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うちのぺんぎんが日本政府と交渉している件  作者: むぎちゃ
第3章 小さな奇跡と大国の思惑
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第57話 深海五千メートルの挑戦

 南鳥島沖の海上に、朝日が昇ろうとしていた。


 水平線の向こうから差し込む光が、濃紺の海面を少しずつ黄金色に染めていく。周囲に陸地は見えず、穏やかに見える波の下には、水深五千メートルを超える深海が広がっていた。人間が容易に立ち入ることのできないその場所に、日本の産業を支えるかもしれない資源が眠っている。


 海洋調査船の観測室では、夜明け前から作業が続いていた。


 壁面の大型モニターには海底地形、海流、採泥予定区域の分布図が表示され、別の画面には水中観測機器から送られてきた映像が並んでいる。照明に照らされた海底は灰褐色の泥に覆われ、一見するとどこにでもある平坦な地面にしか見えない。しかし、その泥には、現代の電子機器や産業設備に欠かせない希土類元素が含まれている。


 観測室の中央で、白石理沙は一枚の資料を見つめていた。


「……本当に、ここまで来たのね」


 その言葉には、研究者としての期待と、これから始まる試験への緊張が入り交じっていた。


 中国によるレアアース輸出規制を受け、日本政府が南鳥島沖の資源開発について協力を打診してから、およそ一か月。通常であれば大規模な設備の設計、製造、輸送、試験計画の策定だけでも長い年月を要する。まして、水深五千メートルを超える海底から資源を回収し、分離と精製まで行う統合システムとなれば、実用化への道筋を示すだけでも容易ではない。


 それが今、試験海域への設置を待っている。


 もちろん、装置を短期間で完成させたことと、実際の海で安全に動かせることは別問題だった。


 政府はこの一か月、装置の完成を待つだけでなく、海底地形の確認、採取予定地点の環境調査、海洋生物の観測、運用に必要な手続き、緊急停止時の対応体制などを並行して進めてきた。過去の調査資料だけで判断せず、現地で取得したデータと照合しながら、最初の試験区域を慎重に絞り込んでいる。


 今回の目的は、大量のレアアースを生産することではない。


 実際の深海で装置が正常に動作し、周囲の環境を監視しながら泥を採取し、必要な元素を分離・精製できるか。それを確認するための、最初の実海域試験だった。


「白石先生、最終観測の結果が届きました」


 担当研究員が端末を差し出した。


「海底付近の流速は想定範囲内です。濁度も基準となる観測値から大きな変動はありません。ただ、予定区域の南側で局所的な流れの変化が確認されています」


「南側……昨日の観測で気になっていた場所ね」


 白石は海底図を拡大し、流向を示す矢印を確認した。


「採掘範囲には含めないで。周辺観測は続けるけれど、最初から条件の不安定な場所を使う必要はないわ」


「了解しました。採取区域を北側の区画に限定します」


 研究員が設定を変更すると、画面上の予定区域がわずかに縮小された。


 白石はそれを確認してから、船内通信のスイッチを押した。


「こちら観測室。環境条件の最終確認が取れました。採取区域を修正したうえで、設置準備を進めてください」


『了解。設置班、準備を開始します』


 返答が届くと同時に、船の後部甲板で待機していた作業員たちが動き始めた。


 そこには、深海底で使用する採掘ユニットと、それを支える各種設備が配置されている。装置の内部には、紬が万物創造によって生み出した、人類の既存技術では再現できない機構が組み込まれていた。


 その正式名称は『ぺんぎんほりほり』。


 政府の技術資料では『深海底資源採掘・精製統合システム』という説明が併記されているものの、現場で使用される管理画面には、紬が決めた名前がそのまま表示されていた。


 白石は、画面の隅にある丸みを帯びた文字を見て、思わず口元を緩めた。


「これだけの装置なのに、名前を見ると少し気が抜けるわね」


「先生、作業員からは意外と好評ですよ。覚えやすいそうです」


「それは……確かにそうかもしれないわ」


 白石は小さく笑い、すぐに表情を引き締めた。


 名前がどれほど可愛らしくても、これから行うのは深海五千メートルでの本格的な技術試験である。装置が想定どおりに動くかどうかは、実際に確かめなければならない。


 そして、その結果を最も気にしている人物は、この船には乗っていなかった。


 ◇


 同じ頃、紬は自宅のソファに座り、腕の中のボスを抱えながら大型モニターを眺めていた。


 画面には、南鳥島沖の調査船から送られてくる映像と各種計測値が表示されている。海上の映像には、青い海と作業船の甲板、準備を進める作業員たちの姿が映っていた。


「……海、広いね」


「そりゃそうだろ。南鳥島の沖だぞ。近所の池じゃねえんだから」


「分かってるけど……」


 紬はボスの柔らかいお腹に頬を寄せた。


 自分が作った装置が、これから実際の海底へ向かう。研究室での模擬試験では問題なく動いていたし、設計上の安全機構も十分に確認している。それでも、現実の海には研究室で再現しきれない条件が存在する。


 紬にとっては、装置を完成させることよりも、それを誰かに任せて運用してもらうことのほうが、ずっと落ち着かない出来事だった。


「マスター、現地から最新の環境観測データを受信しました」


 ソファの横に、銀白色の長い髪を持つアイリスのホログラムが現れた。


「採取予定区域の一部が変更されています。南側の流況が不安定なため、初回試験では北側の区画を使用するとのことです」


「うん。それでいいと思う」


「私も妥当な判断と考えます。装置側には修正された区域情報が反映されており、指定範囲の外では採掘動作を開始できません」


 紬は頷いたものの、画面から目を離さなかった。


「……ねえ、アイリス。もし海の中で何かあったら、すぐ止まるよね?」


「異常を検知した場合には自動停止します。ただし、未知の現象を含めてあらゆる状況を事前に保証できるわけではありません。そのため、今回は装置内部の計測だけでなく、調査船側の独立した観測機器でも周辺環境を確認しています」


「そっか……」


「不安ですか?」


 アイリスの問いかけに、紬は少し考えてから答えた。


「自分で使うものなら、何かあっても自分で何とかできるけど……今回は、いろんな人が関わってるから」


 ボスが顔を上げた。


「だからこそ、あいつらも自分たちで確認してんだろ。お前が全部面倒見なきゃいけねえわけじゃねえよ」


「……うん」


「それに、失敗しちゃいけねえから試験するんじゃねえ。問題があったら見つけるために試験するんだ。最初から完璧だって決めつけて突っ込むより、よっぽどまともだろ」


 紬はボスの頭を撫でた。


「ボス、たまにすごくいいこと言うね」


「たまにって何だ、たまにって」


「……いつも?」


「疑問形にすんな」


 紬が小さく笑うと、アイリスも穏やかな表情を浮かべた。


 そのとき、モニターに新しい通知が表示された。


『設置作業開始』


 紬は無意識にボスを抱く腕に力を込めたが、すぐに気づいて少し緩めた。


「……始まるんだ」


「ああ。しっかり見届けようぜ」


 ◇


 調査船の後部甲板では、設置作業が慎重に進められていた。


 ぺんぎんほりほりの海底採掘ユニットは、船上の作業設備によって海面まで運ばれ、姿勢を確認したのち、ゆっくりと海中へ降ろされていく。


 通常の深海作業では、重量物の吊り下げ、潮流による揺れ、長大なケーブルへの負荷など、さまざまな危険が伴う。今回の装置には姿勢を安定させる機構や自律的な位置調整機能が備わっているが、現場ではそれらに任せきりにせず、作業員が独立した計測機器で動きを監視していた。


「海面通過を確認。姿勢安定、異常なし」


『了解。降下速度を維持』


 甲板からの報告を受け、観測室のモニターに表示された深度が増えていく。


 百メートル、五百メートル、千メートル。


 太陽の光が届かなくなり、映像は照明の届く範囲を除いて漆黒に変わった。


 水深が深くなるほど圧力は増し、海水温も低下していく。一般的な機械であれば、密閉構造や材料の耐久性、接続部の信頼性などが大きな課題となる環境だ。しかし、ぺんぎんほりほりの外殻と内部機構は、その条件に耐えることを前提に紬が創造したものだった。


 それでも白石は、表示される数字を一つずつ追っていた。


「外殻の状態は?」


「正常です。内部温度、圧力補償、電源系統、すべて許容範囲内」


「通信の遅延は?」


「設計上の範囲です。予備経路も維持されています」


「分かった。続けて」


 やがて深度表示が五千メートルを超えた。


 観測室の空気が、わずかに張り詰める。


 水中カメラの映像に、海底がゆっくりと姿を現した。細かな粒子が照明の中を漂い、その向こうに、起伏の少ない泥の地面が見えてくる。


「海底を確認しました。着底予定地点まで残り二十メートル」


 操作担当者の声に、白石は画面へ身を乗り出した。


 採掘ユニットは海底へ向かって速度を落とし、姿勢を調整しながら降下を続ける。海底に接触する直前、底面の支持機構が展開し、泥を大きく巻き上げないよう荷重を分散させた。


「接地確認。傾斜、許容範囲内」


「位置は?」


「指定区域内です。地形図との照合も一致しています」


「周辺の濁度は?」


「接地直後に局所的な上昇がありますが、予測範囲内。拡散状況を継続観測します」


 白石は胸の前で組んでいた腕を解いた。


「まずは、無事に着いたわね」


 その言葉に、観測室の数人が小さく息を吐いた。


 しかし、まだ本番は始まっていない。


 設置が成功しただけでは、海底の泥から資源を取り出せるとは限らない。採掘による周囲への影響、引揚げ工程の安定性、分離・精製後の品質、連続運転時の故障率など、確認すべき項目は数多く残っている。


 白石は試験計画を開き、次の項目を指さした。


「採掘動作に入る前に、周辺観測の結果をもう一度確認しましょう。急ぐ必要はないわ」


 担当者が頷き、海底周辺の映像を切り替えた。


 装置から離れた場所に設置された観測機器が、海流や粒子の動き、海底付近の生物の活動状況を記録している。照明の届く範囲には、小さな生物がゆっくりと移動する姿も見えた。


 深海は、何も存在しない空間ではない。


 人間にとって利用しにくい場所であっても、そこには長い時間をかけて成立した環境があり、その変化を軽視することはできなかった。


「周辺観測に大きな異常はありません。指定区画内での限定採取を開始できる状態です」


 報告を聞いた白石は、運用責任者と視線を交わした。


 最終的な試験開始の判断は、政府側の運用体制に委ねられている。白石が技術的な意見を述べ、現場の責任者が観測結果と手順を確認したうえで、正式な開始指示が出された。


『採掘試験、第一段階を開始』


 画面の中で、ぺんぎんほりほりが動き始めた。


 海底に接した採取機構が、指定された狭い範囲の泥をゆっくりと取り込んでいく。周囲の泥を無差別に巻き上げるのではなく、採取部分を覆う構造によって粒子の拡散を抑え、必要な量だけを回収する仕組みだった。


 装置内部では泥と海水の状態が計測され、採取量や粒子濃度がリアルタイムで記録される。


「採取開始を確認。流量、安定しています」


「濁度は?」


「採取口の近傍で上昇していますが、外側の観測点では基準値から大きく外れていません」


「採取量を増やさず、この条件を維持して」


 白石の指示を受け、試験は慎重に進められた。


 しばらくすると、回収した泥が内部の一次処理機構へ送られ、固形物と海水の状態を調整したうえで、後続工程へ移送され始めた。


 ここから先は、従来の海底資源開発において大きな負担となってきた部分である。


 深海から泥を引き揚げるには、大量の海水を伴う輸送や設備の維持が課題となる。さらに、採取した泥に含まれるレアアースは、そのまま工業製品に使えるわけではない。必要な元素を取り出し、分離し、用途に応じた純度へ精製しなければならない。


 ぺんぎんほりほりは、それらの工程を連動させるように作られていた。


 採取された泥は閉じた処理経路を通り、回収・分離の過程で発生する物質も管理対象として記録される。不要な成分を無条件に海へ戻すことはせず、処理状況に応じて保管・回収する設計になっている。


 そして今、その一連の仕組みが初めて実際の深海底で動いていた。


「一次処理、正常。移送系統へ送ります」


「了解。圧力差を監視してください」


 数分後、モニターに新しい数値が表示された。


 海底から回収された試料が、予定された経路を通って次の工程へ到達したことを示す値だった。


「……通った」


 白石が小さく呟く。


「先生?」


「いえ。続けてください」


 研究室で動作を確認した装置が、実際の深海で同じように働いている。その事実に胸が高鳴ったが、ここで喜ぶのはまだ早い。


 白石は、自分にそう言い聞かせた。


 ◇


「おお、ちゃんと掘ってるじゃねえか」


 自宅のモニターを見ていたボスが、満足そうに頷いた。


 画面には、採掘量の推移と装置の内部状態が表示されている。紬は数字を追いながら、時折、海底の映像へ視線を移していた。


「……思ったより、泥がふわふわしてる」


「海の底の泥なんだから、砂場の土とは違うだろ」


「それはそうだけど……」


 紬は画面を拡大し、採取口の周囲を見つめた。


「……ちゃんと、周りに広がらないようにできてるかな」


「現時点では、外側の観測点で大きな濁度上昇は確認されていません」


 アイリスが答えた。


「ただし、短時間の観測結果だけで長期的な環境影響を評価することはできません。試験終了後も、海底の状態や周辺生物の変化を継続して調査する必要があります」


「うん。そこは、ちゃんとやってほしい」


「政府側の試験計画にも含まれています。なお、装置の動作記録と現地の独立観測データは別々に保存されていますので、両者の結果を照合できます」


 紬は少し安心したように頷いた。


 そのとき、モニターの右側に警告表示が現れた。


『移送流量変動』


「……え?」


 紬の表情が変わった。


 続いて、現地からの通信音声が流れてくる。


『移送系統の流量が一時的に低下しています。原因を確認中』


 ボスも画面へ顔を向けた。


「詰まったのか?」


「可能性の一つです。現在、装置が流量を抑制し、内部の状態を確認しています」


 アイリスの説明が終わるより早く、装置の採取量を示す数字が下がり始めた。


 異常を検知した安全機構が、新たな泥の取り込みを制限したのだ。


 紬は膝の上で両手を握った。


「……大丈夫かな」


「今のところ、止まるべきところが止まってるだけだろ」


 ボスは落ち着いた声で言った。


「ここで無理やり動かしたら、それこそ試験する意味がねえ。向こうの連中が原因を調べてんだから、待とうぜ」


 紬は頷き、画面を見守った。


 現地の観測室では、移送経路の複数の計測値を比較する作業が始まっていた。


「流量低下は一時的なものです。内部の粒子濃度が上昇しています」


「採取量の変化と一致する?」


「一部に遅れがあります。処理経路の途中で、粒子の偏りが発生した可能性があります」


 白石は表示されたグラフを確認した。


「安全停止の判断は正常ね。原因が特定できるまでは、採取を再開しないで」


 装置の診断機能は、移送経路の一部で粒子が偏って集まったことを示していた。研究室で使用した模擬泥と、実際の海底泥では、粒子の形状や混ざり方に違いがある。その差が、流量の一時的な変動として現れた可能性が高かった。


 担当者が診断結果を照合し、処理経路の状態を確認する。


「閉塞には至っていません。採取を停止した状態で内部の流路調整を行えば、通常の流量へ戻せる見込みです」


「周辺への排出は?」


「ありません。回収物は閉じた経路内に保持されています」


 白石は頷いた。


「それなら、手順どおりに復旧操作を進めてください。再開後は最初の流量より低い条件から確認しましょう」


 現場の運用責任者が復旧手順を承認し、装置の内部機構が調整を開始した。


 数分後、流量は安定した値へ戻った。


「移送系統、正常値を確認」


「原因の記録は?」


「保存済みです。次の採取条件に反映します」


「よし。再開しましょう」


 白石はようやく肩の力を抜いた。


 今回の流量変動は、重大な事故にはつながらなかった。しかし、それ以上に重要なのは、実際の海底でしか得られない問題が一つ見つかり、安全機構と現場の判断によって対処できたことだった。


 研究室でどれほど精密な試験を行っても、現実の環境には予想外の差が生じる。だからこそ、試験の結果には意味がある。


 採掘は条件を調整して再開され、装置は安定した運転を続けた。


 ◇


 試験開始から数時間後。


 観測室には、それまでとは異なる種類の緊張が漂っていた。


 採取した泥から必要な成分を分離する工程が進み、精製された試料の品質検査が始まろうとしていたのだ。


 装置内部の分析機構は、処理された試料の元素組成や純度を測定し、結果を記録する。今回は試験運転であるため、回収量よりも工程が正常に成立しているか、分析結果に再現性があるかが重視されていた。


「分離工程、完了しました」


 担当者の報告に、白石は顔を上げた。


「分析結果は?」


「現在、照合中です。採取した泥の組成に応じて、対象元素ごとの回収量が異なっています」


「それは当然ね。全部が同じ割合で含まれているわけじゃないもの」


 白石は画面に表示された元素名を確認した。


 レアアースと呼ばれる元素は一種類ではなく、複数の希土類元素をまとめた名称である。南鳥島沖の泥に含まれる成分も場所によって異なり、すべての元素が同じように豊富に存在するわけではない。


 重要なのは、実際に存在する資源を採取し、そこから必要な元素を分離できることだった。


「対象元素の分離を確認。精製工程へ移行しています」


 観測室の一角で、研究員が思わず身を乗り出した。


「これ、もし結果が出たら……」


「まだ最後の検査があるわ」


 白石はそう言いながらも、声に期待が滲むのを抑えられなかった。


 しばらくして、品質検査の結果が表示された。


 予定された試験条件の範囲で、対象となる希土類元素の分離・精製が成立している。複数の分析結果も整合しており、工程の途中で発生した異常は記録された流量変動を除いて確認されていなかった。


「……成功です」


 最初にそう口にしたのは、分析担当の研究員だった。


 白石は画面を見つめたまま、すぐには返事をしなかった。


 研究室で模擬試験を成功させたときにも驚いたが、今目の前にある数字は、それとは意味が違う。


 日本の遠い海に実際に存在する泥を、五千メートルを超える深海から採取し、必要な元素を分離して精製する。その一連の工程が、初めて現実の海で成立したのだ。


「……再確認して」


 白石は静かに言った。


「採取記録と処理記録、それから品質検査の結果をもう一度照合して。試料の識別情報も確認してほしい」


「はい」


 研究員たちはすぐに作業へ戻った。


 数分後、再照合の結果が届く。


「記録の整合性を確認しました。試料の取り違えはありません。分析結果も試験条件を満たしています」


 白石はゆっくりと息を吐いた。


「……そう」


 その顔に、ようやく笑みが広がった。


「それなら、今回の試験目的は達成したと言っていいわね」


 観測室のあちこちから拍手が起こった。


 大きな歓声ではなかった。長時間の作業で疲れた研究員たちが、互いの顔を見合わせ、控えめに喜びを分かち合う。海底の状態を監視していた担当者も、分析結果を確認していた研究員も、それぞれの仕事が一つの成果につながったことを実感していた。


 白石は拍手が落ち着くのを待ってから、全員に声をかけた。


「みんな、お疲れさま。でも、試験はまだ終わっていないわ。装置の停止と採取区域の事後観測まで、手順どおりに進めましょう」


 研究員たちが頷く。


 採掘を停止したあとも、海底の濁りがどのように変化するか、周辺の生物や地形にどのような影響が残るかを調べる必要がある。今回の成功は、資源開発の可能性を示す大きな一歩ではあるが、長期間の運用や大規模な供給が保証されたわけではなかった。


 白石は現地の試験責任者と確認を交わし、政府への速報をまとめ始めた。


 報告書の冒頭には、次の一文が記された。


『南鳥島沖における深海底資源採掘・精製統合システムの初回実海域試験において、限定区域での採泥、移送、分離・精製および品質検査の一連の工程が成立したことを確認した。』


 その下には、環境影響の継続評価、流量変動の原因分析、長期運転試験の必要性が、未解決の課題として明記された。


 成果と課題を分けて記録すること。


 それが、次の段階へ進むために欠かせない仕事だった。


 ◇


 首相官邸では、三浦誠司が届いたばかりの速報を手に、高瀬隆一の執務室を訪れていた。


「総理、南鳥島沖の実海域試験について、現地から報告が入りました」


 高瀬は書類から顔を上げた。


「結果は?」


「初回試験は成功です。海底への設置から限定的な採泥、移送、分離・精製、品質検査まで、一連の工程が正常に成立したと確認されました」


 三浦が差し出した報告書に、高瀬は目を通した。


 表情は落ち着いていたが、読み進めるにつれて目元がわずかに変わる。


「……そうか。実際の海底で動いたんだね」


「はい。ただし、途中で移送流量の変動が発生し、一時的に採取を停止しています。安全機構は正常に作動し、現場で原因を確認したうえで運転を再開しました」


「それは重要な記録だ。問題が起きなかったことにするより、何が起きてどう対処したかを残すほうが、今後の運用には役立つ」


 高瀬は報告書を机に置いた。


「環境への影響は?」


「現時点の観測では、試験区域の外側で大きな異常は確認されていません。ただし、短期間の結果です。現地では試験後の観測を続けており、長期的な評価はこれからです」


「分かった。現場には、成果を急ぐあまり確認を省略しないよう伝えてほしい」


「承知しました」


 高瀬は窓の外へ視線を向けた。


 中国の輸出規制によって、日本の産業界には依然として不安が広がっている。政府は在庫の確認や代替調達の支援を続けているものの、供給網を短期間で組み替えることは容易ではない。


 今回の試験成功は、その状況を直ちに解決するものではなかった。


 海底に資源が存在することと、工場が必要とする材料を安定して供給できることの間には、まだいくつもの段階がある。継続的な採取、品質の安定、輸送、企業側での利用評価、費用の検証。それらを積み重ねて、初めて産業に役立つ供給源となる。


 それでも、高瀬は報告書に書かれた成果の意味を理解していた。


「三浦君」


「はい」


「今回の成功は、資源を持っているという話を、実際に取り出せるという話へ進めた。まだ小さな一歩かもしれないが、国にとっては大きな意味がある」


「……はい」


「ただし、これを理由に中国との外交交渉を止めることはしない。今困っている企業には、今日必要な材料がある。将来の供給源が見つかったからといって、現在の問題が消えるわけではないからね」


 三浦は頷いた。


「産業界への支援と、現地試験の次段階の準備は並行して進めます」


「頼むよ。それと、ボス君たちにも結果を伝えてほしい。彼らが協力してくれなければ、今回の試験そのものが実現しなかった」


「すでに現地のデータは共有されていますが、政府としても正式に報告します」


 高瀬は微笑んだ。


「そうしてくれ。できれば、こちらがどれほど感謝しているかもね」


 三浦は一瞬、何かを考えるように間を置いた。


「……その点については、私からお伝えします。ただ、ボスさんが素直に受け取ってくださるかどうかは」


「はは。それは君に任せよう」


 高瀬の笑い声を聞きながら、三浦は静かにため息をついた。


 国家の資源政策を左右する技術の開発者が、二十一歳の人見知りな女性であり、その交渉窓口が四十センチほどの喋るペンギンである。


 その事実を知る者は、今もごく限られていた。


 ◇


「……成功したんだ」


 紬は画面に表示された速報を読み、ほっとしたように呟いた。


 実海域試験の成功を示す報告とともに、現地で取得された各種データが送られてきている。途中で発生した流量変動についても、原因の候補と復旧時の記録が整理されていた。


「おう。ちゃんと動いたじゃねえか」


 ボスは得意そうに胸を張った。


「俺たちのぺんぎんほりほり、大したもんだろ」


「……作ったのは私だけど」


「分かってるよ。俺は応援担当だ」


「応援担当……」


 紬は笑いながら、ボスを抱き直した。


 アイリスが横から声をかける。


「マスター、現地から送られた記録の一次解析が完了しました。今回の流量変動は、実際の海底泥に含まれる粒子の分布が、模擬試験で使用した条件と一部異なっていたことが主な要因と考えられます」


「直したほうがいい?」


「装置側の流路調整機能で対処可能な範囲ですが、今後の連続運転に備えて設定を改善する価値はあります。現地の追加分析結果も確認してから判断するのが適切でしょう」


「うん。急がなくていいよ」


 紬は画面に並ぶ数字を眺めた。


 自分なら、新しい装置を作ることも、既存の仕組みを変更することも難しくない。しかし、政府が実際に運用する設備には、誰が判断し、どの条件で動かし、異常が起きたときにどう対応するかという決まりが必要になる。


 自分の力だけで解決できることと、社会の中で使っていくために必要なことは、必ずしも同じではない。


 それを、紬は今回の試験で少しだけ実感していた。


「……でも、よかった」


 紬はぽつりと言った。


「海の底から、ちゃんと取れたんだね」


「ああ。まだ試験だけどな」


「うん。これから、もっと調べないといけないし」


「そういうこった。焦って変なことするより、少しずつ進めりゃいい」


 ボスがそう言ったところで、通信の着信音が鳴った。


 画面に表示された相手は、三浦官房長官だった。


「お、噂をすれば何とやらだな」


 ボスが言うと、アイリスが通信を接続した。


『ボスさん、小鳥遊さん。三浦です。現地試験の結果について、政府からも正式にご報告したく、ご連絡しました』


「おう。こっちにもデータは来てるぜ。成功したんだろ?」


『はい。初回の実海域試験は成功しました。もちろん、長期運用や環境影響については引き続き確認が必要ですが、今回予定していた工程は達成できています』


「そいつはよかったな。現場の連中にも、お疲れさんって伝えといてくれ」


『承知しました。それと……総理からも、今回のご協力について深く感謝しているとお伝えするように言われています』


「へえ。総理も喜んでんのか」


『ええ。大変喜んでおられました』


 ボスは紬を見上げた。


「だってよ、紬」


「……うん」


 紬は少し恥ずかしそうに目を伏せたあと、小さな声で答えた。


「……よかったです。皆さんも、お疲れさまでした」


『ありがとうございます。現地の担当者にも必ず伝えます』


 三浦の声は、いつもより少し柔らかかった。


『今後の運用については、試験結果と環境評価を踏まえて政府側で検討を進めます。追加の技術的な相談が必要になった場合には、改めてご連絡します』


「おう。必要なら言ってくれ。ただし、無茶な予定を勝手に組むんじゃねえぞ」


『もちろんです。そこは十分に承知しております』


「本当か?」


『……承知しております』


 少し疲れたような三浦の返事に、紬がくすりと笑った。


 通信が終わると、部屋には再び穏やかな静けさが戻った。


 モニターには、海底に設置されたぺんぎんほりほりの映像が映っている。装置は採掘を停止し、周辺環境の観測を続けていた。


 その姿を見ながら、紬はボスの背中をゆっくりと撫でた。


「……ボス」


「あん?」


「これで、日本の人たち、少しは安心できるかな」


「少しはな。でも、まだ工場に材料が届いたわけじゃねえ。そこはこれからだろ」


「……そっか」


「ただ、できるかどうか分からなかったことが、できるって分かったんだ。それだけでも大きいんじゃねえか?」


 紬はもう一度、画面を見つめた。


 遠く離れた南鳥島沖。その海底五千メートルの場所で、自分が作った装置が静かに役目を果たしている。


 自分はただ、困っている人がいるなら何かできるかもしれないと思い、少し手伝っただけだった。それが、多くの研究者や技術者の仕事と結びつき、一つの成果になった。


 紬は胸の奥に、じんわりとした温かさを感じた。


「……うん。よかった」


 そう言って、ボスをぎゅっと抱き締める。


「おいおい。嬉しいのは分かるけど、俺まで精製すんなよ」


「……ボスからレアアース取れるの?」


「取れるわけねえだろ!」


「マスター、念のため申し上げますが、ボスの身体を資源として分析する必要性は認められません」


「アイリス、お前まで何言ってんだ!」


 紬は声を立てて笑った。


 海の向こうでは、試験を終えた研究者たちが、次の調査に向けて記録を整理している。


 日本の資源問題が解決したわけではない。中国の規制も続いており、産業界が抱える不安も消えてはいなかった。


 それでも、この日、日本は一つの可能性を確かな成果へと変えた。


 深い海の底に眠っていた資源へ、ようやく手が届いたのである。

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