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うちのぺんぎんが日本政府と交渉している件  作者: むぎちゃ
第3章 小さな奇跡と大国の思惑
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第58話 総理大臣、世界に告げる

 首相官邸の記者会見室には、普段の会見とは明らかに異なる緊張が漂っていた。


 正面の演台には日本国旗が掲げられ、その背後に設置された大型スクリーンには、深い青色を背景とした一枚の資料が映し出されている。そこに記されているのは、南鳥島周辺海域の地図と、見慣れない長い技術名称だった。


 『深海底資源採掘・精製統合システム』


 記者席は国内の主要報道機関だけでなく、海外の通信社や経済専門紙、各国のテレビ局から派遣された記者たちで埋まっている。後方には同時通訳用の設備が並び、会見の模様は複数の言語に翻訳されながら世界へ生中継される予定になっていた。


 政府が事前に公表したのは、「日本の資源政策に関する重要発表」という短い案内だけである。


 中国による指定レアアースの対日輸出規制が続くなか、首相自らが国際記者会見を開くという事実は、それだけで各国の関心を集めるには十分だった。


 しかし、会場の記者たちが予想しているのは、新たな調達協定や経済対策、あるいは中国への外交的な要求といった内容が大半だった。


 日本が何を発表しようとしているのか、その全容を知る者はまだ限られている。


 会見開始まで、あと十分。


 官邸内の控室では、高瀬隆一が最終版の説明資料を確認していた。


「この部分は、もう少し明確にした方がいいだろう」


 高瀬が指で示したのは、今後の資源供給に関する見通しだった。


「試験の成功と、安定した商業供給が可能になったことは同じではない。聞く側が混同しないよう、最初の説明で区別しておきたい」


「承知しました。国内向けの供給開始時期についても、確定した日程としては発表しません」


 三浦誠司官房長官が資料の該当箇所を確認する。


 その隣では白石理沙が、技術説明に用いる図の最終点検を続けていた。


「性能を過小評価する必要はありませんが、実証した範囲を超えて断言するのは避けたいですね。今回確認できたのは、実際の海底から採取した泥を、一連の設備で処理してレアアースを取り出せたという事実です。長期間の連続運転や、採掘区域を拡大した場合の環境影響は、これから評価する必要があります」


「そこは君の説明をお願いする」


「はい。ただ、総理。一つ気になっていることがあるのですが」


 白石は手元の資料から顔を上げた。


「この名前、本当にそのまま発表するんですよね?」


 高瀬は一瞬だけ目を細め、三浦は何も言わずに資料の表紙を見つめた。


 そこには技術名称とは別に、正式な装置名が記されている。


 『ぺんぎんほりほり』


「正式名称だからね」


 高瀬が落ち着いた声で答えた。


「国際記者会見で、総理大臣が?」


「そういうことになる」


「……分かりました。私は技術者として、名称と性能を切り離して考えることにします」


 三浦が小さく息を吐いた。


「私も、そうする努力を続けています」


 高瀬は二人の様子を見て、わずかに笑みを浮かべた。


「名前に驚いてもらうのは構わない。だが、その後で中身を知ってもらわなければ困る。今日はそのための会見だ」


 机の上には、政府が公表する情報と秘匿する情報を整理した一覧も置かれていた。


 南鳥島沖の試験海域、採掘から精製までの基本的な工程、限定試験で確認された成果、今後の検証項目。これらは説明する。


 一方、装置の核心部分の構造、製造方法、そして何より、その装置を生み出した人物については明かさない。


 紬の存在を守るという約束は、世界の注目が集まる今日も変わらなかった。


「発明者に関する質問は、必ず出ます」


 三浦が言った。


「その場合は、開発に関わる個人の情報は非公開とし、政府が運用と安全管理の責任を負う、と回答します」


「それでいい。技術がどれほど優れていても、協力者の生活を犠牲にしてよい理由にはならない」


 高瀬は資料を閉じ、立ち上がった。


 扉の向こうから、会見開始を知らせる職員の声が聞こえる。


 長年、資源を海外からの輸入に頼ってきた国が、自国の海底に眠る資源を利用する新たな道を世界へ示そうとしていた。


 その発表が国際社会にどのような波紋を広げるのか、現時点で正確に予測できる者はいない。


 それでも高瀬には、一つだけ確かなことがあった。


 今日、伝えるべき事実がある。


     ◇


 会見開始の時刻になると、室内の話し声が次第に収まり、カメラのレンズが一斉に演台へ向けられた。


 高瀬が姿を現すと、無数のシャッター音が重なった。


 演台の前に立った首相は、国内外の記者席をゆっくり見渡してから、用意された原稿に目を落とした。


「本日は、日本の資源政策に関する重要な進展について、国民の皆様、そして国際社会の皆様にご報告いたします」


 会場が静まり返る。


「日本はこれまで、多くの産業に不可欠なレアアースの供給を海外に依存してきました。特定の地域に生産や精製が集中することは、国際情勢の変化によって供給網が大きな影響を受ける要因となります」


 高瀬は一度言葉を区切った。


「現在、中国政府による日本向けの一部レアアースおよび関連精製品の輸出規制が実施されています。政府としては、規制の見直しを求める外交努力を継続するとともに、企業への支援、調達先の多様化、代替材料の研究を進めています」


 そこまでは、記者たちにとって予想の範囲内だった。


 だが、続く一言で会場の空気が変わった。


「本日、私からご報告するのは、それらの対応とは別に、日本国内の資源供給能力を根本から変える可能性を持つ、新たな技術の実証成果です」


 背後のスクリーンが切り替わり、太平洋に浮かぶ南鳥島と、その周辺海域を示した地図が表示された。


「日本政府は、南鳥島周辺の我が国の排他的経済水域に存在するレアアース泥を対象として、深海底からの採掘、回収、輸送、元素の分離、精製までを統合的に行う新たなシステムの実海域試験を実施しました」


 記者席の前列で、数人が同時に顔を上げた。


「そして、その試験において、水深五千メートルを超える海底から実際に採取した泥を処理し、レアアースを分離・精製することに成功しました」


 一瞬、会場の音が消えたように感じられた。


 直後、記者たちが手元の端末を操作し始める。海外の記者は通訳用イヤホンを押さえ、聞き間違いではないことを確かめるようにスクリーンを見つめた。


 南鳥島周辺にレアアースを含む泥が存在すること自体は、以前から知られていた。


 問題は、それを深海から取り出し、利用可能な形にするまでの工程が、極めて困難であるという点だった。


 水深五千メートルを超える海底での作業には巨大な水圧への対策が必要であり、採取した泥を海上へ運ぶにも相応の設備とエネルギーを要する。さらに、泥の中から目的の元素を分離し、産業で利用できる品質まで精製しなければならない。


 それらの工程を一つのシステムで実現したという発表は、単なる新鉱床の発見とは意味が異なっていた。


 高瀬の背後に、装置全体の模式図が映し出される。


 海底に設置された採掘ユニットから、閉じた処理経路を通じて泥を移送し、分離・精製設備へ送り込む。各工程の運転状況は統合制御され、採取区域や周辺環境の観測情報も管理系統に集約される。


「今回の試験では、限定された採取区域において、採掘から精製までの工程が連動して機能することを確認しました。また、運転中に検出された流量の変化に対して、安全停止と確認手続きを経た再開が行えることも確認しています」


 これは試験記録に基づく説明であり、成功した部分だけを切り取ったものではなかった。


「一方で、長期の連続運転、製品品質の安定性、設備の保守、採掘範囲を拡大した場合の環境影響については、引き続き評価が必要です。政府は、これらの検証を省略して商業供給へ移行することはありません」


 記者席から小さなざわめきが生まれる。


 首相の発表は慎重だったが、慎重であるからこそ、試験成功という事実の重みが際立っていた。


「本システムには、採掘や輸送に必要な工程を効率化し、従来想定されていた深海資源開発の費用を大幅に低減できる可能性があります。現時点では、限定試験の結果と設計上の見通しに基づく評価であり、実際の事業採算については、継続運転の結果を踏まえて判断します」


 高瀬はそこで、少しだけ表情を和らげた。


「なお、この装置には正式な名称があります」


 背後のスクリーンが再び切り替わった。


 白地の中央に、大きな文字が表示される。


 『ぺんぎんほりほり』


 数秒間、誰も声を発しなかった。


 それまで真剣な表情で説明を聞いていた海外の記者が、通訳用イヤホンを片手で押さえ直す。日本人記者の一人は、手元の資料とスクリーンを交互に見比べた。


 高瀬は表情を崩さず、説明を続けた。


「技術資料上の名称は『深海底資源採掘・精製統合システム』ですが、装置の正式名称は『ぺんぎんほりほり』です」


 後方の記者席で、誰かが小さく咳払いをした。


「名称は親しみやすいものですが、技術そのものは、我が国の資源供給に新たな選択肢をもたらす重要な成果です」


 高瀬は、少しも言いよどまなかった。


 その姿を見て、最前列の記者が慌てて端末へ文字を打ち込む。


 世界に向けた重大発表の見出しに、どうしても避けて通れない単語が一つ増えた瞬間だった。


     ◇


 質疑応答が始まると、最初に手を挙げたのは国内の経済紙の記者だった。


「今回の成功によって、日本は中国からのレアアース輸入に依存する必要がなくなるのでしょうか」


「将来的に依存度を引き下げる可能性はあります。ただし、現段階で輸入が不要になったと申し上げることはできません」


 高瀬は明確に答えた。


「レアアースには複数の元素があり、用途ごとに必要な品質や量も異なります。南鳥島周辺の泥に含まれる資源が、国内産業のあらゆる需要を直ちに満たすわけではありません。政府は今回の成果を踏まえながら、既存の調達網も引き続き維持します」


 次に指名されたのは、米国の通信社の記者だった。


「首相、技術的な革新性について確認させてください。従来の深海採掘では、採掘そのものだけでなく、回収や精製にかかる費用が課題とされてきました。今回のシステムでは、その問題がどのように解決されたのでしょうか」


 高瀬が白石へ視線を向ける。


 説明を引き継いだ白石は、スクリーンの模式図を示しながら答えた。


「従来の方式では、海底で採取した大量の泥を海上へ運び、別の場所で処理することが想定されます。しかし、今回のシステムでは、採取から処理までの工程を統合的に制御し、移送する物質の量や各工程で必要となる作業を抑える設計が採用されています」


「つまり、海底で精製まで完了するのですか?」


「すべての工程を海底の一か所で行う、という意味ではありません。海底設備と、それに接続された処理・精製設備を一つの系統として運用する方式です。設備の詳しい配置や核心部分の構造については、技術保護と安全管理の観点から公開を控えます」


 記者はさらに質問を重ねた。


「その技術は、日本の既存の研究機関が開発したものですか。それとも、核融合炉と同じように、外部の技術協力者が関与しているのでしょうか」


 会場の関心が一斉にその質問へ集まった。


 日本がこれまで公表してきた超小型核融合炉や、がん治療技術。いずれも従来の科学技術からは考えられない性能を持ち、その開発経緯の詳細は明らかにされていない。


 今回の装置も同じなのではないか。


 多くの記者が、そう考えていた。


「本事業には、政府が協力関係を結ぶ技術提供者の支援があります」


 高瀬は答えた。


「ただし、個人の特定につながる情報や、技術の核心に関する事項については公表いたしません。政府が責任を負うのは、設備の運用、安全管理、環境評価、そして国民への説明です」


「開発者を公表しないまま、国家の重要な資源政策を進めることに問題はないのでしょうか」


「開発者の私生活を公開することと、技術の安全性を検証することは別の問題です。後者については、必要な専門家による評価と政府の管理責任を明確にして進めます。説明できる部分を隠すつもりはありませんが、協力者の安全と権利を守ることも重要だと考えています」


 答えを聞いた記者は、それ以上同じ質問を重ねなかった。


 ただし、会場にいる誰もが納得したわけではない。


 技術の詳細を公表しない以上、外部から検証できる範囲には限界がある。日本政府の説明をどう評価するかは、今後公開される運転実績や環境データにも左右されるだろう。


 高瀬も、その点を理解していた。


 続いて、欧州の経済専門紙の記者が質問した。


「環境への影響について伺います。深海底には、まだ十分に解明されていない生態系が存在します。今回の技術が効率的であったとしても、採掘を拡大することで生物や海洋環境へ影響を及ぼす可能性は否定できないのではありませんか」


「その懸念は当然のものです」


 白石が応じた。


「今回の試験では採取区域を限定し、周辺の濁度や流れ、生物の状況などを観測しました。試験時の管理目標に照らして、作業を継続できる範囲にあることは確認していますが、それをもって環境への影響が一切ないと結論づけることはできません」


 彼女は図を切り替え、採掘区域と観測地点の関係を示した。


「重要なのは、運転中だけでなく、その後の変化を継続して調べることです。採掘量や範囲を拡大する場合には、その段階に応じた評価が必要になります」


「では、現時点で商業運転を認可するという発表ではないのですね」


「はい。今回の発表は、実海域試験で一連の工程が成功したという報告です」


 白石がそう言い切ると、記者席の何人かがうなずいた。


 次に質問したのは中国の報道機関の記者だった。


「日本政府は、中国によるレアアース輸出規制への対抗措置として、今回の発表を行ったのでしょうか。また、この技術を利用して中国のレアアース産業に経済的な打撃を与える意図はありますか」


 会場の空気が再び引き締まる。


 高瀬は質問者をまっすぐ見た。


「日本が自国の資源を活用し、供給網の安定性を高めようとすることは、特定の国に損害を与えるための行為ではありません」


 落ち着いた声だった。


「今回の技術開発が進められた背景には、供給の不安定化という現実の課題があります。しかし、日本の資源政策の目的は、国内産業と国民生活を支えることにあります」


「中国の規制に対して、今後も撤回を求めるのでしょうか」


「その方針に変更はありません。私たちは外交的な対話を続けます。同時に、日本自身ができる備えを進めていきます」


 質問した記者が席に戻ると、今度は別の海外通信社の記者が手を挙げた。


「将来的に、この装置で精製されたレアアースを海外へ輸出する計画はありますか」


「可能性は検討しています。ただし、国内への安定供給もまだ実現していない段階です。まずは継続運転の検証と、国内産業が利用できる品質・供給体制の確立を優先します」


「価格面では、中国産の製品と競争できると考えていますか」


「設計上は、国際市場で競争力を持ち得る低い製造費用が見込まれています。ただし、具体的な販売価格を現時点でお約束することはできません。費用には設備運用、保守、環境監視、輸送なども含まれますので、継続運転の実績を確認したうえで判断します」


 会見は、予定していた時間を超えて続いた。


 質問は技術の安全性から資源外交、供給開始の時期、採算性、発明者の秘匿にまで及んだが、高瀬は答えられることと答えられないことを区別し、成果を誇張することなく説明を続けた。


 そして最後の質問が終わると、改めて会場を見渡した。


「日本は、これまで海外から購入するしかなかった資源について、自ら確保するための新しい手段を得ようとしています」


 高瀬の声が、会見室の隅々まで届く。


「本日発表したのは、その第一歩が実際の海で成功したという事実です。これを安定した供給につなげるには、なお多くの仕事が残っています。政府として責任を持って取り組んでまいります」


 一礼して演台を離れる首相を、数十台のカメラが追いかけた。


 会見終了を告げる案内が流れても、記者席のざわめきは収まらなかった。


     ◇


 その頃、東京から遠く離れた場所でも、日本の発表は注目を集めていた。


 中国の経済政策を担当する王志強は、執務室の大型画面に映し出された会見の翻訳記録を読み返していた。


 画面には、南鳥島沖の海底からレアアース泥を採取し、精製まで成功したという日本政府の発表が表示されている。


「……実海域試験に成功した、だと?」


 王は眉間にしわを寄せた。


 日本が南鳥島周辺の資源開発に関心を持っていることは、当然把握していた。だが、深海底からの採掘と精製を統合する技術が、これほど早く実証されるとは想定していなかった。


 もっとも、発表だけで直ちに中国の輸出産業が打撃を受けるわけではない。


 日本はまだ商業供給を開始しておらず、継続運転や採算性も検証中だと明言している。


 それでも、今回の成果を単なる宣伝として片づけることはできなかった。


 日本政府が虚偽の発表を行う危険を冒してまで、世界へ生中継する理由は考えにくい。少なくとも、何らかの実証結果を得たと判断するべきだった。


「日本の調達先を制限すれば、交渉上の圧力になるはずだった」


 王は独り言のようにつぶやいた。


 その政策判断自体が、直ちに無意味になったわけではない。日本企業は今なお輸入品を必要としており、代替調達には時間がかかる。


 しかし、日本が独自の供給能力を持つようになれば、規制を長期的な交渉材料として利用することは難しくなる。


 さらに厄介なのは、今回の技術が日本国内の需要を超える規模に発展した場合だった。


 中国が優位を保ってきた市場そのものが、変わる可能性がある。


 王は資料を閉じず、別の項目を開いた。


 開発者に関する情報は非公開。


 核心技術も非公開。


 それなのに、日本政府はすでに現地試験の成功を発表している。


「いったい、どこからこんな技術が出てくる……」


 答えのない問いが、執務室に残った。


 一方、欧州では複数の製造業関係者が、日本政府の会見内容を精査していた。


 レアアースの安定供給は、電気自動車や風力発電設備、産業用機械などに関わる重要な課題である。特定の供給元に依存しない調達先が増えるのであれば、歓迎する理由は十分にあった。


 ただし、発表されたのは試験成功であり、注文できる製品が市場に出回り始めたわけではない。


 そのため各企業の反応は、期待と慎重さが入り交じったものになっていた。


 米国でも、政府関係者や資源関連企業が日本の発表を分析し始めている。


 これまで日本が提供してきた核融合技術やがん治療技術と同じく、今回も既存の技術水準を大きく超える成果だった。日本の供給能力が将来どこまで拡大するのか、各国にとって無視できない問題となる。


 世界の報道機関は、次々に速報を配信した。


 『日本、南鳥島沖でレアアースの採掘・精製試験に成功』


 『深海資源開発に新技術、供給網への影響に注目』


 『日本政府、低コスト化の可能性を示すも商業化時期は未定』


 そして、どの国の報道でも扱いに困っているらしい話題が一つあった。


 装置の正式名称である。


 英語圏の記者たちは、技術資料名を用いるべきか、それとも日本政府が発表した『ぺんぎんほりほり』という名称を音訳すべきかで、しばらく頭を悩ませることになった。


     ◇


 同じ頃、小鳥遊紬の自宅では、世界を騒がせている記者会見の録画がテレビに映し出されていた。


 ソファの上で膝を抱えた紬は、腕の中のボスを撫でながら、画面に表示された大きな文字を見つめている。


 『ぺんぎんほりほり』


「……本当に言った」


 紬がぽつりとつぶやいた。


「当たり前だろ。正式名称なんだからよ」


 ボスは胸を張った。


「総理が堂々と言ってたじゃねえか。なかなか似合ってたぞ」


「……似合ってた、かな」


「少なくとも、変な名前だと思ってる顔はしてなかったな」


 紬は会見の映像を思い返し、少しだけ口元を緩めた。


 高瀬が装置の名前を読み上げた瞬間、会場の空気が変わったことは、テレビ越しでもよく分かった。


 それでも首相は、最後まで真面目な顔で説明を続けていた。


「マスター、国内外の報道機関が会見内容を記事化しています。正式名称の扱いには多少のばらつきがありますが、技術的な成果については広く報じられています」


 銀白色の長い髪を揺らしながら、アイリスのホログラムがソファのそばに現れた。


「ほらな。名前なんて覚えてもらってなんぼだ」


「ただし、名称が注目されることと、技術への理解が深まることは必ずしも同じではありません」


「お前はもうちょっと夢を持てねえのか」


「私は十分に期待しています。今回の成果が、実際に資源を必要とする人々へ届くことを」


 その言葉に、紬はテレビから目を離した。


「……まだ、届いてないもんね」


「はい。現在は限定的な試験成功の段階です。国内供給を開始するには、運転の継続性、品質の安定、環境観測、供給経路の整備など、政府側で確認すべき事項が残っています」


「でも、できることは増えたんだよね」


「それは間違いありません。これまで利用が難しかった深海底の資源を、実際に取り出せることが確認されました」


 紬は小さくうなずいた。


 世界中の記者が質問し、政治家や企業がその意味を考え、各国の政府が将来の影響を分析している。


 そんな大きな話になっていることが、まだ少し不思議だった。


 紬にとっての始まりは、困っている人がいると聞いたことだった。日本の企業が材料を手に入れられなくなれば、そこで働く人たちにも影響が出るかもしれない。そう考えて、何かできないかと思った。


 もちろん、今の紬がすべての問題を解決したわけではない。


 けれど、何もできないまま見守るしかなかった状況から、一つ前へ進むことはできた。


「……ちゃんと使ってもらえるといいな」


 ボスは紬の腕の中で少し体勢を変え、彼女の顔を見上げた。


「そのために、政府の連中が頑張ってんだろ。お前が全部背負う必要はねえよ」


「……うん」


「それに、まだ試験が終わっただけだ。これから本格的に動かすなら、問題が出ることだってある。そういうときは、また相談すりゃいい」


 紬はボスの頭を撫でた。


「……ボス、頼りにしてる」


「おう。任せとけ」


 得意げに答えた直後、ボスはテレビの画面へ目を戻した。


 ちょうどニュース番組では、海外の記者が装置の正式名称を発音しようとしている場面が流れている。


 何度か言い直した末、記者はようやく『ぺんぎんほりほり』に近い音を口にした。


「……おい、聞いたか?」


「……うん」


「世界中で俺たちの名前を覚えようとしてるぞ」


「装置の名前です、ボス」


 アイリスが訂正する。


「細けえことはいいんだよ。なんかすげえだろ」


 紬はとうとう笑ってしまった。


 世界中が深海資源の未来について議論している一方で、その技術を生み出した本人の関心は、テレビの向こうで少し言いにくそうに発音される名前へ向いている。


 そんな光景を、誰も想像していないだろう。


 やがて番組は次のニュースへ移り、紬はリモコンを手に取った。


「……お腹すいた」


「俺もだ。今日は魚にしようぜ」


「……昨日も魚だったよ?」


「うまい魚は何回食ったってうまいだろ」


「マスター、本日の献立には別の候補もございますが」


「……じゃあ、ボスは魚で、私はオムライス」


「おい、なんでお前だけ別のもん食うんだよ」


「……ボスが魚って言ったから」


 紬が笑いながら立ち上がると、ボスは不満そうにくちばしを動かしたものの、結局はその腕の中でおとなしくしていた。


 テレビの向こうでは、世界が日本の新技術を巡って動き始めている。


 だが、この部屋の夕食の献立だけは、いつもと変わらない調子で決まっていった。


 深海五千メートルの底から始まった小さな成果が、やがてどれほど大きな変化につながるのか。


 その答えが出るのは、もう少し先のことだった。

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