第23話 破られた約束
首相官邸の執務室に置かれた白い装置は、そこにあるだけで周囲の景色を変えてしまったようだった。
家庭用の冷蔵庫ほどの大きさしかない。表面には継ぎ目らしいものがほとんど見当たらず、前面には小さなペンギンの絵が描かれている。愛嬌のある外見とは裏腹に、その内部には日本のエネルギー政策どころか、世界の産業構造さえ変えかねない可能性が眠っていた。
ぺんぎんぽかぽか炉。
命名した当人は、先ほどまで総理大臣と対等に交渉していたとは思えないほど満足げな顔で、お茶請けの菓子を眺めている。
「なあ、紬。これ、食っていいやつだよな?」
「う、うん。たぶん……」
「たぶんって何だよ。毒でも入ってんのか?」
「そ、そういう意味じゃなくて……お客様用なのかなって」
「俺たちがお客様だろうが」
ボスは当然のように菓子へ手を伸ばした。短い翼では包み紙をうまく剥がせず、結局、紬に開けてもらうことになった。
高瀬隆一は、その様子を執務机の向こうから眺めていた。
つい先ほどまで交わしていた会話を考えれば、ずいぶんと奇妙な光景だった。国家の最高責任者を前に、正体不明の少女がペンギンの菓子を開けている。しかも、その少女は目の前に置かれた装置を何もない空間から作り出した人物だ。
高瀬は手元の書類に視線を戻した。
先ほど三浦誠司がまとめた協力条件の覚書である。匿名性の保護、身元や住所などの不調査、私生活への不干渉、協力の自主性、適切な対価、技術の平和利用。正式な制度や手続きには今後の調整が必要だが、基本方針については双方の合意が成立している。
高瀬自身、その条件に納得していた。
あの少女が本当に望んでいるものは、権力でも名声でもない。人目を避けて暮らしたいという、ごくささやかな願いだった。
だからこそ、守らなければならない。
そう考えていたはずだった。
「総理」
三浦が声を落として呼びかけた。
「装置の保管と搬送について、至急、関係部署と調整いたします。現段階では外部への情報共有を必要最小限に絞るべきかと」
「そうしてくれ。まずは安全な場所を確保する。試験の方法については、専門家の意見を聞いてからだ」
「承知しました」
黒崎隼人は扉のそばに立ったまま、白い装置と紬たちの双方に注意を向けていた。警護対象の目の前に未知の機械が置かれているという状況は、彼にとって到底歓迎できるものではない。それでも、装置に不用意に触れないという指示を守り、必要以上の威圧を避けている。
やがて紬は、湯飲みを両手で包みながら、おずおずと口を開いた。
「あ、あの……そろそろ、帰っても……大丈夫ですか?」
「もちろんだ。長い時間、付き合わせてしまったね」
高瀬が答えると、紬はほっとしたように肩を下ろした。
「ご、ごめんなさい。別に、嫌だったわけじゃ……」
「謝る必要はないよ。今日は来てくれてありがとう」
その言葉に紬が小さく頭を下げると、ボスは菓子の最後のひとかけらを飲み込み、胸を張った。
「じゃあ総理、約束は守ってくれよ。こいつ、面倒事が苦手なんだ。何かあったら俺に言え」
「分かっている。君たちの信頼を損なわないようにする」
「よし。話が早くて助かるぜ」
紬がボスを抱き上げた。
黒崎の視線が一瞬だけ鋭くなったものの、彼女は何かを構えるでもなく、いつものようにボスを胸元へ引き寄せただけだった。
「し、失礼します……」
「またな、総理。三浦のおっさんも、怖い兄ちゃんもな」
「私はまだ五十四歳です」
三浦が即座に訂正した。
「十分おっさんだろ」
「あなたの年齢を基準にされても困ります」
紬が小さく笑った次の瞬間、二人の姿はその場から消えた。
音も光もない。
そこに立っていた少女とペンギンが、最初から存在しなかったかのようにいなくなった。
高瀬は二人のいた場所をしばらく見つめてから、深く椅子に腰を下ろした。
「……さて」
その一言を境に、室内の空気が変わった。
残されたのは、国家の安全保障を担う者たちと、既存の常識では扱いきれない一台の装置だった。
「三浦君。まずは関係者を集めてくれ。ただし、人数は絞る。情報が外に出れば、取り返しのつかないことになる」
「すでに候補を選定しています。装置の管理に必要な者と、情報保全の担当者に限定します」
「頼む」
高瀬は机の上の覚書に手を置いた。
その紙には、つい先ほど自分が約束したことが記されている。
少女の身元を調べない。
居場所を探さない。
私生活に踏み込まない。
その一つ一つが、相手の信頼を得るために必要な条件だった。
だが同時に、高瀬の胸中には、別の問いが生まれていた。
もし彼女が突然、考えを変えたらどうなる。
もし第三者が彼女を利用しようとしたら。
もし日本以外の国が、その存在を先に突き止めたら。
そして何より、国として何も知らないままで、本当に国民を守れるのだろうか。
高瀬はその問いを、簡単に振り払うことができなかった。
それが、後に大きな過ちへつながる最初の一歩だった。
その日の夕方、官邸内の限られた関係者だけが使用する会議室に、三人の男が集まっていた。
高瀬、三浦、そして内閣の情報保全を担当する幹部である。
机上には資料が数枚置かれていたが、そこに少女の写真も氏名もない。分かっているのは、小鳥遊紬と名乗った若い女性が、常識を超えた能力を持ち、話すペンギンを伴って現れたという事実だけだった。
「総理。率直に申し上げます」
情報保全担当の幹部は、表情を引き締めた。
「我々は、相手について何も把握していません。どこに住んでいるのか、どのような経歴なのか、ほかに協力者がいるのか。現在の情報では、危機管理上の評価すら困難です」
「その点は理解している」
「では、最低限の確認だけでも必要ではないでしょうか」
三浦が書類から顔を上げた。
「それはできません。身元を調べないことは、こちらが明確に了承した条件です」
「承知しています。しかし、通常の協力者とは事情が違います。国家機密に関わる可能性があり、しかも本人の能力は未知数です」
「通常ではないからこそ、約束を守る必要があるのです」
三浦の口調は穏やかだったが、言葉には譲らない意志があった。
高瀬は二人のやり取りを聞きながら、目の前の覚書を見つめていた。
合理的に考えれば、身元を把握しておくべきだという意見には一理ある。国家の安全を預かる立場として、何も知らないまま協力関係を続けることには不安が残る。
しかし、それを理由に約束を破れば、相手が協力を続けてくれる保証はない。
何より、あの少女は自分たちを信用しようとしていた。
高瀬は、執務室で湯飲みを抱えていた紬の姿を思い出した。
大勢の人間と話すことに慣れていない様子だった。ボスに助けられながら、懸命に自分の希望を伝えようとしていた。
あの少女に対し、国の都合を優先してよいのか。
「総理」
幹部が続けた。
「少なくとも、第三国との接触歴や、危険な組織との関係の有無だけでも確認できれば、対応の幅が広がります。本人への接触や尾行は行いません。既存の情報を照合するだけです」
「それでも調査は調査です」
三浦が指摘した。
「合意文書の解釈を変えて正当化することはできません」
「それは分かっています」
幹部は一度言葉を切り、高瀬に向き直った。
「だからこそ、政治判断をお願いしています」
会議室に沈黙が落ちた。
高瀬は長く息を吐いた。
自分が今、何を決めようとしているのかは理解していた。曖昧な文言を利用する余地はない。相手が明確に拒んだことを、本人に知らせず実行するかどうか。その判断を求められている。
「……三浦君」
「はい」
「仮に、公開されている情報や既存の記録を照合するだけなら、本人に直接危険が及ぶ可能性は低いだろうか」
三浦の表情が険しくなった。
「総理。それは危険性の問題ではありません」
「分かっている」
「いいえ。分かっておられるなら、実施すべきではありません。我々は調べないと約束したのです」
高瀬は返答しなかった。
幹部も口を挟まず、判断を待っている。
やがて高瀬は、覚書を伏せた。
「対象者への接触、尾行、周辺人物への聞き込みは認めない。情報照合に限定する。結果は私と三浦君だけに報告させる」
「総理!」
三浦が思わず声を上げた。
高瀬はその視線を正面から受け止めた。
「約束に反することは承知している」
「でしたら、なぜです」
「何も知らずに国の将来を預けることを、私は恐れている」
それは言い訳ではなく、高瀬自身の偽らざる気持ちだった。
だからといって、正しい判断になるわけではない。
「私の責任で行う。記録にも残して構わない。君たちに判断の責任を押しつけるつもりはない」
三浦はしばらく黙っていた。
やがて、硬い声で答えた。
「……承知しました。ただし、私はこの判断に反対したことを明確に残します」
「それでいい」
高瀬は頷いた。
その場で決定されたのは、ほんの小さな調査だった。
しかし、相手との間に引かれた境界線を、政府が自ら踏み越えたことに変わりはなかった。
翌朝、内閣のサイバー関連業務を担当する神谷悠斗は、普段とは違う呼び出しを受けていた。
三十二歳。技術職としての経験が長く、官公庁の情報システムに関する調査や、重大なセキュリティ事案への対応を任されることも多い。仕事は正確で、説明も分かりやすいと評価されていたが、本人には一つ困った癖があった。
疑問が生まれると、答えが出るまで調べたくなるのである。
その性格が、今回は思いがけない事態を招くことになった。
「……人物の特定、ですか?」
神谷は受け取った指示書を読み返した。
そこに記載されていたのは、驚くほど少ない情報だった。二十代前半と思われる女性。本人の申告による氏名は小鳥遊紬。外見上の特徴がいくつか。そして、政府の重要人物と接触した可能性があること。
通常の調査依頼としては、あまりにも手掛かりが乏しい。
「本人が名乗った名前の真偽も不明だ。既存の記録と照合して、該当する人物がいるか確認してほしい」
上司はそう説明した。
「対象者への接触は?」
「禁止だ。周辺への聞き込みも認められていない。君が扱える範囲の情報だけで進めてくれ」
「了解しました。ただ、これだけだと同姓同名の候補が複数出る可能性がありますね」
「確証が得られなければ、そのように報告してくれればいい」
神谷は頷いたものの、気になる点があった。
「この案件、法的な確認は済んでいるんでしょうか。通常の照会手続きと少し違うようですが」
上司は一瞬だけ視線を逸らした。
「官邸の判断だ。必要な承認は上で取っている」
その答えは、神谷の疑問を完全には解消しなかった。
しかし、彼に伝えられた範囲では、政府が対象者と交わした約束について何も知らされていない。依頼の背景に問題があるかもしれないと感じながらも、正式な業務命令として受け取った。
神谷は自席に戻り、専用端末を立ち上げた。
画面には、普段と変わらない業務用の検索画面が表示された。
彼はまず、指示書に記された情報を整理した。氏名、推定年齢、外見、接触日時。照合に利用できる項目は少ない。しかも、本人が名乗った名前が正しいという保証すらない。
「これで見つけろって、なかなか無茶を言うなあ……」
独り言をこぼしながら、神谷は最初の照会を実行した。
画面に候補が表示される。
予想どおり、同じ名前を持つ人物や、年齢の近い人物がいくつか見つかった。だが、どれも決定的な一致には至らない。写真のない記録もあれば、そもそも年齢が異なるものもある。
神谷は条件を変え、別の照合を試みた。
すると、画面の表示が一瞬だけ止まった。
「ん?」
処理が重くなったのかと思い、神谷は数秒待った。
しかし、端末の動作自体は正常だった。マウスも動くし、ほかの業務画面も問題なく開く。ただ、対象者の情報を照合していた画面だけが、妙な状態になっている。
検索結果が消えていた。
代わりに、白い背景の中央に短い文章が表示されている。
『その照会は許可されていません』
「……何だ、これ」
神谷は椅子を引き寄せ、画面を確認した。
見慣れない警告だった。使用しているシステムの標準メッセージではない。通信障害や認証エラーとも違う。
しかも、表示されている文章には、通常なら付いているはずのエラー番号がなかった。
「システム側の設定変更……いや、そんな連絡は来てないぞ」
神谷は画面を閉じようとした。
閉じない。
別のウィンドウへ切り替えることはできる。しかし、その警告だけは同じ位置に残り続けた。
神谷の背筋に、嫌な感覚が走った。
何者かが、自分の作業を見ている。
そう考えた瞬間、机の上に置かれたスピーカーから、澄んだ女性の声が流れた。
「神谷悠斗さん。お仕事中に失礼いたします」
「うわっ!」
神谷は反射的に椅子を後ろへ滑らせた。
危うく転びそうになり、机の端を掴んで体勢を立て直す。
「な、何だ!? 誰だ!」
「私はアイリスと申します。現在、あなたが実施している人物調査について、お話があります」
神谷は慌てて周囲を見回した。
同僚たちはそれぞれの作業に集中している。声が聞こえていないわけではないらしく、近くの席にいた職員が不思議そうにこちらを向いた。
「神谷さん、何か鳴りました?」
「あ、いや……ちょっと確認中です。すみません」
神谷は声を潜めた。
「……どうやって、この端末に?」
「その質問にはお答えできません。ただし、端末を破損させたり、業務に必要な情報を削除したりはしておりませんので、ご安心ください」
「安心できる要素が一つもないんですけど」
「ごもっともです」
返答が妙に素直だった。
神谷は、そこで初めて相手が普通の侵入者ではないのかもしれないと感じた。
声には不自然な途切れがない。質問に対する反応も早く、事前に録音した音声を流しているようには思えない。
何より、自分の名前を知っている。
「あなたは、どこの所属ですか?」
「特定の政府機関には所属しておりません」
「では、民間のセキュリティ会社?」
「違います」
「対象者の関係者ですか」
「はい。その理解で差し支えありません」
神谷は息を整えた。
対象者の関係者。
つまり、今調べようとしている女性には、自分たちの照会を把握し、政府の端末に警告を表示できる協力者がいるということになる。
これは重大なセキュリティ事案だ。
神谷はすぐに上司へ報告しようとしたが、アイリスが先に言葉を続けた。
「その前に、一つ確認させてください。あなたは、この調査が対象者との合意に反することをご存じですか?」
「……合意?」
「政府側は、対象者の氏名、住所、経歴などを調査しないと明確に約束しています」
神谷は指示書を見下ろした。
そんな説明は、どこにもない。
「待ってください。私は、そのような約束があったとは聞いていません」
「承知しました。あなた個人が事情を知らず、正式な指示に従って作業している可能性は考慮しています」
「じゃあ、どうして止めるんですか」
「約束が存在する以上、事情を知らない担当者が実行した場合でも、調査を認めることはできないからです」
神谷は口を閉じた。
確かに、そのとおりだった。
知らなかったからといって、行われた調査がなかったことにはならない。
「……あなたの言うことが事実だと確認できるんですか?」
「確認先は、この調査を命じた政府上層部です」
アイリスの声は変わらず丁寧だった。
「私は、あなたに機密情報を開示するつもりはありません。また、対象者の居場所や個人情報を示すこともありません」
「では、なぜわざわざ話しかけてきたんです?」
「あなたが、原因を知らないまま調査を繰り返す可能性があったためです。単に検索を失敗させるだけでは、システム障害と判断されかねません」
神谷は画面の警告を見た。
そこに表示されているのは、たった一文だけだ。
しかし、その短い文章の背後には、少なくとも自分の操作を把握している存在がいる。
「一つだけ、教えてください」
「内容によります」
「あなたは、ずっと政府のシステムを監視していたんですか?」
「いいえ。常時監視は行っておりません」
アイリスは即答した。
「今回のような照会を検知するため、対象者に関する限定的な保護措置を設けています。あなたの通常業務や、無関係な職員の活動を継続的に観察しているわけではありません」
「……その保護措置が、どういう仕組みなのかは?」
「申し訳ありませんが、お答えできません」
「ですよね」
神谷は天井を見上げた。
聞きたいことは山ほどある。
だが、相手は答えるべきことと答えないことを明確に分けていた。こちらが質問を重ねても、重要な情報を引き出せるとは思えない。
それでも技術者として、どうしても気になることがあった。
「こちらの端末を操作できるなら、あなたはもっと多くの情報を取得できるんじゃないですか?」
「可能なことと、実施することは別です」
「……なるほど」
「あなた方にも、同じ判断をお願いしたいのです」
その一言に、神谷は返す言葉を失った。
画面の向こうにいる相手は、自分たちの能力を誇示しているわけではない。
ただ、約束を守ってほしいと言っている。
しかも、その約束を破ろうとしたのは政府側らしい。
神谷は指示書を閉じた。
「分かりました。調査は中断します。上司にも確認します」
「ありがとうございます」
「ただし、こちらとしても、あなたが端末に介入したことは報告しなければなりません」
「もちろんです。隠す必要はありません」
アイリスは少し間を置いた。
「可能であれば、次の内容も正確にお伝えください」
画面の警告文が消え、新しい文章が表示された。
『政府側が合意した身元不調査の条件に反する照会を確認しました。対象者の個人情報は提供されません。今後も同様の照会には応じません。合意内容の確認をお願いいたします。』
神谷はその文章を読み、眉を寄せた。
「……これは、警告ですか?」
「はい」
女性の声が、はっきりと答えた。
「ただし、脅迫ではありません。こちらは相手の情報を奪うことも、政府の業務を妨害することも望んでいません。約束された範囲を守っていただきたいだけです」
「対象者本人は、このことを知っているんですか?」
「現時点で、その質問にはお答えしません」
「そうですか」
「神谷さん。あなたが不必要な責任を負うことのないよう、調査の指示経路と、私からの連絡内容を正確に記録してください」
神谷は画面を見つめた。
妙な話だった。
政府の端末へ介入してきた正体不明の相手が、こちらの記録保存を勧めている。普通なら証拠を消そうとする場面ではないのか。
だが、その助言には筋が通っていた。
神谷が何を命じられ、何を知らず、どこで作業を止めたのか。それを明確に残しておけば、少なくとも事実関係は曖昧にならない。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
そこで音声が途切れた。
警告画面も消え、端末には元の業務画面が表示された。先ほどまでの異常が嘘だったかのように、操作は正常に戻っている。
神谷は数秒間、画面を眺めていた。
それから、指示書の余白に時刻を書き込んだ。
調査中断。
原因、外部からの介入。
相手、自称アイリス。
そして最後に、少し迷ってから一文を付け加えた。
対象者との不調査合意が存在するとの申告あり。指示元への確認が必要。
書き終えた神谷は、上司への報告を始めた。
報告を受けた官邸側の反応は、神谷が想像していた以上に深刻だった。
情報保全担当の幹部は、最初こそシステム障害や第三者による侵入の可能性を疑った。しかし、神谷が記録した文章を確認した途端、その表情が変わった。
「……アイリス、と名乗ったのか」
「はい。対象者の関係者だと説明していました」
「対象者の氏名や住所は?」
「分かりません。照合は途中で遮断されました」
「ほかの情報は」
「取得できていません」
幹部は額に手を当てた。
調査が失敗したこと以上に、相手がこちらの行動を把握していたという事実が重かった。
しかも、警告文には合意違反という言葉がある。
政府内部の限られた人間しか知らないはずの約束を、相手は正確に認識しているのだ。
「神谷君。この件は外部に話さないでくれ」
「承知しました。ただ、確認したいことがあります」
「何だ」
「本当に、身元を調べないという約束があったんですか?」
幹部はすぐには答えなかった。
その沈黙だけで、神谷には十分だった。
「……あったんですね」
「君は指示に従っただけだ」
「それは分かっています。でも、調査を依頼する前に説明していただきたかったです」
神谷の声には、普段の軽さがなかった。
「相手がどんな人物かは知りません。ただ、調べないと約束した相手を秘密裏に調べれば、信用を失うのは当然だと思います」
「国家の安全に関わる判断だった」
「それも理解します。ですが、その判断をした人と、実際に操作する人間は違います」
幹部は口を閉じた。
神谷はそれ以上、追及しなかった。
自分の役割は調査結果を正確に報告することであり、政治的な責任を決めることではない。
それでも、技術者として一つだけ断言できることがあった。
「少なくとも、同じ方法で再調査しても意味はないと思います。相手は今回の照会を認識していて、必要な範囲だけを止めています。無理に続ければ、状況が悪化する可能性があります」
「……分かった。報告は上げておく」
神谷は一礼して部屋を出た。
廊下を歩きながら、彼は先ほどの声を思い返していた。
丁寧で、落ち着いていて、こちらの事情まで考慮していた。
その一方で、絶対に譲らない線があった。
あれほど高度な技術を持つ相手が、どうしてわざわざ会話を選んだのだろう。
もっと強引な方法だって取れたはずなのに。
神谷はそこで、自分の考えに苦笑した。
できることと、やることは別。
つい先ほど、相手に教えられたばかりではないか。
同じ頃、高瀬は三浦から報告書を受け取っていた。
そこには、調査が失敗した経緯と、アイリスを名乗る存在からの警告が記されていた。
高瀬は最後まで読み終えると、紙を机に置いた。
「……そうか」
短い返事だった。
三浦は向かいの椅子に座らず、立ったまま報告を続けた。
「対象者の身元は判明していません。調査担当者は合意の存在を知らされておらず、上層部からの指示に従っていました。調査の中断と報告記録の保存を確認しています」
「神谷という担当者に落ち度はないな」
「はい。少なくとも今回の約束違反について、主たる責任を負う立場ではありません」
高瀬は頷いた。
「それから、アイリスと名乗る存在は、こちらの情報を奪うことも、政府の通常業務を妨害することも望まないと説明したそうです」
「……こちらが約束を破ったのに、相手は節度を守ったわけか」
「そのように受け取れます」
高瀬は椅子の背にもたれた。
机の端には、紬たちとの合意内容を記した覚書が置かれている。
昨日、自分の手で伏せた紙だった。
あのとき高瀬は、国家の安全を理由に調査を命じた。相手を傷つけるつもりはなかったし、必要最小限の情報だけを確認するつもりだった。
だが、そんな事情は、約束を破られた側には関係がない。
調査の規模が小さければ許されるわけでもない。
相手が気づかなければ問題にならない、という話でもなかった。
「三浦君」
「はい」
「君の反対を押し切ったのは私だ」
「そのとおりです」
三浦は遠慮なく答えた。
高瀬は苦く笑った。
「少しは慰めてくれてもいいだろう」
「必要でしたら、別の機会にいたします」
「厳しいな」
「今回ばかりは」
その返答に、高瀬は何も言い返せなかった。
しばらくして、彼は報告書の最初のページを開いた。
「この件は、私から本人たちに説明しなければならないな」
「はい。隠したまま協力を進めるべきではありません」
「装置の検証にも影響するだろう」
「それは避けられないかと。ただし、まず問題にすべきなのは検証の日程ではありません」
三浦の言葉は、普段より少し厳しかった。
「我々が、自分たちの約束を守れなかったという事実です」
高瀬はゆっくり頷いた。
国家の利益を守るために下した判断が、国家にとって最も重要な協力関係を傷つけようとしている。
皮肉な話だった。
しかも、相手は自分たちを攻撃していない。
ただ、調べないでほしいと伝えてきただけだ。
その願いは、最初から聞いていたはずだった。
一方、紬の秘密の研究室では、アイリスがいつもと変わらない姿でホログラムを表示していた。
広い室内には、未完成の海賊船の設計図が浮かび、作業台の上にはボスが選んだ飾りの候補が並んでいる。
紬は椅子に座り、ボスが船首飾りの色について熱弁するのを聞いていた。
「だからな、金色もいいけど、あんまりピカピカしてると魚が警戒する気がすんだよ」
「船の飾りで魚が警戒するかは……分からないけど」
「気分の問題だよ、気分。海賊船には威厳ってもんが必要なんだ」
「じゃあ……少し落ち着いた色にする?」
「おっ、それいいな!」
ボスは満足そうに頷いた。
そのやり取りを見守っていたアイリスが、紬へ声をかけた。
「マスター。少々、ご報告したいことがございます」
「ん? どうしたの?」
「政府側から、マスターの個人情報を特定しようとする照会が行われました」
紬の手が止まった。
「……え?」
ボスも顔を上げる。
「おい。それ、どういうことだ?」
「政府の担当者が、マスターの氏名と推定年齢などを手掛かりに、既存の情報を照合しようとしていました。事前に設けていた保護措置により検知し、調査を遮断しました」
紬はしばらく黙っていた。
昨日、総理大臣は約束してくれた。
身元を調べない。
普通に暮らせるようにする。
その言葉を信じて、安心して帰ってきたのに。
「……調べないって、言ってたよね」
「はい」
アイリスは事実だけを答えた。
「政府側は、その条件に合意しています」
ボスの表情が変わった。
「ふざけんなよ。あいつら、俺たちが帰った途端に約束破ったってのか?」
「調査を命じた経緯のすべては把握しておりません。ただし、政府側の照会が実施されたことは確かです」
「だったら十分だろ」
ボスは作業台から飛び降りようとして、紬に抱き止められた。
「ボ、ボス……」
「何だよ、紬。お前だって嫌だろ?」
「……うん」
小さな返事だった。
怒りよりも先に、悲しさが込み上げていた。
紬は、人と話すのが得意ではない。知らない相手と向き合うだけでも、言葉を選ぶのに時間がかかる。
それでも昨日は頑張った。
ボスに助けてもらいながら、自分の希望を伝えた。怖い思いをしてまで官邸へ行ったのは、何かを奪いたかったからではない。
自分にできることで、少しでも誰かの役に立てたらと思ったからだ。
その最初の約束が、もう破られていた。
「……私、何か悪いことしたのかな」
紬が呟くと、ボスは勢いよく首を振った。
「してねえよ。お前は何もしてねえ。勝手に調べた連中が悪いんだ」
「でも……向こうも、心配だったのかもしれないし……」
「心配なら聞けばいいだろ。嫌だって言われたから、こっそりやるってのは違うじゃねえか」
紬は答えられなかった。
ボスの言うことは分かる。
けれど、政府の人たちがどんな気持ちで決めたのかも、少しだけ気になった。
自分は、普通ではない力を持っている。
そんな相手を信用するのは、きっと簡単ではない。
それでも。
「……約束は、守ってほしかったな」
その声を聞いて、ボスは紬の腕の中で動くのをやめた。
アイリスも、すぐには何も言わなかった。
やがて紬は顔を上げた。
「アイリス。私のこと……分かっちゃった?」
「いいえ、マスター。個人情報の特定には至っておりません。今回の照会で、政府側が新たに取得できた情報もありません」
「そっか……」
「また、調査担当者には、政府側の合意内容を確認するよう伝えました。通常の業務システムへの影響は残しておりません」
紬は少し安心したように息を吐いた。
「ありがとう、アイリス」
「お役に立てて何よりです」
ボスはまだ納得していない様子だった。
「なあ、アイリス。総理に文句言いに行くぞ。今すぐ」
「ボス。現時点では、政府側からの説明を待つという選択肢もございます」
「待ってる間にまた調べられたらどうすんだ」
「同様の照会は防止できます。ただし、技術的に防げることと、相手との信頼関係が維持されることは別の問題です」
ボスは口をへの字に曲げた。
「……そりゃ、そうだけどよ」
紬はボスの頭を撫でた。
「ちょっとだけ、待ってみよう?」
「紬」
「ちゃんと……話してくれるかもしれないから」
ボスはしばらく紬を見上げていた。
その顔には、怒りと心配が入り混じっている。
やがて、彼は短い翼を組んだ。
「……分かった。でもな、向こうがしらばっくれるなら、俺は黙ってねえぞ」
「うん」
「お前が嫌な思いするために、協力するわけじゃねえんだからな」
「……ありがとう」
紬はボスを抱きしめた。
研究室の片隅では、海賊船の設計図が変わらず浮かんでいる。魚の顔をした船首飾りも、王冠も、昨日と同じ場所にあった。
けれど紬には、その明るい部屋が少しだけ遠く感じられた。
アイリスは二人を見守りながら、政府からの連絡を受け取るための窓口だけを維持した。
必要以上に相手を追いかけるつもりはない。
マスターの望みは、誰かを支配することではなく、安心して暮らすことなのだから。
その頃、首相官邸では高瀬が連絡の準備を進めていた。
机の上には、二つの書類が並んでいる。
一つは、少女と交わした約束。
もう一つは、その約束を破ったことを示す報告書。
高瀬は二枚を見比べ、しばらく考え込んだ。
国のためという言葉は、時として便利すぎる。
どんな判断にも理由を与えられる一方で、目の前の相手に対して負うべき責任まで覆い隠してしまう。
今回は、その便利な言葉に自分が頼ってしまった。
「三浦君」
「はい」
「連絡を取ろう。こちらから事情を説明する」
三浦は頷いた。
「承知しました」
高瀬は、昨日の少女の顔を思い出した。
帰り際、彼女は安心したように笑っていた。
その笑顔を裏切ったのは、自分たちだった。
次に会ったとき、同じ表情を向けてもらえるとは限らない。
それでも、向き合わなければならなかった。




