第31話 明日も一緒に
病室の窓から見える空は、朝から薄い雲に覆われていた。
藤原健一はベッドの背もたれを少し起こし、窓際に置かれた小さな鉢植えを眺めていた。妻が先週持ってきた観葉植物で、病室に花を置けないことを知った娘が、代わりに選んでくれたものだった。
丸みを帯びた葉が三枚、窓から入る風もないのに、空調のわずかな気流を受けて揺れている。
健一はその様子をしばらく見ていたが、やがて枕元の時計に目を向けた。午前七時四十分。朝食が運ばれてくるまで、まだ少し時間がある。
以前なら、この時間にはもう家を出ていた。
駅まで十五分ほど歩き、決まった電車に乗って会社へ向かう。途中のコンビニで缶コーヒーを買い、職場に着いたらパソコンを立ち上げる。二十年以上も繰り返してきた生活だったが、今ではそれが遠い昔の出来事のように感じられた。
健一は四十八歳。住宅設備を扱う会社で営業職として働き、妻と高校生の娘との三人暮らしを送っていた。
一年ほど前、胃の不調をきっかけに病院を受診した。
最初は、仕事の付き合いで外食が続いたせいだと思っていた。胃薬でも飲めば治るだろうと考え、実際に何日かは症状が軽くなったため、検査を受けるのを先延ばしにしてしまった。
しかし、食欲の低下と体重の減少が続き、妻に強く勧められて詳しい検査を受けた結果、進行した胃がんが見つかった。
その後の一年間は、手術、抗がん剤治療、検査、入退院の繰り返しだった。
治療がうまくいっていると説明された時期もあった。画像検査で病変が小さくなり、医師から前向きな言葉を聞けた日には、帰り道で妻と少し高いケーキを買ったこともある。
けれど、喜びは長く続かなかった。
別の場所に転移が見つかり、薬を変更しても病気の進行を十分に抑えられなくなった。体力は徐々に落ち、以前は平気だった階段も途中で休まなければ上れなくなった。
そして二週間前、主治医から今後の治療について改めて説明を受けた。
現在の状態では、がんを完全に取り除くことは難しい。これからは症状を和らげ、できるだけ本人らしい生活を続けられるようにすることも大切になる。
医師は言葉を選びながら話してくれたが、その意味を理解するのに時間はかからなかった。
健一はその場で余命を尋ねた。
医師は個人差が大きいことを前置きしたうえで、月単位で今後のことを考えておく必要があるかもしれないと説明した。
妻は隣で泣いていた。
健一自身は、不思議なほど冷静だった。
ただ、その日の夜になって病室の天井を見上げていると、娘が来年の春に高校三年生になることを思い出した。
大学受験がある。
卒業式もある。
成人式も、就職も、いつか誰かと結婚する日も来るかもしれない。
自分は、そのうちどこまで見届けられるのだろう。
そう考えた途端、胸の奥がひどく苦しくなった。
それ以来、健一は先の予定を考えることが少し怖くなっていた。
「藤原さん、おはようございます。昨夜は眠れましたか?」
カーテンを開けて入ってきた看護師の声に、健一は窓から視線を戻した。
「おはようございます。まあ、ぼちぼちですね。途中で何回か起きましたけど」
「痛みはどうでした?」
「昨日よりは楽です。薬が効いてるんでしょうね」
看護師は体調を確認しながら、痛みの程度や吐き気の有無を尋ねた。健一が答えると、手元の端末に記録していく。
「朝ご飯、少し食べられそうですか?」
「見てから決めます。昨日は半分も食べられなかったんで」
「無理に全部食べなくても大丈夫ですよ。食べやすいものがあれば教えてくださいね」
看護師が病室を出ていくと、健一は掛け布団の上に置いていたスマートフォンを手に取った。
家族三人のメッセージグループに、新しい通知が届いていた。
娘の結衣からだった。
『お父さん、今日の数学の小テスト、たぶん満点!』
その下には、得意げな猫のスタンプが添えられている。
健一は口元を緩めた。
『たぶんって何だよ。結果が出てから自慢しろ』
送信すると、すぐに返信が届いた。
『そこは褒めるところでしょ!』
『満点だったらプリン買ってやる』
『約束ね! 高いやつ!』
健一は笑いながら画面を閉じた。
結衣は昔から、何かあると真っ先に父親へ報告する子だった。小学校で初めて百点を取った日も、中学校の吹奏楽部で演奏会に出た日も、家に帰るなり玄関で靴を脱ぐことさえ忘れて話し始めた。
最近は以前ほど何でも話してくれるわけではないが、それでも時々こうして連絡をくれる。
健一にとって、その何気ないやり取りが何より嬉しかった。
同時に、プリンを買うという小さな約束でさえ、今の自分には確実に守れると言い切れないことが悔しかった。
スマートフォンを伏せ、窓の外へ顔を向ける。
雲の切れ間から、細い日差しが差し込んでいた。
健一はそれを見ながら、今日の午後に妻と娘が面会に来る予定だったことを思い出した。
せめて、その時間だけは元気な顔を見せたい。
今の自分にできることは、そんな小さな願いを一つずつ積み重ねることくらいだった。
午前中の診察で、主治医の藤堂医師が病室を訪れた。
五十代半ばの穏やかな男性で、健一が最初にこの病院へ紹介されて以来、治療方針について何度も相談してきた相手だった。
「藤原さん、昨日の検査結果について少しお話ししてもいいですか?」
「はい。お願いします」
藤堂は椅子を引き寄せ、健一と目線が近くなる位置に腰を下ろした。
こういうとき、医師が立ったまま説明を始めることはほとんどなかった。健一はその配慮をありがたいと思う一方で、椅子を持ってこられるたびに、あまり良くない話なのではないかと身構えるようにもなっていた。
「血液検査では、肝臓の数値が前回より少し悪くなっています。画像の結果も合わせると、病気の影響が強くなっている可能性があります」
「そうですか」
「今すぐ何かが大きく変わるということではありません。ただ、これまで以上に体調の変化を見ながら、負担の少ない方法を考えていきたいと思っています」
健一は頷いた。
もう何度も聞いてきた説明だったが、慣れることはなかった。
「先生、一つ聞いてもいいですか?」
「もちろんです」
「娘が来年、受験なんです。できれば、それまでは普通に家で暮らしたいと思ってるんですけど……難しいでしょうか」
藤堂はすぐには答えなかった。
健一の顔を見てから、手元の資料を閉じる。
「藤原さんがご自宅で過ごしたいというお気持ちは、大切にしたいと思っています。今の症状をどう調整するか、ご家族がどこまで支えられるかも含めて、一緒に考えていきましょう」
「家内にばっかり負担をかけるのも嫌なんですよね」
「その点も相談できます。訪問診療や看護など、利用できる支援もありますから」
健一は少し考えた。
「……家に帰ったら、娘に弁当でも作ってやりたいんです」
「お弁当ですか?」
「昔はよく作ってたんですよ。卵焼きだけは、家内より俺の方がうまいって言われてまして」
藤堂が微笑んだ。
「それは、ぜひ実現したいですね」
「今じゃ台所に立つのも一苦労ですけどね」
「全部をご自分で作らなくてもいいと思います。椅子に座って味付けを考えたり、卵焼きだけ担当したり。藤原さんができる形を探してみませんか」
その言葉に、健一は少し救われた気がした。




