第29話 その一言は、軽すぎる
首相官邸の執務室で、高瀬隆一は一枚の書類を手にしたまま、もう三分ほど同じ行を眺めていた。
文字が読めないわけではない。内容が難解なわけでもなかった。ただ、そこに書かれている数字を読み進めるたびに、頭のどこかが現実を受け入れることを拒んでしまうのである。
家庭用冷蔵庫ほどの大きさしかない装置から、一千万ワットの電力が取り出された。
その事実を自分の口で国民に発表してから、まだそれほど日数は経っていない。
記者会見以降、官邸には国内外から問い合わせが殺到していた。各国政府は詳細な説明を求め、企業は将来の事業計画を見直し、専門家たちは公開された測定結果を巡って議論を続けている。発表を好意的に受け止める者もいれば、何か重大な情報が隠されているのではないかと疑う者もいた。
高瀬自身、すべての疑問に答えられるわけではない。
なにしろ、装置を提供した当人が、その気になれば似たようなものをもう一台、何事もなかったかのように作れてしまうのだから。
しかも本人は、二十一歳の、ごく普通の暮らしを望む女性である。
高瀬は書類を机に戻し、向かいに立つ三浦誠司へ視線を向けた。
「それで、今日の連絡はどうなっている?」
「先方から了承をいただいています。午後三時から、いつもの通信経路で短時間の打ち合わせを行う予定です」
「議題は?」
「核融合装置に関する今後の情報共有と、こちらからの確認事項が二点です。どちらも新たな提供を求めるものではありません」
「それならいい」
高瀬はうなずいた。
あの一件以来、彼らが相手との距離を測る際に最も気をつけているのは、協力を当然のものとして扱わないことだった。
かつて自分たちは、相手の身元を調べないという約束を破った。その結果、国家の情報収集能力をはるかに超える防護の存在を思い知らされ、何より、信頼を失いかけた。
謝罪を受け入れてもらえたからといって、過去が消えるわけではない。
今後の関係を続けるために必要なのは、目の前に現れる奇跡を数えることではなく、交わした約束を守り続けることだと、高瀬は理解していた。
「ところで総理」
三浦が、珍しく少し言いにくそうな顔をした。
「なんだね」
「先方から、打ち合わせの前に一つ確認がありました」
「何を?」
「お茶菓子は出ますか、と」
高瀬は数秒、黙った。
「……どちらからだ」
「ボスさんです」
「だろうな」
「前回のお魚の件も、覚えていらっしゃるようです」
「覚えているのはこちらも同じだ。約束したからね」
高瀬は机の端に置かれた予定表を見やった。
「今回は通信だろう?」
「はい」
「ならば、こちらで魚を用意しても食べられないじゃないか」
「その点については、『画面越しに食わせる気か』とのことでした」
「そこまでわかっていて聞いたのか」
「おそらくは」
高瀬はとうとう笑ってしまった。
世界各国の首脳から会談の申し入れを受けている最中に、こちらが気にかけているのは、四十センチほどのペンギンに魚をどう振る舞うかという問題である。
内閣総理大臣という仕事は、就任前に想像していたよりずっと幅が広いらしい。
午後三時になると、執務室の壁面モニターに通信画面が開いた。
接続先の所在地を示す情報は一切表示されない。先方が用意した専用の経路を通じて映像と音声だけが届く仕組みであり、官邸側がそれ以上の情報を得ようとしないことも、合意の一部となっている。
画面に最初に映ったのは、見慣れた丸い黒い頭だった。
「おう、総理。元気か」
「こんにちは、ボスさん。おかげさまでね」
「顔色悪いぞ。ちゃんと寝てんのか?」
「最近は少々忙しくてね」
「そりゃそうだろうな。俺たちの炉を発表したんだから」
「まったく、その通りだ」
ボスは満足げに胸を張ったが、画面の外から伸びてきた手に身体を抱え直され、すぐに姿勢が崩れた。
「ちょっと、ボス。近すぎるよ。総理大臣の顔、隠れちゃってる」
「いいじゃねえか。俺のほうが見栄えするだろ」
「そういう問題じゃないと思う……」
小鳥遊紬が画面に入ってきた。
薄い色のカーディガンを羽織り、膝の上にボスを抱えている。背後には落ち着いた色合いの室内が見えるが、位置を特定できるような情報は映っていなかった。
以前よりは幾分慣れたのか、紬は高瀬と目が合うと、小さく頭を下げた。
「こんにちは。今日はよろしくお願いします」
「こちらこそ、お時間をいただいてありがとうございます」
高瀬も自然に会釈を返した。
画面の端に、銀髪の女性の姿が現れる。青い瞳を持つ人工知能、アイリスだ。
「通信状態は良好です。マスター、本日の予定時間は三十分となっていますが、必要であれば調整できます」
「うん。ありがとう」
「なお、ボス様の発言によって議題が増加する可能性は、今回も考慮しています」
「おい、なんだその言い方」
「過去の実績に基づく予測です」
「俺が話を広げるのは大事なことだからだろ」
「その点は否定しておりません」
紬が困ったように笑うのを見て、高瀬は少し肩の力を抜いた。
世界を揺るがす技術を持つ人々との会談だというのに、画面の向こうでは相変わらず、家族のようなやり取りが続いている。
そして、それが妙にありがたかった。
打ち合わせそのものは、驚くほど穏やかに進んだ。
三浦から、核融合装置の公表後に生じた問い合わせの状況が簡潔に報告される。政府としては公開済みの事実と未確認事項を区別し、実用化に関する責任は日本政府が負う方針を改めて伝えた。
ボスは途中で二度ほど口を挟んだものの、基本的には話を聞いていた。
紬も、政府から新たな装置の提供を要求されているわけではないとわかると、安心した様子でうなずいている。
「海外からの問い合わせについては、今後もこちらで対応します」
三浦が説明を締めくくった。
「皆さんのお名前や生活に関わる情報を公表する予定はありません。今後も何か確認が必要になった場合には、必ず事前にご相談します」
「うん。それなら大丈夫です」
紬が答えると、ボスが横から付け加えた。
「約束は守れよ。次はねえからな」
「承知しています」
三浦は表情を崩さず答えたが、その声には十分な重みがあった。
しばらくして、予定していた議題はすべて終わった。
高瀬が時計を見ると、まだ十数分ほど余裕がある。三浦も手元の資料を閉じ、形式的な確認事項が残っていないことを確かめた。
通常なら、ここで会談を終了するところだった。
しかし高瀬は、ふと気になったことを口にした。
「小鳥遊さん。少し、個人的なことを聞いてもいいかな」
紬の肩がわずかに動いた。
それに気づいた高瀬は、すぐに言葉を補った。
「もちろん、身元や私生活についてではありません。答えたくなければ、遠慮なく断ってください」
「は、はい。なんでしょう?」
「今回の発表で、世の中がずいぶん騒がしくなったでしょう。あなた自身は、何か変わったことはありませんか」
紬は少し考えた。
「えっと……ニュースは、よく見るようになりました」
「そうですか」
「ボスが、テレビに名前が出るたびに喜ぶので」
「おい。喜んでねえぞ」
「昨日も『俺の炉が世界を取った』って言ってたよね」
「事実を述べただけだ」
アイリスが横から口を挟んだ。
「正確には、昨日だけで三回発言されています」
「数えんな!」
高瀬の隣で、三浦が口元を押さえた。
高瀬自身も笑いながら、もう一つだけ尋ねる。
「なるほど。では、小鳥遊さんは今回のことで、何か新しく考えるようになったことはありますか」
「新しく、ですか?」
「ええ。エネルギー以外のことでも構いません。あれほどの技術を作れるあなたが、どんなことに関心を持っているのか、少し気になりましてね」
これは政治的な質問ではなかった。
高瀬はただ、目の前の若い女性が何を考え、何を面白いと感じるのか、知りたいと思っただけである。
紬はしばらく視線を上に向けていたが、やがて首をかしげた。
「そうですね……。あ、そういえば」
「はい」
「この前、テレビで病気の特集をやってたんです」
「病気?」
「はい。がんの治療についてで、薬が効く人と効かない人がいるとか、手術が難しい場所もあるとか、そういう話でした」
高瀬は穏やかにうなずいた。
病気の特集番組を見ること自体は、珍しいことではない。
紬はボスの頭を撫でながら、何かを思い出すように続けた。
「それで、治すのって大変なんだなって思って……」
「そうですね。医学は進歩していますが、まだ難しい問題も多い」
「でも、私なら……」
紬はそこで一度、言葉を切った。
高瀬は続きを待った。
その間、三浦は机の上の資料を整え、黒崎隼人はいつもどおり扉の近くで警護にあたっていた。
特別な緊張はなかった。
少なくとも、その瞬間までは。
「がんなら治せると思うけど……」
紬は、そう言った。
言い方は、ごく普通だった。
冷蔵庫に卵が残っていたかもしれないとか、明日は晴れると思うとか、その程度の何気なさである。
高瀬はうなずきかけた姿勢のまま止まった。
三浦の指から、一枚の書類が滑り落ちた。
黒崎は扉の前から動かなかったものの、視線だけを鋭く画面へ向けた。
そして、誰も何も言わなくなった。
紬は不思議そうに瞬きをした。
「あれ?」
ボスが高瀬たちを眺め、面白そうにくちばしを開いた。
「おーい。聞こえてるか?」
「……聞こえています」
三浦が答えた。
ただし、返事をするまでに少々時間がかかった。
高瀬は両手を机の上に置き、姿勢を正した。
「小鳥遊さん」
「は、はい」
「今、何とおっしゃいましたか」
「えっと、がんなら治せると思うって……」
「がん、というのは」
「はい?」
「その、一般に悪性腫瘍と呼ばれている、あのがんですか」
「……ほかにもあるんですか?」
高瀬は三浦を見た。
三浦も高瀬を見た。
内閣総理大臣と内閣官房長官が、互いの顔を確認することによって何らかの解決を得ようとする、実に珍しい時間が流れた。
「総理」
「なんだね」
「私の聞き間違いでは、ありませんよね」
「残念ながら、私も同じことを聞いた」
「残念という表現は適切ではないかと」
「わかっている。しかし、ほかに何と言えばいいのかね」
紬はボスを抱き直しながら、申し訳なさそうに口を開いた。
「あの、何か変なこと言いましたか?」
「変っていうかよ」
ボスが横から答えた。
「こいつら、頭ん中で大騒ぎしてんだろ」
「えっ、なんで?」
「そりゃお前、がんを治せるなんて聞いたら驚くだろ」
「でも、まだ作ってないよ?」
高瀬が顔を上げた。
「まだ?」
「はい。実際には試してないので、絶対とは言えないですけど……」
「つまり、治療のためのものを、これから作れるという意味でしょうか」
「そうです」
「どういうものを想定しているのですか」
紬は少し迷った。
「えっと……身体の中で、悪い細胞だけを見つけて、そこだけ治療するような、小さいものとか……」
言葉を探しながら説明する紬の声は、相変わらず控えめだった。
「普通の細胞を傷つけないようにして、身体のあちこちに広がっていても探せるようにすれば、いいのかなって。あと、治療が終わったら残らないようにするとか……」
三浦が再び書類を落としかけた。
今度は何とか持ち直したが、代わりにペンが机から転がり落ちた。
「……失礼しました」
彼はペンを拾わなかった。
それどころではなかったのである。
高瀬は、慎重に言葉を選んだ。
「小鳥遊さん。今お話しされたのは、現在の医療が長年取り組んできた、非常に難しい課題です」
「はい。テレビでも、そう言ってました」
「その課題を、あなたは解決できるかもしれないと?」
「たぶん……。細かいところは考えないといけないですけど」
「どのくらい、考えれば?」
「え?」
「いえ、失礼。急かすつもりはありません」
高瀬は自分の質問を振り返り、危うく相手に開発を催促するところだったと気づいた。
何かを頼む前に、そもそも相手がそれを望んでいるか確かめるべきだ。あれほど肝に銘じたことを、たった一言で忘れかけていた。
しかし、これは仕方がない部分もあった。
相手が口にしたのは、エネルギー問題に続いて、人類が長く抱えてきた病気の一つに対する解決の可能性だったのだから。
高瀬は深く椅子に座り直した。
「……少し、頭を整理させてください」
「はい」
紬は素直にうなずいた。
ボスがくつくつと笑った。
「おい紬。お前、またやったな」
「またって、何を?」
「こいつらにとっては大事件なんだよ」
「でも、まだ何もしてないよ?」
「だから余計にすげえんだって」
その会話を聞いていた三浦は、内心で深く同意した。
政府は核融合装置の実用化に向け、すでに膨大な準備を進めている。安全性の検証、制度上の整理、国内の受け入れ態勢、各国との外交関係。いずれも、ひとつ間違えれば国家の進路を左右しかねない問題だった。
そこへ今度は、がん治療である。
仮に本当に実現すれば、救われる命の数は計り知れない。
既存の医療体制にも大きな影響を与えるだろう。だが、その影響を心配するより先に、今まさに治療を受けている患者や、残された時間を数えている家族のことを考えずにはいられなかった。
そして何より、発言した本人が、そこまで大きな話をしているつもりではなさそうなのが恐ろしい。
「総理」
三浦は声を落とした。
「これは、改めて協議の場を設けるべき案件かと」
「そうだね」
「医療分野の専門家にも、必要に応じて相談することになるでしょう」
「ただし、先方の意思を確認してからだ」
「もちろんです」
高瀬は画面へ向き直った。
「小鳥遊さん。今のお話について、もう少しだけ伺ってもよろしいでしょうか」
「はい。わかる範囲なら……」
「ありがとうございます。まず確認したいのは、あなたがその治療方法を作りたいと考えているかどうかです」
紬は意外そうな顔をした。
「作りたいか、ですか?」
「ええ。作れるかもしれないことと、実際に作ることは別ですから」
高瀬は、そこを曖昧にしたくなかった。
「あなたが協力してくださることを、私たちが当然だと思ってはいけない。まずは、あなた自身の考えを聞かせてほしいのです」
紬は少しうつむいた。
画面越しでも、考え込んでいるのがわかった。
しばらくして、彼女は小さな声で言った。
「……治せるなら、治したいです」
その答えは、最初の発言よりずっと慎重だった。
「テレビに出てた人、まだ小さい子どもがいるのに、治療が難しいって言われてて……。私、そういうのを見るのが苦手で、途中でチャンネルを変えちゃったんです」
紬は膝の上のボスに目を落とした。
「でも、あとからずっと気になって。もし私にできることがあるなら、何かしたほうがいいのかなって」
高瀬は黙って聞いていた。
「ただ……」
「ただ?」
「もし失敗したら、怖いです。病気の人に使うものだから、核融合炉みたいに、動かして数字を測ればいいってわけじゃないですよね」
そこには、これまでの紬とは少し違う迷いがあった。
物を作ること自体は、彼女にとって難しいことではない。思い描いたものを形にする能力がある以上、普通なら何十年もかかる研究の成果を、一瞬で手にすることさえできる。
だが、それが人間の身体にどのような影響を与えるかは、別の問題だった。
どれほど優れた道具でも、使い方を間違えれば人を傷つける。
紬はそのことを、理解していた。
「それは、とても大切な考え方です」
高瀬は答えた。
「医療は、結果だけでなく、そこに至るまでの確認が必要です。もし本当に取り組むことになれば、私たちも責任を持って安全性を確かめる仕組みを整えます」
「……はい」
「ですから、今ここで何かを約束する必要はありません。あなたが考える時間も、もちろん尊重します」
紬の表情が少し和らいだ。
「ありがとうございます」
そのとき、ボスが腕の中から顔を上げた。
「おい、総理」
「はい」
「ひとつ言っとくぞ」
「なんでしょう」
「紬はな、こういうとき自分で全部背負おうとすんだよ」
ボスの声は、先ほどまでの軽口とは少し違っていた。
「治せるかもしれねえって思ったら、治せなかったやつのことまで自分の責任にしちまう。だから、やるならそっちもちゃんと考えろ」
紬が驚いてボスを見下ろした。
「ボス……」
「なんだよ。間違ってねえだろ」
「……うん」
高瀬はその小さなやり取りを見つめた。
自分たちが向き合っているのは、万能の装置でも、無尽蔵の資源でもない。
人の苦しみを知れば、助けられなかったことにまで胸を痛めてしまうかもしれない、一人の若い女性なのだ。
「約束します」
高瀬は言った。
「もし協力をお願いすることになっても、責任をあなた一人に負わせるようなことはしません。治療の安全性、制度、実際に患者さんへ届けるまでの判断は、政府と医療関係者が引き受けるべき仕事です」
三浦もうなずいた。
「そして、皆さんの身元や生活を守るという従来の合意も、変わりません」
「おう。わかってんならいい」
ボスは満足そうに目を細めた。
少し張り詰めていた空気が、そこでようやく緩んだ。
高瀬は時計に目を向けた。
予定していた三十分は、いつの間にか過ぎている。
「今日はここまでにしましょう。詳しい話は、また改めて」
「はい。私も、もう少し考えてみます」
「無理はしないでください」
「ありがとうございます」
これで通信が終わる。
高瀬がそう思ったとき、ボスが何かを思い出したように声を上げた。
「そうだ、総理」
「はい?」
「今度そっち行ったら、魚の件、忘れんなよ」
高瀬はしばらく返事ができなかった。
つい数分前まで、がんという病気の未来について話していた相手から、唐突に魚の催促をされたのである。
しかも、本人は極めて真剣だった。
「……もちろん、覚えていますよ」
「鮭がいいぞ。ちゃんとしたやつな」
「承知しました」
「あと、紬にも何かうまいもん出せよ」
「ボス、そんなこと言わなくていいから……!」
「お前、官邸で緊張してあんまり食わねえだろ。もったいねえじゃねえか」
「そういう問題じゃなくて……」
アイリスが画面の端から口を挟んだ。
「マスターが緊張せずに食事を取れるよう、事前に献立を共有していただく方法もあります」
「アイリスまで……」
紬は顔を赤くしてうつむいた。
高瀬は、とうとう声を出して笑った。
「わかりました。次にお越しになるときは、皆さんが楽しめるものを用意しましょう」
「おう。期待してるぜ」
ボスは満足そうにうなずいた。
通信が切れる直前、紬が小さく手を振った。
「それじゃあ、失礼します」
「ええ。またお話ししましょう」
画面が暗くなった。
執務室には、空調の低い音だけが残った。
高瀬はしばらくモニターを見つめ、それから三浦に向き直った。
「……三浦君」
「はい」
「我々は今、何の話をしていたのだったかな」
「最後は鮭の話です」
「その前だよ」
「がん治療の可能性についてです」
「そうだったね」
高瀬は両手で顔を覆った。
国民に核融合装置の存在を発表してから、まだ日が浅い。国内の関係機関はその対応に追われ、各国からの連絡も途切れない。
それなのに、次の話題はがん治療だという。
しかも、政府が研究を依頼したわけでもなければ、本人が大々的な発表を望んでいるわけでもない。
ただ、テレビ番組を見て気になったから、という理由である。
「総理」
三浦が口を開いた。
「念のため申し上げますが、今回の件は、核融合装置以上に慎重な対応が必要になるかもしれません」
「わかっている」
「医学的な検証だけではありません。患者さんへの説明、期待の管理、治療機会の公平性、既存の医療体制との調整もあります」
「それもわかっているよ」
「そして、何より先方の負担を増やさないことが重要です」
高瀬は顔から手を離した。
「三浦君」
「はい」
「君は今、私が頭の中で必死に整理しようとしていたことを、全部口にしたね」
「職務ですので」
「優秀な官房長官を持つと、休む暇がないな」
「総理が休まれるときは、私も休ませていただきたいところです」
「それは困る」
「私も困っています」
二人は顔を見合わせた。
黒崎が扉の近くで、ごくわずかに口元を緩めた。
高瀬は机の上の書類に視線を戻した。
核融合装置の報告書、各国との協議予定、国内の受け入れ態勢に関する資料。つい先ほどまで、これらが今後の日本を左右する最重要課題だと思っていた。
もちろん、その認識は間違っていない。
ただ、そこへ新たな課題が加わっただけだ。
しかも、場合によっては何十万、何百万という人々の人生を変えるかもしれない課題が。
「三浦君。今回の話は、当面ごく限られた範囲で扱おう」
「承知しました」
「先方から正式な協力の意思が示されるまでは、具体的な開発計画を勝手に進めない。必要な準備があるとしても、まずは何を確認すべきか整理する程度にとどめる」
「その方針で進めます」
「それから、医療の専門家に相談する際も、情報の扱いには十分注意してくれ」
「はい」
高瀬は一度、窓の外へ目を向けた。
午後の光が、官邸の庭を照らしている。
この景色は、昨日までと何も変わっていない。
けれど、世界のどこかでは今も、治療の見通しが立たない病気と向き合っている人がいる。家族の回復を祈りながら、病室の椅子で朝を迎える人もいるだろう。
今日の会話が、いつかそうした人々に届くかもしれない。
そう考えると、軽々しく喜ぶことも、簡単に諦めることもできなかった。
「……それにしても」
高瀬はつぶやいた。
「はい?」
「あの方は、どうしてあんなに普通に話せるんだろうね」
三浦は少し考えてから答えた。
「ご本人にとっては、特別なことではないのかもしれません」
「そうだろうな」
「だからこそ、我々が特別なことだと理解しておかなければならないのでしょう」
高瀬はうなずいた。
そのとき、机の端に置かれた内線電話が鳴った。
三浦が受話器を取り、短く応対する。相手の用件を聞くにつれて、彼の表情がいつもの仕事用のものへ戻っていった。
「総理。次の会議の準備が整ったそうです」
「そうか。もうそんな時間か」
「議題は、核融合装置に関する関係省庁の調整状況です」
高瀬は立ち上がり、上着の前を整えた。
「では、行こうか」
「はい」
扉へ向かいかけたところで、高瀬は足を止めた。
「三浦君」
「なんでしょう」
「ひとつ、頼みがある」
「何でしょうか」
「次にあの方々と話すときは、できれば最初に議題を全部教えてもらえないだろうか」
三浦は一瞬、意味を測りかねたようだった。
やがて、苦笑を浮かべる。
「今回のようなお話が、突然出てこないように、ですか」
「そうだ。心の準備というものがある」
「お気持ちはわかりますが……」
三浦はそこで言葉を切った。
「おそらく、ご本人も事前には議題だと思っていらっしゃらないのでは」
高瀬は天井を仰いだ。
「……それが一番困るんだよ」
一方、そのころ。
通信を終えた紬は、ソファに背中を預けていた。
膝の上ではボスがくつろぎ、アイリスは近くに浮かんだまま、先ほどの会話を振り返っている。
「マスター」
「なあに?」
「先ほどのお話ですが、がん治療について本格的に検討されるのであれば、既存の医学情報を整理しておきましょうか」
「うん。お願いしようかな。でも、今日はまだいいよ」
「承知しました」
アイリスはすぐに引き下がった。
以前なら、ここで検討項目を並べ、作業時間を提案し、最適な進行予定を組み立てていたかもしれない。
けれど今は、紬が自分から始めようとするまで待つことも、大切なのだと知っている。
ボスは紬の膝で寝返りを打った。
「なあ、紬」
「ん?」
「お前、がんを治せるかもって話、いつから考えてたんだ?」
「この前テレビ見てからかな。ちょっと気になってただけだけど」
「ふうん」
「……変だった?」
「いや。お前らしいと思っただけだ」
紬は少し照れたように笑った。
「でも、ちゃんとできるかな」
「できるかどうかは、やってみねえとわかんねえだろ」
「そうだよね」
「それに、できたとしても、お前一人で全部やる必要はねえ。あいつらにも仕事させろ」
「うん」
ボスはそこで大きくあくびをした。
「で、今日の晩飯は?」
「えっ、もう?」
「もうじゃねえ。晩飯は大事だろ」
「まだ夕方にもなってないよ」
「今から考えとけば、うまいもん食えるじゃねえか」
紬は笑いながら、ふわふわした頭を撫でた。
ほんの少し前、彼女は世界中の人々の命に関わるかもしれない話をしていた。
けれど今は、夕飯に何を食べようかと考えている。
その落差を本人が気にすることはなかった。
「じゃあ、今日はお魚にしようか」
「おっ、いいじゃねえか」
「でも、ボス。お昼も魚だったよね?」
「魚は何回食ってもうまいんだよ」
アイリスが穏やかな声で告げた。
「マスター、冷蔵庫には鮭があります。ほかの食材と合わせれば、夕食の準備は可能です」
「じゃあ、それにしようかな」
「承知しました。献立はマスターがお決めになりますか?」
「うん。ちょっと考えるね」
紬はボスを抱えたまま、のんびりと夕食の相談を始めた。
そのころ官邸では、内閣総理大臣と官房長官が、世界の医療を変えるかもしれない一言をどう扱うべきか、頭を悩ませている。
そんなことを、紬はまだ知らない。
ただ、ボスが鮭を焼くなら皮も食べたいと言い出したので、焦がさないようにしなくちゃ、と考えていた。




