↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
うちのぺんぎんが日本政府と交渉している件  作者: むぎちゃ
第2章 何でもできる私と、変わりはじめた世界
31/81

第32話 もう一度、明日を

 藤原健一がその話を聞いたのは、主治医の藤堂と自宅療養について相談してから三日後のことだった。


 昼食を終え、ベッドの背もたれを倒そうとしていたところへ、藤堂が病室を訪ねてきた。いつもの白衣姿だったが、今日は見慣れない男性が一緒だった。紺色のスーツを着たその男性は、健一と目が合うと丁寧に頭を下げた。


「藤原さん、少しお時間をいただけますか。できれば、奥様にも同席していただきたいお話があります」


 健一は背もたれを戻した。


「妻にも、ですか?」


「はい。もちろん、まずは藤原さんご自身のご意向を伺いたいと思っています」


 藤堂の表情は真剣だった。以前、治療方針の変更を告げられたときのことが頭をよぎり、健一は無意識に掛け布団の端を握った。


「また、何か悪くなったんでしょうか」


「いえ。今日お伝えしたいのは、これまでとは少し違うお話です」


 その言い方が気になった。


 悪い話ではないらしい。けれど、良い話だとも言い切らない。


 健一が返事に迷っていると、藤堂は椅子を引き寄せ、穏やかな声で続けた。


「現在、国内で新しいがん治療技術の検証が進められています。まだ一般には公表されていませんし、通常の診療で使用できる段階でもありません。ただ、限られた条件のもとで、最初の臨床使用を検討する準備が整いつつあります」


「新しい治療、ですか」


「そうです。藤原さんに、その候補となることを検討していただけないかというお話が来ています」


 健一はしばらく黙っていた。


 この一年、治療の選択肢について何度も説明を受けてきた。新しい薬の名前を聞いたこともあれば、海外で研究されている治療法について自分で調べたこともある。


 しかし、実際に使えるものは限られていた。


 期待して調べた治療法が、自分の病状には適さないと分かったことも一度や二度ではない。


「先生、それは……俺のがんにも使えるんですか?」


「開発上は、がんの種類や進行度にかかわらず対応することを目指した技術です。ですが、人に投与した実績はまだありません。藤原さんに効果があると、この段階で保証することはできません」


 健一は息を吐いた。


 希望が見えた気がした直後に、現実へ引き戻されたようだった。


「それでも、今までの治療とは違うんですね」


「はい。仕組みそのものが大きく異なります」


 藤堂は同席していた男性を紹介した。


 男性は、今回の技術を評価するために設けられた国の特別な検証体制で、医療機関との調整を担当しているという。研究の詳細には厳重な情報管理が必要であり、関係者もごく少数に限られているらしかった。


 健一には、その事情のすべてを理解することはできなかった。


 ただ、目の前の二人が慎重に言葉を選んでいることだけは分かった。


「妻に連絡します。たぶん、午後なら来られると思うんで」


「ありがとうございます。急いでお返事をいただく必要はありません。まずは説明を聞いて、ご家族と相談してください」


 藤堂がそう答えたとき、健一は初めて、自分の胸がいつもより速く上下していることに気づいた。


 期待してはいけない。


 そう思う一方で、期待せずにはいられなかった。


 午後二時を少し過ぎた頃、妻が病室へやって来た。


 買い物袋を持っていたが、いつものように中身を取り出そうとはせず、ベッドの横に置いてすぐ椅子に座った。電話で大まかな事情を伝えたためか、落ち着かない様子だった。


「本当に、新しい治療の話なの?」


「ああ。俺もまだ詳しく聞いてないけどな」


「治る可能性があるってこと?」


「そこまでは言われてない」


 妻は何か言いかけて、口を閉じた。


 健一はその顔を見ながら、電話で余計な期待を持たせてしまったのではないかと心配になった。


 やがて藤堂が説明用の資料を持って戻ってきた。


 今回の治療は、極めて小さな人工の機械を体内に投与し、がん細胞を識別して取り除くというものだった。さらに、病気によって損傷した組織を修復する機能も備えているという。


 最初は何を言われているのか分からなかった。


「機械って、あの、手術で使うようなものですか?」


 妻の質問に、藤堂は首を横に振った。


「目で見ることができないほど小さなものです。注射によって体内へ入れ、必要な働きを終えたあとは分解されるよう設計されています」


「そんなことができるんですか?」


「これまでの医学では考えられなかった技術です。私も最初に資料を見たときは、すぐには信じられませんでした」


 藤堂は正直に答えた。


 その後、開発側から提出された検証記録を確認し、独立した専門家による初期評価が行われたことを説明した。細胞を使った試験では、がん細胞を処理しながら正常な細胞を保護する結果が得られていた。異常な状態になった場合に働きを止める仕組みや、使用後の分解についても確認が進められている。


 ただし、それらは人体での安全性を証明するものではなかった。


「現時点では、実際の人間の体内で何が起こるか、十分な情報がありません。想定していない副作用が生じる可能性もありますし、長期的な影響についても分かっていません」


「危険なんですね」


 妻の声が小さくなった。


「未知の危険があります。ですから、通常の治療として勧めることはできません。今回の実施についても、病院だけで決められることではなく、外部の専門家による審査と、必要な手続きが条件になります」


 健一は資料に目を落とした。


 細かな説明が並んでいたが、頭に入ってくるのは一部分だけだった。


 がん細胞を取り除く。


 傷んだ組織を修復する。


 そして、人間にはまだ使われていない。


「先生。これが成功したら、どうなるんですか?」


 藤堂は少し考えてから答えた。


「設計どおりに働けば、藤原さんの体内にあるがんを取り除ける可能性があります。ただし、どこまで回復するかも含めて、実際に確認するまでは断言できません」


「……全部、ですか」


「開発側が目指しているのは、そういう治療です」


 妻が膝の上で両手を組んだ。


 健一もすぐには言葉を返せなかった。


 これまで医師から聞いてきたのは、病気の進行を抑える、症状を和らげる、少しでも長く生活を続けられるようにする、という説明だった。


 そのどれもが大切なことだと理解していたし、医師たちが懸命に治療してくれていることも知っていた。


 それでも、いつからか「治す」という言葉を自分の病気に結びつけなくなっていた。


 今、その言葉が再び目の前に置かれている。


「俺みたいな患者を選んだのは、どうしてですか?」


「これまでの治療経過、現在の全身状態、病気の進行度などを検討した結果です。もちろん、それだけで実施が決まったわけではありません。何より、ご本人が納得して選ぶことが必要です」


「断っても、今までどおり診てもらえるんですよね」


「当然です。断ったことで診療上の不利益が生じることはありません」


 健一は頷いた。


 その返事を聞いて、少しだけ肩の力が抜けた。


 説明は一時間近く続いた。


 分からないことは何度でも質問できたし、資料を持ち帰って考えることも認められた。研究への参加と診療は別の問題であり、途中で意思を変えることもできるという。


 妻は副作用について繰り返し尋ねた。


 健一は、成功しなかった場合にどうなるのかを聞いた。


 二人が同じ説明を何度も確認しても、藤堂は急かさなかった。


 最後に、健一は一つだけ気になっていたことを尋ねた。


「この治療を作った人は、どういう人なんですか?」


 藤堂は同席していた担当者に視線を向けた。


 男性は静かに答えた。


「開発者に関する情報は、現段階ではお伝えできません。ただ、今回の技術を人の命を救うために役立てたいという意思が示されていることは、確かです」


 健一は資料を閉じた。


 どんな人物なのか想像もつかなかったが、その言葉を聞いて、不思議と顔も知らない相手に礼を言いたくなった。


 その夜、健一は妻と長い時間話した。


 娘の結衣には、まだ詳しいことを伝えていなかった。学校から帰った結衣は母親の帰宅が遅いことを気にして連絡を寄こしたが、妻が病院で話し込んでいたと説明すると、それ以上は尋ねてこなかった。


「どう思う?」


 健一が聞くと、妻はすぐには答えなかった。


「怖いよ」


「そうだよな」


「今まで誰にも使ったことがないんでしょう。何が起こるか分からないって言われて、平気でいられるわけないじゃない」


 妻は健一の手を握った。


「でも、受けてほしくないとも言えない」


 健一はその手を握り返した。


 妻の指先は少し冷たかった。


「俺は、受けてみたい」


 口に出してみると、自分の気持ちが思っていたよりはっきりしていることに気づいた。


「もちろん怖いよ。だけど、このまま何もしなかったら、今の病気がどうなるかは分かってるからな」


「うん」


「それに、もし本当に治るなら……」


 言葉が途切れた。


 健一は窓際の鉢植えに目を向けた。結衣が選んでくれた小さな植物は、いつの間にか新しい葉を一枚増やしていた。


「結衣の卒業式に行けるかもしれない」


 妻の目に涙が浮かんだ。


「大学の入学式も、一緒に行けるかもしれないし。あいつ、嫌がるかな」


「きっと嫌がるよ。写真撮るときは離れてって言うと思う」


「それでも行きたいな」


「……うん」


 妻は笑おうとして、うまく笑えなかった。


 健一は、自分がこれほど先のことを話したのは久しぶりだと思った。


 以前なら当たり前だった予定が、いつの間にか口にすることさえためらうものになっていた。


「結衣にも話そう。俺だけの問題じゃないから」


 妻は頷いた。


 翌日の面会時間、結衣は学校の鞄を肩に掛けたまま病室へ入ってきた。


「お父さん、聞いて。数学、満点だった!」


 そう言って差し出された小テストには、赤い丸がいくつも並んでいた。


「本当に取ったのか。すごいじゃないか」


「だから言ったでしょ。プリン、忘れてないよね?」


「忘れてない。高いやつだろ」


「そう。コンビニのじゃなくて、駅前のお店の」


 結衣は得意げに笑った。


 その笑顔を見た瞬間、健一はこれから話すことを少しためらった。


 せっかく嬉しそうにしている娘に、また病気の話を聞かせることになる。


 しかし、何も知らないままにしておくわけにもいかなかった。


「結衣、ちょっと座ってくれるか」


 健一が声を掛けると、結衣は父親と母親の顔を見比べた。


「何? また検査の結果?」


「いや。新しい治療を受けられるかもしれないって話があってな」


 健一は、できるだけ難しい言葉を使わずに説明した。


 まだ誰も受けたことのない治療であること。


 成功する保証はないこと。


 それでも、今までとは違う可能性があること。


 結衣は途中で何度か質問したが、最後まで真剣に聞いていた。


「それって、お父さんのがんが全部なくなるかもしれないってこと?」


「ああ。そういう治療を目指してるらしい」


「じゃあ、受ければいいじゃん」


 結衣は即座に答えた。


 しかし、母親から安全性について説明を受けると、その表情が変わった。


「危ないこともあるの?」


「あるかもしれない。先生たちも、まだ分からないことが多いって言ってる」


「……そっか」


 結衣はしばらく黙り込み、鞄の持ち手を指でいじっていた。


 健一は答えを急がせなかった。


 やがて娘が顔を上げた。


「お父さんは、どうしたいの?」


「受けたいと思ってる」


「だったら、私は応援する」


 結衣の声は少し震えていた。


「でも、約束して。怖いこととか、痛いことがあったら、ちゃんと言ってね。私たちに心配かけたくないからって、隠さないで」


 健一は目を見開いた。


 病気になってから、娘の前ではできるだけ明るく振る舞ってきた。痛みが強い日でも平気なふりをして、体調を聞かれれば大丈夫だと答えることが多かった。


 それを、結衣は気づいていたのだろう。


「分かった。約束する」


「絶対だよ」


「ああ」


 結衣は頷いたあと、少し考えてから言った。


「あと、プリンの約束も忘れないでね」


「そっちは絶対に忘れさせてくれないんだな」


「当たり前でしょ。満点取ったんだから」


 健一は笑った。


 妻も目元を拭いながら、ようやく笑顔を見せた。


 その日のうちに、健一は治療を希望する意思を藤堂へ伝えた。


 そこから数日間、病院では通常とは異なる準備が進められた。


 治療に関する資料は、病院の倫理審査に関わる委員と外部の専門家によって検討され、独立した医師が健一の状態と意思を確認した。国の担当者も立ち会い、今回の実施が一般向けの治療開始を意味するものではないこと、結果が良好でも追加の検証が必要になることを改めて説明した。


 健一には、考える時間が十分に与えられた。


 治療を受けると決めてからも、夜中に不安で目が覚めることはあった。未知の技術を自分の体に入れるという話は、何度説明を聞いても現実離れしていた。


 それでも、気持ちは変わらなかった。


 正式な審査と必要な許可が整い、最初の臨床使用が認められたと藤堂から告げられたとき、健一は大きく息を吐いた。


「いよいよですね」


「はい。ただ、最後まで慎重に進めます。少しでも異常があれば、すぐに対応できる体制を取っています」


「お願いします」


 健一は深く頭を下げた。


 治療当日の朝は、意外なほど静かだった。


 病室には普段より多くの機器が運び込まれ、心電図や血圧、血液中の酸素の状態を確認するための準備が進められていた。別室では画像検査と血液検査の結果を照合し、治療前の状態が記録されている。


 健一はベッドに横になり、天井を見つめていた。


 昨夜はほとんど眠れなかった。


 怖さがなかったわけではない。


 ただ、これまでの治療で何度も経験した、これからつらい時間が始まるという感覚とは少し違っていた。


 結果がどうなるのか、まったく想像できなかった。


「藤原さん、体調はいかがですか?」


 藤堂が声を掛けた。


「緊張してます。心臓の音が聞こえそうなくらい」


「そうですよね。私たちも慎重に準備を進めてきました」


 藤堂の後ろには、今回の治療を監督する専門医が立っていた。看護師が投与経路を確認し、別の職員が薬剤の識別情報と管理記録を読み合わせている。


 小さな容器に入った液体は、健一が想像していたものとは違い、ほとんど透明だった。


 これが、自分の体の中にあるがんを取り除くという。


 目の前にしても、信じられない気持ちは残っていた。


「先生。一つだけ、いいですか」


「はい」


「もしうまくいったら、今日のうちに分かるんでしょうか」


「治療の働きそのものは、数時間以内に確認できるとされています。ただし、実際にがんが取り除かれたかどうかは、複数の検査で慎重に判断します。体調が良くなったという感覚だけで、成功とは決めません」


「分かりました」


 健一は頷き、目を閉じた。


 妻と結衣は、すぐ近くの待機室にいる。


 二人には、無理に笑顔を作らなくていいと言われた。


 だから、今は怖いままでいようと思った。


 怖くても、前に進むことはできる。


「それでは、始めます」


 藤堂の声が聞こえた。


 腕に留置された点滴の管へ、慎重に薬剤が投与された。


 痛みはほとんどなかった。


 針を新しく刺したわけでもなく、体内に何かが入っていく感覚もない。


 看護師が時間を記録し、監視機器の数値を確認する。


 健一は思わず尋ねた。


「もう入ったんですか?」


「はい。投与は完了しています」


「こんなにあっさりなんですね」


「ここから経過を見ていきます」


 健一は天井へ視線を戻した。


 何か特別な感覚があるのではないかと思っていた。


 体が熱くなるとか、内側で何かが動くとか、あるいは痛みが走るとか。


 しかし、最初の数分間は何も起こらなかった。


 医療スタッフが測定値を確認し、一定の間隔で声を掛けてくる。健一はそのたびに体調を伝えた。


 やがて三十分が過ぎ、一時間が経過した。


 健一は少し眠気を感じたが、医師から声を掛けられると問題なく返事ができた。


 体温も血圧も大きな変化はない。


 予想されていた急激な異常反応は、少なくとも今のところ認められなかった。


 それでも、医師たちの表情は緩まなかった。


 投与から二時間ほど経った頃、健一は腹部に手を当てた。


 何かが違う。


 そう感じたものの、最初は理由が分からなかった。


 しばらく考えて、ようやく気づいた。


 いつもそこにあった鈍い痛みが、弱くなっている。


 鎮痛薬が効いているときでも、体の奥に重たいものが残っているような感覚があった。それが今は、少しずつ薄れているようだった。


「先生、ちょっといいですか」


 藤堂が近づいた。


「どうされました?」


「お腹が……楽なんです」


「痛みが減ったということですか?」


「はい。さっきまでは、いつもの感じだったんですけど」


 藤堂はすぐに痛みの程度を確認した。


 健一は自分の感覚をできるだけ正確に伝えた。痛みがまったくなくなったわけではないが、少なくともここ数週間では経験したことのない軽さだった。


「分かりました。大切な変化です。ただ、治療の効果かどうかは検査で確認しましょう」


 藤堂は落ち着いて答えた。


 健一も頷いた。


 今まで何度も、体調が良い日を経験してきた。


 それだけで病気が治ったと思うほど、楽観的にはなれなかった。


 しかし、胸の奥には小さな期待が生まれていた。


 午後になると、予定されていた検査が始まった。


 採血に続き、画像検査が行われた。健一は検査室へ移動する間も、自分の体調に注意を向けていた。


 午前中より呼吸が楽だった。


 腹部の不快感も、さらに軽くなっている。


 検査台に横になりながら、これが気のせいではなければいいと思った。


 結果が出るまでの時間は、ひどく長く感じられた。


 健一は病室へ戻り、妻と結衣に短い面会を許された。


「どうだった?」


 妻が真っ先に尋ねた。


「注射は終わった。今は検査結果待ち」


「具合は?」


「不思議なんだけど、朝よりずっと楽なんだよ」


 妻は健一の顔を見つめた。


「本当に?」


「ああ。まだ分からないけどな」


 結衣はベッドの横に立ち、父親の様子を確かめるように覗き込んだ。


「顔色、昨日よりいい気がする」


「そうか?」


「うん。昨日はもっと疲れた顔してた」


「それは緊張して眠れなかったからだろ」


「今日も眠れてないでしょ」


「まあな」


 結衣は小さく笑ったあと、健一の手に触れた。


「痛くなかった?」


「大丈夫だったよ。思ってたよりずっと普通だった」


「そっか」


 それだけ言って、結衣は椅子に座った。


 健一は、娘が何度も自分の顔を見ていることに気づいていた。


 何か変化を見逃したくないのだろう。


 その気持ちが分かるだけに、まだ何も約束できないことがもどかしかった。


 午後四時を過ぎた頃、藤堂が病室に戻ってきた。


 その後ろには、治療を監督していた専門医と、検査結果を確認した放射線科の医師がいた。


 健一は三人の姿を見て、背筋を伸ばした。


 妻が椅子から立ち上がる。


「結果が出たんですか?」


「はい。まず、現時点で確認できたことをお伝えします」


 藤堂は健一の正面に座った。


 その顔には、普段とは違う緊張があった。


「治療前と治療後の画像を比較したところ、胃の周囲にあった病変と、転移していた部位に大きな変化が認められました」


 健一は息を止めた。


「変化、というのは……」


「これまで確認されていた腫瘍が、今回の検査では認められなくなっています」


 言葉の意味が、すぐには頭に入ってこなかった。


「認められないって……小さくなったんですか?」


「いいえ。少なくとも現在の画像で確認できる範囲では、腫瘍そのものが見つからない状態です」


 妻が口元を押さえた。


 健一は藤堂の顔を見つめたまま、動けなかった。


「全部、ですか?」


「今回、検査で評価できたすべての部位についてです」


 藤堂は資料を開き、治療前後の画像を並べて見せた。


 健一には細かな違いまで理解できなかったが、以前の検査で説明された病変の位置は覚えていた。


 その場所を、医師が一つずつ示していく。


 治療前には明らかに存在していた異常な影が、治療後の画像では確認できなくなっていた。


「さらに、治療によって損傷していた組織にも回復を示す変化が見られています。血液検査でも、いくつかの数値が改善する方向に動いています」


「じゃあ……」


 健一の声がかすれた。


「俺のがんは、治ったんですか?」


 藤堂は少しだけ間を置いた。


「今回の治療によって、確認できるがん病変が消失したと判断しています。初回の治療結果としては、成功です」


 妻が小さく声を漏らした。


 結衣は目を見開いたまま、父親と医師を交互に見ていた。


「ただし、医学的に長期の治癒を断定するには、今後の経過観察が必要です。見えないほど小さな病変が残っていないか、再発が起こらないか、治療による遅い時期の影響がないかも確認しなければなりません」


 藤堂はそこで言葉を切り、健一をまっすぐ見た。


「それでも、藤原さん。今日の結果は、非常に良好です」


 健一は頷こうとした。


 しかし、うまくできなかった。


 治った。


 いや、まだ長期的なことは分からない。


 それでも、体の中にあったがんが見つからなくなった。


 何度考えても、その事実が現実のものとして感じられなかった。


「先生……本当に?」


「はい。複数の医師で画像を確認しています」


「俺、もう……」


 続きが出てこなかった。


 妻が健一の手を握った。


 その力は、思っていたより強かった。


「よかった……」


 妻はそう言って、顔を伏せた。


「本当によかった……」


 健一は妻の肩に手を伸ばした。


 病気が見つかってから、妻には何度も泣かせてしまった。


 検査結果が悪かった日も、治療を変更すると告げられた日も、先の見通しについて説明された日も。


 そのたびに妻は、健一の前ではできるだけ気丈に振る舞おうとしていた。


 今は、声を抑えようともしていなかった。


 結衣がベッドの反対側から近づいてきた。


「お父さん」


「ああ」


「すごいね」


 娘は泣いていた。


 健一が何か言おうとすると、結衣は首を横に振った。


「まだ、ちゃんと治ったって言い切れないのは分かってる。でも……すごいね」


「そうだな」


「だって、昨日まであんなに心配してたのに」


「うん」


「よかった。本当に」


 健一は娘の頭に手を置いた。


 結衣が小さかった頃は、よくこうして頭を撫でたものだった。中学生になってからは嫌がるようになり、最近ではほとんど触れることもなかった。


 けれど今日は、結衣は避けなかった。


 健一は娘の髪に触れたまま、ようやく涙がこぼれた。


 自分が死ぬかもしれないと知ったとき、思っていたほど泣けなかった。


 怖くないわけではなかったが、どこか現実味がなく、泣くより先に考えなければならないことが次々と浮かんできた。


 仕事の引き継ぎ。


 家のこと。


 妻が困らないように整理しておく書類。


 結衣の進学費用。


 自分がいなくなったあとの生活。


 そんなことばかり考えていた。


 今、初めて、まだ生きていたいという気持ちが胸いっぱいに広がっていた。


「……ありがとう」


 誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。


 目の前の医師たちかもしれない。


 支えてくれた妻と娘かもしれない。


 あるいは、顔も名前も知らない、この治療を作った誰かだったのかもしれない。


 藤堂は何も言わず、しばらく三人を見守っていた。


 やがて、落ち着いたところで今後の予定について説明した。


 健一は引き続き入院し、体調の変化や治療による影響を慎重に確認することになる。今日の結果だけで退院を決めることはできず、必要な検査もまだ残っていた。


 また、今回の治療はあくまで特別な条件で行われた最初の臨床使用であり、他の患者にすぐ提供できるわけではない。


「この治療を待っている人は、きっと大勢いますよね」


 健一が尋ねると、藤堂は頷いた。


「はい。ですが、安全性や再現性を確認することが必要です。今日の結果は、そのための大切な第一歩になります」


「俺の結果も、役に立つんでしょうか」


「もちろんです。藤原さんにご協力いただいた記録は、今後の判断にとって非常に重要です。ただし、個人情報の取り扱いについては、事前にお伝えした条件を守ります」


 健一は安心した。


 自分の名前が知られることよりも、同じ病気で苦しんでいる人たちに、この治療が届く日が来てほしいと思った。


 同時に、今日の結果が良かったからといって、すべてが解決したわけではないことも理解していた。


 それでも、今は十分だった。


 昨日まで想像することさえ難しかった未来が、再び自分のものとして考えられるようになったのだから。


 医師たちが病室を出ていくと、三人だけの静かな時間が戻ってきた。


 妻は何度も健一の顔を見ては、安心したように微笑んでいた。


 結衣はスマートフォンを取り出し、学校の予定表を開いていた。


「何見てるんだ?」


「来月の行事」


「何かあるのか?」


「合唱祭。前に話したじゃん」


「ああ、そうだったな」


「お父さん、来られるかな」


 健一はすぐに答えようとして、思いとどまった。


 今日の結果がどれほど良くても、まだ入院中だ。体力も落ちているし、退院の予定さえ決まっていない。


 以前の自分なら、娘をがっかりさせないように、きっと行けると答えていたかもしれない。


 しかし、結衣とはもう、無理をして大丈夫だと言わない約束をしている。


「まだ分からない。先生と相談してからだな」


「うん。それでいい」


 結衣は頷いた。


「でも、来られたら嬉しい」


「俺も行きたいよ」


 健一はそう答えた。


 それだけで、胸が温かくなった。


 少し前までは、来月の予定を聞くことさえつらかった。


 今は、行けるかどうかを真剣に考えている。


 その違いが、何より嬉しかった。


 妻が買い物袋から小さな紙箱を取り出した。


「そうだ。これ、結衣が買ってきたの」


「何だ?」


「プリン」


 結衣が少し照れたように笑った。


「お父さんが買ってくれる約束だったけど、今日は私が買ってきた。三人分」


 箱の中には、駅前の洋菓子店のプリンが並んでいた。


 健一は思わず笑った。


「俺が買うって約束だっただろ」


「じゃあ、退院したらもう一回買ってよ」


「二回食べるつもりか」


「だって、満点取ったんだから」


「一回のテストでずいぶん得するな」


 結衣は笑い、妻もつられて笑った。


 健一は箱の中を覗き込んだ。


 以前なら何でもなかった、家族で甘いものを食べるという時間。


 病気になってからは食欲が落ち、食べられる量も減り、好きだったものを目の前にしても手が伸びないことが多かった。


 今日は、少し食べてみたいと思った。


 看護師に確認すると、体調を見ながら少量なら構わないと言われた。


 妻がスプーンを渡してくれる。


 健一はプリンを一口すくい、ゆっくり口に運んだ。


 卵の風味と、ほろ苦いカラメルの味が広がった。


「……うまいな」


 思わず口にすると、結衣が嬉しそうに身を乗り出した。


「でしょ? ここの、おいしいんだよ」


「ああ。これは高いだけある」


「だから言ったじゃん」


 健一はもう一口食べた。


 まだ以前のように何でも食べられるわけではない。それでも、久しぶりに食べ物をおいしいと思えたことが嬉しかった。


 妻はその様子を見ながら、自分のプリンにはほとんど手をつけていなかった。


「お前も食べろよ」


「うん。食べる」


「冷めるもんじゃないけどな」


「分かってる」


 妻は笑い、ようやくスプーンを手に取った。


 窓の外では、夕方の光が建物の壁を淡く照らしていた。


 健一はふと、以前、藤堂に話した弁当のことを思い出した。


「結衣」


「何?」


「退院できたら、弁当作ってやるよ」


 結衣は顔を上げた。


「お父さんが?」


「ああ。まだ台所に立てるか分からないけど、少しずつ練習してみる」


「卵焼き入れてくれる?」


「もちろん。俺の得意料理だからな」


「じゃあ、甘いやつがいい」


「昔からそればっかりだな」


「お父さんの卵焼き、おいしいもん」


 健一は笑った。


 病気が進んでから、弁当を作るという願いは、できなくなったことを数える中で見つけた小さな目標だった。


 全部作れなくてもいい。


 卵焼きだけでもいい。


 そう思っていた。


 今も、その気持ちは変わらない。


 ただ、そこへ至る道が、以前より少しだけ長く続いているように感じられた。


 結衣はスプーンを置き、父親を見つめた。


「お父さん、無理しなくていいからね」


「分かってるよ」


「でも、楽しみにしてる」


「ああ。俺もだ」


 健一は頷いた。


 明日の検査がどうなるかは分からない。


 来週、来月、その先の結果についても、まだ誰にも断言できない。


 それでも今日、医師から初めて治療の成功を告げられた。


 長い間、体の中に存在していた病変が、検査で確認できなくなった。


 そして今、妻と娘が目の前で笑っている。


 それは、健一が何よりも望んでいた光景だった。


 病室の時計は、午後五時を少し回っていた。


 面会時間の終わりが近づき、妻が荷物をまとめ始める。


 結衣は鞄を肩に掛けると、いつものように父親へ手を振った。


「じゃあ、お父さん。また明日ね」


 健一はその言葉を聞き、しばらく娘を見つめた。


 何度も交わしてきた、ありふれた挨拶だった。


 けれど、今日は違って聞こえた。


 明日が来ることを、ただ願うだけではなく、明日になったら何を話そうかと考えられる。


 そんな当たり前のことが、これほど嬉しいとは思わなかった。


「ああ。また明日」


 健一が答えると、結衣は満足そうに笑った。


 妻も小さく手を振り、娘と一緒に病室を出ていった。


 一人になった健一は、枕元に置かれたスマートフォンを手に取った。


 家族のメッセージグループには、結衣から新しい写真が届いていた。


 三人分のプリンが並んだ写真だった。


 その下には、短い言葉が添えられている。


『次はお父さんのお弁当!』


 健一は笑いながら返信を打った。


『卵焼きの練習、しておくよ』


 送信すると、すぐに猫のスタンプが返ってきた。


 健一は画面を閉じ、窓の外を見た。


 空はゆっくりと暮れ始めていたが、不思議と寂しさは感じなかった。


 明日になれば、また検査がある。


 医師と話し、体調を確かめ、少しずつできることを増やしていく。


 退院できる日が来たら、まず家に帰ろう。


 妻と一緒に夕食を食べて、結衣の学校の話を聞こう。


 それから、台所に立てるようになったら卵を買ってこよう。


 甘い卵焼きを作るには、砂糖を少し多めに入れなければならない。


 そんなことを考えながら、健一は久しぶりに、明日が来るのを楽しみにしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。