第21話 首相官邸にペンギンが現れた日
秘密基地の研究室には、今日も穏やかな時間が流れていた。
壁一面に広がる大型モニターには、数日前から検討している海賊船の設計図が表示されている。船首には魚を模した飾りが取り付けられ、甲板の中央には小さな王冠の意匠まで描かれていた。どう見ても実用性より持ち主の趣味を優先した設計だったが、その持ち主はたいそう満足しているらしい。
ただし、現在の小鳥遊紬にとって重要なのは、まだ造られていない海賊船ではなかった。
「……やっぱり、やめない?」
研究室の中央で椅子に座っていた紬は、膝の上に抱えたペンギンに向かって、すでに何度目になるか分からない提案をした。
「却下だ」
返事は早かった。
「まだ理由も言ってないんだけど……」
「聞かなくても分かる。緊張するから嫌だ、怖いから嫌だ、知らないおっさんと話したくない。そんなところだろ?」
「……全部合ってる」
「だろうな」
ボスは得意げに胸を張った。丸みを帯びた身体を紬の腕に預けたままでは、どれほど威厳を出そうとしても限界があるのだが、本人は気にしていない。
紬はその頭を指先で撫でながら、研究室の天井を見上げた。
政府に接触する。
その方針自体は、すでに三人で話し合って決めていた。自分たちだけでできることが増えたからこそ、社会に関わるような大きな行動を起こすなら、いつまでも秘密のまま進めるわけにはいかない。
理屈では理解しているし、必要なことだとも思っている。
けれど、実際に日本の総理大臣と会う日が来ると、話はまったく別だった。
「普通はさ、総理大臣に会うって、何か月も前から予定を決めたりするんじゃないのかな……」
「俺たちは普通の客じゃねえからな」
「それ、安心できる理由になってないよ」
「心配すんな。話すのは俺だ。紬は俺を抱いて、そこにいてくれりゃいい」
そう言ってボスは、紬の手に自分の短い翼を重ねた。
小さな身体から伝わってくる温かさに、紬の肩から少しだけ力が抜ける。
人と話すことが苦手だから、動物相手ならもっと自然に話せるかもしれない。そんな気持ちから生み出したペンギンが、今では自分の代わりに総理大臣と交渉しようとしているのだから、人生というものは分からない。
もっとも、紬の場合は人生よりも、自分の能力の使い方を振り返ったほうがいいのかもしれなかった。
『マスター、最終確認が完了しました』
二人の正面に、淡い光が集まって女性の姿を形作る。
アイリスだった。
研究室の管理を担う彼女は、いつもどおり落ち着いた表情で一礼した。
『転移先の空間状態に問題はありません。到着時に周囲の物体と干渉する危険も排除できる見込みです。また、万一の事態に備えた帰還手順についても確認済みです』
「ありがとう、アイリス」
『ただし、先方がどのような心理的反応を示すかについては、完全な予測ができません』
「……だよね」
『突然、執務室に見知らぬ女性と会話可能なペンギンが現れる状況ですので、驚かれる可能性は極めて高いと考えられます』
「アイリス、それは俺でも分かるぞ」
『承知しています。念のため申し上げました』
紬は小さく笑ったものの、すぐに膝の上へ視線を落とした。
これまでの実験では、危険を感じたことも、失敗を恐れたこともあった。しかし、それらの多くは自分たちだけで向き合える問題だった。今回は違う。相手には相手の立場があり、責任があり、何より自分たちの存在を知らない。
もし、話を聞いてもらえなかったら。
もし、危険な存在だと判断されたら。
そう考えるだけで、胸の奥が落ち着かなくなる。
「……ボス。本当に大丈夫かな」
「大丈夫かどうかは、会ってみなきゃ分からねえ」
意外なほど率直な答えに、紬は顔を上げた。
「ただな、紬。俺たちは喧嘩を売りに行くんじゃねえ。話をしに行くんだ。向こうが警戒するのは当たり前だし、すぐ信用してもらえるとも思ってねえよ」
「うん……」
「だから、最初から全部うまくやろうとすんな。俺が話して、相手の話も聞く。それだけだ」
ボスの言葉には、不思議と説得力があった。
彼には紬のような能力がない。何かを創造することも、瞬間移動することもできない。身長四十センチほどの小さなペンギンが持っているのは、よく回る口と、妙に図太い神経くらいだ。
それでも、紬は彼が隣にいるだけで心強かった。
『マスター。無理に多くを話そうとする必要はありません。ボスの説明を補足したい場合にのみ、ご自身の言葉でお伝えください』
「……うん。そうする」
『それから、緊張した際は呼吸が浅くなりがちです。今のうちに一度、深く息を吸っていただければ』
「アイリス、お前は母親か」
『マスターの健康管理も私の役割です』
「はいはい。ありがとな」
紬は言われたとおりに呼吸を整え、ボスを抱き直した。
柔らかな羽毛が腕に触れる。いつもと変わらない重さと温かさが、少しだけ現実感を取り戻させてくれた。
「じゃあ……行こうか」
「おう。日本の総理大臣ってやつに、挨拶してやろうぜ」
「挨拶はちゃんとしてね……?」
「俺を誰だと思ってんだ」
「そこが一番心配なんだよ……」
アイリスが小さく微笑む。
『お二人とも、お気をつけて。こちらで待機しています』
紬は頷き、目的の場所を意識した。
次の瞬間、研究室にいた二人の姿が消えた。
その場に残されたアイリスは、主の帰還に備えて研究室の状態を維持しながら、空になった椅子へ目を向けた。
『……どうか、良い出会いになりますように』
その願いを聞く者は、もう研究室にはいなかった。
そして同じ頃、日本の政治の中心では、誰一人として予想していなかった出来事が起ころうとしていた。
首相官邸。
その執務室で、高瀬総理大臣は机に広げられた資料に目を通していた。
国内外の情勢に関する報告は途切れることがなく、ひとつの問題に区切りがつけば、すぐに別の課題が待っている。総理大臣という立場に就いて以来、落ち着いて考える時間を確保することさえ、容易ではなくなっていた。
それでも高瀬は、目の前の資料を雑に扱うことはなかった。判断を誤れば、その影響は数え切れない人々に及ぶ。だからこそ、どれほど忙しくとも必要な情報には目を通す。
机の向こうには、官房長官の三浦誠司が立っていた。
「総理、こちらの件については、午後の会議で関係閣僚から追加の説明がございます」
「分かった。それまでに確認しておこう」
三浦は手元の書類を整え、次の報告へ移ろうとした。
そのときだった。
執務室の中央、机から少し離れた何もない空間に、突然二つの人影が現れた。
いや、正確には一人の若い女性と、その腕に抱かれた黒と白の小さな生き物だった。
扉が開いたわけではない。
足音も、物音もなかった。
直前まで確かに誰もいなかった場所に、何の前触れもなく存在が増えたのである。
「総理、下がってください!」
最初に動いたのは、警護を担当していた黒崎隼人だった。
鋭い声とともに高瀬の前へ身体を入れ、侵入者との間に立ちはだかる。その視線は女性の顔、両手、抱えられた物体、そして室内の位置関係を瞬時に確認していた。
「動かないでください。両手を見える位置に」
「ひゃっ……!」
突然の大声に、紬は肩を跳ねさせた。
転移そのものは予定どおり成功していた。だが、到着した瞬間に厳しい声を浴びせられるところまでは、心の準備ができていなかったらしい。
反射的にボスを抱く腕へ力が入る。
「おいおい、そんなに怒鳴るなよ。こっちのお嬢さんがびっくりしてるだろ」
黒崎の視線が、女性の腕の中へ移った。
丸い頭。黒い背中。白い腹。
どう見てもペンギンだった。
そして、そのペンギンが今、はっきりと人間の言葉を発した。
「…………」
黒崎は職務上、想定外の事態に動揺を見せない訓練を受けている。
しかし、訓練で想定される不審者の中に、流暢な日本語を話すペンギンは含まれていなかった。
「……今、何と?」
「怒鳴るなって言ったんだよ。耳は悪くねえだろ?」
ボスが不満そうに答える。
黒崎の表情は変わらなかったが、視線だけがわずかに鋭くなった。目の前で起きている現象を理解できなくても、総理を守るという優先順位だけは揺らがない。
三浦は書類を持ったまま動きを止めていた。
高瀬もまた、椅子から立ち上がりかけた姿勢で二人を見つめている。
しばらくして、最初に口を開いたのは三浦だった。
「……黒崎君。状況を確認してもらえますか」
「確認中です。総理、私の後ろから出ないでください」
黒崎は侵入者から目を離さず、通信手段へ手を伸ばした。
当然の対応だった。総理大臣の執務室に正体不明の人物が突然現れた以上、警護担当者が警戒を解く理由はない。
紬はそれを理解していたものの、今すぐにでも研究室へ帰りたくなっていた。
目の前には怖い顔をした警護官。
その向こうには、日本の総理大臣。
テレビでしか見たことのない人物が、ほんの数メートル先にいる。
自分がここへ来たのだと分かっているのに、どうしてこんなことになったのかと考えてしまう。
「……あ、あの……」
紬が声を出しかけると、黒崎の視線がすぐに向いた。
「その場から動かずに、お話しください」
「は、はい……」
そこで言葉が途切れた。
何を言えばいいのか、頭の中が真っ白になってしまったのだ。
その様子を見たボスは、紬の腕の中で軽く身体を起こした。
「悪いな、総理。いきなり邪魔して」
あまりにも気軽な口調だった。
高瀬は、自分に話しかけているのが本当にペンギンなのか確かめるように、数秒間その姿を見つめた。
「……君が、話しているのかね?」
「そうだ。俺だよ、俺」
「腹話術ではなく?」
「俺の口を見りゃ分かるだろ。って言いてえところだが、ペンギンの口じゃ分かりにくいか」
高瀬は返答しなかった。
黒崎は警戒を続け、三浦は何か言おうとしては言葉を選び直している。
この場にいる三人の政府関係者にとって、問題は単に動物が喋ったことだけではない。
厳重な警備の内側に、誰にも気づかれず侵入したという事実がある。
その方法も目的も不明なまま、相手は総理大臣へ直接話しかけているのだ。
「失礼ですが、あなた方はどちらから入られたのですか」
黒崎の問いに、ボスは少し首を傾けた。
「どっからって、俺たちの研究室からだな」
「……研究室?」
「そうだ」
「こちらへは、どのような方法で?」
「瞬間移動だ」
あっさりした答えだった。
黒崎は何も言わず、ボスを見つめた。
「……それは、冗談でしょうか」
「こんなところまで来て冗談言うほど暇じゃねえよ。まあ、俺自身がやったわけじゃねえけどな」
ボスは紬を見上げた。
つられて三人の視線が彼女に集まる。
「……えっ、わ、私?」
「そうだよ。転移させたのは紬だろ」
「そ、それはそうだけど……」
紬は困ったように俯いた。
ただでさえ緊張しているところへ、自分がこの状況を引き起こした張本人だと紹介されてしまったのである。
黒崎は二人のやり取りを注意深く観察していた。
若い女性は怯えているように見える。少なくとも、威圧的な態度で要求を突きつけようとしている様子ではない。
だが、それだけで安全だと判断するわけにはいかなかった。
「お二人の身元と目的を確認させてください。必要な確認が終わるまで、こちらの指示に従っていただきます」
「身元はともかく、目的なら話せるぞ。だから来たんだ」
「まずは安全確認が先です」
「そりゃそうだろうな」
意外にも、ボスは素直に頷いた。
「俺だって、知らねえ奴がいきなり紬の部屋に現れたら警戒する。あんたが仕事してるのは分かるよ」
黒崎はその言葉を聞いても表情を緩めなかったが、返答にわずかな間が生まれた。
高瀬はその様子を見ながら、ひとつのことに気づいていた。
このペンギンは、ただ人間の言葉を真似しているのではない。
相手の立場を理解し、状況に合わせて受け答えをしている。しかも、見知らぬ場所に突然現れたにもかかわらず、警護官の行動を不当だと責めることもない。
少なくとも、会話が成立する相手ではあるらしい。
「黒崎君」
高瀬が声をかけた。
「総理」
「警戒は続けてくれ。ただ、相手の話も聞こう」
「しかし、身元が確認できていません」
「分かっている。だからこそ、何者なのかを確かめる必要がある」
高瀬は黒崎の肩越しに、紬とボスを見た。
自分の執務室に突然現れた二人が、普通の来訪者でないことは明らかだった。ここで感情的に追い返そうとしても、相手がどのような手段を持っているのか分からない以上、状況が改善するとは限らない。
それなら、まず話を聞くべきだ。
総理大臣としての判断だった。
「君たちには、こちらを害する意思がないと考えていいのかな」
「ねえよ」
ボスは即答した。
「だったら、もう少し事情を聞かせてほしい。もちろん、警護上の必要な措置は取らせてもらうがね」
「構わねえよ。こっちもいきなり信用しろなんて言うつもりはねえ」
高瀬は短く頷いた。
黒崎は総理との位置関係を保ちながら、警戒を解かずに立っている。三浦もようやく手元の書類を机へ置き、話を聞く態勢に入った。
ただし、その視線はどうしてもボスへ向かってしまう。
高瀬はそれに気づき、口元にかすかな苦笑を浮かべた。
「……それにしても、私も長く政治に関わってきたが、ペンギンと面会するのは初めてだよ」
「そりゃそうだろ。俺だって総理大臣と会うのは初めてだ」
「お互い初対面というわけだね」
「そういうこった」
場違いなほど自然な会話だった。
紬は腕の中のボスを見下ろした。
この状況で、どうしてそんなふうに話せるのだろう。
彼が堂々としていることは知っていたが、相手が総理大臣になっても、いつもと変わらない調子なのはさすがに予想外だった。
ボスは紬の視線に気づくと、小さく翼を動かした。
「ほら、紬。自己紹介くらいしとこうぜ」
「えっ……あ、うん」
紬は一度だけ高瀬の顔を見て、すぐに視線を落とした。
「……小鳥遊、紬です。二十一歳です。今日は、その……急に来てしまって、すみません……」
声は小さかったが、言葉はきちんと届いた。
高瀬は穏やかに頷く。
「小鳥遊さんだね。私は高瀬だ。君たちの訪問には驚かされたが、まずは落ち着いて話をしよう」
「……はい」
紬の返事を聞いたボスは、満足そうに胸を張った。
「で、俺がボスだ」
「ボス……というのは、名前かね?」
「そうだ。別に組織の親分って意味じゃねえぞ」
「なるほど。では、ボスさんと呼べばいいかな」
「好きに呼んでくれ。俺は総理って呼ばせてもらう」
「構わないよ」
三浦は二人の会話を聞きながら、眼鏡の位置を直した。
目の前の状況を記録するなら、どう表現すればいいのだろう。
総理大臣が、身元不明の女性に抱かれたペンギンと面談中。
事実をそのまま文章にしても、誰かの悪質ないたずらにしか見えない。
「総理、少々よろしいでしょうか」
三浦が控えめに口を挟んだ。
「何だね」
「現状について、最低限の整理が必要かと存じます」
「そうだね。三浦君、お願いするよ」
三浦は紬とボスへ向き直った。
「私は官房長官の三浦誠司と申します。まず確認したいのですが、小鳥遊さんとボスさんは、事前の連絡や面会手続きを経ずに、この部屋へ直接来られたという認識で間違いありませんか」
「おう。そうだな」
「その方法が、先ほどおっしゃった瞬間移動であると」
「そういうことだ」
「……承知しました」
三浦はそこで一度言葉を切った。
承知したとは言ったものの、納得したわけではない。目の前で起きた事実と、それに対する説明の間には、常識では埋められない隔たりがあった。
しかし、否定したところで二人が消えるわけでもない。
今は理解できる情報から順に整理するしかなかった。
「では、もう一点。ボスさんは……その、どうして人間の言葉を話せるのでしょうか」
「話せるように作られたからだな」
「作られた?」
「ああ。俺は紬が作ったんだ」
三浦の手が止まった。
高瀬もまた、先ほどとは違う意味で表情を引き締める。
動物が言葉を話すというだけでも理解しがたいのに、今度はその動物自身が、自分は人間によって作られた存在だと言い出した。
紬は困ったようにボスを見つめた。
「……ボス、そんなに簡単に言っていいの?」
「隠したって仕方ねえだろ。ここまで来たんだから、話せることは話しとこうぜ」
「……うん」
高瀬は二人のやり取りを見てから、慎重に尋ねた。
「小鳥遊さん。彼の言うことは、本当なのかな」
紬は小さく頷いた。
「……はい。私が、作りました」
「生きているペンギンを?」
「……はい」
高瀬はそれ以上、すぐには質問しなかった。
相手の言葉をそのまま受け入れるには、あまりにも常識から外れている。しかし、目の前で起きていることもまた、通常の説明では理解できない。
無理に結論を急ぐべきではないと判断したのだろう。
「分かった。詳しいことは、いずれ確認させてもらいたい」
「おう。そのへんは後でな」
ボスが答えると、三浦は軽く額を押さえた。
「ボスさん、お願いですから、重要な話をもう少し順序立てて説明していただけませんか……」
「悪い悪い。俺もこういう堅苦しい場所には慣れてねえんだ」
「……とてもそうは見えませんが」
「褒め言葉として受け取っとくぜ」
三浦は返事を諦めたように、口を閉じた。
その一方で、高瀬は紬の様子を気にしていた。
ボスは堂々としているが、彼女はずっと緊張したままだ。何かを要求するために強引に押しかけた人物というより、慣れない場所へ無理をしてやって来た若者に見える。
ただし、その印象だけで判断することはできない。
本人に敵意がなくても、持っている力が大きければ、周囲へ及ぼす影響も大きくなる。
高瀬は黒崎へ視線を向けた。
「彼女たちに、今のところ攻撃的な動きはないね」
「はい。ただし、危険性については判断できません」
「それでいい。引き続き注意してくれ」
「承知しました」
高瀬は改めてボスと向き合った。
「さて、ボスさん。君たちが普通ではない方法でここへ来たことは、少なくとも理解した。だが、私が最も知りたいのは、どうやって来たかではない」
「ほう」
「なぜ、ここへ来たのかだ」
ボスの表情が変わった。
先ほどまでの軽口をやめ、紬の腕の中で姿勢を正す。
その変化は小さなものだったが、部屋にいる全員が気づいた。
「そうだな。そろそろ本題に入ろうぜ」
紬もまた、ボスを抱く腕に少しだけ力を込めた。
いよいよ、ここへ来た理由を話す。
これまで研究室で何度も相談してきたことが、ようやく現実の相手へ伝えられるのだ。
「総理。俺たちは、日本政府と協力したいと思ってる」
高瀬は何も言わず、続きを待った。
「俺たちには、普通じゃ考えられねえことができる。さっきの移動だってそうだし、俺がこうして喋ってるのも、そのひとつだ」
ボスはそこで一度、紬を見上げた。
「正確には、できるのは紬だけどな。俺自身に特別な力があるわけじゃねえ」
紬は驚いたようにボスを見た。
彼は普段、自分がどれほど頼りになるかを遠慮なく口にする。それなのに、ここでは能力の持ち主が誰なのかを曖昧にしなかった。
高瀬はその説明を聞きながら、考えを巡らせていた。
もし話が事実なら、目の前の女性は極めて特殊な能力を持っていることになる。
しかも、彼女自身が交渉の中心に立つのではなく、自分の作ったというペンギンに発言を任せている。
奇妙な組み合わせだったが、二人の間には確かな信頼関係があるように見えた。
「君たちの能力が、非常に特殊なものであることは分かった」
高瀬は言った。
「しかし、その力を持っていることと、政府に協力したいということは別の話だ。なぜ、我々に接触しようと考えたのかな」
「理由はいくつかあるが、一番は単純だ」
ボスは少し間を置いてから、答えた。
「俺たちだけで何でもやろうとするより、ちゃんと話を通したほうがいいと思ったんだよ」
三浦が眉を寄せた。
「それは、政府の許可を求めているという意味でしょうか」
「まだそこまで細かい話じゃねえ。俺たちにできることがあるなら、役に立てるかもしれねえだろ。でも、勝手に動いて世の中を引っかき回すのも違うと思ってな」
高瀬は黙って耳を傾けた。
「それに、紬は普通に暮らしたいんだよ。面倒な騒ぎを起こして、毎日誰かに追いかけ回されるような生活は望んでねえ」
「……ボス」
紬が小さく呼ぶと、彼は振り返った。
「何だよ。本当のことだろ?」
「……うん」
紬はそれ以上何も言わなかったが、腕の中のペンギンを少しだけ抱き寄せた。
高瀬は、その様子を注意深く見ていた。
彼女が望んでいるのは、権力でも名誉でもないのかもしれない。
もちろん、短い会話だけで人物の本質を見抜けるわけではない。しかし、少なくともボスの説明は、紬の態度と矛盾していなかった。
「……なるほど。つまり君たちは、我々と争うためではなく、協力するためにここへ来たということだね」
「そういうことだ」
「そして、小鳥遊さん自身は、できるだけ穏やかな生活を続けたいと」
「おう。そこは大事だな」
高瀬は紬へ視線を移した。
「小鳥遊さん。君自身も、同じ考えなのかな」
再び話を振られた紬は、背筋を伸ばした。
ボスに任せていればいいと思っていたものの、自分の意思まで代わりに決めてもらうわけにはいかない。
彼女は少し迷ったあと、顔を上げた。
「……はい。私も、そう思っています」
声は大きくなかった。
けれど、先ほどの自己紹介よりは、はっきりしていた。
「私、あまり人と話すのが得意じゃなくて……こういう場所も、すごく緊張するんですけど……」
途中で言葉を探しながら、紬は続けた。
「でも、できることがあるのに、何もしないのも違うのかなって……。だから、まずはお話しできたらと思いました」
言い終えると、紬はすぐに視線を落とした。
これだけ話すのにも、かなりの勇気が必要だった。
ボスは何も言わず、紬の腕に自分の翼を添えた。
高瀬は彼女の言葉を急かさずに聞いていた。
そして、ゆっくりと頷いた。
「ありがとう。君自身の考えを聞けてよかった」
「……はい」
その短いやり取りを見て、三浦は少しだけ考えを改めた。
最初は、あまりにも非常識な訪問に警戒することしかできなかった。だが、二人は少なくとも話し合いを拒んでいない。むしろ、紬の様子を見る限り、ここへ来るまでに相当な決心が必要だったのではないか。
もちろん、それで警戒を解いてよいわけではない。
ただ、相手の意図を理解することは、これからの対応を考えるうえで欠かせなかった。
「総理」
三浦が声をかける。
「どうしたね」
「現段階では、先方のお話を確認する必要がございます。ただ、協力の申し出ということであれば、まずはその内容を伺うことが適切かと」
「私もそう思う」
高瀬は頷き、改めてボスへ向き直った。
「ボスさん。君たちが協力を申し出てくれたことについては、感謝するよ。ただし、私には国民の安全と国の将来に責任がある。君たちの力がどれほど大きなものなのか分からない以上、慎重に判断しなければならない」
「当然だな」
「その点を理解してもらえるなら、私は君たちの話を聞きたい」
ボスは口元を上げたように見えた。
「話が早くて助かるぜ、総理」
「もっとも、君たちの訪問方法については、後ほど改めて話をさせてもらう必要がありそうだがね」
「……それはまあ、悪かったと思ってる」
「本当にそう思っているのかな?」
「半分くらいは」
「ボス!」
紬が慌てて声を上げる。
高瀬は一瞬だけ意外そうな顔をしたあと、小さく笑った。
三浦は複雑な表情を浮かべ、黒崎だけは警戒した姿勢を崩さなかった。
それでも、部屋に満ちていた緊張は、最初の数分とは明らかに違っていた。
突然現れた侵入者と、それを排除しようとする警護側。
その構図が、少しずつ変わり始めている。
高瀬は机の上の資料を脇へ寄せ、二人へ向き直った。
「さて、ボスさん。改めて聞かせてほしい」
「おう」
「君たちは、日本に対して、どのような協力ができると考えているのかな」
ボスは紬を見上げた。
紬はまだ緊張していたが、先ほどのように帰りたいとは思っていなかった。
高瀬は、自分たちの話を聞こうとしてくれている。
それだけで、ここへ来た意味はあったのかもしれない。
紬が小さく頷くと、ボスは総理大臣へ向き直った。
「よし。それじゃあ、ここからが本当の話だな」
日本政府と、一人の少女と一羽のペンギン。
誰にも知られないまま始まったその対話は、まだ入口に立ったばかりだった。




