第04話 おしゃべりなペンギン
机の上に置かれた実験記録には、丸っこいペンギンの絵が描かれていた。
小鳥遊紬はその絵を眺めながら、昨日から考えていたことを頭の中で整理していた。短い足に、ふっくらとした身体。小さな翼を左右に広げ、少し首を傾げた姿は、絵が上手とはいえない自分の手によるものでも、なかなか可愛らしく見える。
問題は、これを本当に作ってしまっていいのかということだった。
これまで万物創造で生み出してきたのは、便利な道具や食べ物ばかりである。どれも普通では考えられない性能を持っていたが、使わなくなれば収納箱にしまっておけるし、壊れたとしても同じものを作り直せば済む。
けれど、生き物はそうはいかない。食事も必要だろうし、健康にも気を配らなければならない。何より、自分の意思を持つ存在を生み出すのなら、その後の暮らしについても考える必要がある。
紬はノートの余白に、昨夜書き足した言葉を見つめた。
『お話しできたら、もっといい』
昨日は何気なく書いた一文だったが、今になってみると、これが一番難しい条件のように思えた。
普通のペンギンは人間の言葉を話さない。鳴き声や仕草で気持ちを伝えることはできても、こちらの話を理解し、言葉で返事をしてくれるわけではないだろう。
それなら、最初から人間の言葉を理解できるペンギンを作ればいいのではないか。
考え方だけなら単純だった。万物創造は、既存の生き物をそのまま再現することしかできないと決まっているわけではない。これまでの実験では、現実には存在しない仕組みを持った道具も問題なく作れていた。
生き物についても同じことができるなら、話せるペンギンを作ることは不可能ではないはずだ。
ただ、言葉を話せることと、会話ができることは少し違う。
こちらが話しかけた言葉を繰り返すだけでは、話し相手にはならない。自分で考え、感じたことを言葉にして、ときには意見が食い違うこともある。そんな相手でなければ、一緒に暮らしていても寂しさは消えない気がした。
「……難しいなあ」
紬は椅子の背もたれに寄りかかり、天井を見上げた。
人間と話すのは苦手なのに、自分で作る相手にはちゃんと会話してほしいと思っている。ずいぶん勝手な希望だとは思うが、せっかくなら気を遣わずに話せる相手が欲しかった。
もっとも、相手がどんな性格なら話しやすいのかについては、よく分からない。
優しくて、穏やかで、何でも肯定してくれる性格がいいのだろうか。そう考えてみたものの、少し違う気がした。何を言っても同じように褒められたら、かえって落ち着かないかもしれない。
紬はノートのペンギンへ視線を戻した。
小さな身体で偉そうに胸を張り、こちらを見上げている姿を想像する。見た目はぬいぐるみのように可愛いのに、口を開けば妙に態度が大きい。そんな相手なら、少しくらい会話に失敗しても気にしなくて済みそうだった。
想像した途端、思わず口元が緩んだ。
「……ちょっと面白そう」
紬は立ち上がり、部屋の中央にある大型クッションを壁際へ寄せた。床には昨日作った掃除装置のおかげで埃一つ落ちていない。室温も快適に保たれており、小さな生き物を迎えるには悪くない環境だった。
もちろん、普通のペンギンならそれだけでは足りない。種類によって適した気温や食事も違うし、運動するための場所も必要になる。
だが、紬が作ろうとしているのは、動物園にいるペンギンそのものではなかった。
姿はペンギンでも、人間の生活環境で健康に暮らせる人工生命体。寒い場所でなくても平気で、特別な飼育設備がなくても生活できる。食べ物は普通のペンギンに近いものを好みつつ、身体に無理のない範囲でさまざまな食事を楽しめるようにしたい。
そして何より、人間の言葉を理解し、自分の意思で話せること。
紬は一つずつ条件を整理しながら、頭の中に完成形を描いていった。
身長は四十センチほど。大きすぎず、小さすぎず、抱き上げるのにちょうどよい大きさだ。体重は一・五キロくらいで、見た目は少しぽっちゃりしている。背中から頭にかけては黒に近い濃い灰色、腹側は柔らかな白。つぶらな黒い瞳と黄色いくちばし、短い足を持ち、全身を覆う羽毛はふわふわで、触れるとほんのり温かい。
性格については、細かく決めすぎないことにした。
自分の意見を持ち、嫌なことは嫌だと言える。少し口が悪くても構わないが、誰かを傷つけることを楽しむような性格にはしたくない。人間のように考え、感情を持ち、経験を通じて成長していける存在がいい。
それ以上のことは、実際に会ってから知っていけばいいだろう。
紬は床の中央を見つめ、深く息を吸った。
「……よし」
次の瞬間、そこに一羽のペンギンが現れた。
何かが光ったわけでも、音が鳴ったわけでもない。ただ、それまで何もなかった場所に、丸っこい小さな身体が存在していた。
ペンギンは両足を少し開いて立ち、目を閉じている。濃い灰色の羽毛は柔らかそうに膨らみ、白いお腹がふっくらと前へ突き出していた。短い翼は身体の横に添えられ、黄色いくちばしは小さく閉じられている。
紬は息を止めた。
机や道具を作ったときとは、明らかに違う感覚があった。目の前の小さな身体には、心臓の鼓動があり、呼吸があり、体温がある。身体の構造を理解できるという万物創造の性質によって、それらが正常に働いていることも分かった。
そして、その内側には、単なる反応の集まりではない意識が存在していた。
紬がそう認識した直後、ペンギンのまぶたがゆっくりと開いた。
黒い瞳が左右に動き、部屋の様子を確かめる。やがて紬を見つけると、ペンギンは少しだけ首を傾げた。
「……おい」
紬は目を丸くした。
「えっ」
「おい、そこの人間。ここはどこだ?」
思っていたよりも低く、はっきりとした声だった。
紬は口を開いたまま動けなくなった。話せるように作ったのだから、喋ること自体は当然である。それでも、実際に小さなペンギンがこちらへ向かって人間の言葉を発している光景には、なかなか頭が追いつかなかった。
ペンギンは返事を待っていたが、紬が黙ったままでいると、短い翼を腰のあたりへ当てた。
「聞こえてんのか? 俺はここがどこかって聞いてんだよ」
「あ……えっと、私の、家……です」
「家? ふうん」
ペンギンは改めて室内を見回した。机、ベッド、壁際のクッション。ひととおり確認すると、自分の足元へ視線を落とし、黄色い足を交互に持ち上げた。
「……で、俺はなんだ?」
「ペ、ペンギン……」
「見りゃ分かるわ。そうじゃなくて、なんで俺はここにいるんだって話だ」
紬は言葉に詰まった。
確かに、その質問はもっともだった。生まれたばかりの相手に、どう説明すればいいのだろう。自分が万物創造という能力で作ったのだと伝えればいいのか。それとも、まずは落ち着いてもらうべきなのか。
迷っている間にも、ペンギンはじっとこちらを見上げていた。
「……私が、作りました」
「作った?」
「うん。えっと……あなたを」
数秒の沈黙が流れた。
ペンギンは紬の顔を見つめ、それから自分の翼を広げた。左右を確かめるように動かし、白いお腹を見下ろす。
「なるほどな。俺を作ったのがお前ってわけか」
「……うん」
「じゃあ、お前が俺の親みたいなもんか?」
「お、親……?」
予想していなかった言葉に、紬は固まった。
親。確かに、自分がこのペンギンを生み出したのだから、そういう考え方もできるのかもしれない。しかし、二十一歳にして突然ペンギンの親になるとは思ってもみなかった。
紬が困惑していると、ペンギンは鼻を鳴らした。
「冗談だよ。そんな顔すんな」
「……冗談?」
「そうだよ。ったく、ずいぶん分かりやすい奴だな」
ペンギンはそう言って、短い足で数歩進んだ。身体を左右に揺らしながら歩く姿は、紬が想像していた以上に愛らしい。
けれど、口調だけは妙に偉そうだった。
紬は思わず笑いそうになり、慌てて口元を押さえた。
「なんだよ」
「……歩き方、可愛い」
「はあ?」
ペンギンは足を止め、自分の身体を見下ろした。
「別に普通だろ。俺はこういう身体なんだからよ」
「……うん。でも、可愛い」
「褒めてんのか、それ」
紬が小さく頷くと、ペンギンは何とも言えない表情になった。
表情といっても、くちばしや目の形が人間のように大きく変わるわけではない。それでも、呆れていることは不思議と伝わってきた。
紬は少し安心した。
自分の言葉に相手が反応してくれる。しかも、返事を考えるのに時間がかかっても、会話が途切れたことを責められない。少なくとも、今のところはそうだった。
ペンギンは部屋の中央まで歩くと、再び紬を見上げた。
「で、お前の名前は?」
「……小鳥遊、紬」
「たかなし、つむぎ?」
「うん」
「へえ。じゃあ、紬だな」
名前を呼ばれた瞬間、紬の胸が小さく跳ねた。
初対面の相手にいきなり名前で呼ばれるのは、普段なら少し苦手だった。けれど、目の前にいるのは身長四十センチほどのペンギンである。しかも、自分が作った存在だと思うと、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。
「……あなたは?」
「俺か?」
ペンギンは少し考えた後、首を傾げた。
「そういや、名前ねえな」
紬はそこで初めて、名前を決めていなかったことに気づいた。
身体の大きさや羽毛の感触、性格についてはあれこれ考えたのに、肝心の名前を忘れていたのである。
「……ごめん」
「なんで謝るんだよ。今から決めりゃいいだろ」
「……そう、だね」
紬は椅子に腰を下ろし、ペンギンを眺めながら考え始めた。
ペンギンらしい名前がいいだろうか。それとも、普通の人間のような名前がいいのだろうか。見た目に合わせて可愛らしい名前をつけるのも悪くない。
「……ぺんちゃん?」
「却下」
「……ぺん太?」
「却下」
「……まる?」
「俺を見た目だけで判断してねえか?」
紬は思わず口を閉じた。
確かに、どれも丸い身体やペンギンという種類から考えた名前だった。相手に自分の意思がある以上、本人が気に入る名前を選ぶべきなのかもしれない。
ペンギンは紬の様子を見て、少し得意そうに胸を張った。
「もっとこう、強そうな名前にしろよ。俺にふさわしいやつ」
「……強そう?」
「そうだ。聞いただけで、こいつはただ者じゃねえって思われるような名前だ」
紬は目の前の姿を改めて眺めた。
ふっくらした白いお腹。短い翼。小さな黄色い足。どこからどう見ても、抱きしめたくなるような可愛らしいペンギンである。
そこへ強そうな名前をつけるというのは、なかなか難しい注文だった。
「……キング?」
「悪くねえな」
「……ボス?」
ペンギンの目が、わずかに輝いたように見えた。
「おっ、それだ」
「……ボス?」
「そうだよ。短くて呼びやすいし、強そうだろ」
紬は少し考えた後、ゆっくり頷いた。
ボス。確かに呼びやすい名前だった。本人も気に入っているようだし、これ以上悩む必要はないだろう。
「……じゃあ、ボス」
「おう。今日から俺はボスだ」
ペンギンは満足そうに胸を張った。
その姿があまりにも堂々としていたので、紬はとうとう笑ってしまった。
「……ふふっ」
「何笑ってんだよ」
「……ごめん。可愛くて」
「だから可愛いって言うなって」
ボスは不満そうにくちばしを上げたが、本気で怒っている様子ではなかった。
紬は椅子から立ち上がり、ゆっくりと床にしゃがみ込んだ。目線を近づけると、ボスは不思議そうにこちらを見た。
「……触っても、いい?」
「なんだよ、急に」
「……羽毛、ふわふわだから」
ボスは自分の身体を見下ろし、それから紬へ視線を戻した。
「まあ、別にいいけどよ。乱暴にすんなよ」
「……うん」
紬はそっと手を伸ばし、ボスの頭へ触れた。
指先に伝わってきたのは、想像以上に柔らかな感触だった。細かな羽毛が指の間を滑り、ほんのりとした温かさが手のひらへ広がる。見た目はぬいぐるみのようなのに、その内側には確かな生命の温もりがあった。
紬はしばらく無言で撫で続けた。
「……おい」
「……?」
「いつまで撫でてんだよ」
「……もう少し」
「しょうがねえな」
文句を言いながらも、ボスはその場を動かなかった。
紬は嬉しくなり、今度は背中の羽毛を優しく撫でた。濃い灰色の部分も柔らかく、指を離すと自然に元の形へ戻っていく。身体の小ささに対して羽毛の量が多いため、触っていると本当に丸い毛玉のようだった。
しばらくして、ボスがこちらを見上げた。
「なあ、紬」
「……なに?」
「腹減った」
紬は手を止めた。
生まれたばかりの人工生命体でも、お腹は空くらしい。もちろん、身体の構造を考えれば当然のことだったが、実際に本人から言われると少し新鮮だった。
「……何、食べたい?」
「魚」
「……魚?」
「ペンギンなんだから魚だろ。できればうまいやつな」
紬は少し考え、台所へ向かった。ボスは短い足でその後ろをついてくる。
途中、床を掃除していた球形の装置が近くを通りかかった。ボスはその動きに気づき、足を止めた。
「おい、なんだこいつ」
「……お掃除する機械」
「浮いてんじゃねえか」
「……うん。浮くように作ったから」
ボスは掃除装置をじっと見つめた。
「お前、変なもん作るんだな」
「……便利だよ?」
「便利なのは分かるけどよ。普通は掃除機って床を走るもんじゃねえのか?」
紬は返事に迷った。
確かに、一般的な掃除機は床を走る。けれど、天井や棚の上まで掃除してほしかったので、浮けるようにしただけだった。
その説明をすると、ボスは少し考えた後、あっさり頷いた。
「なるほどな。そりゃ浮いたほうが楽だわ」
納得が早かった。
紬は少し拍子抜けしたものの、余計な説明を求められないことに安心した。ボスは掃除装置へ興味を失ったらしく、再び紬の後ろを歩き始めた。
台所へ着くと、紬は調理装置の前に立った。ボスの身体に適した食事を考え、魚を中心とした一皿を用意するよう設定する。
数秒後、扉の中に小さな皿が現れた。そこには食べやすい大きさに切られた魚が並んでいる。味つけは控えめで、栄養面にも問題がないよう調整されていた。
紬が皿を床へ置くと、ボスは目を輝かせた。
「おっ、いいじゃねえか」
「……どうぞ」
「いただきます」
ボスは器用にくちばしを使い、魚を食べ始めた。
紬はその様子をしゃがんで眺めた。小さな身体で一生懸命食べる姿は可愛らしく、見ているだけで楽しい。
しかし、ボスは途中で顔を上げた。
「……なあ」
「……なに?」
「そんなに見られると食いづらいんだけどよ」
「……ごめん」
「別に謝るほどじゃねえけど。お前も何か食えば?」
紬は時計を確認した。朝食からそれほど時間は経っていないが、少し小腹が空いていた。
「……じゃあ、お茶と、お菓子」
「好きにしろよ。ここ、お前んちだろ」
紬は調理装置で温かいお茶と小さな焼き菓子を用意し、食卓へ運んだ。ボスが食べ終わるまで待っていると、彼は満足そうにくちばしを拭った。
「ごちそうさん。うまかったぜ」
「……よかった」
「毎日こんなの食えるなら、悪くねえな」
ボスはそう言って、紬を見上げた。
「ところで、俺はこれからどうすりゃいいんだ?」
紬は湯飲みを持ったまま動きを止めた。
これから。
その言葉を聞いて、ようやく現実的な問題が頭に浮かんだ。
ボスは生まれたばかりだ。けれど、赤ん坊のように何も分からないわけではない。言葉を理解し、自分で考え、食事もできる。身体の動かし方も知っているし、生活に必要な基本的な知識も持っている。
それでも、これからどこで暮らすのか、何をして過ごすのかについては、何も決まっていなかった。
紬は少し考え、慎重に言葉を選んだ。
「……よかったら、ここにいてほしい」
「ここに?」
「……うん。一緒に、暮らしたい」
ボスは黙って紬を見つめた。
紬はその視線に少し緊張した。自分が作った存在だからといって、何でも言うことを聞いてくれるとは限らない。むしろ、そうであってほしくないと思っていた。
だからこそ、本人の意思を確かめたかった。
「……嫌だったら、言ってね」
ボスはしばらく考えた後、短い翼を組むように身体の前へ寄せた。
「嫌も何も、俺はここしか知らねえしな」
「……うん」
「それに、お前、放っといたら一日中だらだらしてそうだし」
「……えっ」
「部屋は綺麗だけどよ。あのクッション、どう見ても人間を駄目にするやつだろ」
紬は返事ができなかった。
実際、昨日はあのクッションからなかなか立ち上がれなかったし、今日も家事を自動化した後は、ほとんどそこで過ごしていた。
ボスは紬の反応を見て、得意そうに頷いた。
「図星か」
「……ち、違うもん」
「へえ。じゃあ今日は何してたんだ?」
「……洗濯と、掃除と、料理を……」
「全部機械にやらせたんだろ?」
「……うん」
「やっぱりじゃねえか」
紬は湯飲みを両手で包み、少しだけ頬を膨らませた。
便利な道具を作ったのだから、使うのは当然だ。そもそも、家事を楽にするために作ったのであって、怠けるためだけではない。
そう反論したかったが、うまく言葉がまとまらなかった。
すると、ボスは小さく笑った。
「まあ、いいんじゃねえの。楽できるなら楽したほうがいいだろ」
「……いいの?」
「当たり前だろ。わざわざ苦労する必要なんかねえよ。ただ、暇になりすぎて腐るなって話だ」
紬は思わず目を瞬かせた。
少し口は悪いが、言っていることは妙にまともだった。
ボスは食卓の脚にもたれかかり、紬を見上げた。
「で、俺はここにいていいんだな?」
「……うん。もちろん」
「なら決まりだ。世話になるぜ、紬」
その言葉を聞いた瞬間、紬の胸がじんわりと温かくなった。
誰かと一緒に暮らす。
言葉にすれば簡単なことだが、紬にとっては少し特別な意味があった。自分の部屋に誰かがいることも、その相手と自然に会話を交わしていることも、これまであまり想像したことがなかったからだ。
しかも、相手はペンギンである。
紬はボスを見つめ、少しだけ笑った。
「……よろしくね、ボス」
「おう。よろしくな」
ボスはそう答えると、短い翼を片方だけ持ち上げた。
紬はその仕草を見て、思わず手を伸ばした。小さな翼に指先をそっと触れさせると、ボスは一瞬だけ驚いたように目を丸くしたが、すぐに何事もなかったような顔へ戻った。
「なんだよ、握手か?」
「……うん」
「先に言えっての」
そう言いながらも、ボスはもう一度翼を差し出してくれた。
紬は今度こそ、きちんと握手をした。
人間の手とは違う、柔らかくて温かな感触だった。
それから二人は部屋へ戻り、ボスの生活について相談することにした。
寝る場所はどこがいいか。食事は何を用意すればいいか。部屋の中で危険なものはないか。考えることは意外と多かったが、紬は不思議と面倒だとは感じなかった。
ボスは部屋の中を歩き回りながら、気になるものを次々と指さした。
「この箱はなんだ?」
「……収納箱」
「こんなちっこいのに、何が入るんだよ」
「……いろいろ」
紬が収納箱から大きなクッションを一つ取り出すと、ボスは目を見開いた。
「おいおい、どうなってんだ、それ」
「……中が、広いの」
「説明が雑すぎるだろ」
紬は少し困った顔をした。
確かに、仕組みを詳しく説明しようと思えばできる。だが、難しい理論を長々と話しても、かえって分かりにくい気がした。
ボスはしばらく箱を眺めた後、あっさりと頷いた。
「まあ、お前が作ったんなら、そういうもんなんだろ」
「……納得するの、早いね」
「細かいこと気にしてたら、お前と暮らせねえ気がするからな」
紬は思わず笑ってしまった。
ボスは不満そうにこちらを見たが、何も言わなかった。
その後、紬はボスのために小さな寝床を作った。柔らかな布地でできた丸いベッドで、身体を預けると自然に形が変わる。温度も調整できるため、寒い日でも快適に眠れるはずだった。
ボスはさっそく中へ入り、身体を丸めてみせた。
「……お、悪くねえな」
「……気に入った?」
「まあまあだな」
そう言いながら、ボスはしばらく動かなかった。
紬はその様子を見て、口元を緩めた。どうやら、かなり気に入っているらしい。
しかし、ボスはすぐに顔を上げた。
「おい、紬」
「……なに?」
「これ、俺専用だよな?」
「……うん」
「なら、もうちょい偉そうな見た目にできねえか?」
「……偉そう?」
「そうだな。玉座みたいな感じで」
紬は目を瞬かせた。
玉座。
身長四十センチのペンギンが座るための、玉座である。
想像しただけで可愛らしかった。
「……作れるけど」
「おっ、いいじゃねえか」
「……でも、寝にくそう」
「それは困るな」
ボスは真剣な顔で考え込んだ。
紬はその姿を見て、とうとう声を出して笑ってしまった。
「……ふふっ、あはは」
「おい、何がそんなにおかしいんだよ」
「……ごめん。でも、ボス、面白い」
「褒めてんのか、それ」
ボスは呆れたように言ったが、どこか楽しそうでもあった。
結局、寝床はそのままにして、隣に小さな椅子を作ることになった。背もたれが少し高く、肘掛けのついた椅子で、座るとちょうどボスの身体に合う大きさだった。
ボスは椅子へ腰を下ろし、満足そうに胸を張った。
「うむ。悪くない」
「……王様みたい」
「ボスだからな」
紬はまた笑った。
その笑い声を聞いて、ボスは少しだけ目を細めた。
「……なんだよ。さっきからよく笑うな」
「……そう?」
「ああ。最初は全然喋らねえから、どうしたもんかと思ったぜ」
紬は少しだけ視線を落とした。
確かに、最初は緊張していた。自分で作った存在とはいえ、相手が何を考えているのか分からなかったし、どう接すればいいのかも迷っていた。
けれど、今は少し違う。
ボスが話しかけてくれる。返事に困っても待ってくれるし、時には冗談を言って笑わせてくれる。
それが、思っていた以上に嬉しかった。
「……私、人と話すの、苦手で」
紬はぽつりと呟いた。
ボスは何も言わず、続きを待っていた。
「……何を話したらいいか、分からなくなるし。変なこと言ったらどうしようって、考えちゃうから」
「ふうん」
「……でも、ボスとは、話せる気がする」
言い終えてから、紬は少し恥ずかしくなった。
自分で作った相手に、こんなことを言うのは変かもしれない。けれど、ボスは笑わなかった。
代わりに、椅子から降りて紬の近くまで歩いてきた。
「別に、無理して喋る必要ねえだろ」
「……え?」
「話したいことがあるなら話せばいいし、ねえなら黙ってりゃいい。俺はそれで困らねえよ」
紬は顔を上げた。
ボスは相変わらず、少し偉そうな顔をしていた。
「それに、変なこと言ったって別にいいだろ。俺だって変なこと言うかもしれねえし」
「……ボスは、もう結構言ってる」
「おい」
紬は小さく笑った。
ボスも、少しだけくちばしを上げた。
「まあ、そういうことだ。気楽にやろうぜ」
「……うん」
紬はゆっくり頷いた。
気楽に。
その言葉が、今の自分にはとても心地よく感じられた。
万物創造を手に入れてから、紬の生活は大きく変わった。欲しいものは作れるし、面倒な家事もほとんど自動化できる。部屋は快適で、時間にも余裕がある。
けれど、どれほど便利な道具を作っても、そこに返事をしてくれる相手はいなかった。
今は違う。
目の前には、小さなペンギンがいる。
少し口が悪くて、妙に偉そうで、可愛いと言われるのを嫌がる。それでも、こちらの話を聞いてくれる相手だった。
紬はそっと手を伸ばし、ボスの頭を撫でた。
「……これから、よろしくね」
「さっきも言っただろ。よろしくって」
「……もう一回」
「しょうがねえな。よろしくな、紬」
ボスはそう言って、少しだけ身体を寄せてきた。
紬はその温かさを感じながら、静かに微笑んだ。
誰かと一緒に暮らすというのは、きっと楽しいことばかりではないだろう。意見が合わない日もあるだろうし、困らされることもあるかもしれない。
それでも、今はそのすべてが楽しみに思えた。
紬の部屋に、初めて自分以外の声が響くようになった日。
それは、万物創造でどんな道具を作ったときよりも、彼女の毎日を大きく変える出来事になった。




