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うちのぺんぎんが日本政府と交渉している件  作者: むぎちゃ
第2章 何でもできる私と、変わりはじめた世界
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第30話 ぺんぎんがんばいばい

 翌朝、紬はいつもより少し早く目を覚ました。


 目覚ましを設定していたわけではない。寝室のカーテンの隙間から差し込む朝日が眩しかったわけでもなく、何か物音がしたわけでもなかった。ただ、意識が浮かび上がってきた瞬間、昨夜まで頭の片隅に置いていたことが、まだそこにあると気づいてしまったのだ。


 がんを治す。


 昨日、政府との映像通信で口にした言葉は、紬自身が思っていたよりもずっと大きな意味を持っていたらしい。


 高瀬首相と三浦官房長官の反応を思い返すと、今でも少し申し訳ない気持ちになる。二人とも、あんなに驚くとは思わなかった。もっとも、冷静に考えてみれば、世界中の研究者が長い年月をかけて取り組んできた問題なのだから、当然の反応だったのかもしれない。


 紬は布団の中でしばらく天井を眺め、それから枕元に置いてあったスマートフォンへ手を伸ばした。


 時刻は午前七時十二分。


 画面には通知がいくつか並んでいたが、政府からの連絡はない。昨日、こちらから連絡するまでは待ってほしいと伝えたので、その約束を守ってくれているのだろう。


 そのことに、少しだけ安心した。


「……起きようかな」


 小さく呟いて上半身を起こすと、足元の方からもぞもぞと布団が動いた。


「おう。やっと起きたか」


 布団の端から顔を出したボスが、眠たそうな目で紬を見上げている。


「ボス、起きてたの?」


「さっきな。お前がずっと天井見てるから、何か面白いもんでもあるのかと思った」


「何もないよ」


「だろうな。俺にも見えねえ」


 そう言ってボスは大きく伸びをした。丸い身体を精いっぱい反らせても、あまり伸びているように見えないところが少し可愛らしい。


 紬が思わず笑うと、ボスは満足したように布団から這い出した。


「で、今日はどうするんだ?」


「……昨日のこと、考えようと思って」


「そうか。なら朝飯食ってからにしろ。腹減った状態で考えたって、ろくなことにならねえぞ」


「うん」


 ボスはそれ以上、何も尋ねなかった。


 紬はその気遣いをありがたく思いながら、ベッドから降りた。


 リビングへ向かうと、すでにアイリスの姿があった。銀色の髪を肩のあたりで揺らし、いつもの落ち着いた表情で二人を迎える。


「おはようございます、マスター。ボス」


「おはよう、アイリス」


「おう」


「朝食の準備は整っています。なお、昨日ご希望された医学情報の整理につきましては、指示どおり保留を継続しています」


 紬はその言葉に足を止めた。


 アイリスなら、紬が眠っている間に必要な情報を集め、何百通りもの治療方法を比較することだってできただろう。それでも、昨日の約束を守って待っていてくれた。


「ありがとう。朝ごはんを食べたら、一緒に考えてくれる?」


「もちろんです」


 アイリスの表情がわずかに和らいだ。


「ただし、今回は私から一つ提案があります」


「なに?」


「最初に、マスターが何を実現したいのかを確認させてください。方法を検討するのは、そのあとです」


 紬は少し驚いた。


 以前のアイリスなら、目的を聞く前に最適と思われる方法をいくつも並べていたかもしれない。


「……うん。そうしよう」


 食卓についたボスが、二人の顔を交互に見た。


「なんだ、今日は随分まともな始まり方じゃねえか」


「ボス。その発言には、普段の私がまともではないという含意が認められます」


「含意じゃねえ。感想だ」


「訂正を要求します」


「朝飯が冷めるぞ」


 いつものやり取りを聞きながら、紬は温かい味噌汁に口をつけた。


 昨日から胸の中にあった重たいものが、ほんの少しだけ軽くなった気がした。


     *


 朝食を終えた三人は、リビングの大きなテーブルを囲んでいた。


 紬の前には温かい紅茶があり、ボスの前には小さな皿が置かれている。アイリスはテーブルの上に半透明の画面を展開していたが、そこにはまだ複雑な図表も医学用語も表示されていなかった。


 ただ、一つの質問だけが書かれている。


『どのような治療を実現したいですか?』


「えっと……」


 紬は両手でカップを包み、しばらく考えた。


「がん細胞だけを、全部なくしたい。どんな種類のがんでも、どこまで進んでいても。それから、がんのせいで傷ついた身体も、できるだけ元に戻したい」


「治療に伴う痛みや負担については、どうお考えですか?」


「少ない方がいい。できれば、注射一回くらいで済むといいな」


「治療期間は?」


「……数時間とか?」


 自分で言ってから、紬は少し恥ずかしくなった。


 そんな都合のいい治療があるはずもないと、普通なら考えるところだ。しかし、紬には万物創造がある。問題は、作れるかどうかというより、何を作るべきかをきちんと決められるかどうかだった。


 アイリスは画面に条件を一つずつ書き加えていく。


「確認します。対象は、すべての種類および病期のがん。原発巣だけでなく、転移した病変も含みます。正常な組織への損傷を最小限に抑え、既存の損傷についても修復する。投与方法は単回注射、治療時間は数時間以内を目標とする。以上でよろしいでしょうか」


「うん」


「では、もう一つ重要な点があります。がん細胞を消失させることと、患者が元の健康状態に戻ることは、必ずしも同じではありません」


 画面に人体の模式図が現れた。


 そこには肺や肝臓、骨、脳などの臓器が描かれている。


「例えば、がんによって臓器の一部が失われている場合、病変を取り除くだけでは機能が回復しません。骨の損傷、神経への影響、長期の衰弱なども考慮する必要があります」


「じゃあ、それも治せるようにしたい」


「どこまで修復するか、境界を決める必要があります。過去の病気や生まれつきの特徴まで変更するのか、それとも、がんおよびその治療によって生じた損傷に限定するのか」


 紬は少し考えてから答えた。


「がんに関係するところだけでいいと思う。勝手に身体を変えちゃうのは、違う気がするから」


「承知しました」


 アイリスが画面を切り替える。


「では、治療対象の識別方法を検討します」


 紬はそこから、想像以上に長い説明を聞くことになった。


 がん細胞は、外から侵入してくる細菌やウイルスとは違い、もともと自分の身体を構成していた細胞が変化したものだ。しかも、がんの種類によって特徴が異なるだけでなく、同じ患者の身体の中でも、すべてのがん細胞が同じ性質を持つとは限らない。


 ある特徴だけを頼りに攻撃すれば、取りこぼす細胞が出るかもしれない。反対に、判定を大雑把にすれば、正常な細胞を傷つける危険がある。


「……思ったより、難しいね」


 紬が漏らすと、アイリスは頷いた。


「はい。単に異常な細胞を破壊する装置では、マスターの希望を満たせません」


「全部見分けられるようにすればいいんじゃねえのか?」


 それまで静かに聞いていたボスが口を挟んだ。


「見分けるための条件が問題なのです。正常な細胞にも、がん細胞と共通する特徴が存在します」


「じゃあ、一個だけ見て決めなきゃいいだろ。いろんなところ見て、それでも怪しかったら調べ直せばいい」


 アイリスは一瞬、言葉を止めた。


「……その方向性は適切です」


「お、俺の勝ちか?」


「勝敗を競っていたわけではありません」


「つまんねえな」


 紬は二人の会話を聞きながら、画面に浮かぶ細胞の図を眺めた。


 確かに、最初から一つの特徴だけで判断する必要はない。


 細胞そのものの状態、周囲の組織との関係、増殖の仕方、身体全体における役割。そうした情報を組み合わせ、判断が難しいものについては無理に処理を進めず、さらに確認する。


 そして、間違った細胞を攻撃しないよう、複数の独立した判定が一致しなければ治療動作を開始できないようにする。


「……できそう」


 紬が呟くと、アイリスが視線を向けた。


「構造が定まりましたか?」


「うん。すごく小さい機械を身体の中に入れて、がん細胞を探してもらうの。でも、見つけたからってすぐに壊すんじゃなくて、何回も確かめる。ちゃんと確認できたら、その細胞だけを処理して……」


 言葉にするほど、頭の中のイメージが鮮明になっていく。


 破壊された細胞の成分は、身体に害を与えない形へ分解して処理する。がんが占めていた場所には、周囲の正常な組織に合わせて修復を行う。血管や神経など、複雑な構造については、元の機能を取り戻せるよう慎重に再構築する。


 そして、治療が終わった機械は、そのまま体内に残り続けてはいけない。


「全部終わったら、消えてほしいな」


「体内で安全な物質へ分解され、排出される方式が考えられます。また、異常動作時には即座に活動を停止し、分解へ移行する独立した安全機構が必要です」


「うん。それも入れる」


「外部から勝手に操作されないよう、通信機能も原則として持たせない方がよいでしょう」


「そうだね」


 アイリスの画面には、次々と条件が追加されていった。


 紬はその一つ一つを確認し、ときには質問を返した。難しい医学用語はアイリスに説明してもらい、理解できない部分は曖昧なままにしなかった。


 万物創造で作ること自体は、難しくない。


 けれど、誰かの身体の中で働くものを作るのだから、適当に決めたくはなかった。


 そうして一時間ほどが過ぎた頃、アイリスは画面を閉じた。


「基本設計はまとまりました。ただし、これはマスターの能力によって実現する技術の設計であり、現代医学の知識だけから導かれたものではありません。実際の人体で期待どおりに作用するかどうかは、別途検証が必要です」


「うん。そこは、お医者さんたちにちゃんと確かめてもらいたい」


「承知しました」


 ボスが皿の上に残っていた最後の一切れを飲み込んだ。


「で、作るのか?」


 紬は少しだけ緊張しながら頷いた。


「……作ってみる」


     *


 三人が向かったのは、紬が以前から使っている実験室だった。


 扉の向こうに広がる空間は、自宅の一室とは思えないほど広い。必要な設備を置けるよう余裕を持たせてあり、各種の実験台や観測装置が整然と並んでいる。


 紬は中央の作業台に近づくと、表面を軽く撫でた。


「まずは、少しだけ」


 次の瞬間、作業台の上に小さな透明容器が現れた。


 中には無色透明の液体が入っている。見た目だけなら、ただの水とほとんど変わらない。


「これが……?」


 紬が容器を持ち上げると、アイリスが観測用の画面を展開した。


「はい。内部に設計どおりの微小機械群が存在しています。初期構造の確認を開始します」


 画面に映し出されたのは、肉眼では到底見えないほど小さな構造体だった。


 それぞれが独立して動作しながら、必要に応じて周囲の情報を共有する。複数の安全判定機構が組み込まれ、許可された条件がそろわなければ治療動作へ移行しない。


 紬は拡大された映像をじっと見つめた。


「……ちゃんとできてる」


「構造上は設計と一致しています。ただし、これは製造時の確認結果です。機能の検証とは区別する必要があります」


「わかってる」


 ボスが実験台の縁から容器を覗き込んだ。


「なんも見えねえな」


「すごく小さいからね」


「これが身体ん中で働くってのか。俺にはただの水にしか見えねえ」


「液体は投与用の媒体です。微小機械はその中に分散しています」


「だから見えねえって言ってんだよ」


 ボスは容器を眺めたあと、紬に向き直った。


「で、試すんだろ?」


「うん。でも、人にはまだ使わないよ」


 紬は容器を所定の位置に置いた。


 次に作り出したのは、検証のための小さな密閉装置だった。内部には複数の独立した区画があり、それぞれ異なる条件の細胞や組織を配置できるようになっている。


 正常な細胞だけが存在する区画。


 がん細胞だけが存在する区画。


 正常な組織の中に、ごく少数のがん細胞が紛れ込んでいる区画。


 さらに、がんとよく似た特徴を持ちながら、実際には正常な働きをしている細胞も用意した。


「これなら、間違えて壊さないか確認できるかな」


「初期評価として有用です。ただし、培養細胞や模擬組織では、実際の人体における免疫反応や全身への影響を完全には再現できません」


「うん。まずは、ここから」


 紬は装置を起動した。


 観測画面の中で、微小機械群が静かに動き始める。


 最初に処理されたのは、がん細胞だけが存在する区画だった。微小機械は対象を取り囲むように分布し、複数の判定を経てから治療動作へ移行する。


 細胞の状態が変化し、やがてがん細胞としての活動が停止した。


 周囲に有害な残留物が生じていないことを確認すると、微小機械群は次の工程へ進んだ。


 紬は息を詰めて画面を見守った。


 その隣で、アイリスが次々と観測結果を整理していく。


「対象区画でのがん細胞の処理を確認しました。現時点で、想定外の反応は検出されていません」


「……よかった」


「続いて、正常細胞との混在条件を確認します」


 次の区画では、微小機械群の動きが少し変わった。


 がん細胞と正常細胞が入り交じる環境の中で、一つ一つの対象を慎重に調べている。処理対象として確定できない細胞には手を出さず、判定を保留したまま別の情報を集める様子が見えた。


 そして、がん細胞と判定されたものだけが処理されていった。


 紬は画面を拡大し、残された正常細胞の状態を確認した。


「……傷ついてない?」


「観測可能な範囲では、正常細胞の損傷は認められません。ただし、遅れて現れる影響については継続観察が必要です」


「そっか」


 紬は少し肩の力を抜いたものの、まだ安心しきることはできなかった。


 その後も検証は続いた。


 がんに似た特徴を持つ正常細胞に対して、微小機械は治療動作を開始しなかった。意図的に一部の判定機構を妨害すると、該当する微小機械は動作を停止した。必要な情報が得られない条件では、無理に処理を続けることなく、安全な状態へ移行した。


 最後に、治療終了を示す条件を与える。


 観測画面の中で微小機械群は順次活動を停止し、設計された分解工程へ移っていった。


「分解完了を確認しました。残留物についても、設定された検査項目では問題ありません」


 アイリスの報告を聞いた紬は、ようやく椅子の背もたれに身体を預けた。


「……できた、のかな」


「少なくとも、初期の模擬環境では設計した機能が確認されました」


 アイリスはそこで一度言葉を区切った。


「ただし、人体での安全性と有効性を証明したわけではありません。今回の結果だけで医療行為に使用することはできません」


「うん。わかってる」


 紬は自分の手元にある透明容器を見つめた。


 小さな容器の中に、誰かの人生を大きく変えるかもしれないものが入っている。


 その事実が、ようやく実感として湧いてきた。


「……これ、本当にすごいものなんだね」


 ぽつりと漏らした言葉に、ボスが答えた。


「そりゃそうだろ。お前がずっと考えて作ったんだからな」


「でも、まだわからないこともいっぱいあるよ」


「だったら、わかる奴らに調べてもらえばいい。今日はまず、作るところまでできたんだろ」


 紬は小さく頷いた。


 ボスは作業台の上に置かれた容器をもう一度見て、少し首を傾げた。


「ところで、名前は?」


「……名前?」


「あるんだろ。こういうのにも」


 紬は目を瞬かせた。


 そういえば、まだ考えていなかった。


「えっと……」


 しばらく考えてみたものの、難しい名前は思いつかなかった。


 がんを治すための、小さな機械たち。


 身体の中で悪い細胞を見つけて、なくしてくれるもの。


 紬は口元に指を当て、少し悩んでから言った。


「……ぺんぎんがんばいばい」


 実験室が静かになった。


 アイリスは何も言わず、紬の顔を見ている。


 ボスも、珍しくすぐには口を開かなかった。


「……変、かな?」


 紬が不安になって尋ねると、ボスはゆっくり首を振った。


「いや。お前らしいんじゃねえか」


「ほんと?」


「ああ。聞いたら何をするもんなのか、だいたいわかるしな」


「そうかな……」


「ただ、病院の先生が真面目な顔でその名前を言ってるところは、ちょっと見てみてえ」


 紬は思わず笑ってしまった。


 アイリスが画面に正式名称を入力する。


『がん治療用微小機械群 ぺんぎんがんばいばい』


「登録しました」


 その表示を見たボスが、少し得意そうに胸を張った。


「よし。名前も決まったな」


「ボスは何もしてないでしょ」


「見守っただろうが」


「それは、ありがとう」


 紬が笑って答えると、ボスは照れ隠しのように顔を背けた。


     *


 しかし、紬の仕事はそこで終わりではなかった。


 目の前にある一つの容器だけでは、治療を必要としている人たちに届けることはできない。


 それに、紬が毎回一つずつ作って政府へ渡す方法では、必要な量を安定して供給するのが難しい。


 紬はアイリスと相談しながら、専用の自動製造設備について考え始めた。


「核融合炉のときと同じように、日本で作れるようにしたいんだけど……」


「今回は医療用途ですので、製造量だけでなく、各製造単位の品質確認と追跡管理が重要になります」


「追跡管理?」


「どの設備で、いつ、どの条件で製造されたものかを記録する仕組みです。仮に問題が見つかった場合、該当する製品を特定し、使用を止められるようにします」


「なるほど……」


 紬は頷きながら、設計画面を覗き込んだ。


 設備は、必要な原料を受け取り、微小機械を製造し、投与用の液体へ分散させる。完成した製品は密封容器へ充填され、製造単位ごとに検査される。


 検査に合格しなかったものは、外部へ出さずに安全な状態へ分解する。異常が生じた場合には製造工程を停止し、原因が確認されるまで再開しない。


 また、製造設備そのものを分解して内部技術を取り出したり、許可されていない別のものを作ったりできないよう、用途を限定する。


「政府の人たちが使いやすい方がいいよね」


「はい。ただし、操作が容易であることと、無制限に変更できることは別です。製造条件の改変や未承認の用途への転用はできない構造とします」


「それでお願い」


 紬はさらに、製品の保管方法や輸送時の条件についても確認した。


 どれほど優れた治療法であっても、病院へ届くまでに品質が変わってしまっては意味がない。


 輸送中の温度や衝撃を監視する仕組み、使用期限を管理する仕組み、容器が破損した場合に安全に処理する仕組み。必要な条件を整理していくうちに、製造設備は当初考えていたよりも複雑なものになっていった。


 ボスはその設計画面をしばらく眺めていたが、やがて紬に尋ねた。


「なあ。これ、病院の奴らが間違えて使ったりしねえのか?」


「え?」


「薬ってのは、使い方間違えたら困るんだろ。どんだけすげえもんでも、誰に何を打つのかわからなくなったらまずいんじゃねえか」


 紬はアイリスへ目を向けた。


「そういうのも、必要だよね」


「はい。投与前の患者確認、製品識別、使用記録の照合などは医療機関側の手順と連携する必要があります。設備単独で医療行為を判断する設計にはしない方が適切です」


「うん。お医者さんがちゃんと確認できるようにしよう」


 紬は、製品の識別情報を読み取れるようにするとともに、検証されていない段階では治療用として出荷できない仕組みを追加した。


 製造できることと、使用してよいことは違う。


 その区別を設備の側でも守れるようにしたかった。


 さらに、製造設備は日本国内に設置し、日本政府の管理下で運用するという条件も組み込んだ。完成した製品を将来海外へ提供することは可能にするが、製造設備そのものや製造技術を海外へ移転できる構造にはしない。


 それは、核融合炉のときに決めた技術提供の基本方針とも一致していた。


「……これで、どうかな」


 紬が尋ねると、アイリスは設計全体を確認した。


「現時点で定めた条件は反映されています。製造能力についても、国内の大規模な供給を想定した設計が可能です。ただし、実際の供給計画は、臨床検証と医療機関の受入れ体制が整ってから決定すべきでしょう」


「うん。急いで配るのは、まだ違うもんね」


 紬は目を閉じ、完成した設備の姿を思い浮かべた。


 すると、実験室の奥に、白と銀色を基調とした大きな装置が静かに現れた。


 外側には操作画面と点検用の区画があり、内部の主要な製造機構には直接触れられない。完成品の取り出し口は独立しており、検査を通過した製品だけがそこへ送られる仕組みになっている。


 紬は装置を見上げた。


 核融合炉を作ったときは、発電所や電気の話をしていた。


 今、目の前にあるのは、人の身体に入るものを作る機械だ。


 同じ万物創造で生み出したものでも、感じる重みは少し違っていた。


「……アイリス、確認してくれる?」


「はい、マスター」


 アイリスは設備の内部状態を確認し、各機構が設計どおりに構成されていることを報告した。


 紬はその結果を聞いてから、製造工程の試運転を行った。


 原料が内部へ取り込まれ、密閉された工程の中で微小機械群が製造される。各段階で検査が行われ、最終的に少量の試験製品が完成した。


 製造記録と識別番号が表示され、容器が取り出し口へ運ばれてくる。


 アイリスはそれを受け取り、追加の検査を開始した。


「設計された製造工程は正常に終了しました。試験製品の構造も基準に適合しています」


「……よかった」


「ただし、医療用製品としての品質基準は、今後、政府および専門機関との協議によって正式に定める必要があります」


「うん」


 紬は装置に近づき、白い外装へそっと手を触れた。


 これで、治療に必要なものを作るための準備は整った。


 少なくとも、紬ができる範囲では。


 残るのは、これを実際に使ってよいものなのか、誰がどのように確かめていくのかという問題だった。


     *


 午後三時を少し過ぎた頃、紬は政府への連絡を決めた。


 実験室からリビングへ戻り、いつもの通信画面を開く。アイリスが接続の準備を整える間、紬はテーブルの上に置いた資料を何度か並べ直した。


「そんなに緊張することか?」


 隣に座ったボスが尋ねる。


「だって、昨日話したばっかりなのに、もう作っちゃったから……」


「作れたんなら、そう言やいいだろ」


「そうなんだけど」


「変に隠す方が面倒になるぞ」


 それは確かにそうだった。


 紬が頷いたところで、画面が切り替わった。


 映し出されたのは、高瀬首相と三浦官房長官だった。


 二人とも、昨日とは違って落ち着いた表情をしている。もっとも、紬が連絡を希望したと聞いて、何か進展があったのではないかと考えていることは、雰囲気から伝わってきた。


『小鳥遊さん。ご連絡ありがとうございます』


 高瀬が穏やかに挨拶した。


『昨日のお話については、こちらから催促しないようにしておりました。今日は、どのようなご用件でしょうか』


「あの……がんの治療のことなんですけど」


『はい』


「作ってみました」


 高瀬は静かに頷きかけ、その途中で動きを止めた。


 三浦も手元の資料から顔を上げる。


『……作った、とおっしゃいましたか』


「はい。治療に使う小さい機械と、それを作る設備です」


 数秒の沈黙が流れた。


 紬は少し不安になったが、今回は昨日と違い、二人ともすぐに表情を整えた。


『承知しました。まず確認させてください。実際の患者さんに使用されたわけではありませんね』


「はい。まだです。実験室で細胞を使った確認はしたんですけど、人に使って大丈夫かは、ちゃんと調べてもらわないといけないと思って」


『ありがとうございます。その点を最初に確認できて安心しました』


 高瀬はそう言ってから、三浦と短く視線を交わした。


『差し支えなければ、どのようなものなのか説明していただけますか』


「えっと……」


 紬はアイリスに目を向けた。


「説明、お願いしてもいい?」


「承知しました、マスター」


 画面の一部に、アイリスがまとめた資料が表示される。


 がん治療用微小機械群。


 単回注射によって体内へ投与し、全種類・全病期のがんを治療対象とする設計。転移した病変にも対応し、がん細胞の除去と、がんによって損傷した組織の修復を行う。


 設計上の治療時間は数時間以内。


 正常組織を保護するための多段階判定機構と、異常動作時の停止・分解機構を備える。


 ただし、現在までに確認できたのは、限定された模擬環境での初期試験結果であり、人体での安全性や有効性は未検証。


 アイリスは一項目ずつ、必要な説明を加えていった。


 高瀬も三浦も、途中で話を遮らなかった。


 説明が終わると、三浦が口を開いた。


『確認したいことがいくつかあります。まず、現代の医療で用いられている抗がん剤や放射線治療とは、まったく異なる仕組みと考えてよろしいでしょうか』


「はい。がん細胞を識別して、直接処理する仕組みです」


『すべての種類のがんに対応するというのは、設計上の目標ではなく、機能として組み込まれているという理解ですか』


「はい。でも、本当に全部の患者さんでうまくいくかは、まだ確かめてないです」


『わかりました』


 三浦は一度メモを取り、続けた。


『製造設備については、どのような状態でしょうか』


「もう作りました。試運転も終わってます」


 高瀬が目を伏せ、ほんの少しだけ息を吐いた。


 驚きを表に出さないよう努力しているのが、紬にもわかった。


『……それでは、製品を継続して製造するための設備も、すでに存在しているのですね』


「はい。ただ、勝手に病院へ配ったりはできないようにしてあります。ちゃんと確認してからじゃないと使えない方がいいと思って」


『それは非常に重要です』


 高瀬は姿勢を正した。


『小鳥遊さん。政府としては、医学的な検証を行うための体制を整えたいと考えています。ただし、昨日お約束したとおり、あなたの意思を確認せずに計画を進めることはいたしません』


「……はい」


『専門家による資料の確認、製品の品質評価、必要な安全性試験、そして臨床研究の進め方について、段階的に協議させていただけないでしょうか』


 紬は少し考えた。


 政府へ提供すること自体は、もう決めている。


 けれど、医療に関する細かい手続きや判断を、自分一人で決めることはできないし、そうするべきでもないと思った。


「お願いします。私は、お医者さんじゃないので……使っていいかどうかは、ちゃんと専門の人に判断してほしいです」


『承知しました。医療上の判断は、適切な専門家と制度のもとで行います』


 三浦が頷いた。


『製造設備の設置場所や管理方法についても、改めて協議が必要です。核融合炉とは異なり、今回は医薬品に相当するものを扱う可能性がありますので、製造管理や流通管理の体制も整えなければなりません』


「はい。設備は日本で使ってもらうつもりです。海外に製造方法を渡すのは、今のところ考えてません」


『その条件も尊重します』


 そこで高瀬が、資料の一番上に表示された文字へ目を向けた。


『ところで、小鳥遊さん。一つだけ伺ってもよろしいでしょうか』


「はい?」


『この「ぺんぎんがんばいばい」というのは……』


 紬の頬が少し赤くなった。


「……名前です」


『なるほど』


 高瀬は真剣な顔のまま頷いた。


『正式な名称、ということでしょうか』


「はい……」


『承知しました』


 首相はそれ以上、何も言わなかった。


 ただ、隣に座る三浦が一瞬だけ唇を引き結んだのを、紬は見逃さなかった。


 笑うのを我慢しているようにも見えたが、気のせいかもしれない。


 ボスが画面の端から顔を出す。


「いい名前だろ?」


『ええ。覚えやすい名称だと思います』


「だろうな」


 ボスは満足そうに頷いた。


 紬はますます恥ずかしくなり、カップに手を伸ばした。


     *


 通信を終えたあと、高瀬はしばらく椅子に座ったまま、目の前の資料を見つめていた。


 画面には、先ほど説明された治療用微小機械群の概要が残っている。


 単回注射。


 全種類・全病期のがんに対応。


 数時間以内にがん細胞を除去し、損傷した組織を修復する。


 文字として並べるだけなら、ほんの数行だった。


 しかし、その数行が意味するものを、高瀬は軽く受け止めることができなかった。


「……三浦君」


「はい」


「まずは、関係する専門家を慎重に選んでほしい。医療と製造管理の双方について、検証に必要な体制を考える。ただし、現段階で治療の実施が決まったかのような扱いは避けること」


「承知しました。情報の取扱範囲も限定します」


「それから、本人への連絡は必ず事前に調整する。こちらの都合で予定を押しつけることはしない」


「はい」


 三浦は手元のメモを確認した。


 小鳥遊紬との協力関係は、政府が一方的に命令できるものではない。以前、身元調査をめぐって信頼を損なったことも、二人は忘れていなかった。


 今回の技術がどれほど重要であっても、その約束を軽視する理由にはならない。


「しかし……」


 三浦が小さく呟いた。


「昨日、可能性を示されたばかりです。それが今日には、実物と製造設備まで存在しているとは」


 高瀬はゆっくり頷いた。


「我々が驚いている間に、彼女は作ってしまったということだな」


「ええ」


「だが、ここから先は我々の仕事だ。どれほど優れた技術でも、患者さんに使う以上、慎重でなければならない」


 三浦は深く頷いた。


 高瀬は資料をもう一度見た。


 そこに書かれた正式名称が、どうしても目に入る。


「……ぺんぎんがんばいばい、か」


「はい」


「これを医学会で発表するとき、研究者の先生方はどのような顔をするのだろうな」


 三浦は返事をするまでに、わずかな間を置いた。


「少なくとも、名称よりも内容に驚かれるとは思います」


「そうだろうな」


 高瀬は苦笑した。


 その名前の可愛らしさとは裏腹に、政府がこれから向き合うことになる課題は、決して小さくなかった。


     *


 一方、紬の家では、ボスがソファの上で満足そうにくつろいでいた。


「よし。これでひとまず終わりだな」


「うん……たぶん」


 紬はその隣に腰を下ろした。


 朝からずっと考え続けていたせいか、頭の奥がじんわりと疲れている。


 アイリスが温かい飲み物を運んできた。


「マスター。本日の作業内容はすべて記録しました。初期試験の結果、製造設備の構成、政府へ提供する資料についても整理済みです」


「ありがとう、アイリス」


「今後の追加検証については、政府側から正式な相談があるまで待機します。なお、必要であれば、現在の資料をより詳細な形式にまとめることも可能です」


「それは、また今度でいいかな」


「承知しました」


 紬はカップを受け取り、ゆっくりと一口飲んだ。


 今日作ったものが、本当に誰かの役に立つかどうかは、まだわからない。


 模擬環境では期待したとおりに動いた。製造設備も完成した。けれど、それだけで安心して人の身体へ使ってよいわけではない。


 そのことは、紬にも理解できていた。


 だからこそ、政府に検証を任せると決めた。


 自分ができることと、専門家に確かめてもらうべきこと。その二つを混同しないようにしたかった。


「……ねえ、ボス」


「あん?」


「ちゃんと使えるようになったら、たくさんの人が治るかな」


 ボスは少し考えてから答えた。


「そうなるといいな」


「うん」


「でも、まだ調べるんだろ? だったら、結果が出るまで待ちゃいい。お前が今ここで考えたって、検査が早く終わるわけじゃねえしな」


「そうだね」


 紬は微笑んだ。


 アイリスが二人の様子を見て、静かに告げる。


「本日の成果は、十分に大きなものです。マスターは休息を取るべきだと判断します」


「……アイリス、また休憩の予定表作ったりしないよね?」


「いいえ。今回は作成しません」


 その返答があまりにも早かったので、紬は少し驚いた。


「本日は、マスターが自由に過ごすことを優先します」


「……ありがとう」


 ボスが鼻を鳴らした。


「ようやく覚えたか」


「学習は継続しています」


「そりゃ結構」


 紬はソファに深く座り直し、ボスの丸い身体をそっと抱き上げた。


「おい、急になんだよ」


「ちょっと、抱っこしたくなった」


「……しょうがねえな」


 文句を言いながらも、ボスは抵抗しなかった。


 柔らかな羽毛の温かさが、紬の腕に伝わってくる。


 今日、自分は人の身体の中で働く、目に見えないほど小さな機械を作った。


 それがいつか、どこかの病室で誰かを助ける日が来るかもしれない。


 けれど、今の紬にできるのは、その可能性をきちんと確かめてもらうための準備を整え、結果を待つことだった。


「……今日は、もう何もしなくていいかな」


「いいんじゃねえか」


 ボスが答える。


「ただし、晩飯は別だぞ」


「ふふっ。わかってるよ」


 アイリスが、夕食の希望を尋ねようとして口を開きかけた。


 しかし、二人がソファでくつろいでいる様子を見ると、何も言わずに画面を閉じた。


 紬はそれに気づかないまま、ボスの背中をゆっくり撫でていた。


 世界を変えるかもしれないものが生まれた日も、この家の午後は、いつもと同じ穏やかな時間の中を流れていった。

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