボスは目印を眺めながら首を傾げた。
「なあ、それって最初から決まった場所に置けば済むんじゃねえか?」
「……それができたら苦労しない」
「自信満々に言うことじゃねえぞ」
紬は聞こえなかったことにして、目印をノートとペンケースにつけた。
こうして並べてみると、作ったものはどれも些細な不便を解消するための道具ばかりだった。
世界を変えるような発明ではない。少なくとも、紬自身はそう思っていた。
しかし、彼女が何気なく生み出した品々には、現代の技術では実現が難しい機能が当たり前のように組み込まれている。
こぼれないカップ。必要な衣服を選び出す収納家具。光を届ける相手まで調整できる照明。小さな身体でも自由に移動できる浮遊式の椅子。
その一つひとつを研究すれば、きっと驚くような発見があるのだろう。
けれど紬にとって大切なのは、今のところ、そうした技術的な価値ではなかった。
カップがこぼれなければ、ボスとゲームをしている最中に慌てなくて済む。服を探す時間が減れば、朝にもう少しのんびりできる。読書灯があれば、隣で眠るボスを起こさずに本を読める。
欲しいのは、そういう毎日だった。
「……ねえ、ボス」
「今度は何だ?」
「私、前は新しいものが欲しくなると、ずっと通販サイト見てたんだ」
「へえ」
「買うまで悩んで、届くまで待って、届いたら嬉しくて……でも、思ってたのと違うこともあって」
「そりゃ、実物見なきゃわかんねえこともあるだろ」
「うん。でも今は、欲しいって思ったら作れちゃうから、ちょっと変な感じ」
紬は新しく作った端末を手に取り、画面に並んだ今日の記録を眺めた。
「欲しいものが全部手に入ったら、何も欲しくなくなるのかなって思ってた」
「で、どうなんだ?」
「……全然そんなことなかった」
ボスが声を立てて笑った。
「そりゃそうだろ。お前、今日だけでいくつ作ったと思ってんだよ」
「数えてない」
「数えろよ。実験記録つけてんだろ」
「あとで数える……」
紬は少し頬を膨らませたが、すぐに笑みを浮かべた。
欲しいものがなくならない理由は、単純だった。
便利なものを一つ手に入れると、それを使って何か別のことをしたくなる。ボスが新しい遊びを思いつけば、そのための道具が欲しくなる。昨日まで気づかなかった不便も、暮らしが変われば見えてくる。
そして、作ったものを一緒に試してくれる相手がいる。
それが、今は何より楽しかった。
「……ボス、次は何作ろうか」
「まだ作る気かよ」
「だって、せっかくだし」
「そうだなあ……」
ボスは移動用チェアを操作して紬の近くへ戻り、そこから自分で降りた。小さな足でソファへ近づくと、紬を見上げる。
「とりあえず、今日はもういいんじゃねえか?」
「……どうして?」
「作ったもん、まだちゃんと使ってねえだろ。せっかくなら遊んでみようぜ」
紬は少し考えた。
確かに、作ることに夢中になって、使う時間がほとんどなかった。端末も、運搬装置も、ボスの椅子も、試運転をしただけで終わっている。
「……そうだね」
紬はボスを抱き上げ、ソファに座り直した。
彼は慣れた様子で腕の中に収まり、紬が端末を浮かべると、画面を覗き込んだ。
「お、さっきのゲームか?」
「うん。今日はこれで一緒に遊んでみよう」
「いいぜ。ただし、手加減はしねえからな」
「私だって負けないよ」
紬が画面を操作すると、二人の前に鮮やかなゲームの世界が広がった。
端末は視線に合わせて見やすい位置を保ち、操作に応じて表示を切り替える。ボスは自分用の操作装置を使い、紬は空中に浮かぶ入力画面を指先で触れた。
最初の対戦は、ボスの勝利だった。
「よっしゃ! どうだ、紬!」
「……今のは操作に慣れてなかっただけ」
「負け惜しみか?」
「もう一回」
二回目は紬が勝った。
三回目は接戦になり、最後の最後でボスが逆転した。
そのたびに二人は言い合い、笑い、次の勝負を始めた。紬が作った最新の端末も、ボスのための操作装置も、使っているうちに特別な発明であることを忘れてしまうほど自然に馴染んでいった。
やがて夕方になり、窓の外が淡い橙色に染まり始めた頃、紬はようやくゲームを中断した。
「……お腹すいた」
「そりゃ、昼からずっと遊んでりゃな」
「晩ご飯、何がいい?」
「魚。あと、あの甘い卵のやつも食いてえ」
「卵焼き?」
「それだ」
紬は調理装置へ献立を伝え、完成までの間に今日作った道具を片づけることにした。
運搬装置は壁際の待機場所へ。端末はソファ脇の専用スタンドへ。飲み物用のカップは食卓へ戻し、ボスの移動用チェアは彼がいつでも使える場所に置いた。
最後に実験記録を開く。
今日の成果を書き出してみると、思った以上に長い一覧になった。どれも大きな装置ではないが、生活のあちこちに新しい便利さが増えている。
紬はページの一番下に、少し大きめの字で書き込んだ。
『欲しいものを作るだけじゃなくて、どう使うかが大事』
そして、少し迷ってからもう一行。
『ボスと一緒に考えると、もっと楽しい』
「何書いてんだ?」
ボスが横から覗き込む。
「……今日のまとめ」
「見せろよ」
「だめ」
「何でだよ」
「ちょっと恥ずかしいから」
紬はノートを閉じ、ボスを抱き寄せた。
彼は不満そうにくちばしを動かしたが、無理に取り返そうとはしなかった。代わりに、紬の腕の中で身体の向きを変え、窓の外へ視線を向ける。
「まあ、いいけどよ。で、明日は何するつもりだ?」
「……まだ決めてない」
「珍しいな。今日あんだけ作ったのに」
「うん。でも、ちょっと思ったことがあって」
「何だ?」
紬は部屋を見渡した。
以前よりずっと快適になった自宅には、便利な装置が増え、ボスのための家具も並んでいる。それでも、部屋そのものの広さや形は、能力に目覚める前と大きく変わっていなかった。
物を作るたびに置き場所を考えなければならないし、大きな実験をしようと思えば周囲への影響も気になる。
これまでは、今ある部屋の中で何ができるかを考えていた。
けれど、そもそも部屋のほうを変えてしまえば、もっと自由に暮らせるのではないだろうか。
「……この家、もっと使いやすくできる気がする」
「ほう?」
「物を増やすだけじゃなくて、場所もちゃんと考えたい。ボスが遊ぶところとか、私が実験するところとか」
「そりゃいいな。俺の泳ぐ場所も広くしてくれよ」
「うん。考えてみる」
紬は微笑み、ボスの柔らかな頭を撫でた。
調理装置から夕食の完成を知らせる穏やかな音が聞こえてくる。ボスはすぐに顔を上げ、魚の匂いがする方へ身を乗り出した。
「お、飯だな。紬、行くぞ!」
「……はーい」
紬はボスを抱えたまま立ち上がり、食卓へ向かった。
欲しいものは、もう自分で作れる。
だからこそ、次は何を作るかだけでなく、どんな場所で、誰と、どんなふうに暮らしたいのかを考えてみたかった。
その答えを探す時間さえ、今の紬には楽しみの一つになっていた。




