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うちのぺんぎんが日本政府と交渉している件  作者: むぎちゃ
第3章 小さな奇跡と大国の思惑
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第56話 ぺんぎんほりほり

 秘密基地の研究室には、昨日まで存在しなかった設備がいくつも増えていた。


 壁際に並ぶ透明な試験槽、天井近くまで伸びる配管の模型、床に投影された複雑な工程図。その中央で、小鳥遊紬は椅子に腰掛けたまま、空中に浮かぶ立体映像をじっと見つめていた。


 映像には、海底から海上までを縦に切り取った巨大な断面図が表示されている。水深五千メートルを超える海底に小さな採掘装置があり、そこから延びる管が海面の施設へとつながっていた。さらに施設の内部には、泥から目的の成分を取り出す複数の工程が組み込まれている。


 前日に作った二種類の小型試験機構は、すでに比較試験を終えていた。


 どちらも泥を回収するという目的は達成できたものの、実際の深海で長期間使用することを考えると、それぞれに改善すべき点があった。片方は海底への負担が小さい反面、回収量を増やすと効率が落ちる。もう片方は大量の泥を扱えるが、周囲の堆積物まで巻き込みやすい。


 紬はその結果を踏まえ、単に性能の高い方を選ぶのではなく、両方の長所を組み合わせる方法を考えていた。


「……泥を、たくさん取ればいいわけじゃないんだよね」


 紬が呟くと、隣に立っていたアイリスが立体映像の一部を拡大した。


「はい、マスター。必要なのは採掘量の最大化ではなく、目的とする資源を、許容される環境負荷と運用費用の範囲で安定して回収することです。採掘した泥の大部分が不要な成分であれば、それをすべて海上まで運ぶ方式は効率的とは限りません」


「……じゃあ、下で分ける?」


「可能です。ただし、分離後の残留物をどのように扱うかが重要になります。深海だからといって、処理済みの泥を無条件に周囲へ放出してよいわけではありません」


 紬は頷き、映像の中にある採掘装置を指先で動かした。


 海底の装置が二つに分かれ、片方が泥を集め、もう片方がその内部から必要な成分を取り出す構造へ変化する。続いて、処理後の泥を元の採掘区画へ戻すための経路が追加された。


 しかし、そのまま眺めていた紬は、少し考えてから首を傾げた。


「……戻せば、元どおりになるのかな」


「完全にはなりません。採掘によって海底の状態が変化する以上、元の場所へ戻しただけで生態系への影響がなくなるとは言えません。採掘前の調査、採掘中の観測、採掘後の長期評価が必要です」


「そっか……」


 紬は映像の一部を元に戻した。


 技術的には、泥を集めて成分を取り出す装置を作ること自体は難しくない。紬が望む機能を思い描けば、万物創造はそれを実現する構造を形にできる。


 けれど、海底で暮らしている生き物がどこにいるのか、どの範囲を掘れば影響が小さいのか、長い時間をかけて何が起こるのかは、装置を作っただけでは決められなかった。


 紬はしばらく考え込み、やがて採掘装置の周囲に薄い輪を描いた。


「……先に、調べる場所を決める。それで、掘っていい場所だけ掘る」


「合理的です。政府側の海洋調査結果を反映できるよう、採掘可能区域は外部から設定する方式にしましょう。生物の存在や堆積物の異常な拡散が検知された場合は、その区域の作業を自動的に停止できます」


「……うん。それがいい」


 紬が頷いたところで、作業台の反対側から声がした。


「なあ、ひとつ聞いていいか」


 ボスだった。


 小さな専用椅子に座った丸いペンギンは、目の前に浮かぶ工程図を眺めながら、珍しく真面目な顔をしていた。


「その機械、泥を掘ってる間に壊れたらどうすんだ? 五千メートルも下まで人間が修理に行くわけにいかねえだろ」


「……あ」


 紬は顔を上げた。


 修理の問題は考えていた。だが、今の設計では、故障した装置を引き揚げて整備することが前提になっている。


 もし複数の装置が同時に動くようになれば、一台の故障で全体が止まる可能性もあった。


「……自分で、直せたらいいかな」


「そりゃ便利だろうけどよ。壊れた機械が自分で直したつもりになって、余計におかしくなったら困るぞ」


「……たしかに」


 アイリスが新しい図面を表示した。


「故障箇所の自己診断と部品交換を自動化することは可能です。ただし、すべての異常に対して自己修復を優先させるのは適切ではありません。安全上重要な故障では作業を停止し、隔離した上で、人間の管理者へ判断を求める必要があります」


「つまり、直せるもんは直す。危ねえもんは止める。それでいいんじゃねえか」


「はい。非常に簡潔な要約です」


「だろ?」


「ただし、具体的な故障分類はもう少し複雑になります」


「褒めた直後に余計なこと言うなよ」


 ボスがくちばしを尖らせると、紬は小さく笑った。


 そのやり取りを聞きながら、彼女は海底装置の内部に交換可能な部品群を追加した。重要な機構は複数系統に分け、ひとつが故障しても安全に停止できるようにする。故障した部分は切り離し、回収可能な状態にしておく。


 さらに、装置の外側に細かな観測機器を配置した。


 海流、濁り、周辺の音、生物の動き。採掘前と採掘中の状態を比較し、あらかじめ定めた範囲から外れた場合には作業を縮小、または停止する。


 紬がひとつずつ機能を加えるたび、立体映像は姿を変えていった。


 最初は海底の泥を集めるだけだった機械が、少しずつ、自分の状態と周囲の環境を確かめながら働く装置へ変わっていく。


 ただし、その判断をすべて機械任せにするつもりはなかった。


「……止めるのは、機械が自分でできる。でも、また動かしていいかは、人が決めた方がいいよね」


「その方針を推奨します。安全停止後の再稼働には、政府が指定する管理者の承認を必要としましょう。運転記録も改ざんを検知できる形式で保存します」


「……それなら、あとから何が起きたか分かる」


 紬は、以前に起きた中国の核融合炉を巡る問題を思い出していた。


 どれほど便利な技術でも、使う人間の判断まで正しくしてくれるわけではない。


 だからこそ、装置が何をしたのか、何が原因で止まったのかを、後から確かめられることが大切なのだと思った。


 もっとも、今作っているのは兵器への転用を防ぐ核融合炉とは違う。海底資源を採るための設備であり、求められる安全性も運用方法も異なる。


 紬は過去の装置をそのまま流用するのではなく、今回の目的に合わせて設計を組み立てていった。


 やがて、海底で泥を回収する部分の基本構造がまとまった。


 次に取りかかったのは、集めた泥から目的の成分を取り出す工程だった。


「……ここが、一番ややこしいかも」


 紬の前には、いくつもの成分名が並んでいた。


 レアアースとひとまとめに呼ばれていても、実際には複数の元素が含まれている。しかも、泥に含まれる量や組み合わせは場所によって異なり、必要なものだけを選び出すには複雑な処理が必要になる。


 アイリスは、紬が作ろうとしている装置について、成分の選別と精製を別々の工程として考えるよう提案した。


「マスター。回収した泥から目的成分を濃縮する段階と、元素ごとに分離して製品として利用できる品質へ仕上げる段階を分けた方が、品質管理が容易になります」


「……海底で、全部やらなくてもいい?」


「はい。海底では不要な物質の移動量を減らすための一次処理を行い、精密な分離と品質保証は管理しやすい施設側で実施する構成が考えられます。もっとも、今回の装置なら処理設備の配置そのものにも自由度があります」


「だったら、全部つなげておけばいいんじゃねえか?」


 ボスが口を挟んだ。


「下で集めたもんが勝手に上へ行って、必要なもんだけ出てくる。人間が途中で運び直したりしなくて済むようにな」


「……そうだね」


 紬は工程図を広げた。


 採掘、一次処理、揚泥、分離、精製、品質検査、製品の保管。


 それぞれを別々の機械として考えるのではなく、ひとつのシステムとして接続する。前の工程で問題が起きれば、後ろの工程も自動的に調整する。精製設備の処理能力を超える量の泥を、海底から無理に引き揚げることもしない。


 不要な成分や処理に使った物質は、種類ごとに分けて回収する。環境へ放出するものがある場合には、その内容と量を記録し、承認された基準を超えないよう管理する。


 さらに、製品の品質が一定の条件を満たさなければ、自動的に出荷工程へ進まない仕組みも加えた。


 紬が目指したのは、海底から泥を掘り出すだけの装置ではなかった。


 海の底にある資源が、工場で使える材料になるまでの長い道のりを、できるだけ少ない人手で、安全に進められる仕組みだった。


「……これなら、途中で止まっても、どこが悪いか分かる」


「はい。各工程の状態を独立して記録し、必要に応じて切り離せます。通常運転では大部分を自動化できますが、運用条件の変更や例外的な判断には管理者の承認を必要とします」


「……あと、お金」


 紬がぽつりと言った。


 ボスが振り向く。


「金?」


「……作るのは、私ができるけど。動かすのにすごくお金がかかったら、使い続けられないから」


 ボスは少し考え、頷いた。


「そりゃそうだな。掘った分より使った金の方が多かったら、何のためにやってんのか分からねえ」


「……うん」


 紬は新しい項目を追加した。


 設備の電力消費、交換部品の必要量、回収した成分の品質、稼働率、点検に必要な時間。そうした情報を自動で集計し、運用者が費用と成果を比較できるようにする。


 もちろん、政府が実際にどの価格で販売し、どれだけの需要が生まれるのかまで、紬には決められない。


 けれど、判断するために必要な数字を隠さず示す装置なら作れる。


「……できるだけ、安く動くようにしたい」


「承知しました。省エネルギー化と保守負担の低減を設計条件へ加えます。ただし、実際の採算性は輸送、施設整備、環境調査、管理費用などを含めた政府側の評価が必要です」


「……それでいいと思う」


 紬は立体映像を見渡した。


 海底から海上へ、さらに精製設備へ。


 複雑に分かれていた工程が、ひとつの流れとしてつながり始めていた。


 だが、完成させる前に、もうひとつ決めておきたいことがあった。


「……アイリス。これって、人がずっと見てなくても動く?」


「通常の運転であれば、常時の手動操作は必要ありません。ただし、完全な無人運用を前提とするのではなく、監督者による遠隔監視と定期的な点検を組み込むべきです」


「……じゃあ、普段は自分で動いて、何かあったら教えてくれる感じ」


「はい。重要度に応じて通知先と対応手順を分けます。軽微な異常は記録して保守計画に反映し、重大な異常は即座に停止して管理者へ通知します」


「いいじゃねえか。機械が働いて、人間は必要なところで判断する。ちゃんと役割分担できてる」


 ボスは満足そうに胸を張った。


 紬は彼の姿を見て、少しだけ表情を緩めた。


「……ボスも、役割分担してるよね」


「当然だろ。俺は交渉担当だからな」


「……うん。助かってる」


「お、おう」


 素直に礼を言われるとは思っていなかったのか、ボスは一瞬だけ言葉に詰まった。


 アイリスがその様子を見て、静かに口元を緩める。


「マスター。設計条件の整理が完了しました。最終構成の生成に進めます」


 紬は椅子から立ち上がった。


 研究室の奥にある広い実験区画へ向かうと、床の上に何も置かれていない空間が広がっている。


 ここは、巨大な装置を創造するために用意された場所だった。


 紬が意識を集中させると、目の前に薄い光の線が現れた。


 それは少しずつ広がり、複雑な輪郭を描き始める。


 最初に姿を現したのは、海底を移動するための低い車体だった。幅広い接地面を持ち、泥の上に過度な荷重を集中させない構造になっている。前方には採掘部があり、その周囲には堆積物の拡散を抑える囲いと観測機器が配置されていた。


 続いて、採掘した泥を一次処理する機構が形を成した。


 その内部では、泥に含まれる成分を選り分け、不要な物質の移動を減らすための処理が行われる。回収した物質は密閉された経路へ送られ、周囲の海水へ不用意に広がらないよう設計されていた。


 さらに、海底装置と上部設備をつなぐ輸送系統、精密な分離・精製設備、製品の品質を確認する検査機構、保管設備、遠隔監視装置が次々と現れていく。


 すべてが一度に巨大な塊として現れたわけではない。


 必要な部分が順番に形を持ち、互いの接続を確認できる配置で並んでいった。


 紬はそれぞれの内部構造を理解しながら、設計に矛盾がないか確かめていく。


 やがて、研究室の一角を埋めるほどの設備群が完成した。


 海底用の採掘装置は実際の深海で運用できる構造を備え、上部設備は必要に応じて分割して搬送・設置できる。配管や接続部は交換可能で、故障時には危険な状態を残さず停止できるようになっていた。


 紬は大きく息を吐いた。


「……できた」


 ボスが椅子から身を乗り出す。


「おお……思ってたより、ずいぶん本格的だな」


「……うん。全部、つながってる」


 アイリスは完成した設備群を見渡し、内部診断を開始した。


「構造整合性の確認を行います。各工程の制御系統、非常停止機構、部品交換手順、運転記録の保存機能を順次点検します」


 設備の一部に灯りがともり、表示盤に細かな数値が並んだ。


 研究室の中では、実際の海底に近い条件を再現した模擬環境で試験を行うことができる。紬はその設備を利用し、完成したシステムの一部を試験用の閉鎖区画へ接続した。


 深海の圧力に相当する条件、低い水温、異なる性質の泥、想定される流れの変化。


 ひとつずつ条件を与え、装置がどのように応答するかを確かめていく。


 採掘部は周囲の状態を観測しながら動き、設定された区域の外へ出ようとすると自動的に停止した。泥の性質が変われば回収量を調整し、処理設備の負荷が増えれば採掘速度を落とす。


 紬は続けて、輸送経路の一部が閉塞した場合を想定した。


 警告表示とともに採掘部が停止し、内部の圧力を安全な状態へ移す処理が始まる。問題のある区間だけが切り離され、回収済みの物質は密閉されたまま保持された。


「……ちゃんと止まった」


「はい。想定した異常に対して、設計どおりの応答を確認しました」


 次に、観測機器が異常な濁りを検知した場合を試した。


 装置は採掘量を減らし、それでも状況が改善しない条件では作業を停止した。再開するためには、管理者の承認が必要になる。


 ボスは表示盤を眺めながら感心したように言った。


「止まるってのも、案外大事な仕事なんだな」


「……うん。動くだけじゃ、だめなんだね」


 紬は試験記録を確認し、異常時の動作をもう一度見直した。


 その後も、電力供給が途絶えた場合、通信が切れた場合、複数の機器が同時に故障した場合など、さまざまな条件を与えていく。


 すべてが最初から完璧だったわけではない。


 ある試験では、通信の復旧直後に複数の装置が同時に再起動しようとし、電力負荷が一時的に集中した。別の試験では、交換用部品の搬送経路が狭く、保守装置の動作に余分な時間がかかることも分かった。


 紬はそのたびに構造を調整し、必要な部分を作り直した。


 試験を繰り返すうち、研究室の時計は昼を過ぎていた。


 ボスは途中で休憩を取り、紬が作った小さな机で軽食を食べていたが、作業そのものを急かすことはなかった。


 アイリスも、紬が集中している間は必要な情報だけを伝え、判断を求める場面を絞っていた。


 やがて、最後の試験結果が表示された。


「マスター。現時点で設定した模擬条件において、主要工程の連動、品質検査、安全停止、遠隔監視、保守機能が設計条件を満たしました」


 紬は表示盤を見つめた。


「……完成?」


「設計および研究室内での製作は完了と判断できます。ただし、実際の南鳥島沖の海底で同じ性能を発揮するかは、現地の調査結果と実海域試験による確認が必要です」


「……うん。そこは、これから」


 紬はゆっくり頷いた。


 完成した装置は、彼女が思い描いた機能を備えている。


 けれど、まだ海の底へ行ったことはない。


 南鳥島沖の実際の泥を採掘したわけでもなければ、そこから製品として利用できるレアアースを取り出した実績があるわけでもない。


 ここまででできたのは、海底資源を採るための仕組みを形にし、研究室で想定条件に対する動作を確かめることだった。


 それでも、前日には小さな試験機構が二つあるだけだったことを考えれば、大きな前進だった。


 ボスは完成した設備をしばらく眺め、それから紬を見上げた。


「で、こいつの名前はどうすんだ?」


「……名前?」


「そうだよ。政府に説明するにしたって、いつまでも『深海底レアアース泥採掘・分離・精製統合システム』なんて呼んでられねえだろ」


 アイリスが即座に答えた。


「その名称は機能を正確に表現しています。正式な技術資料では有用です」


「普段の会話で使うには長すぎんだろ」


「略称を設定することは可能です」


「だったら、俺たちで決めりゃいい」


 ボスは得意そうに胸を張った。


 紬は目の前の採掘装置を見つめた。


 泥を掘り、必要な資源を集め、きれいに分ける。


 何をしている装置なのか、誰が聞いても何となく想像できる名前がいい。


「……ほりほり」


 紬が小さく呟いた。


「ん?」


「……掘るから、ほりほり」


 ボスは一瞬黙った。


 アイリスが穏やかに微笑む。


「親しみやすい名称ですね」


「……それで、ぺんぎん」


「おい、待て」


 ボスが顔を上げる。


 紬は少しだけ嬉しそうに続けた。


「……ぺんぎんほりほり」


 研究室に短い沈黙が落ちた。


 ボスは完成した巨大な設備群を見上げ、もう一度紬を見た。


「……いや、まあ、覚えやすいけどよ」


「……だめ?」


「だめとは言ってねえ」


 ボスは少し考えた。


 核融合炉には『ぺんぎんぽかぽか炉』という名前が付いている。がん治療製剤は『ぺんぎんがんばいばい』だ。


 今さら新しい装置だけ妙に堅苦しい名前にする方が、かえって不自然かもしれない。


 何より、紬は自分で考えた名前を気に入っているらしい。


「……いいんじゃねえか。掘る仕事だって分かるしな」


「……ほんと?」


「ああ。ただし、政府の連中が資料に書くとき、どんな顔するかは知らねえぞ」


「正式資料には技術名称を併記する方法があります」


 アイリスが提案した。


「一般向けの名称を『ぺんぎんほりほり』、技術資料上の表記を『深海底資源採掘・精製統合システム』とするのはいかがでしょうか」


「……それがいい」


 紬は頷いた。


 こうして、新しい装置の名前が決まった。


 『ぺんぎんほりほり』。


 深海底の資源を採掘し、分離・精製までを一体的に行う、ほぼ全自動の統合システム。


 紬がその名前を登録すると、研究室の表示盤に新しい文字が現れた。


 ボスはしばらく眺めてから、満足そうに頷いた。


「よし。じゃあ、政府に報告するか」


 アイリスが通信の準備を始めた。


 紬は少し緊張した様子でボスを抱き上げ、完成した装置の前に立った。


 これから先は、実際の海で試すための準備が必要になる。


 設置場所の調査、環境評価、関係する手続き、設備の搬送方法、運用を担当する人員の確保。紬が装置を完成させたからといって、それらが自動的に終わるわけではない。


 政府との通信がつながると、画面には三浦誠司の姿が映った。その隣には白石理沙もいる。


「ボスさん。ご連絡ありがとうございます。開発の進捗についてでしょうか」


「ああ。昨日頼まれた件だが、ひとまず装置が完成した」


 三浦の表情が変わった。


「……完成、ですか?」


「そうだ。まだ現地で動かしたわけじゃねえが、必要な仕組みは一通り揃った。研究室での試験もやってある」


 白石が身を乗り出した。


「採掘部分だけではなく、揚泥や精製の工程も含めてでしょうか」


「全部だ。詳しい資料はアイリスから送る」


「承知しました。確認させてください」


 アイリスが概要資料と試験記録を送信した。


 画面の向こうで白石が資料を開き、しばらく無言で目を通す。


 その表情は、最初の驚きから、慎重に内容を確かめる研究者のものへ変わっていった。


「採掘量を処理能力に連動させている……。環境観測による停止条件も設定されているんですね。保守機構まで組み込まれているとは」


「……はい」


 紬が小さく返事をした。


 白石は画面へ顔を向けた。


「小鳥遊さん、ありがとうございます。ただ、現地の泥の性質や海底地形によっては、試験条件を追加する必要があると思います」


「……うん。分かってます」


「その点も含めて、こちらで専門家と確認します。実際の設置や試運転は、必要な調査と手続きを進めてからになります」


 紬は安心したように頷いた。


 自分が作ったものを、何の確認もなく海へ持っていくつもりはない。


 装置の性能を確かめることも、海の環境を守ることも、政府と専門家が責任を持って進めてくれるなら、それが一番よかった。


 三浦が資料から顔を上げた。


「高瀬総理にも至急報告します。装置の詳細については、機密保持の範囲を整理した上で、関係する担当者に共有したいと思います」


「頼むぜ。こっちは作ったが、どこに置いてどう運用するかは、そっちの仕事だからな」


「承知しています。ご協力に感謝します」


 そこで、ボスが何かを思い出したように付け加えた。


「ああ、そうだ。名前も決まったぞ」


 三浦がわずかに身構えた。


「……名称、ですか」


「『ぺんぎんほりほり』だ」


 白石の指が、資料をめくる途中で止まった。


 三浦は数秒ほど黙り、それからゆっくり頷いた。


「……承知しました」


「何だ、その間は」


「いえ。装置の性能とは別の問題ですので」


 白石が口元を押さえながら言った。


「技術資料には、正式な機能名称も併記されています。そちらを使えば、専門家への説明にも支障はないと思います」


「そういうことだ。よろしくな」


 三浦は一度だけ深く息を吐いた。


「分かりました。『ぺんぎんほりほり』として記録します」


 紬はボスを抱いたまま、小さく笑った。


 通信を終えると、研究室には再び静けさが戻った。


 完成した装置は、まだ一度も本物の深海を見ていない。


 それでも、その先に広がる海底の世界へ向かう準備は、確かにひとつ進んだ。


「……次は、海だね」


 紬が呟くと、ボスは腕の中で頷いた。


「ああ。けど、実際に動かすのは慎重にな。せっかく作ったんだ、ちゃんと役に立ってもらわねえと困る」


「……うん」


 アイリスが完成した設備の記録を保存し、研究室の照明を少し落とした。


「マスター。現地試験に向けた追加確認項目を整理しておきます」


「……お願い」


 紬はもう一度、目の前の装置を見上げた。


 海の底に眠っている資源が、日本の工場や人々の暮らしを支える材料になる。


 そんな未来が本当に実現するかどうかは、これからの仕事にかかっている。


 けれど、少なくとも、そのために必要な道具はできた。


 研究室の表示盤には、可愛らしい名前が静かに輝いていた。


 『ぺんぎんほりほり』。


 その最初の仕事は、まだ始まっていなかった。

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