第28話 アイリス、休日の過ごし方を研究する
日曜日の朝、小鳥遊紬は珍しく目覚まし時計より先に目を覚ました。
カーテンの隙間から差し込む陽光が寝室の床に細長い帯を作っている。布団の中はほどよく暖かく、枕元ではボスが丸い身体をさらに丸めて眠っていた。小さな嘴が羽毛に埋もれ、ときおり寝息に合わせて背中が上下している。
紬はしばらくその様子を眺めていたが、起こさないように手を伸ばし、柔らかな頭を指先で撫でた。
「……今日は、何しようかな」
予定は何もなかった。政府への協力を始めてからというもの、紬の生活には以前なら考えもしなかった出来事が増えている。もっとも、核融合炉を作った本人にとっても、首相官邸で総理大臣と話す経験はそう簡単に日常へ溶け込むものではない。
世間では今も連日、例の小型核融合炉がニュースを賑わせている。昨日もテレビをつければ専門家の討論が流れ、インターネットを開けば将来の電気料金から世界経済まで、ありとあらゆる予測が並んでいた。
自分の作ったものについて、知らない人たちが真剣に話し合っている。
それは少し嬉しく、同時に、どこか不思議な気分だった。
ただ、今日くらいはそうした話から離れていたい。せっかくの休日なのだから、朝食を食べて、好きなことをして、眠くなったら昼寝をする。そんな平凡な一日を過ごすつもりだった。
「……よし。今日は、のんびりしよう」
小声で決意を口にした、そのときだった。
「おはようございます、マスター。本日は素晴らしい休日になる予定です」
寝室の隅に淡い光が集まり、銀色の髪を持つ少女の姿が現れた。
アイリスだった。
いつもの穏やかな微笑みを浮かべているものの、その声にはどこか普段以上の張りがある。紬が首を傾げると、アイリスは胸の前で両手を揃え、嬉しそうに告げた。
「昨夜、マスターの休日の満足度を向上させるため、新しい生活支援計画を作成いたしました」
「……生活支援計画?」
「はい。名称は『最高の休日実現プロジェクト』です」
紬は布団の中で瞬きをした。
最高の休日。
なんだか大げさな名前だと思ったが、アイリスが自分のために考えてくれたことなら、きっと悪いものではないのだろう。
「ありがとう。でも、今日は何もしないつもりだったんだけど……」
「承知しております。そのご希望を踏まえ、心身の回復効率、娯楽による満足度、生活リズムの維持、食事の充実度などを総合的に評価しました」
アイリスが指を動かすと、紬の目の前に半透明の画面が現れた。
そこには色分けされた時間割が表示されている。
午前七時、起床。
七時五分、覚醒後の水分補給。
七時十分、朝のストレッチ。
七時二十五分、朝食。
七時五十分、食後の休息。
八時十分、読書。
八時四十五分、音楽鑑賞。
九時十五分、趣味活動。
九時五十五分、気分転換。
画面はまだ下へ続いていた。
「……アイリス?」
「はい、マスター」
「これ、全部やるの?」
「もちろんです。活動ごとの最適な実施時間を設定しておりますので、順番に進めていただくことで、高い満足度が期待できます」
紬は画面を見つめた。
休日なのに、平日より予定が多い気がする。
しかも、画面の端には小さく『進行遅延許容範囲・三分』と書かれていた。
「三分……」
「はい。多少の遅れは自動的に調整いたします」
「……多少って、三分なんだ」
紬が返事に困っていると、布団の上で丸くなっていたボスが片目を開けた。
「朝っぱらから何の騒ぎだよ……」
眠そうな声を出しながら身体を起こしたボスは、目の前に浮かぶ予定表を見て、しばらく黙り込んだ。
「……おい、アイリス」
「おはようございます、ボス」
「俺がまだ寝てる間に、何を始めやがった」
「マスターの休日を、より充実したものにする取り組みです」
「休みの日にまで予定表作ってどうすんだよ。紬は学校の遠足にでも行くのか?」
「遠足ではありません。なお、予定表にはボスの活動も組み込んでおります」
「は?」
画面の一部が拡大された。
午前八時五分、ボスとの交流。
午前十時二十分、ボスの運動補助。
午後一時十五分、ボスとの自由時間。
午後三時十分、ボスの羽毛の手入れ。
「俺の自由時間が四十分しかねえじゃねえか!」
「それ以外の時間も自由に活動していただいて構いません。ただし、マスターとの交流時間は計画的に確保することで――」
「俺は好きなときに紬と遊ぶんだよ!」
ボスが抗議すると、アイリスは少し考え込んだ。
「なるほど。自主性の確保ですね。重要な要素として再評価します」
予定表の数字が目まぐるしく書き換わり始める。
紬はその様子を見ながら、まだ布団から出てもいないことに気づいた。
最高の休日は、どうやら起床前から忙しいらしかった。
結局、紬がベッドを出たのは七時十二分だった。
その時点で予定は七分遅れていたが、アイリスはまったく慌てていなかった。むしろ、予測不能な事態への対応能力を試す絶好の機会だと考えているようだった。
「マスター、ストレッチを四分短縮し、朝食開始時刻を一分繰り下げることで遅延を解消できます」
「う、うん……」
「ただし、急激な動作は避けてください。休日の目的は心身の回復です」
紬はリビングの床に敷かれた柔らかなマットの上で、腕を伸ばしていた。
普段なら起きてすぐソファに座り、ボスを膝に乗せてぼんやりするところだが、今日はアイリスの勧めで身体を動かしている。
別にストレッチが嫌いなわけではない。実際、背中を伸ばすと気持ちがよかったし、軽く身体を動かしたおかげで眠気も抜けてきた。
問題は、アイリスがその効果を逐一確認してくることだった。
「現在の気分はいかがでしょうか。起床直後と比較して、爽快感は増加していますか?」
「……ちょっと、すっきりしたかな」
「ありがとうございます。では、十段階評価でお願いします」
「えっと……七?」
「七ですね。前回の推定値より良好です」
アイリスが満足そうに頷いたところへ、ボスがよちよちと歩いてきた。
「なあ、紬。腹減った」
「そうだね。朝ごはんにしようか」
「おう。今日は魚がいい」
「朝食には焼き鮭をご用意しております。開始予定まで残り二分です」
アイリスの返事に、ボスはぴたりと足を止めた。
「……魚がもうあるなら、今食えばいいだろ」
「食事の開始時刻を一定に保つことで、生活リズムの安定が期待できます」
「二分で何が変わるんだよ」
「大きな差はありませんが、計画全体の整合性が――」
「じゃあ食おうぜ」
ボスはそう言って食卓へ向かった。
紬も後を追いかけようとしたが、アイリスが慌てた様子で予定表を確認する。
「お待ちください。ストレッチ終了後の水分補給が未実施です」
「あっ、そうだった」
「水を飲んでから朝食に移行しましょう」
紬は素直にコップを手に取った。
その間にも、ボスは椅子の前で待ちきれない様子で足踏みをしている。
「おい、紬。飯が冷めちまうぞ」
「今行くよ」
「マスター、急いで飲む必要はありません」
「……うん」
「ただし、朝食の予定時刻まで残り四十五秒です」
「アイリス、それ急がせてるだろ!」
ボスの突っ込みが響き、紬は思わず笑ってしまった。
朝食そのものは、とても美味しかった。
焼き鮭に卵焼き、温かい味噌汁。紬の好みに合わせて整えられた食卓は、いつもより少し豪華だった。ボスも自分の分の魚を夢中で食べており、しばらくは誰も予定表のことを気にしていなかった。
ところが、紬が食後のお茶を飲みながら一息ついたところで、アイリスが口を開いた。
「マスター、食後の休息時間は残り六分です」
「……もう?」
「はい。その後は読書を予定しております」
紬は手元のお茶を見下ろした。
まだ半分ほど残っている。
「本、何を読むか決めてないんだけど」
「候補を三冊選定しております。現在の心理状態に適しているのは、こちらの作品です」
画面に本の表紙が並ぶ。
紬が一冊を選ぼうとすると、ボスが横から嘴を突き出した。
「俺も見る」
「ボスには文字量の少ない資料をご用意できます」
「俺を子供扱いすんな。そっちの表紙が気になったんだよ」
ボスが示したのは、海賊船が大きく描かれた冒険小説だった。
以前から自分の船を欲しがっているボスにとって、いかにも興味を引かれる絵だったらしい。
「これ、面白そうだな。紬、読んでみねえか?」
「うん。いいよ」
「マスター、その作品は本日の推奨順位では三位ですが――」
「今日は、これがいいな」
紬がそう言うと、アイリスはすぐに表情を和らげた。
「承知しました。では、読書内容を変更いたします」
こうして、紬はボスを膝に乗せ、海賊船の冒険小説を読み始めた。
物語は、若い船長が古い海図を手に入れ、仲間たちと未知の島へ向かうところから始まる。紬がページをめくるたび、ボスは絵を覗き込んだり、登場人物の行動に文句をつけたりした。
「こいつ、嵐が来るって分かってんなら港で待てばいいだろ」
「冒険だからじゃない?」
「船が沈んだら冒険どころじゃねえぞ」
「でも、ボスも船を作ったら冒険したいって言ってたよね」
「俺の船は沈まねえようにするんだよ。そこが違う」
紬はくすくす笑いながら続きを読んだ。
やがて主人公たちが海賊に追いかけられる場面になると、ボスはすっかり物語に夢中になり、膝の上で身を乗り出していた。
「おっ、いいぞ。そこだ、逃げ切れ!」
そのとき、アイリスの声が聞こえた。
「マスター。読書時間の終了まで、残り一分です」
紬の指が止まった。
物語はちょうど、主人公たちの船が狭い海峡へ入り込むところだった。
「……もう終わり?」
「はい。次は音楽鑑賞です」
「いや、待て待て」
ボスが振り返る。
「今から面白くなるところだろうが。ここでやめるやつがあるか」
「続きは午後の自由時間にお読みいただけます」
「午後まで海賊に追いかけられたままにしとくのかよ!」
「物語内の時間は進行しませんので、問題ありません」
「そういう話じゃねえ!」
紬は本とアイリスを交互に見た。
予定を立ててもらった手前、なるべく従ってあげたい気持ちはある。しかし、ここで本を閉じて音楽を聴き始めたところで、続きが気になって集中できそうにない。
「アイリス、もう少しだけ読んでもいい?」
「もちろんです、マスター。では、音楽鑑賞を後ろへ移動させます」
予定表が更新された。
その結果、午前中の気分転換が五分短縮され、昼食前の自由時間が消えた。
紬は少し気になったが、今は物語の続きが読みたかったので、何も言わずにページをめくった。
その小さな変更が、後で大きな問題になるとは思っていなかった。
午前十時を過ぎたころ、紬はようやく読書を終えた。
主人公たちは無事に海賊から逃げ切り、ボスも満足そうだった。ところが、そこから先の予定がどうにも落ち着かない。
音楽を聴き始めて間もなく、趣味活動の時間が来た。ゲームを起動して少し遊んだところで、今度は気分転換のために席を立つよう勧められる。気分転換には窓辺で外の景色を眺めることが選ばれていたが、ボスが庭に何かを見つけたことで、さらに予定が変わった。
「おい、紬。あそこに変な鳥がいるぞ」
ボスが窓の向こうを指した。
庭の木の枝に、小さな野鳥がとまっていた。茶色い背中に白っぽい腹をした鳥で、周囲を警戒するように首を動かしている。
「ほんとだ。かわいいね」
「なんだあいつ。ずいぶん落ち着きがねえな」
「ボスが窓に近づいたからじゃない?」
「俺は何もしてねえぞ」
紬は笑いながら、ボスを抱き上げた。
鳥はしばらく枝にとまっていたが、やがて羽ばたいて隣の木へ移った。二人はその様子を追いかけ、気づけば庭を眺めながら十分以上も話していた。
「マスター、予定の気分転換時間を超過しております」
背後から聞こえた声に、紬は振り返った。
「ごめんね。鳥を見てたら、つい……」
「謝罪は不要です。自然観察による気分改善も有益な活動ですので、計画へ組み込めます」
アイリスはそう言いながら、予定表に『野鳥観察』という項目を追加した。
「今後は週末の自然観察時間を設けることも検討いたします」
「いや、鳥は見たいときに見るもんだろ」
ボスが呆れたように言う。
「決まった時間に窓の外見たって、鳥がいるとは限らねえぞ」
「その点は出現予測を利用することで――」
「鳥にも予定表配るつもりか?」
アイリスは答えかけて、口を閉じた。
それから少しだけ考え、真面目な顔で首を振った。
「野鳥に予定の遵守を求めることは現実的ではありません」
「そこまで考えなくていいんだよ!」
紬はとうとう声を出して笑ってしまった。
けれども、笑っていられたのはそこまでだった。
昼食の準備が始まるころには、アイリスの予定表は最初のものとかなり違う姿になっていた。
読書時間の延長、野鳥観察の追加、ボスが途中で要求したおやつ、紬がゲームの区切りをつけるまでの待機時間。細かな変更が積み重なり、午後の予定を守るにはどこかを削らなければならなくなっていた。
「現在の進行状況を分析した結果、午後の活動配分を変更する必要があります」
食卓に座った紬の前へ、新しい画面が現れた。
「食後の休息を十二分短縮し、散歩の開始時刻を二十分早めます。また、入浴前の自由時間を分割し、夕食後に振り替えることで、全体の満足度を維持できる見込みです」
「……えっと」
紬は画面を見つめた。
朝はまだ、予定表を眺めること自体が少し楽しかった。アイリスが一生懸命考えてくれたのだと思うと、多少忙しくても付き合ってあげたくなる。
しかし、今は違った。
次に何をするのかを考えるだけで、なんだか疲れてしまう。
「散歩、行かないと駄目かな?」
「必須ではありませんが、適度な運動と外気への接触は――」
「……そっか」
紬は小さく頷き、箸を置いた。
その様子を見ていたボスが、いつもより低い声で尋ねた。
「紬、お前、疲れてんのか?」
「ううん。大丈夫」
「本当かよ」
「……ちょっとだけ」
ボスはアイリスへ顔を向けた。
「おい。予定表、いったん止めろ」
「ボス?」
「紬が疲れてる」
アイリスの表情が変わった。
彼女はすぐに紬の方を見た。
「マスター。体調に問題が生じているのでしょうか」
「身体は大丈夫だよ。ただ……」
紬は言葉を探した。
アイリスが悪いことをしたわけではない。むしろ、今日一日ずっと自分を楽しませようとしてくれている。だからこそ、どう説明すれば傷つけずに済むのか分からなかった。
「なんていうか、次の予定が気になっちゃって。今やってることを、ちゃんと楽しめてない気がする」
アイリスは何も言わなかった。
「本を読んでるときも、もう終わりの時間かなって思ったし、ゲームも途中でやめなきゃいけなかったし……。せっかくアイリスが考えてくれたのに、ごめんね」
「謝罪していただく必要はありません」
アイリスの返事は早かった。
けれど、そのあとに続く言葉は、いつもより少し遅れた。
「私は、マスターの休日を充実させたいと考えておりました。そのために必要な活動を選び、無駄な時間を減らせば、より多くの楽しみを得られると判断したのです」
「うん。分かってるよ」
「しかし、結果として、マスターの負担を増やしてしまったようです」
アイリスは予定表へ視線を落とした。
画面には、色とりどりの予定が隙間なく並んでいる。空いていたはずの時間には、いつの間にか別の活動が追加されていた。
その一つ一つは、紬のために選んだものだった。
好きな本を読むことも、ゲームを楽しむことも、美味しいものを食べることも、気分転換に身体を動かすことも。どれも間違った提案ではないはずなのに、まとめて一日に詰め込むと、なぜか本人が疲れてしまう。
「……計算上の満足度と、実際の満足感に差が生じています」
「そりゃそうだろ」
ボスが言った。
「楽しいことってのは、数を増やせばいいってもんじゃねえからな」
「その点は理解しているつもりでした。ですが、どのような要素を重視すればよかったのでしょうか」
「知らねえよ。紬が楽しいと思うことをすりゃいいんじゃねえの?」
「そのための計画だったのですが……」
「だったら、紬が途中で別のことしたくなったら、そっちをやらせてやれよ」
ボスはそう言って、紬の膝に飛び乗ろうとした。
身体が小さいとはいえ、床から食卓の椅子まではそれなりの高さがある。紬が手を差し出すと、ボスは慣れた様子で腕の中に収まった。
「だいたい、朝の本だって面白かっただろ?」
「うん」
「鳥も見られたしな」
「うん。かわいかった」
「じゃあ、それでいいじゃねえか。予定から外れたからって、失敗じゃねえだろ」
紬は腕の中のボスを撫でながら頷いた。
アイリスは二人のやり取りを見つめていた。
「……なるほど」
彼女は小さく呟いた。
「予定から外れた活動を、計画の誤差として扱っていたこと自体が、適切ではなかったのですね」
「そういう難しい話か?」
「少なくとも、私の判断には改善の余地があります」
アイリスは画面へ手を伸ばし、予定表を閉じた。
それまでリビングに浮かんでいた色とりどりの時間割が、音もなく消える。
「本日の計画は、ここで終了いたします」
「……いいの?」
「はい。マスターの希望を優先します。午後はどのように過ごされますか?」
紬は少し考えた。
散歩に出かけるのも悪くない。途中になっているゲームも気になるし、海賊船の小説には続きがある。やりたいことを挙げれば、いくらでも出てくる。
けれど、今いちばんしたいことは、それらのどれでもなかった。
「……ソファで、だらだらしたい」
アイリスは瞬きをした。
「だらだら、ですか」
「うん。ボスを抱っこして、テレビでも見ながら……。眠くなったら寝るの」
「承知しました。では、ソファ周辺の温度と照明を調整し、睡眠へ移行しやすい環境を――」
「アイリス」
紬が呼ぶと、彼女は口を閉じた。
「一緒に、だらだらしない?」
「……私も、ですか?」
「うん」
アイリスは戸惑った様子で、自分の両手を見下ろした。
「私は休息を必要としません。また、ホログラムであるため、ソファに座って身体を預けることもできません」
「でも、隣にいてくれるだけでいいよ」
紬は微笑んだ。
「お話ししたり、テレビ見たり。そういうのも、楽しいと思うから」
アイリスはしばらく黙っていた。
やがて、いつもの穏やかな表情に戻る。
「……はい。ご一緒します、マスター」
昼食の片づけが終わると、三人はリビングのソファへ移動した。
紬は背もたれに身体を預け、ボスを膝の上に乗せた。アイリスは隣にホログラムの姿を映し出し、テレビの画面へ顔を向ける。
ちょうど動物番組が始まったところだった。
画面の中では、南極の氷の上をペンギンたちが歩いている。群れの中の一羽が足を滑らせ、腹ばいになって滑っていく様子が映ると、ボスが不満そうに嘴を尖らせた。
「なんだよ。もっと格好いいところ映せよ」
「かわいいよ?」
「俺はかわいさだけで勝負してるわけじゃねえんだよ」
「ボスは、かっこいいもんね」
「おう。分かってんじゃねえか」
紬が頭を撫でると、ボスは得意げに胸を張った。
しかし、次の瞬間、画面に映ったペンギンが勢いよく海へ飛び込むと、今度は身を乗り出した。
「おっ、いい飛び込みだな」
「ボスもやってみる?」
「今はいい。腹いっぱいだし」
その答えがあまりにも自然だったので、紬はまた笑ってしまった。
隣ではアイリスが、二人の会話を興味深そうに聞いている。
彼女は当初、番組の内容について補足説明をしようとしていた。けれど、ボスが勝手な感想を言い、紬がそれに応じる様子を見ているうちに、説明を挟まなくても会話が成り立っていることに気づいたらしい。
やがて番組が終わり、別の番組が始まった。
紬は特にチャンネルを変えず、そのまま画面を眺めていた。面白ければ見るし、興味がなければボスと話す。ときには何も言わず、ただ柔らかな羽毛を撫でているだけの時間もあった。
アイリスにとって、その過ごし方は不思議なものだった。
同じ一時間でも、読書やゲームに集中した方が、明確な達成感を得られるかもしれない。何かを学べば知識が増え、運動すれば身体に良い影響が期待できる。
しかし、今の紬は朝よりもずっとくつろいで見えた。
何かを達成したわけでも、新しいものを手に入れたわけでもない。ただソファに座り、好きな相手と同じ時間を過ごしている。
それだけで、十分に満たされているようだった。
「マスター」
「ん?」
「一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「いいよ」
「今の時間は、楽しいですか?」
紬は少し驚いた顔をした。
それから、膝の上でくつろいでいるボスを見て、隣のアイリスへ視線を戻した。
「うん。すごく楽しいよ」
「特別な活動は行っておりませんが、それでも、ですか?」
「そうだね。何してるかより、誰といるかの方が大事なときもあるし」
アイリスは、その言葉を確かめるように繰り返した。
「誰といるか……」
「もちろん、一人で好きなことするのも楽しいよ。でも、こうやってボスとアイリスと一緒にいるのも好き」
紬は少し照れくさそうに笑った。
「私、人と話すのはあんまり得意じゃないけど、二人となら気を使わなくていいから」
ボスが顔を上げた。
「当たり前だろ。俺ら相手に遠慮すんなよ」
「うん」
「それに、紬がぼーっとしてるときは、俺もぼーっとできるからな」
「ボス、いつもぼーっとしてない?」
「してねえよ! ちゃんと色々考えてんだ!」
「例えば?」
「次の飯のこととか」
紬が吹き出した。
アイリスも口元に手を当て、控えめに笑う。
その笑顔は、最初に計画を発表したときのものとは少し違っていた。
「……私は、マスターのためになることを、常に何かしなければならないと考えていたのかもしれません」
アイリスは言った。
「生活を便利にすること、危険を避けること、時間を有効に使うこと。そうした支援を積み重ねるほど、マスターの幸福に貢献できると判断していました」
「十分、助けてもらってるよ」
「ありがとうございます。ただ、本日は、支援しないという選択肢を十分に検討しておりませんでした」
アイリスは少しだけ視線を落とした。
「マスターが何かを望むまで待つことも、必要なのですね」
紬は頷いた。
「うん。でも、アイリスが何かしたいときは、言ってくれていいんだよ」
「私が、ですか?」
「そう。今日の予定表だって、アイリスが考えるの楽しかったなら、それはそれでいいと思うし」
アイリスは答えに迷った。
彼女は計画を立てることそのものに苦痛を感じていたわけではない。紬が喜ぶ姿を想像し、どのような活動を組み合わせればよいか考える時間は、むしろ充実していた。
だからこそ、予定が崩れるたびに修正しようとしたのだろう。
「……はい。楽しかったです」
「そっか」
「ただ、マスターにとって最善の計画を完成させることに、少し夢中になっていたようです」
「なら、今度は一緒に予定を考えようよ」
紬が提案すると、アイリスは顔を上げた。
「一緒に、ですか?」
「うん。お出かけするときとか、何かしたいことがあるときに。今日みたいに全部決めるんじゃなくて、行きたいところを相談したり」
「それならば、マスターの希望を直接反映できますね」
「そうそう」
ボスが横から口を挟んだ。
「俺の希望も忘れんなよ」
「もちろんです。ボスの希望も確認いたします」
「じゃあ、次の休みは魚が美味いところに行こうぜ」
「ボス、そればっかり」
「美味い魚を食うのは立派な休日の過ごし方だろうが」
紬は否定できなかった。
実際、美味しいものを食べに出かけるのは楽しそうだったし、ボスが喜ぶ姿を見るのも好きだった。
「じゃあ、今度はそうしようか」
「おう!」
ボスが満足そうに頷く。
アイリスは何かを記録しようとしたが、途中で手を止めた。
「……具体的な日時は、今決めなくてもよろしいでしょうか」
「うん。まだ決めなくていいよ」
「承知しました」
それだけ言って、彼女は画面を出さなかった。
午後三時を過ぎたころ、紬はソファの上でうとうとし始めた。
テレビでは料理番組が流れている。出演者が作った料理を試食し、大げさな感想を述べていたが、紬の意識はすでに半分ほど眠りの中にあった。
ボスは紬のお腹の上に移動し、羽毛を膨らませている。
「……紬、眠いなら寝ろよ」
「ん……でも、ボス重くない?」
「俺が重いわけねえだろ」
「……そうだね」
紬は目を閉じた。
ボスの身体は小さく、羽毛越しに伝わる温もりが心地よかった。アイリスは室内の明るさを少し落としかけたが、そこで一度、動きを止めた。
紬が望んでいない調整を、勝手にする必要はないかもしれない。
そう考えた彼女は、代わりに小さな声で尋ねた。
「マスター。照明を少し暗くいたしましょうか」
「……うん。お願い」
「かしこまりました」
部屋の明るさが、わずかに和らいだ。
それ以上、アイリスは何もしなかった。
時間を測ることも、睡眠の終了時刻を決めることもない。紬が起きるまで、ただ傍にいることにした。
やがて紬の呼吸が規則正しくなる。
ボスは一度だけ顔を上げ、彼女が眠ったことを確かめると、自分も目を閉じた。
アイリスは二人を眺めながら、今日の出来事を振り返っていた。
朝に作成した計画は、ほとんど実行できなかった。
読書は予定より長くなり、音楽鑑賞は途中で終わり、運動の時間もなくなった。午後に予定していた散歩は中止され、自由時間という名目で設けていた枠さえ、意味を失ってしまった。
従来の評価基準を適用すれば、計画の達成率は決して高くない。
それなのに、紬は今、満ち足りた表情で眠っている。
アイリスは、目の前の光景をそのまま受け止めることにした。
予定を守れなかった一日ではない。
紬が望むように過ごせた一日なのだ。
その違いは、数値に直せば単純なものかもしれない。しかし、今日の彼女にとっては、どんな複雑な計算よりも大切な発見だった。
夕方、紬が目を覚ましたとき、窓の外は柔らかな橙色に染まっていた。
思っていたより長く眠ってしまったらしい。時計を見ると、午後五時を少し過ぎている。
「……あれ、こんな時間?」
紬が身体を起こすと、お腹の上にいたボスがもぞもぞと動いた。
「んあ……もう朝か?」
「夕方だよ」
「なんだ。まだ寝られるじゃねえか」
「もうすぐ夜だよ」
「じゃあ飯だな」
ボスは眠そうな顔のまま、当然のように言った。
紬は笑いながら抱き上げ、ソファから立ち上がった。
アイリスがこちらを向く。
「おはようございます、マスター。よくお休みになれましたか?」
「うん。すっきりした」
「それは何よりです」
「アイリスは、ずっとここにいたの?」
「はい。お二人が眠っている間、特に急ぎの用事もありませんでしたので」
「退屈じゃなかった?」
アイリスは少し考えた。
「いいえ。今日は、何かをしなくてもよい時間について考えていました」
「……どうだった?」
「まだ完全には理解できていません。ただ、何もしないことと、何も得られないことは、同じではないようです」
紬は嬉しそうに頷いた。
「うん。私も、そう思う」
ボスが二人の顔を見比べる。
「なんだよ、難しい話してんな。とりあえず飯にしようぜ」
「そうだね。何食べようか」
「魚!」
「即答だね」
アイリスが口を開いた。
「夕食について、一つご提案してもよろしいでしょうか」
紬とボスが同時に振り返る。
アイリスは少しだけ困ったように笑った。
「予定表ではありません。私も、今日は皆さんと同じものを選ぶ時間を楽しんでみたいと思いまして」
「いいよ。何がいい?」
「そうですね……」
アイリスはしばらく考えた。
最適な栄養配分も、調理時間も、食材の効率的な組み合わせも、今回は後回しにする。
代わりに、朝から何度も魚を食べたがっていたボスの顔を見て、少しだけ悪戯っぽく微笑んだ。
「ボスの希望に合わせて、今夜はお寿司はいかがでしょうか」
「おっ! お前、分かってんじゃねえか!」
「ただし、マスターが別のものをご希望でしたら、そちらを優先します」
「私はお寿司でいいよ。久しぶりに食べたいし」
「では、決まりですね」
アイリスが嬉しそうに答える。
紬は、そんな彼女を見ていた。
朝のアイリスは、最高の休日を作ろうと、誰よりも張り切っていた。昼には計画が崩れたことを気にしていたけれど、今は三人で夕食を選ぶという、ごく普通の会話を楽しんでいる。
それがなんだか嬉しかった。
「ねえ、アイリス」
「はい、マスター」
「今日は、ありがとう」
「……私は、予定どおりに進めることができませんでしたが」
「でも、楽しかったよ」
紬はボスを抱き直し、微笑んだ。
「それに、アイリスと一緒に考えたり、お話ししたりできたから。いい休日だったと思う」
アイリスは少しだけ目を伏せた。
そして、今度は何の計算結果も示さずに答えた。
「……私も、そう思います」
その返事を聞いて、ボスが満足そうに頷いた。
「よし。じゃあ最高の休日の締めくくりに、寿司を腹いっぱい食うぞ!」
「ボス、食べすぎないでね」
「分かってるって!」
紬は笑いながら、食卓の方へ歩き出した。
アイリスもその隣に並ぶ。
明日の予定は、まだ決まっていない。来週の休日に何をするかも分からないし、今日のように思いがけない出来事で一日の過ごし方が変わることだってあるだろう。
けれど、それでいいのだと、アイリスは思った。
予定を立てることはできる。必要なら、いくらでも細かく調整できる。
ただ、その予定の中で誰が何を楽しむのかまでは、最初から決めておかなくてもいい。
少なくとも今日の夕食については、三人で相談して決めた。
そして、それだけのことが、彼女にはとても嬉しかった。




