第22話 ペンギンの出した条件
「ここからが本当の話だな」
ボスは紬の腕の中で胸を張り、正面に座る高瀬首相を見据えた。身長四十センチほどの小さなペンギンが日本の最高権力者を相手に堂々と振る舞っている光景は、どう考えても普通ではない。それでも、この部屋にいる人間たちは、すでに彼の言葉を聞き流せないところまで来ていた。
高瀬は机の上に置いていたペンを取り、手元のメモ用紙を引き寄せた。三浦官房長官も姿勢を正し、黒崎は首相と二人の来訪者の位置を確認できる場所に立っている。
「聞かせてもらおう。君たちが日本政府に求めるものは何だね」
「話が早くて助かるぜ。まず言っとくが、俺たちは日本を乗っ取る気も、政治に口を出す気もねえ。そもそも、そんな面倒なことは御免だ」
「それは先ほど聞いたよ」
「だったら話は簡単だ。俺たちは協力する。その代わり、守ってもらいたいことがある」
ボスは翼を一本立てた。本人としては指を立てているつもりなのだろうが、丸い翼の先が少し持ち上がっただけだった。
「一つ目。紬のことを調べるな」
三浦のペンが止まった。
「……調べるな、とは?」
「名前、住所、家族、仕事、学校、昔のこと。そういうのを勝手に探るなって話だ。必要もねえのに戸籍だの住民票だのを引っ張り出されちゃ困る」
「しかし、相手の身元を確認せずに国家として協力関係を結ぶというのは、通常の手続きでは考えられません」
「通常の手続きで首相の部屋にペンギンが来るのか?」
「それは、まあ……来ませんが」
「だろ?」
三浦は反論しかけて口を閉じた。言い方には問題があるものの、通常の枠組みだけで扱える事態ではないことも事実だった。
高瀬はメモに短く何かを書きつけると、紬へ視線を向けた。
「小鳥遊さん。君自身も、それを望んでいるのかな」
急に話を振られた紬は、ボスの背中を撫でていた手を止めた。
「あ……はい。できれば、その……今までどおりに暮らしたいので」
「政府と協力すれば、どうしても多くの人間が関わることになる。秘密を守ると約束しても、絶対に漏れないとは言い切れない。それでも構わないかね」
「……怖いです」
紬は答えてから、少しだけうつむいた。
「でも、ボスが一緒に考えてくれましたし……何もしないほうがいいとは、思わなかったので」
高瀬はしばらく彼女を見ていたが、それ以上の説明は求めなかった。
「分かった。君が望まない個人情報の調査は行わない。その方針で話を進めよう」
「総理」
三浦が小声で呼びかける。
「懸念は理解している」
高瀬は官房長官のほうを向いた。
「だが、我々には彼女を強制的に管理する権利があるわけではない。協力を求めるなら、相手の条件も聞く必要がある」
「……承知しました」
「ただし、今この場で政府内のすべての人間の行動を保証できると軽々しく言うつもりもない。私が責任を持って方針を示し、関係者に徹底させる。それでどうだろう」
「いいぜ。口約束だけで安心できるほど、俺もお人よしじゃねえけどな」
「それはお互いさまだね」
高瀬の返答に、ボスは少し楽しそうに嘴を上げた。
「じゃあ二つ目。紬の私生活には干渉しないこと。政府の都合で呼び出したり、勝手に家まで来たりするのはなしだ」
「連絡を取る方法は必要になるね」
「それはこっちで用意する。用があるなら、決めた窓口を通せばいい」
「緊急事態の場合は?」
「話くらいは聞くさ。でも、聞くのと従うのは別だぜ」
高瀬はその言葉をメモに残した。
「つまり、協力はあくまで自発的なもの。政府の命令系統には入らないということだね」
「そういうこった。紬を公務員にするなよ。朝礼とかあったら困る」
「朝礼はともかく、組織に所属しない協力者という扱いなら検討できる」
「休日出勤もなしだ」
「それは私にも認めてもらいたいところだ」
三浦が咳払いをした。
「総理、冗談を交えるのは結構ですが、こちらは極めて重要な協議です」
「分かっているよ、三浦君」
高瀬の口元には、かすかな笑みが残っていた。
紬は二人のやり取りを聞きながら、抱えているボスの体温を確かめた。彼は政府の重鎮を相手に、いつもの調子を崩さない。家でおやつの取り分を交渉するときと大して変わらない口ぶりなのに、話している内容は紬のこれからの暮らしを左右するものばかりだった。
「三つ目は金だ」
ボスが言うと、三浦はすぐにペンを構え直した。
「協力に対する報酬ということでしょうか」
「ああ。俺たちが何か渡したら、それを使って国が得することもあるだろ。だったら、紬に何も返さねえってのは筋が通らねえ」
「それは当然です。相応の対価をお支払いする仕組みは必要でしょう」
「ただ、紬は今すぐ大金をもらっても困るんだよな」
「えっ」
紬は反射的に顔を上げた。
「い、いや、困るっていうか……」
「ほらな」
「ボス、勝手に決めないで……」
「お前、昨日だってスーパーで二百円高いプリン買うか迷ってただろ」
「それは別の話でしょ……!」
思いがけず大きな声が出てしまい、紬は慌てて口を閉じた。
高瀬が目元を和らげる一方、三浦はメモを取るべきか迷っているようだった。黒崎だけは表情を変えなかったが、視線が一度だけ紬からボスへ移った。
「とにかく、金は政府のほうでちゃんと管理してくれ。紬が必要になったとき、本人の意思で使えるようにしておけばいい。変な名義で口座を作って、そこから身元が割れるなんてのもなしだ」
「専用の基金に相当する仕組みを設け、本人の情報を保護しながら管理する方向ですね」
三浦はようやく書き始めた。
「具体的な法的構成や会計上の扱いは検討が必要です。現時点で金額や支払い方法を確約することはできませんが、原則として対価を用意するという理解でよろしいですか」
「おう。紬がいらねえって言っても、勝手に誰かの懐に入れられたら困るからな」
「それは論外です」
三浦の返事は、これまでで最も力強かった。
ボスは満足げにうなずいた。
「最後に一つ。俺たちが渡すものは、人を殺すために使わせねえ」
それまで軽妙だった会話の空気が変わった。
「兵器にしたり、誰かを脅す道具にしたり、そういうのはなしだ。紬は誰かを助けるためなら力を貸したいと思ってる。だからって、その力を好き勝手に使っていいわけじゃねえ」
高瀬はペンを置いた。
「そこは重要な点だ。だが、どこまでを軍事利用とみなすかは簡単ではない。例えば、災害時に自衛隊が発電設備を使用する場合はどうだろう」
「災害で人を助けるなら構わねえよ。問題は使い道だ」
「なるほど。目的による制限というわけか」
「細かいところは後で詰めりゃいい。ただ、兵器に改造できるようなものは最初から渡さねえ。それだけは覚えといてくれ」
「承知した」
高瀬はそこで一度、紬に向き直った。
「小鳥遊さん。今の条件は、すべて君の意思だと受け取っていいのかな」
「……はい」
「ボス君が代わりに話しているが、最終的に決めるのは君自身だ。そこは間違えたくない」
紬は少し考えたあと、ボスを抱える腕に力を込めた。
「ボスは、私が嫌なことをちゃんと覚えててくれるんです。私だと……うまく説明できないので。でも、今話したことは、私もそうしてほしいです」
「そうか」
「それと……」
紬は一度言葉を切った。
「何かを作ったら、それで誰かが困ることもあると思うんです。だから、ちゃんと考えて使ってほしいです」
高瀬はその言葉を聞いて、深くうなずいた。
「約束しよう。君たちの協力を、無条件に利用できる権利だとは考えない」
そして三浦に目配せした。
「匿名性の保護、本人と私生活への不干渉、自主的な協力、対価の適切な管理、提供技術の平和的利用。この五点を基本条件として受け入れる。実施に必要な制度や手続きは、我々の責任で整える」
「総理、念のため申し上げますが、今ここで法的な取り決めが完成するわけではありません」
「もちろんだ。しかし、政府としてどの方向へ進むかは、今決められる」
高瀬は紬とボスを交互に見た。
「これで合意と考えていいかな」
「おう。話の分かる総理で助かったぜ」
ボスが答えると、紬も小さく頭を下げた。
「よろしくお願いします……」
高瀬は椅子に座り直した。これで少なくとも、突然現れた二人との間に対話の土台ができた。問題は、その土台の上に何を築くのかということだった。
「さて。では、君たちが提供できるものについて聞こう」
「待ってました」
ボスは紬の腕から降りようと身じろぎしたが、足が机に届くわけでもない。結局、紬に抱え直されて落ち着いた。
「最初は分かりやすいやつがいいだろ。電気だ」
「電気?」
「ああ。日本は電気をいっぱい使うだろ。工場も病院も家も、何をするにも必要だ。しかも燃料を外国から買わなきゃならねえ」
三浦が顔を上げた。
「エネルギー問題への協力、ということですか」
「そうだ。だから、燃料を大量に運び込まなくても、安定して電気を作れる装置を渡す」
高瀬の表情が引き締まった。
「それは、どのような発電方式なのかな」
「核融合だ」
今度は三浦がペンを取り落としかけた。
「……核融合、ですか」
「知ってんだろ? 太陽が光ってるのと同じ仲間の反応を使うやつだ」
「原理は存じています。しかし、実用的な発電設備として完成させるには、世界中の研究機関が長年取り組んでいる段階でして……」
「だったらちょうどいい。完成品を持ってきたら喜ぶだろ」
「持ってきた?」
三浦の目が紬の手元へ向かった。彼女は相変わらずボスを抱えているだけで、鞄すら持っていない。
「いや、現物はまだここにはねえ。今から作る」
「今から、ですか」
高瀬は紬を見た。
「小鳥遊さん。本当に、そのような装置を作れるのかね」
「えっと……はい。たぶん、大丈夫です」
「たぶん、というのは」
「作り方は、分かるので……」
紬の答えに、三浦は何か言いかけてやめた。世界規模の研究課題を前にした説明としては、あまりにも控えめだった。
「じゃあ紬、頼むぜ」
「ここで?」
「ここで」
「……床、大丈夫かな」
紬が執務室の空いた場所を見渡すと、黒崎が即座に一歩前へ出た。
「お待ちください。何をされるおつもりですか」
「発電機を作るんだよ」
「それは理解しましたが、ここは総理執務室です。危険物を持ち込むことは認められません」
「危なくねえように作るって」
「安全性を確認する前に、その説明だけで許可するわけにはいきません」
黒崎の口調は変わらなかった。ボスが相手でも警護上の判断を譲るつもりはないらしい。
紬は少し困ったように高瀬を見た。
「……やめておきますか?」
その言葉を聞いた高瀬は、しばらく考え込んだ。
「黒崎君の懸念はもっともだ。小鳥遊さん、作った瞬間に動き出すものではないんだね」
「はい。動かさないようにできます」
「爆発や放射線の危険は?」
「……ないように作ります。もし何かおかしくなっても、自動で止まるように」
黒崎はさらに確認した。
「その装置は、作られたあとに勝手に動くことはありませんか」
「はい。運転するための準備が終わるまでは、何も起きません」
高瀬は三浦と視線を交わした。
「ここで実際に動かすわけではない。まず現物を見せてもらうだけだ。どうだろう」
「総理、前例がありません」
「前例があれば、私もこんなに悩まないよ」
三浦は苦い顔をしたが、反対を続ける言葉は見つからなかった。
黒崎が机の脇へ回り、首相との間に距離を取れる位置を確保した。
「それでは、総理にはこちらへ移動していただきます。装置の設置場所も指定させてください」
「分かった。小鳥遊さん、それで構わないかね」
「はい」
黒崎が示したのは、執務室の壁際にある空いた床だった。周囲の家具との間には余裕があり、少なくとも人が不用意に触れる位置ではない。
紬はボスを床に降ろした。
「おい、俺の出番は?」
「今はそこにいて」
「おう」
ボスは素直に従った。普段なら何か一言付け加えるところだが、紬が集中しようとしているのを察したらしい。
紬は指定された場所を見つめた。
必要なのは、大きな発電所を丸ごと持ち込むことではない。発電のための反応を安全に維持し、熱を電力へ変換し、外部の設備に接続できる形で取り出す。内部の機構は外から解析できず、正規の運用以外には応じない。万一の異常時には反応が停止し、周囲に危険を及ぼさない。
それらの条件を、ひとつの完成した装置として組み立てる。
紬が指先をわずかに動かした次の瞬間、何もなかった床に白い筐体が現れた。
高さは家庭用の冷蔵庫と同じくらい。角を丸く処理した外装には細い青色の線が走り、正面には小さな表示画面が埋め込まれている。足元には床を傷つけないための支持台があり、背面には外部設備と接続するための端子が整然と並んでいた。
部屋の中で機械音が鳴ることはなかった。表示画面には、ただ『停止中』という文字が映っている。
三浦は立ち上がりかけた姿勢のまま動きを止めた。
「……これは」
「できました」
紬はそう答え、すぐにボスを抱き上げた。
高瀬は数歩離れた場所から装置を眺めた。白い箱は執務室の調度品の中で妙に浮いて見える。けれども、その存在感は見た目の大きさとはまるで釣り合っていなかった。
「これが、核融合炉だというのか」
「そうだぜ」
ボスは自慢げに答えた。
「名前は『ぺんぎんぽかぽか炉』だ」
「……何と?」
「ぺんぎんぽかぽか炉」
三浦は今度こそペンを机に置いた。
「ボスさん。お願いですから、正式な名称はもう少し慎重に考えていただけませんか」
「何でだよ。覚えやすいだろ」
「国家のエネルギー政策に関わる設備の名称ですので」
「じゃあ『超すげえぺんぎんぽかぽか炉』にするか?」
「そういう問題ではありません」
紬はボスの頭に手を置いた。
「……ボス。名前は、あとで考えてもいいんじゃない?」
「えー。いい名前だと思ったんだけどな」
「私は、嫌いじゃないけど……」
その言葉を聞いたボスは、途端に機嫌を直した。
「だろ? じゃあ決まりだ」
高瀬は二人を眺め、とうとう小さく笑った。
「名前については、ひとまず保留にしておこう。それよりも、どれほどの電力を作れるのか教えてほしい」
「十メガワット級だ」
「十メガワット……」
三浦が装置を見直した。
「この大きさで?」
「おう。家庭用の冷蔵庫くらいだろ。でかい建物を建てなくても、これ自体は置ける」
「設置できることと、発電所として運用できることは別問題ですが……」
「そこは政府の仕事だな。紬が電線まで全部つなぐわけじゃねえし」
三浦は反射的に反論しかけたものの、言われたこと自体は正しかった。発電設備を安全に運用するには、冷却、電力系統との接続、周辺設備、管理体制など、検討すべきことが数多くある。だが、それらを考える前提となる発電装置そのものが、目の前に存在している。
高瀬は白い筐体から目を離さずに尋ねた。
「小鳥遊さん。これは、今すぐ発電できる状態なのかな」
「いえ。今は動かないようにしてあります。ちゃんと調べてもらってからのほうが、いいと思ったので」
「賢明だね」
高瀬はうなずいた。
「こちらとしても、専門家による検証なしに運転することはできない。まずは安全な場所へ移し、性能を確認させてもらいたい」
「はい。大丈夫です」
ボスが補足した。
「ただし、条件がある。勝手に分解したり、中身を調べて真似しようとしたりするのはなしだ」
三浦は眉を寄せた。
「構造を確認できなければ、安全性の評価が難しくなります」
「外から必要な性能を測るのは構わねえ。運転したときの出力とか、異常が起きた場合の停止とか、そういう試験は好きにやってくれ。けど、中身を開けて解析しようとしても無駄だぜ」
「無駄、とは?」
「開けられねえようにしてある。無理にいじれば、安全に止まる。壊して危ないもんが飛び出すような作りにもしてねえ」
黒崎が初めて装置に関する質問をした。
「それは、この部屋にある状態でも同じですか」
「同じだ。今は停止してるし、誰かが間違って触っても勝手に動き出さねえ」
黒崎は答えを聞いても警戒を解かなかったが、少なくとも装置へ不用意に近づこうとはしなかった。
高瀬は紬へ問いかけた。
「この制限は、君が設けたものなのかな」
「はい。使う人が困らないようにはしたつもりです。でも、危ない使い方をしようとしたら、動かなくなるようにしました」
「例えば、兵器への転用も?」
「……できません」
紬の返答は短かったが、そこには迷いがなかった。
「誰かを傷つけるために使われるのは、嫌なので」
高瀬はその言葉を受け止めるように、一度目を伏せた。
「分かった。政府としては、正規の運用に必要な検査と管理を行う。内部構造を解明することを協力の条件にはしない。ただし、外部から十分な安全確認ができないと判断された場合には、運用を見送る可能性もある。それでよいかね」
「もちろんだぜ。危ないと思ったら使わなきゃいい。紬だって、無理やり動かせとは言わねえよ」
「……はい」
紬も同意した。
高瀬は三浦を呼んだ。
「専門家を手配しよう。まずは現物を安全に保管できる場所を確保する。検証計画も必要だ」
「承知しました。関係機関との調整を始めます。ただし、情報の取り扱いについては極めて厳重な管理が必要です」
「当然だ。関係者は必要最小限に絞る」
三浦はすでに頭の中で連絡先を整理しているようだった。だが、次の瞬間、彼は大切なことに気づいた顔でボスを見た。
「一つ確認させてください。この装置は、今後も小鳥遊さんが一台ずつ作ることになるのでしょうか」
「いや、それじゃ数が足りねえだろ」
「では、量産する手段があると?」
「あるぜ。ただし、いきなり渡すつもりはねえ。まずはこれが本当に使えるって、あんたら自身で確かめてくれ」
「……なるほど」
三浦は慎重にうなずいた。
「量産については、その後の協議ということですね」
「そういうことだ。作るための設備を用意するにしても、日本の中だけで使ってもらう。海外に製造方法をばらまくのはなしだ」
高瀬はその点にも関心を示した。
「完成した装置を他国へ提供することは?」
「将来的には考えてもいい。でも、まずは日本だ。こっちでちゃんと扱えるようになってからの話だな」
「理解した。国内での検証と運用を優先しよう」
その返答を聞いて、ボスは満足そうに胸を張った。
「よし。これで俺たちの話はだいたい終わりだ」
三浦は目の前のメモを見下ろした。そこには、政府が通常なら何年もかけて検討するような内容が、わずかな会話の間に書き込まれていた。
「……ボスさん。一つだけ申し上げてもよろしいでしょうか」
「何だ?」
「あなた方にとっては『だいたい終わり』なのかもしれませんが、私たちの仕事は今から始まるのです」
「そりゃ大変だな」
「ええ。非常に」
「頑張れよ」
「……ありがとうございます」
三浦の声には、疲労とも諦めともつかない響きがあった。
高瀬はそのやり取りを聞きながら、改めて白い装置を眺めた。
日本のエネルギー政策は、燃料の輸入、電力の安定供給、環境への負担といった問題を抱えている。もし、この小さな核融合炉が説明どおりの性能を持つなら、これまで当然とされてきた前提が変わるかもしれない。
しかし、彼が今向き合っているのは、装置の性能だけではなかった。
その装置を作ったのは、首相を前にすると言葉を探してしまう、ごく若い女性だ。彼女の腕には、世界の政治や経済など気にも留めていないような顔をしたペンギンが収まっている。
「小鳥遊さん」
「は、はい」
「一つ、聞いてもいいかな」
「……何でしょう」
「君は、なぜこれを我々に渡そうと思ったんだね」
紬は少し戸惑った。
理由なら、ボスと何度も話していた。自分の力でできることが増えて、暮らしが便利になった。困ったときに誰かを助けられることも分かった。それなら、もっと多くの人の役に立つことだってできるはずだ。
けれども、それを政府の偉い人にどう説明すればいいのかは分からなかった。
「……私が持ってても、あんまり使わないので」
紬が答えると、高瀬は一瞬、聞き返しそうになった。
「家の電気は、もう困ってないですし……それなら、必要なところで使ってもらったほうがいいかなって」
「それだけかね」
「……はい。あ、でも」
紬は白い装置を見た。
「これで電気代が安くなったり、停電で困る人が減ったりしたら、いいなと思います」
高瀬はしばらく何も言わなかった。
巨大な国家事業の始まりにしては、あまりにもささやかな理由だった。けれども、目の前の女性は、自分がどれほど大きなものを差し出そうとしているのか、少なくともその一部は理解しているのだろう。
「ありがとう」
高瀬は、首相としてではなく、一人の人間として礼を言った。
「結果がどうなるかは、まだ分からない。だからこそ、慎重に確かめて、責任を持って扱わせてもらうよ」
「……お願いします」
紬は頭を下げた。
その腕の中から、ボスがひょいと顔を上げる。
「それと総理、もう一個だけ頼みがある」
「何だね」
「帰る前に、紬にお茶でも出してやってくれ。さっきから緊張しっぱなしなんだ」
「ボス!」
紬の頬が赤くなった。
「そうだね。すっかり失礼していた」
高瀬は三浦に目を向けた。
「お茶をお願いできるかな」
「……承知しました」
三浦は席を立ちかけ、ふと足を止めた。
「ボスさんも、何か召し上がりますか」
「魚はあるか?」
「官邸の執務室には、通常ございません」
「じゃあ茶でいいや」
「ペンギンはお茶を飲んでも大丈夫なのですか?」
「俺は飲めるぜ」
「……そうですか」
三浦はそれ以上の質問を諦めたらしい。
白い核融合炉が置かれた執務室で、首相が湯飲みを用意するよう指示し、官房長官がペンギンの飲み物について考えている。数時間前なら、誰がそんな報告を信じただろう。
紬はようやく少しだけ肩の力を抜いた。
難しい話は、これからもたくさんあるのだと思う。自分が作ったものを他人に渡すということは、作って終わりではないのだろう。
それでも、隣にはボスがいる。
紬がその背中を撫でると、彼は満足そうに体を預けてきた。
「な? 何とかなっただろ」
「……まだ、何も終わってないよ」
「そうとも言うな」
紬は小さく笑った。
そのすぐ近くでは、世界のエネルギー事情を変えるかもしれない装置が、誰にも知られず、運転開始の日を待っていた。




