第03話 夢のぐうたら生活
目覚まし時計が鳴るよりも先に、部屋のカーテンが開いた。
窓から差し込んだ朝日が、ベッドの上で丸くなっていた小鳥遊紬の頬を照らす。昨日までなら布団を頭から被って抵抗していたところだが、今日は違った。眩しさを感じる直前、窓ガラスの透明度が自動的に調整され、室内には目に優しい明るさだけが広がったのである。
もっとも、それで紬がすぐに起き上がるかといえば、そんなことはなかった。
「……あと十分」
寝返りを打つと、布団が身体の動きに合わせて形を変えた。昨夜、寝る前に作っておいた特製の寝具である。体温に応じて温度を調整し、湿気を逃がし、寝返りの邪魔をしない。枕に至っては首や肩への負担を自動的に分散するという、寝具メーカーが聞けば頭を抱えそうな機能まで備えていた。
その結果、昨夜は驚くほどよく眠れた。眠れたのだが、快適すぎる寝床には別の問題があった。起きる理由が見つからないのである。
紬は薄目を開け、枕元の時計を確認した。午前七時二十分。今日は仕事のない休日で、急いで出かける予定もない。昨日の実験記録には、次に試したいこととして家事の効率化が書き込まれているが、それだって誰かに頼まれたわけではなかった。
ならば、もう少し寝ていても構わないはずだ。
そう結論づけたところで、ふと別の考えが浮かんだ。
そもそも、家事をするために起きる必要があるのだろうか。
「……そうだ」
紬は布団から片手だけを出し、部屋の隅に置かれた洗濯かごへ視線を向けた。昨日までなら、洗濯機へ運び、洗剤を入れ、洗い終わるまで待ち、干して、乾いたら取り込む必要があった衣類である。
しかし、今の紬には万物創造がある。衣類を綺麗にするための道具も、その作業を自動化する仕組みも、思い描けば作れるはずだった。
紬は目を閉じ、洗濯かごの横に置ける小さな装置を想像した。衣類を傷めずに汚れや臭いを取り除き、乾燥させ、必要に応じて形を整える。できれば、畳むところまで全部やってほしい。
直後、洗濯かごの隣に白い直方体の装置が現れた。高さは三十センチほどで、表面には小さな表示窓がある。洗濯機というより、卓上の空気清浄機に近い見た目だった。
紬は布団の中から装置を眺め、少し考えた。
「……あれ、服はどうやって入れるの?」
作った瞬間に構造を理解できるため、使い方が分からないわけではない。装置には衣類を直接取り込む機能があり、洗濯かごの中身を自動的に処理できる。物理的な投入口がなくても問題はないらしい。
ただし、装置がどの衣類を洗うべきか判断するためには、対象を指定する必要があった。紬は洗濯かごを意識し、中に入っている服をすべて綺麗にするよう設定した。
表示窓に小さな文字が浮かび上がる。
『洗浄中』
数秒後、その表示が『完了』に変わった。
紬は思わず上半身を起こした。洗濯かごの中には、綺麗に畳まれた衣類が種類ごとに積み重なっている。試しに一枚取り出してみると、汚れも臭いもなく、触り心地までよくなっていた。
「……終わった」
洗濯機を回して、干して、取り込んで、畳む。普段ならそれなりの時間を取られる作業が、ほんの数秒で片づいてしまった。
紬は綺麗になった服をしばらく眺めた後、ゆっくりと布団へ戻った。
「……もう、洗濯しなくていいんだ」
その言葉には、昨日の実験とは少し違う実感があった。
特殊な球体や収納箱は確かにすごい。だが、毎日の生活で何度も繰り返してきた面倒な作業がなくなるというのは、もっと身近で、もっと嬉しい変化だった。
紬は布団に頬を埋めながら、次に片づけたい家事を考え始めた。
洗濯の次は掃除だろう。床に落ちた髪の毛や埃を取り除き、机や棚の上も綺麗にして、できれば水回りまで清潔に保ってほしい。
そこまで考えてから、紬は少しだけ迷った。
掃除機のようなものを作ればいいのだろうか。それとも、部屋そのものに汚れがつかないようにすればいいのだろうか。
どちらも実現できそうだったが、今回は前者を試してみることにした。いきなり部屋全体を作り替えるより、道具を一つずつ増やしたほうが管理しやすいと思ったからだ。
紬が想像したのは、手のひらほどの大きさの丸い掃除装置だった。床だけでなく、家具の隙間や天井、窓ガラスまで掃除できる。動作音はほとんどなく、家具や壁を傷つけず、必要な場所を自分で判断して清掃する。
完成した装置は、淡い灰色の球体だった。表面には小さな光が一つだけあり、床に置くと音もなく浮かび上がった。
「……浮くんだ」
紬は布団から顔を出し、その動きを見守った。球体は床の上を滑るように進み、ベッドの下へ潜り込む。しばらくすると反対側から現れ、今度は壁に沿って上昇し始めた。
天井の隅を一周し、照明器具の周囲を通り、窓枠へ移動する。動きに無駄がなく、家具にぶつかることもない。掃除が終わった場所は、見た目にも分かるほど綺麗になっていた。
紬はその様子を眺めながら、少し感心した。ロボット掃除機というより、空中を飛ぶ小さな清掃員である。
しかも、この装置には収集した汚れを分解し、安全な物質へ変換する機能まで備わっていた。ゴミを捨てる必要もなければ、フィルターを交換する必要もない。電源についても、外部から充電する必要のない仕組みになっている。
便利なものを作ろうとした結果、またしても普通ではない道具が完成してしまった。
ただ、紬は昨日ほど驚かなかった。能力の仕組みを完全に理解したわけではないが、望んだ機能を備えたものが現れることには、少しずつ慣れてきていたのである。
「……お掃除、よろしく」
球体は返事をしなかったが、天井の隅へ向かって滑らかに移動していった。
紬はその姿を見送り、ようやくベッドから起き上がった。洗濯は終わり、掃除も自動で進んでいる。ここまでくれば、残る大きな家事は料理くらいだろう。
昨日は食べたい朝食をそのまま作ったが、毎回料理を一から想像するのも少し面倒だった。食べたいものが決まっていればいいものの、何を食べるか考えること自体が億劫な日もある。
紬は部屋着のまま台所へ向かい、冷蔵庫を開けた。中には飲み物や調味料が並んでいるが、食材はそれほど多くない。買い物へ行く予定もなかったので、今日の朝食をどうするか少し悩んでいたところだった。
「……献立も考えてくれたらいいのに」
その言葉をきっかけに、紬の頭の中で一つの道具が形になった。
食べたいものを指定すれば料理を用意し、特に希望がなければ体調や好みに合わせて献立を考える。栄養バランスを調整し、食材の管理も必要なく、後片づけまで自動で行う。そんな調理装置があれば、毎日の食事はずっと楽になるはずだ。
紬は台所の空いた場所へ視線を向けた。そこに現れたのは、電子レンジほどの大きさの白い機械だった。正面には小さな画面があり、側面には料理を取り出すための扉がついている。
見た目は比較的普通だったが、内部構造はやはり普通ではない。食材を保管する必要がなく、料理に必要な物質をその場で生成し、指定された状態へ加工できる。調理時間も極端に短く、完成した料理の温度や食感まで細かく調整できる仕組みだった。
紬は画面を覗き込んだ。
『本日のおすすめ』
表示されたのは、焼き鮭、卵焼き、味噌汁、ご飯、小鉢を組み合わせた和朝食だった。昨日の朝食が洋食だったことまで考慮しているらしく、献立には簡単な栄養情報も添えられている。
「……おいしそう」
紬は迷わずおすすめを選んだ。
装置が短く動作音を鳴らし、画面に『調理完了』と表示される。扉を開けると、温かな料理が一人分の食器に盛りつけられていた。
焼き鮭の香ばしい匂いが広がり、味噌汁からは湯気が立っている。卵焼きは綺麗な黄色で、ご飯もふっくらと炊き上がっていた。
紬は料理を食卓へ運び、椅子に腰を下ろした。箸で鮭をほぐして口に運ぶと、ほどよい塩気と柔らかな身の食感が広がる。味噌汁も優しい味で、朝から食べるにはちょうどよかった。
「……おいしい」
昨日の朝食も十分においしかったが、今回は自分で献立を考える必要がなかった。それが何より便利だった。
紬は食事を進めながら、調理装置の画面を眺めた。そこには好みの記録や、栄養バランスの調整、食事時間の設定など、さまざまな機能が並んでいる。
これなら毎日の献立に悩む必要がないし、買い物へ行く回数も減らせる。冷蔵庫の中身を確認して、足りない食材を買い足す作業からも解放されるだろう。
ただし、紬は一つだけ気になることがあった。
この装置で作った料理ばかり食べていて、本当に問題はないのだろうか。
創造したものの構造を理解できるため、料理の成分や栄養についても把握できる。それでも、実際に長期間食べ続けた場合の影響については、まだ試していない。
紬はその点を覚えておくことにした。便利だからといって、何も考えずに使い続けるのは少し違う気がしたのである。
もっとも、今日の朝食を食べることに問題があるとは思わなかった。紬は最後まで料理を楽しみ、食器を装置へ戻した。
『洗浄完了』
数秒後、食器は綺麗な状態になって収納された。
「……後片づけまで終わった」
紬は食卓に座ったまま、少しだけ感動した。
洗濯も、掃除も、料理も、片づけも。これまで当たり前のように時間を使っていた作業が、次々と自分の手から離れていく。
それは単に楽になるというだけではなかった。
今まで家事に使っていた時間を、好きなことに使えるようになるのだ。
紬は食卓の上で両手を組み、今日の予定を考えた。読みかけの本を読んでもいいし、映画を観てもいい。昨日作ったクッションで昼寝をするのも魅力的だった。
けれど、そうして自由な時間が増えたからこそ、別のことも気になってきた。
万物創造があれば、もっと快適な生活を作れるのではないだろうか。
例えば、部屋の温度や湿度を自動で調整する仕組み。外の騒音を遮断し、必要な音だけを通す窓。夜になれば自然に照明が落ち、朝になれば身体に負担のない明るさで目覚められる環境。
昨日作った寝具も十分に快適だったが、家全体を自分好みに整えれば、もっと過ごしやすくなるはずだ。
紬は台所から部屋へ戻り、机の上に置いてある実験記録を開いた。昨日までの項目に加え、今日作った洗濯装置、掃除装置、調理装置について書き込んでいく。
それぞれの機能や使用結果を簡単にまとめた後、紬は新しい見出しを作った。
『生活改善計画』
そこには、思いついたことを順番に書き並べていった。
室温の自動調整。騒音対策。家具の配置変更。衣類の管理。消耗品の補充。食事の栄養管理。
書き始めると、意外なほど多くの項目が出てくる。普段は気にしていなかった小さな不便が、次々と見つかったのである。
紬はしばらく考えた後、まず室温の調整から試すことにした。エアコンを使えば済む話ではあるが、部屋の場所によって温度が違ったり、風が直接当たったりするのが少し苦手だった。
そこで、室内全体の温度と湿度を均一に保ち、必要に応じて空気を入れ替える小さな装置を作った。見た目は壁に取り付ける薄い板で、動作音はほとんどない。
紬が壁へ設置すると、室内の空気がわずかに変化した。暑くも寒くもなく、肌に触れる空気が心地よい。窓際へ移動しても、部屋の中央と温度が変わらなかった。
「……これならエアコンいらないかも」
紬は少し嬉しくなり、続いて窓の遮音機能も調整した。外の車の音や遠くの工事音を弱める一方で、玄関の呼び鈴や緊急時の警報など、必要な音は聞こえるようにする。
完全な無音ではなく、生活に必要な音を残すところが重要だった。紬は静かな環境が好きだが、外の世界と完全に切り離されたいわけではない。
設定を終えると、部屋は驚くほど落ち着いた空間になった。空気は快適で、外の騒音も気にならない。掃除装置はすでに清掃を終え、部屋の隅で待機している。
紬は満足そうに周囲を見回した。
「……すごい、快適」
そう言ってから、ふと時計を確認した。まだ午前中だった。
普段なら洗濯や掃除、食事の準備でそれなりの時間が過ぎているはずなのに、今日はほとんど何もしていない。それどころか、家事を終わらせたうえで、新しい装置までいくつも作ってしまった。
紬は少し考えた末、昨日作った大型クッションへ向かった。身体を預けると、柔らかな感触が背中を支えてくれる。室温もちょうどよく、外の音も気にならない。
これ以上ないほど快適な環境だった。
しかし、しばらく横になっているうちに、紬はあることに気づいた。
暇なのである。
家事をしなくていい。買い物へ行く必要もない。料理も自動で用意される。普段なら面倒に感じていた作業がなくなった結果、予想以上に自由な時間が増えてしまった。
もちろん、それ自体は嬉しいことだった。だが、何もすることがない時間があまりに長いと、今度は退屈になってしまう。
「……贅沢な悩み」
紬は自分で言って、少し笑った。
昨日までは、家事が面倒だと思っていた。それが今日になった途端、家事をしなくていいことに戸惑っているのだから、我ながら勝手なものだ。
けれど、せっかく自由な時間ができたのなら、何か楽しいことに使いたい。
紬はクッションの上で寝返りを打ち、天井を眺めた。映画を観るのもいいし、本を読むのもいい。ゲームをするのも楽しそうだ。
それでも、どれも一人でできることばかりだった。
別に一人で過ごすのが嫌いなわけではない。むしろ、人と話すのが苦手な紬にとって、自宅で誰にも気を遣わずに過ごせる時間は大切だった。
ただ、こうして何でもできるようになってみると、少しだけ誰かと感想を共有したくなる瞬間がある。
今日作った装置がどれほど便利なのか。昨日のクッションがどれほど気持ちいいのか。そんな他愛のない話を、気軽にできる相手がいたらどうだろう。
紬はそこまで考えてから、すぐに首を振った。
「……いや、無理」
知らない人と話すのは緊張するし、親しい相手でも会話が続かないことがある。自分の考えを言葉にするまで時間がかかり、相手を待たせてしまうのも苦手だった。
だからといって、今すぐ誰かを家へ呼びたいわけでもない。
紬はクッションへ顔を埋め、しばらく考え込んだ。
人間と話すのが難しいなら、動物はどうだろう。
犬や猫なら、言葉がうまく出てこなくても気にならないかもしれない。相手の反応を見ながら、ゆっくり話しかければいい。会話が途切れても、きっと変な空気にはならないだろう。
その考えは、思った以上に魅力的だった。
紬は顔を上げ、部屋の中を見回した。綺麗に片づいた床。快適な室温。柔らかなクッション。ここに小さな動物が一匹いたら、どんな生活になるのだろう。
もちろん、生き物を飼うなら責任が伴う。食事や健康管理、生活環境についても考えなければならない。自分が楽をしたいからという理由だけで、軽々しく決めるべきではないだろう。
けれど、万物創造があれば、そのための環境を整えることは難しくないはずだった。
紬はしばらく想像を膨らませた後、実験記録を手元へ引き寄せた。
そして、生活改善計画の一番下に、新しい項目を書き加えた。
『一緒に暮らす動物について考える』
書き終えた文字を眺めながら、紬は少しだけ頬を緩めた。
どんな動物がいいだろう。犬も可愛いし、猫も魅力的だ。小さくて、あまり怖くなくて、できれば抱っこできるくらいの大きさがいい。
考えているうちに、丸くてふわふわした姿が頭に浮かんできた。
短い足で歩き、ちょこちょこと身体を揺らす、小さな生き物。
紬はその姿を思い浮かべたまま、しばらく動かなかった。
「……ペンギン、可愛いかも」
口にした途端、少しだけ胸が弾んだ。
動物園や水族館で見たことはあるが、もちろん自宅で飼った経験はない。そもそも、普通のペンギンを一般家庭で飼育するのは簡単ではないだろう。
けれど、今の自分には万物創造がある。
もし、ペンギンのような姿をした、小さくて健康な生き物を作れるとしたら。
紬はそこで考えるのをやめた。
さすがに、生き物を作るというのは、これまでの実験とは意味が違う。物や道具なら気軽に作れるが、命を持つ存在となれば、もっと慎重に考える必要がある。
それでも、興味は消えなかった。
紬は実験記録の新しい項目の横に、小さなペンギンの絵を描いた。丸い身体に短い足、つぶらな目。絵はあまり上手ではなかったが、自分では少し気に入った。
その横に、さらに一言を書き加える。
『お話しできたら、もっといい』
書いた後で、紬は少し恥ずかしくなった。
動物と話せたらいいなんて、子どもみたいな願いかもしれない。けれど、誰かに見せるわけではないのだから、別に構わないだろう。
紬はノートを閉じ、クッションへ身体を預けた。
洗濯も掃除も料理も、今ではほとんど自分の手を動かさずに済む。部屋は快適で、欲しいものも作れる。昨日まで想像もしなかったほど自由な生活が、たった一日で形になり始めていた。
それなのに、最後に欲しくなったのは、便利な機械でも豪華な家具でもなかった。
自分の話を聞いてくれる、小さな誰か。
紬は天井を眺めながら、先ほど描いたペンギンの絵を思い出した。
もし本当に作れるのなら、どんな性格がいいだろう。大人しいほうが話しやすいかもしれないし、少し元気なほうが楽しいかもしれない。
そんなことを考えているうちに、自然と笑みが浮かんでいた。
明日は、少し違う実験をしてみよう。
今度は、物ではなく、生き物について。
紬は柔らかなクッションの上で目を閉じた。家事から解放された休日は、まだ十分に残っている。
けれど、彼女の頭の中ではすでに、丸くて小さなペンギンが、短い足で部屋の中を歩き回っていた。




