第55話 海の底に眠るもの
中国政府によるレアアースの対日輸出規制が始まってから、三日が経過していた。
日本国内の工場が一斉に操業を停止するような事態には至っていない。企業の多くは一定量の在庫を保有しており、政府も代替調達先の確保や資金繰り支援に動いていた。しかし、目先の生産が維持できていることと、数か月先まで安心できることはまったく別の話だった。
特に問題となっているのは、電気自動車の駆動用モーターや産業機械、精密機器などに使われる一部のレアアースである。必要な量は製品全体から見ればわずかでも、代替材料への切り替えには設計変更や品質確認が必要となる。材料が一種類不足しただけで完成品を出荷できなくなる場合もあり、各企業は在庫の数字を睨みながら生産計画を組み直していた。
そうした報告が連日届く首相官邸では、高瀬隆一が一枚の資料を前に、珍しく長い時間考え込んでいた。
資料の表紙には、太平洋に浮かぶ小さな島の名前が記されている。
南鳥島。
日本の最東端に位置するその島の周辺海域には、レアアースを含む泥が海底に広く分布していることが知られていた。
「国内に資源がないわけではない、ということだね」
高瀬が顔を上げると、向かいに座る白石理沙が頷いた。
「はい。ただし、正確には国内の陸地ではなく、日本の排他的経済水域内に存在する海底資源です。南鳥島周辺の深海底には、レアアースを含有する泥の存在が確認されています。研究対象としては以前から注目されてきました」
理沙は机の上の資料を一枚めくり、海底の断面図を示した。
「問題は、それを実際の産業で使える形にするまでの工程です。存在していることと、安定した価格で大量供給できることの間には、相当な距離があります」
「その距離を、今回の件で縮めなければならなくなったわけか」
三浦誠司官房長官がそう言って眼鏡の位置を直した。
官邸の会議室には、資源政策や海洋開発を担当する職員も同席していた。壁面の大型画面には南鳥島周辺の海底地形と、過去の調査で得られた地質情報が映し出されている。
海の色が深くなるにつれて、図中の水深を示す数字も大きくなっていく。対象となる泥の多くは、水深五千メートルを超える深海底に存在していた。
「これほど深い場所から泥を引き揚げるだけでも、大がかりな設備が必要になります」
担当職員が説明を引き継いだ。
「採掘装置を海底へ降ろし、泥を回収して海上まで運び、そこから処理施設へ輸送する。さらに泥から目的の元素を取り出して分離、精製し、産業用の原料として供給しなければなりません。既存の技術で検討は進められていますが、設備費や運用費、海洋環境への影響など、解決すべき課題は少なくありません」
「つまり、海底にある泥を取ってくれば終わりという話ではないんですね」
三浦の確認に、職員は頷いた。
「はい。レアアースは泥の中に含まれている成分の一部です。大量の泥を運んでも、その全量が利用できる資源になるわけではありません。また、どの元素がどれだけ含まれるかは場所によって異なります。必要な元素を必要な品質で取り出す工程が不可欠です」
高瀬は画面に映る海底地形を見つめた。
これまで日本が海外から購入してきたものを、国内で調達できるようにする。その発想自体は単純だったが、現実には採算性という大きな壁が立ちはだかる。
仮に採掘に成功しても、輸入品の何倍もの価格になれば、企業が継続的に利用することは難しい。政府が補助金で支える方法もあるが、それだけで長期的な供給体制を築けるとは限らなかった。
「白石さん。あなたの専門は核融合だが、今回も相談に加わってもらった理由は理解していると思う」
「もちろんです。私自身が深海採掘の専門家というわけではありません。ただ、あの方々が提供してくださった技術の扱いについては、これまでの経験があります」
理沙はそこで少し言葉を選んだ。
「そして、今回必要なのは単一の装置ではないと思います。海底で泥を回収する機械だけが高性能でも、その後の輸送や精製に費用がかかりすぎれば意味がありません。最初から最後まで、一つの仕組みとして考える必要があります」
高瀬は静かに頷いた。
中国からの輸入が制限される以前から、レアアースの調達先を多様化する取り組みは進められていた。しかし、今回のように政治的な判断によって供給が左右される現実を突きつけられると、国内資源を利用する意味は従来よりも大きくなる。
それでも、高瀬は紬たちに頼ればすべて解決すると考えているわけではなかった。
核融合炉もがん治療技術も、紬が提供したのは規格外の性能を持つ装置や製造設備だったが、実際に社会へ届けるためには、多くの人間による検証と制度整備が必要だった。海外への核融合炉輸出では、安全条件を破った中国との対立も生じている。
新しい技術があれば、それだけで社会の問題が消えるわけではない。
「政府として、まず既存の対策を続ける。それとは別に、南鳥島沖の資源開発について、協力をお願いできるか相談したい」
高瀬がそう告げると、三浦は用意していた連絡文書を開いた。
「ボスさんへの相談ですね」
「ああ。ただし、今回は何を作ってほしいかを一方的に指定するのではない。こちらが抱えている課題と、必要とする条件を正確に伝えよう。できるかどうかだけでなく、引き受けたいかどうかも、先方が判断することだ」
「承知しました」
理沙が机上の資料に目を落とす。
「技術面で確認したい項目は、こちらで整理してあります。採掘、揚泥、輸送、分離、精製。それから環境への影響と、長期間運転した場合の維持費です」
「もう一つ加えてほしい」
高瀬の言葉に、理沙が顔を上げた。
「我々が、その技術をどこまで責任を持って運用できるかだ。装置を提供してもらっても、政府や事業者が理解すべきことまで相手に任せてはいけない」
理沙は一瞬だけ表情を緩め、それから真剣な顔で頷いた。
「それが一番重要かもしれません」
会議の終了後、三浦は技術資料を添えて、ボス宛ての正式な相談を送信した。
返答の期限は設けなかった。
中国の輸出規制は現に進行しており、日本政府にとって時間が重要なのは間違いない。それでも、紬の意思を尊重するという約束まで、緊急性を理由に変えるつもりはなかった。
*
「……海の底?」
その日の午後。
自宅のソファでボスを抱えていた小鳥遊紬は、アイリスが表示した資料を眺めながら、小さく首を傾げた。
画面に映っているのは、南鳥島周辺の海域を示す地図だった。島の位置を示す小さな点から視線を動かすと、その周囲には深い海を表す青色が広がっている。
「はい、マスター。日本政府から、南鳥島沖のレアアース泥を利用する技術について、正式な協力相談が届いています」
銀白色の髪を揺らしながら、アイリスが説明した。
「現在、中国による輸出規制の影響を抑えるため、政府は代替調達や国内企業への支援を進めています。そのうえで、中長期的な供給源として海底資源の開発を検討しているようです」
「へえ。日本の海にも、そんなものがあったんだな」
紬の腕の中から画面を覗き込んだボスが、感心したように言った。
「俺はてっきり、そういうのは山を掘って取るもんだと思ってたぜ」
「陸上の鉱床から採掘されるものもあります。しかし、南鳥島沖で注目されているのは、海底に堆積した泥に含まれるレアアースです」
「泥か。なんつうか、ずいぶん地味な見た目だな」
「資源としての価値は、外見では判断できません」
「分かってるよ。俺だって見た目だけなら、ただのかわいいペンギンだろ?」
「その評価については否定しませんが、今回の資源開発との関連性は見いだせません」
「お前、たまには素直に褒めろよ」
紬は小さく笑いながらボスの背中を撫でたが、画面の下に表示されている水深の数字に気づくと、指先を止めた。
「五千メートル……って、すごく深いよね」
「はい。場所によって差はありますが、対象海域の海底は非常に深く、海面から容易に作業できる環境ではありません」
アイリスが表示を切り替えると、海面に浮かぶ船と、そのはるか下にある海底の模式図が現れた。
紬は以前、秘密基地の自然環境実験区画に海を創ったことがある。そこではボスと一緒に水遊びをしたり、海の生き物を眺めたりしてきたが、目の前の図が示しているのは、そうした身近な海とはまるで違う世界だった。
太陽の光がほとんど届かず、非常に高い水圧がかかる場所。そこから泥を回収し、何千メートルもの距離を上へ運ばなければならない。
「普通の機械だと、大変そう……」
「そのとおりです。深海での作業に加え、泥を海面まで運ぶためのエネルギーや設備の維持も問題になります。もっとも、マスターであれば、それらの課題に対応する装置を創造すること自体は可能と考えられます」
「だったら、でっかい掃除機みたいなのを作りゃいいんじゃねえか?」
ボスが翼を持ち上げ、海底から海面へ吸い上げるような仕草をした。
「下に吸い込み口を置いて、泥をずずーっと上まで引っ張ってくるんだよ」
「発想としては揚泥システムに近いですね。ただし、その方法だけでは解決しない問題があります」
アイリスは画面に複数の工程を並べた。
海底から泥を採る。
採った泥を海面へ運ぶ。
船や陸上施設へ輸送する。
泥に含まれる目的の成分を取り出す。
種類の異なるレアアースを分離し、必要な純度まで精製する。
さらに、各工程で発生する残留物や排水を適切に処理しなければならない。
「なるほどな。掃除機だけ作っても、吸った泥をどうするんだって話か」
「はい。また、無計画に海底を広範囲に掘り返せば、周辺の生態系に影響を与える可能性があります」
その言葉に、紬の表情が少し曇った。
「海の生き物、困っちゃうかな」
「影響の程度は、採掘場所や方式、規模によって異なります。深海の生態系には十分に解明されていない部分も多く、影響がないと断定することはできません」
「じゃあ、あんまり荒らしたくないね」
紬は画面の中の海底を見つめたまま、しばらく考え込んだ。
中国の輸出規制によって日本の企業が困っていることは知っている。テレビでは工場の経営者が先行きへの不安を話しており、従業員の仕事や暮らしにも関わる問題だということは、紬にも理解できた。
だからといって、その解決のために海の環境を無制限に壊してよいとも思わない。
「必要なところだけ、少しずつ取るようにはできないのかな」
「可能性はあります。まず資源の分布と海底環境を詳しく調べ、必要な場所を選定する方法が考えられます。採掘範囲を限定し、周囲へ泥を巻き上げにくい回収方式を採用することも有効でしょう」
「取ったあとの場所も、ちゃんと調べたい」
「はい。採掘前後の環境を比較し、長期的な変化を確認する仕組みが必要です」
アイリスは紬の希望を設計条件として記録した。
ボスは二人の会話を聞きながら、少しだけ体勢を変えた。
「けどよ、そこまでやるなら、泥を上まで持ってくる必要があるのか?」
「どういうこと?」
紬が尋ねると、ボスは得意げに胸を張った。
「海の底で必要なもんだけ取り出して、いらねえ泥はそのまま置いとけばいいんじゃねえかってことだ。全部持ち上げるより楽だろ」
アイリスはすぐには否定しなかった。
「興味深い案です。海底での一次処理によって輸送量を減らすことは検討に値します。ただし、処理に使う物質や副生成物を海中へ放出しないこと、装置の保守が可能であることなど、新たな条件が生じます」
「お、珍しく褒められたな」
「有効な検討案であることと、実現方法が確立していることは別です」
「そこは黙って褒めとけって」
紬はボスの頭を撫でながら、もう一度画面に目を向けた。
海底で必要なものだけを選び、回収する。あるいは、泥を密閉したまま引き揚げ、船上で処理する。どちらにも利点と問題があるなら、最初から一つの方式に決める必要はないのかもしれない。
「アイリス。海の底で分ける方法と、上に持ってきてから分ける方法、両方考えられる?」
「もちろんです。環境への影響、設備の複雑さ、処理速度、エネルギー消費、維持管理の観点から比較できます」
「じゃあ、比べてみたい。どっちか一つだけじゃなくて、組み合わせてもいいし」
「承知しました」
画面の工程図が、二つの大きな系統に分かれた。
紬はそれを眺めながら、ふと別のことを思いついた。
「そういえば……これって、取るところから最後まで、全部つなげられないのかな」
「一連の工程を統合する、という意味でしょうか」
「うん。海の底で泥を取る機械と、上に運ぶ機械と、レアアースを分ける機械が、全部ばらばらだと大変そうだから。必要な量に合わせて、自分たちで調整してくれたら楽かなって」
紬の言葉に、アイリスの青い瞳がわずかに細められた。
「統合管理型の自動システムですね。採掘量、処理能力、輸送量、精製工程を連動させれば、工程間の滞留や無駄な運転を減らせる可能性があります」
「あと、壊れそうになったら止まってほしい」
「異常検知と安全停止ですね」
「海の生き物が近くに来たら、避けるとか……」
「観測可能な範囲で生物の接近を検知し、作業を中断する仕組みも検討できます。ただし、すべての生物を確実に検知できるとは限りませんので、事前の環境調査や採掘区域の設定も併用すべきでしょう」
紬は頷いた。
話しているうちに、頭の中で少しずつ装置の姿が組み上がっていく。
海底を移動する小型の採掘機。泥を外へ散らさずに回収する密閉式の機構。必要な成分を取り出す処理設備と、海上へ運ぶための輸送装置。回収した資源を産業用原料にするための分離・精製施設。
それぞれを独立した機械として作るのではなく、互いの状態を確認しながら動く一つのシステムにする。
紬の能力なら、そうした仕組みを実現する技術そのものを創造できる。しかし、どのような条件で運用し、何を優先するかは、先に決めておく必要があった。
「ねえ、アイリス。日本で使う分だけじゃなくて、いっぱい取れるようにもできるのかな」
「技術的には検討可能です。ただし、資源の埋蔵量、採掘可能な範囲、環境上許容される規模、輸送と精製の能力などを確認しなければ、継続的な供給量は判断できません」
「そっか。海の底にある量は、無限じゃないもんね」
「そのとおりです。今回は、マスターの能力で資源そのものを新たに生み出す計画ではありません。実在する海底資源を、効率よく利用するための技術開発です」
紬は小さく頷いた。
万物創造を使えば、レアアースを直接作り出すことも考えられる。けれど今回、政府が相談してきたのは、国内に存在する資源を利用する仕組みだった。
紬がすべての原料を一人で作り続けるより、政府や企業が自分たちで運用できる設備を整えたほうが、長く役に立つかもしれない。
それに、技術を使う人たちが自分たちで判断できるようにしておけば、紬が毎日のように呼び出されることもない。
「……うん。私、それなら作ってみたい」
その言葉に、ボスが紬を見上げた。
「いいのか? 結構でかい話だぞ」
「うん。でも、全部を私がやるわけじゃないし。作ったあとの運用は、ちゃんと専門の人たちにお願いしたい」
「ならいい。お前が海の底まで毎日通う羽目になったら、俺が文句言ってやる」
「ふふ。ボスも一緒に来てくれる?」
「当たり前だろ。……ただし、五千メートルの海底を泳げって言うなら断るからな」
「ボス、泳ぐの得意じゃないの?」
「得意かどうかと、そんな深いところに行きたいかは別問題だ!」
紬は笑った。
アイリスも微笑みを浮かべたが、すぐに政府からの相談文書へ視線を戻した。
「マスター。協力を受けるのであれば、政府側へ先に確認しておくべき事項があります。調査資料の提供範囲、海域での作業許可、環境影響評価の進め方、試験設備の設置場所、それから完成後の管理責任です」
「……いっぱいあるね」
「はい。ただ、現時点ですべてを決定する必要はありません。まずは協力の意思と、開発にあたっての基本条件をお伝えするのが適切かと」
紬は腕の中のボスを見た。
「お願いしてもいい?」
「おう。そういう話は俺の仕事だ」
ボスは一度大きく伸びをすると、アイリスに向かって翼を上げた。
「総理につないでくれ。こっちの返事を伝える」
*
官邸の執務室に連絡が入ったのは、三浦が翌日の調整資料を確認している最中だった。
ボスからの返答が届いたと知らされ、三浦は高瀬に報告し、限られた関係者だけで音声回線を開いた。
『よう、総理。例の海の底の泥の件、話は聞いたぜ』
「ボスさん。早速のご連絡、ありがとうございます」
三浦が答えると、ボスは気にした様子もなく続けた。
『紬は協力してもいいってよ。ただし、いくつか条件がある』
「ぜひ聞かせてほしい」
高瀬が静かに促した。
『まず、海をめちゃくちゃに掘り返すようなやり方はしねえ。どこをどれだけ掘るか、ちゃんと調べてから決める。あと、機械を作ったからって、紬がずっと面倒を見るわけじゃねえぞ』
「その点は理解している。環境調査と運用責任は政府側で担うべきものだ」
『それから、できた機械をいきなり本番で使うつもりもねえ。試験して、問題があれば直す。使う人間にも確認してもらう』
高瀬は頷いた。
「当然の条件だと思う。必要な調査や許可を省略するつもりはないし、実際の採掘を始めるかどうかは、試験結果を踏まえて判断する」
『なら話が早え。紬は今、どういう仕組みにするか考えてるところだ。海底で泥を取って、運んで、必要なもんを分けるところまで、まとめて動かせるようにしたいらしい』
その説明を聞いた理沙が、思わず身を乗り出した。
「統合型のシステムですか?」
『おう。何だ、白石もいるのか』
「います。今のお話を、もう少し詳しく伺ってもよろしいですか」
理沙の声には、研究者としての興味が隠しきれずに滲んでいた。
ただし、以前のように未知の装置が現れたこと自体に驚いているわけではない。彼女が知りたいのは、どの課題を、どのような考え方で解決しようとしているのかだった。
『詳しいところはアイリスから聞いてくれ。俺が説明すると、泥を吸って運ぶすげえ機械、で終わっちまう』
『では、現時点での構想をご説明します』
回線にアイリスの声が加わった。
『マスターは、採掘から精製までを個別に最適化するのではなく、全工程の処理能力と環境負荷を一体として管理する方式を検討しています。海底での一次処理と、回収後の処理については複数案を比較中です。いずれも、現段階では構想であり、完成した装置や実証済みの性能があるわけではありません』
「なるほど。まだ方式を決め切っていないんですね」
『はい。政府が保有する海底地形、堆積物、海洋環境、対象元素の分布に関する資料をご提供いただければ、設計条件の整理に利用できます。ただし、既存の調査結果だけで海底全域の状態を把握できるわけではありません。追加の調査が必要となる可能性があります』
理沙は手元のメモに素早く書き込んだ。
「資料の提供は可能な範囲で調整します。海洋開発の専門家にも協力を依頼したいですね。特に、泥を回収する際の海底面への影響と、周囲への粒子の拡散は重点的に検討したいところです」
『同意します。また、長期間の運転による機器の摩耗や、保守作業の負担も評価対象に含める予定です』
「そこまで考えているなら、こちらも準備を進めやすいです」
高瀬は二人の会話が一段落するのを待ってから、改めて口を開いた。
「ボスさん。紬さんにも伝えてほしい。今回の協力には感謝している。ただ、急いでいるからといって、無理をしてもらいたいわけではない」
『分かってるよ。あいつも、自分でやりたいって言ってる。そこは心配すんな』
「ありがとう」
『それより総理、そっちこそちゃんと準備しとけよ。装置ができても、使う場所が決まってねえんじゃ話にならねえからな』
三浦が小さく息を吐いた。
「おっしゃるとおりです。関係機関との調整はこちらで進めます」
『おう。じゃあ、詳しい資料はアイリスとやり取りしてくれ。俺からは以上だ』
通信が切れると、執務室にはしばらく静かな空気が残った。
高瀬は窓の外へ視線を向けた。
中国の輸出規制が解除されたわけではない。日本企業の在庫が増えたわけでもなく、南鳥島沖からレアアースが一グラムでも新たに供給されたわけでもない。
それでも、先ほどの連絡によって、政府が取り得る選択肢は一つ増えた。
「三浦君。これは中国への対抗措置としてだけ考えるべきではないな」
「といいますと」
「今回の規制がいつまで続くかは分からない。仮に明日解除されたとしても、資源の供給を特定の国に大きく依存する問題がなくなるわけではない。国内にある資源を、環境と採算性に配慮しながら利用できるなら、その価値は長期的なものになる」
「はい。調達先の分散と国内供給基盤の整備は、別の課題として継続すべきだと思います」
「ただし、期待を先行させてはいけない。国民に説明するのは、実際に確かめられた成果が出てからだ」
理沙も頷いた。
「私たちも、装置の性能だけではなく、海洋開発の専門家による評価を受ける必要があります。深海という環境については、まだ分かっていないことが多いですから」
高瀬はその言葉を受け、関係省庁に準備を進めるよう指示した。
南鳥島周辺の既存調査資料を整理すること。追加の環境調査と試験に必要な手続きを検討すること。試験段階で得られるデータを適切に記録し、装置の提供者だけに安全判断を依存しない体制を整えること。
技術開発が始まるからといって、政府側の仕事が減るわけではなかった。むしろ、実用化へ向けて責任を持つための仕事が、これから増えていくことになる。
*
同じ頃、紬は秘密基地の研究室にいた。
普段なら何かを思いついた途端に完成品を創ってしまうこともある彼女だったが、今回はまだ、目の前に大きな機械を出現させてはいない。
広い作業台の上には、アイリスが投影した立体図が浮かんでいる。海底に置かれた採掘装置の模型から、細い線が海上の設備へ伸び、その先に輸送と精製の工程が続いていた。
紬は図の一部を指で示した。
「ここ、泥を取る量が増えたら、上に運ぶほうも忙しくなるよね」
「はい。採掘能力だけを増やしても、後続工程が追いつかなければ設備内に処理待ちの泥が蓄積します」
「じゃあ、上がいっぱいになったら、下は少し休むようにして……」
紬の指先の動きに合わせ、立体図の中の矢印が細くなった。
「処理能力に応じて採掘速度を自動調整する方式ですね」
「うん。あと、どこか一つ壊れたら、ほかの機械も無理しないで止まってほしい」
「工程ごとの安全停止と、システム全体の協調制御を組み込みましょう」
ボスは作業台の端に座り、目の前の立体図を眺めていた。
「なんか、工場を丸ごと海の底に持っていくみてえだな」
「全部を海底に置くとは限らないよ」
「分かってるって。けど、ずいぶん大仕事になりそうじゃねえか」
紬は少し考えてから、頷いた。
「うん。でも、一回ちゃんと作ったら、あとはみんなが使えるようにしたい」
その言葉に、ボスは何も言わず、短い翼を軽く振った。
紬は再び立体図に向き直る。
万物創造を使えば、欲しい機能を備えた装置を一度に創り出すことはできる。だが今回は、創った瞬間にすべてを終わらせるつもりはなかった。
必要なのは、政府が実際の海で試験し、専門家が評価し、長く運用できる仕組みである。機械の性能がどれほど高くても、使う場所や環境に合わなければ意味がない。
「アイリス。まず、設計のための試作から始めようかな」
「承知しました。最初に、海底採掘部と密閉回収機構の候補を整理しますか?」
「うん。それと、泥を分けるところも。どっちが先に決まるかで、運ぶ方法も変わりそうだから」
「合理的な順序です。複数の方式を比較できるよう、評価用の試作設備を準備しましょう」
紬が手をかざすと、作業台の上に小さな金属製の装置が現れた。
それは海底に設置する完成品ではなく、泥の回収方法を比較するための試験用機構だった。透明な試験容器の内部には、粒子を含んだ模擬試料を流すための細い流路が組み込まれている。
紬はその構造を確かめながら、隣にもう一つ、異なる方式の試験用機構を創り出した。
「まずは、こっちとこっちを比べてみよう」
「はい。回収効率だけでなく、周囲への粒子の拡散、エネルギー消費、保守のしやすさも評価項目に加えます」
「本物の海で使う前に、いっぱい確かめないとね」
ボスは二つの試験装置を見比べ、少し呆れたように笑った。
「ったく。最初は海の底の泥って聞いて、何の話かと思ったけどよ。お前、もう楽しそうじゃねえか」
「……ちょっとだけ」
「ちょっと、ねえ」
紬は照れたように笑い、装置の位置を整えた。
彼女にとって、何かを創ることは特別な使命ではない。面白そうだと思ったものを形にすることも、誰かの役に立ちそうだから試してみることも、同じように自分の意思で選んできた。
今回も、それは変わらなかった。
遠く離れた太平洋の深海には、まだ人の手がほとんど届いていない泥が静かに堆積している。
その中に眠る資源を、日本の産業を支えるものへと変えられるのか。環境を守りながら、必要な量を、無理のない費用で取り出せるのか。
答えはまだ出ていない。
ただ、紬の目の前には二つの試験装置が並び、アイリスは比較項目を整理し、ボスはその様子を興味深そうに見守っていた。
海の底へ向かうための準備が、ようやく始まったのだった。




