第47話 炉が覚えていたこと
小鳥遊紬がソファの上で読みかけの小説を閉じたのは、テーブルに置いてあった端末が控えめな通知音を鳴らしたからだった。
膝の上では、ボスが丸い身体をクッションに預けながら、テレビの料理番組を眺めている。画面の中では料理人が大きな魚を捌いており、普段なら何かしら注文をつけるところだが、今日は珍しく静かだった。
紬が端末へ手を伸ばすより先に、銀白色の髪をしたアイリスが視線を向けた。
「日本政府から連絡が届いています。送信者は三浦官房長官です。中国へ輸出した核融合炉について、技術的な相談を希望されています」
「……中国の?」
紬の声に、ボスが顔を上げた。
「例の止まったってやつか」
「はい。現地調査が終了しましたが、原因を特定できなかったとのことです。報告書と調査資料も添付されています」
ボスはテレビから目を離し、紬の膝の上で姿勢を整えた。
「そりゃ、ただの故障じゃねえ可能性もあるってことだな。紬、どうする?」
「……見てみよう。危ないことだったら、困るし」
「承知しました」
アイリスが指先を動かすと、テーブルの上に淡い光の画面が広がった。
そこには中国側が提出した故障報告、日本から派遣された技術者たちの調査結果、現地で撮影された装置の外観写真が整理されていた。
紬は最初の数行を読んだところで眉を寄せた。
「……難しい」
「全部読む必要はねえだろ。アイリス、要するに何が起きてんだ?」
「中国側の説明では、登録された民生用施設で運転を停止したあと、再起動できなくなったということです。日本の技術者が調査した結果、外部設備に明確な異常はなく、装置は保護状態を維持しています。ただし、その保護状態へ移行した理由は通常の診断手順では確認できませんでした」
「壊れたのかどうかも分からねえってことか」
「正確には、装置が再起動を拒否している理由が分からない、という状況です」
アイリスは画面を切り替え、佐伯主任がまとめた調査結果を表示した。
外装に損傷なし。封印に異常なし。正規の外部通信は正常。周辺設備にも、停止を説明できるほどの故障は見つかっていない。
それにもかかわらず、装置は起動要求を受け付けなかった。
「……アイリスなら、分かる?」
紬が尋ねると、アイリスはすぐには答えなかった。
「可能性はあります。ただし、現在こちらにある資料だけでは断定できません。装置内部に保存されている保護履歴を確認する必要があります」
「保護履歴?」
「装置が危険な状態を検知した際、何を根拠に、どの機能を作動させたのかを記録する仕組みです。通常の運転記録とは独立しています」
紬は少し考え込んだ。
核融合炉を海外へ提供すると決めたとき、軍事利用や不正な改造を防ぐための機能について、アイリスと何度も相談した覚えがある。
けれど、その仕組みを自分が細部まで覚えているわけではない。設計した機能の意味は理解していても、実際の運用に必要な記録の読み方は、専門家であるアイリスに任せていた。
「……前に作った、安全装置の記録?」
「はい。通常の運用者には内容を変更できず、保護機能そのものの判定にも干渉できません。万一、運用者が虚偽の報告を行った場合でも、装置が実際に何を検知したかを確認できるようにしています」
「だったら、そいつを見りゃ早いんじゃねえか?」
「閲覧には適切な手順が必要です。今回のように政府から正式な技術相談があり、重大な停止事象が発生している場合は、解析対象として扱えます。ただし、現地の通常診断とは異なる保護された領域ですので、佐伯主任たちが読み取れなかったのは当然です」
アイリスの説明を聞きながら、紬は画面に並んだ写真を眺めた。
日本から遠く離れた場所に、自分が作った技術をもとにした装置が置かれている。
そこでは見知らぬ人たちが働き、電気を使い、暮らしている。紬にとって、その事実は今でもどこか不思議だった。
「……勝手に調べるのは、よくないよね」
「政府からの依頼はありますが、確認したい点があります。保護履歴の解析を行ってよろしいですか、マスター?」
紬はボスを見下ろした。
ボスは小さな翼を組み、真面目な顔で頷いた。
「原因が分からねえままじゃ、日本の技術者も困るだろ。変な使われ方をしてたなら、それこそ知らなきゃならねえ」
「……うん。お願い、アイリス」
「承知しました。まず装置の個体識別情報と、現地調査時に取得された正規の診断情報を照合します」
ホログラムの画面に、数字と記号が静かに流れ始めた。
アイリスは中国国内の装置を普段から監視していたわけではない。今回初めて、政府から渡された資料を起点に、問題の炉が保存している保護履歴へアクセスする。
その区別を、紬はきちんと理解しておきたかった。
「……いつも見てたわけじゃ、ないんだよね」
「はい。国外にある全装置の運転状況を常時観察しているわけではありません。今回は対象の装置を特定したうえで、保護された診断経路から履歴を取得しています」
ボスが鼻を鳴らした。
「見張ってねえからって、好き勝手していいわけじゃねえしな」
アイリスは返事をせず、画面の一点を見つめた。
その表情が、わずかに変わった。
「……取得できました」
紬は思わず背筋を伸ばした。
「原因、分かった?」
「はい。ただし、予想していた通常故障とは異なります」
アイリスが表示したのは、整然と並んだ短い記録だった。
そこには装置の停止や再起動の要求だけでなく、設置環境の変化、接続された外部設備の性質、保護機能が判定した使用目的などが、時系列に沿って残されていた。
紬には専門的な項目の意味までは分からなかったが、画面の中央に表示された日本語だけは、はっきりと読めた。
――登録設置環境からの離脱を確認。
――未承認施設への移設を検知。
――軍事用途に該当する起動要求を検知。
――軍事利用防止保護機能、作動。
――出力供給を禁止。安全停止状態へ移行。
「……え?」
紬が小さく声を漏らした。
ボスは画面を凝視したまま、しばらく動かなかった。
「おい、アイリス。これって……」
「中国へ輸出した第一炉は、登録された民生用施設から無許可で移設されています。移設先は軍事施設に該当する環境でした。そこで軍事用途の起動要求が行われたため、装置自身の保護機能が作動し、安全停止しました」
料理番組の明るい音声が、急に場違いなものに聞こえた。
ボスがリモコンを取るよう紬に目で合図し、テレビの音量が下げられる。
「……軍事施設?」
紬はもう一度、確かめるように尋ねた。
「はい」
「でも、軍事には使わないって……約束してたよね」
「そのとおりです。日本政府と中国政府が締結した協定では、軍事施設への移設と軍事目的での使用を明確に禁止しています。設置場所の変更にも事前承認が必要ですが、今回の移設について承認記録はありません」
ボスが低い声で言った。
「約束破ったってことじゃねえか」
「現時点で取得した保護履歴は、その判断を強く裏づけています」
「強く、ってことは、まだ何かあるのか?」
「装置内部の記録が示す事実と、外交上どのように認定するかは別の問題です。証拠の保全、相手国への確認、記録の照合が必要になります」
紬は膝の上のボスを抱き直した。
柔らかな羽毛の感触はいつもと変わらないのに、胸の奥が落ち着かなかった。
自分が作ったものが、人の生活を便利にするためではなく、軍事施設で使われようとしていた。
しかも、その事実は日本へ報告されていない。
「……危なくなかったの?」
「装置の保護機能は設計どおりに作動しています。核融合反応を伴う出力供給は開始されておらず、爆発や放射線異常を示す記録もありません。装置内部の主要機構にも損傷は確認されていません」
「じゃあ、誰かが怪我したりは……」
「少なくとも装置の記録上、事故につながる事象は発生していません。ただし、現地の人的状況まで、この履歴だけで断定することはできません」
紬は小さく息を吐いた。
それを見て、ボスが身体を少し傾けた。
「紬。止まるように作っといてよかったな」
「……うん」
「悪いことに使おうとしたのは向こうだ。お前がそれを望んだわけじゃねえ」
紬はすぐに返事をしなかった。
ボスが自分を慰めようとしていることは分かる。それでも、海を越えた先で起きた出来事が、遠い国のニュースとは思えなかった。
アイリスは二人の様子を見て、解析結果の表示を少し小さくした。
「マスター。装置の保護機能は、利用者の意図を無制限に読み取るものではありません。設置環境、接続先、起動要求など、装置が取得できる複数の情報から使用条件を判定しています。今回も、記録に残っているのはその判定に用いられた情報です」
「……うん」
「誰が命令したのか、誰が反対したのかまでは、この記録だけでは分かりません。そこは日本政府による確認が必要です」
ボスは画面に向き直った。
「つまり、何が起きたかは分かる。でも、誰が仕組んだかまでは分からねえってことだな」
「はい。そして、もう一つ重要な点があります」
アイリスが中国側の故障報告書を隣に表示した。
「提出された説明と、装置の保護履歴が一致していません」
報告書には、登録された民生施設で通常運転を終えたあと、再起動時に原因不明の障害が発生したと記されていた。
一方、保護履歴には、民生施設から装置が離れた時刻、別の環境に設置された時刻、軍事用途の起動要求が行われた時刻が残されている。
さらに、保護機能が作動した時点で、装置は登録された民生施設には存在していなかった。
「停止した場所が違うってことか」
「それだけではありません。中国側は通常運転後の再起動障害と説明していますが、実際には未承認の環境で軍事用途の起動要求が行われ、その要求を装置が拒否しています。停止の時刻も、報告書に記載された時刻と一致しません」
ボスは目を細めた。
「そこまで違ってりゃ、単なる書き間違いじゃ済まねえだろ」
「偶然の記録誤差で説明できる範囲を超えています」
紬は二つの資料を見比べた。
難しい言葉を全部理解できなくても、片方には「同じ場所で故障した」と書かれ、もう片方には「別の場所で禁止された使い方をされた」と記録されていることは分かる。
「……これ、日本政府に伝えなきゃ」
「はい。ただし、伝える資料の範囲を整理する必要があります」
アイリスは保護履歴を三つの区分に分けて表示した。
一つ目は、装置が軍事用途を検知して安全停止したという結論。二つ目は、設置環境や起動要求の変化を示す検証可能な記録。三つ目は、保護機能の内部判定方式に関する技術情報だった。
「三つ目をそのまま開示すると、保護機能を回避するための手掛かりを与えるおそれがあります。日本政府には必要な根拠を渡せますが、外交文書や将来の公表資料では、さらに情報を限定すべきです」
「隠すと、証拠にならねえんじゃないのか?」
「必要な情報を秘匿することと、証拠を捏造することは違います。保護履歴の原本は改変せず保全し、検証可能な形で証明資料を作成します。装置の判定方式を公開しなくても、移設と起動要求があったこと、停止時刻、記録の連続性を示すことは可能です」
「なるほどな。手品の種は見せねえけど、何が起きたかは証明できるってわけか」
「手品という表現は正確ではありませんが、おおむねその理解で問題ありません」
ボスは不満そうに嘴を鳴らした。
「一言余計なんだよ」
紬は少しだけ笑った。
けれど、画面に残る「軍事用途」という文字を見ると、すぐに表情が戻ってしまう。
「……日本が止めたんじゃ、ないんだよね」
「はい。今回の停止は、装置内部に備わった軍事利用防止機能が自動的に実行したものです。日本政府が遠隔操作で停止させた事実はありません。私も、停止時にはこの事象を認知していませんでした」
「それ、大事だな」
ボスの声が強くなった。
「向こうが勝手に持ち出して、勝手に禁止された使い方をしようとして、装置が止まった。日本が後から止めたんじゃねえ。そこは絶対に間違えるなよ」
「もちろんです」
アイリスは解析結果を整理しながら続けた。
「保護履歴には、停止後に装置が別の場所へ移されたことも記録されています。現在の設置環境は、元の登録施設と一致しています」
「……戻したんだ」
「はい。日本側の現地調査時には、すでに元の施設へ戻されていました」
紬は佐伯主任の報告書を思い出した。
外装にも封印にも異常はなかったという。日本から派遣された人たちは、与えられた資料と許可された診断手順の中で、できる限り調べていた。
それでも真相には届かなかった。
「……佐伯さんたち、悪くないよね」
「はい。通常の点検権限では保護履歴の詳細を閲覧できない設計です。彼らの調査が不十分だったわけではありません」
アイリスは紬の不安を汲み取るように答えた。
「むしろ、外部設備の異常が見つからないこと、装置が一貫して保護状態を維持していることを正確に記録してくれたため、今回の解析対象を絞り込めました」
「……そっか」
紬は少し安心したように頷いた。
アイリスはそれから、装置の保護履歴を原本のまま保全し、取得時刻と個体識別情報、改変の有無を検証するための照合情報をまとめ始めた。
政府へ送る説明文には、軍事施設への移設、軍事用途の起動要求、自動安全停止、民生施設への返送という一連の事実が、必要な範囲で記されていく。
その横には、中国側の提出資料と一致しない項目が並んでいた。
紬はしばらく黙って作業を見守っていたが、やがて小さな声で尋ねた。
「……これを送ったら、中国はどうなるの?」
アイリスの手が止まった。
「それは日本政府と中国政府の判断によります。協定には違反が疑われる場合の確認手続きが定められていますが、私たちが外交上の措置を決定する立場ではありません」
「……すぐ、電気が止まったりする?」
「今回の第一炉は、すでに自身の保護機能によって停止しています。しかし、中国にある第二炉を含め、日本政府が別の装置を停止させる措置は、まだ行われていません。今後そのような判断が検討される場合も、一般市民への影響を考慮する必要があります」
ボスは紬の腕に軽く身体を寄せた。
「政府には事実を伝える。どうするかは、向こうの仕事だ。俺たちが勝手に全部決める話じゃねえ」
「……うん。でも、普通の人が困るのは嫌だな」
「そりゃ俺も嫌だ。だからこそ、何が起きたか正しく伝えねえとな」
紬は頷いた。
政府へ協力すると決めたときから、自分ができることと、他の人に任せるべきことを少しずつ考えるようになった。
今回も同じだ。
知らないふりはできない。けれど、自分の感情だけで遠い国の電気を止めることもしたくなかった。
「……アイリス。全部、正確に伝えて。誰が命令したか分からないことも、ちゃんと」
「承知しました。確認できた事実と、現時点で不明な事項を明確に分けます」
ボスが翼を持ち上げた。
「よし。俺から三浦に連絡する。変に慌てて騒ぎを大きくすんじゃねえぞって言っとくか」
「その言い方だと、官房長官に対する助言としては少々乱暴かと」
「いつものことだろ」
「否定はいたしません」
紬はボスを抱えたまま、もう一度画面を見た。
小さな炉は、遠い国で起きたことを誰にも告げずに覚えていた。
それが今、初めて日本へ伝えられようとしていた。
◇
首相官邸の会議室に集まっていた高瀬隆一たちのもとへ、ボスから返信が届いたのは、その日の夕方だった。
三浦誠司は最初、画面に表示された短い連絡文を見て、いつもの技術的な助言だろうと考えた。
しかし、冒頭の一文を読んだ瞬間、その認識は変わった。
『原因は分かった。普通の故障じゃねえ。至急、関係者だけで話せるようにしろ』
三浦は隣にいた白石理沙へ画面を向けた。
「……理沙さん。これは、少し厄介なことになったかもしれません」
理沙は文面を読み、表情を引き締めた。
「技術的な原因が判明したということですか?」
「それだけなら、もう少し穏やかな書き方をするでしょう」
高瀬は二人の様子を見て、手元の資料を閉じた。
「連絡をつないでくれ。出席者は我々三人でいい」
会議室の通信設備が接続されると、スピーカーから聞き慣れた声が響いた。
『よう、総理。悪い知らせだ』
「聞こう」
『中国の炉が止まった理由が分かった。あいつら、民生施設から炉を持ち出して、軍事施設で動かそうとしてやがった』
誰もすぐには口を開かなかった。
理沙が最初に反応した。
「……軍事施設、ですか」
『ああ。しかも、ただ運んだだけじゃねえ。軍事用途の起動要求まで出してる』
三浦が静かに問い返す。
「それは、推測でしょうか。それとも、何らかの記録が残っていたのでしょうか」
『記録だ。アイリスが装置の保護履歴を調べた。詳しい話は本人に聞いてくれ』
続いて、落ち着いた女性の声が聞こえた。
『ご説明します。対象装置の保護履歴を取得し、整合性を検証しました。記録によれば、装置は登録済みの民生施設から離脱した後、未承認の軍事施設に設置され、軍事用途の起動要求を受けています。その際、内蔵の軍事利用防止機能が自動的に作動し、安全停止しました』
高瀬は肘掛けに置いていた手をゆっくりと組んだ。
「日本政府による停止措置ではない、ということだな」
『はい。日本政府からの遠隔停止指示は存在しません。装置が自律的に使用条件を判定し、出力供給前に停止したものです』
「装置の損傷は?」
『主要機構に損傷を示す記録はありません。保護機能は設計どおりに動作しています。ただし、停止原因を解消するために通常の再起動操作を繰り返しても、保護状態は解除されません』
理沙は手元の調査報告を開き直した。
「佐伯主任たちが確認した保護状態の継続とも一致しますね。しかし、通常の診断情報からは軍事利用の判定まで確認できませんでした」
『それは仕様どおりです。一般技術者がアクセスできる領域と、保護機能の内部履歴は分離されています。今回、政府からの正式な相談を受けたため、対象装置の保護履歴を解析しました』
理沙は頷いた。
彼女にとって重要なのは、装置の未知の仕組みそのものではなく、今回の結論がどれほど確かな根拠に支えられているかだった。
「中国側の提出記録との照合はできていますか?」
『はい。設置場所、停止時刻、起動要求の性質について、複数の重大な不一致があります。中国側の報告では、装置は登録施設で通常運転を停止した後、再起動不能になったとされています。しかし、実際の保護履歴は、停止時点で装置が別の施設にあったことを示しています』
三浦が口を挟んだ。
「装置を元の場所へ戻した後に、通常故障として報告した可能性があるわけですね」
『その説明は記録と整合します。ただし、誰が虚偽報告を命じたのか、誰が移設を承認したのかは、装置の履歴だけでは特定できません』
「そこは調査が必要だな」
高瀬は短く答えた。
理沙はさらに踏み込んだ。
「保護履歴が改ざんされた可能性はありませんか。外交上の問題になる以上、相手国から記録の信頼性を問われるはずです」
『その点についても検証しました。保護履歴は通常の運用権限から独立して保存され、時系列の連続性と装置固有の照合情報を確認できます。今回取得した記録に改変の痕跡はありません』
「日本側が解析したからといって、都合のいい内容に書き換えられるものではない、と」
『はい。さらに、現地の通常診断で確認された保護状態への移行時刻や、外部通信の履歴とも整合しています。独立した情報を突き合わせても、結論は変わりません』
理沙は数秒間考えた。
「技術的には、かなり強い証拠です。ただし、外交交渉で相手に示す資料には工夫が必要ですね。保護機能の判定方法をすべて明かすわけにはいきません」
『そのため、原本の保全資料、政府内で検証するための技術資料、相手国へ提示可能な証明資料を分けて作成しました。必要な情報だけを開示しても、記録の整合性を確認できるようにしています』
三浦の端末に、新しい資料が届いた。
画面には、保護履歴の要約と、中国側が提出した報告との比較表が表示されている。
そこには、登録施設からの離脱、未承認施設での起動要求、軍事利用防止機能の作動、元の施設への返送という事実が、時間の順に整理されていた。
三浦は最後まで目を通すと、深く息を吐いた。
「……これは、単なる装置の故障問題ではありませんね」
「そうだな」
高瀬の声は静かだった。
協定を結ぶ際、中国側は設置場所の変更に承認が必要なことも、軍事利用が禁止されていることも理解したうえで署名している。
その条件を守らずに装置を移設し、禁止された用途で起動を試みたのであれば、重大な協定違反となる。
しかも、報告された内容は実際の履歴と一致しない。
だが、だからといって日本政府が直ちに全てを公表すればよいという話でもなかった。
「ボス君。協力に感謝する。こちらで資料を精査し、必要な確認を進めたい」
『ああ。けど、一つだけ言っとくぞ』
「何だろう」
『向こうが約束を破ったのは事実だろうが、普通に暮らしてる連中まで巻き込むようなことは、よく考えてくれ。紬もそこを気にしてる』
高瀬は一度、目を伏せた。
日本が輸出した核融合炉は、単なる外交上の取引材料ではない。実際に電気を生み、産業施設や地域の電力供給に関わっている。
第一炉はすでに停止しているが、中国にはもう一台、正規の民生施設に設置された炉がある。
違反を見過ごすこともできなければ、市民生活への影響を軽々しく扱うこともできない。
「承知している。事実確認と、今後の対応は分けて考える。協定に定めた手続きも守るつもりだ」
『ならいい。俺たちが伝えられるのは、何が起きたかってことだ。後はそっちの仕事だろ』
「そのとおりだ」
高瀬ははっきりと答えた。
通信が終わったあとも、三人はしばらく席を立たなかった。
会議室の大型画面には、中国側の故障報告と、アイリスが作成した保護履歴の比較資料が並んでいる。
同じ装置について書かれた二つの記録。
しかし、その内容は決定的に食い違っていた。
「総理」
三浦が口を開いた。
「中国側へ、停止前の原記録の提出を改めて求めるべきだと思います。こちらが把握している事実を、最初からすべて明かす必要はありません」
「私も賛成です」
理沙が続けた。
「装置の記録は技術的に強い根拠になります。ただ、中国側の運用責任者や関係者が、どのような指示で動いたのかまでは分かりません。相手国の説明を求め、その内容と照合する余地は残すべきです」
高瀬は二人の意見を聞き、画面の一行に目を留めた。
軍事用途に該当する起動要求を検知。
その文字が意味することを、日本政府はもはや知らないふりができない。
「まずは資料を厳重に保全する。確認に関わる者は必要最小限に限定しよう。そのうえで、中国側には未提出の原記録と、停止前後の運用状況について正式な説明を求める」
三浦が頷いた。
「承知しました。外交ルートを通じて、照会の準備を進めます」
「白石さんには、提出可能な証拠と、秘匿すべき技術情報の区分を確認してもらいたい」
「分かりました。アイリスから届いた資料をもとに、技術的な説明の整合性を確認します」
高瀬は椅子の背に身体を預けた。
かつて、小さなペンギンを抱いた少女が官邸に現れたとき、彼は目の前の出来事が日本の未来を変えるかもしれないと考えた。
それから生まれた技術は、病に苦しむ人を救い、国境を越えて電気を届けるようになった。
だが、便利な技術が広がるほど、それを利用しようとする人間の思惑も複雑になる。
今回の問題は、装置が故障したから起きたのではない。
約束を守らない者がいたからこそ、装置は正しく止まったのだ。
「……皮肉なものだな」
高瀬の呟きに、三浦が顔を上げた。
「何がでしょうか」
「故障していないことが分かった結果、故障よりも厄介な問題が見つかった」
三浦は苦笑しなかった。
「そうですね。ですが、原因不明のまま対応するよりは、ずっといい」
「そのとおりだ」
高瀬は資料を閉じ、次の指示を出した。
日本政府が手にしたのは、相手国を非難するための言葉ではなく、装置が残した記録だった。
それをどう扱うかによって、これからの交渉は大きく変わる。
◇
通信を終えた紬は、しばらくソファから動かなかった。
ボスは膝の上で身体の向きを変え、紬の顔を覗き込んだ。
「まだ気になるか?」
「……うん。ちょっと」
「そりゃそうだろうな」
ボスはそれ以上、無理に元気づけようとはしなかった。
アイリスも画面を消し、部屋をいつもの明るさに戻した。
紬は窓の外を見た。夕方の光が薄くなり、向かいの家の窓に灯りがともり始めている。
その明かりも、どこかで誰かが作った電気でついている。
遠い中国でも、きっと同じように、仕事を終えて家へ帰る人がいて、夕食の支度をする人がいるのだろう。
「……約束、守ってほしかったな」
ぽつりと漏れた言葉に、ボスが頷いた。
「ああ。俺もそう思う」
「ちゃんと使えば、便利なのに」
「便利だから、別のことにも使いたくなる奴がいるんだろうな」
紬はボスの背中をゆっくり撫でた。
「……でも、止まってくれてよかった」
「そうだな」
アイリスが穏やかな声で言った。
「今回、装置は設計された役割を果たしました。危険な使用を拒否し、その理由を記録として残しています」
「……覚えてたんだね」
「はい。装置には意思や感情はありませんが、必要な情報を失わず保存するよう設計されています」
紬は少しだけ微笑んだ。
「……偉いね」
ボスが顔を上げる。
「おいおい。炉を褒めるなら、作ったお前も褒められるべきだろ」
「……私だけじゃないよ。アイリスが考えてくれたし、ボスも相談に乗ってくれたし」
「俺は別に、装置の中身をいじったわけじゃねえけどな」
「でも、一緒に考えてくれた」
ボスは一瞬黙り、それからわざと偉そうに胸を張った。
「まあ、俺がいたからな」
「……うん」
アイリスは二人のやり取りを見て、ほんの少し目元を和らげた。
紬は再び窓へ視線を向けた。
日本政府はこれから中国へ説明を求めることになるだろう。相手が何と答えるのか、紬には分からない。
ただ一つ、確かなことがある。
小さな炉は、誰にも知られないまま危険な命令を拒み、その理由を残していた。
そして今、その記録を受け取った人間たちが、次の判断を迫られている。
紬はボスを抱く腕に少しだけ力を込めた。
窓の外では、街の明かりが一つ、また一つと増えていった。




