第20話 できないことは、たぶんない
翌朝、小鳥遊紬がリビングへ入ると、食卓の上に見覚えのない紙が何枚も広げられていた。
中央には大きな船の絵が描かれている。左右で長さの違う船体から三本の帆柱が伸び、甲板には大砲らしきものが並んでいた。船首には魚の顔が描かれており、船尾にはどういうわけか王冠までついている。
その絵を前に、ボスが自分専用の濃紺の椅子へ堂々と腰掛けていた。
「遅えぞ、紬。会議はもう始まってんだ」
「えっ、会議?」
「昨日言っただろ。船の設計会議だよ」
紬は壁の時計を確認した。まだ朝の八時を少し過ぎたところで、休日の朝としてはむしろ早いくらいだった。
「……ボス、何時から起きてたの?」
「六時だ」
「そんなに早く?」
「船長が寝坊してどうすんだ」
そう答えるボスの隣で、アイリスの立体映像が小さく会釈した。
『おはようございます、マスター。ボス様は六時十二分に起床され、六時二十分から設計図の作成を開始されました』
「アイリスも手伝ってたの?」
『はい。ただし、基本構想についてはボス様ご自身の発案を尊重しております』
紬はもう一度、食卓の図面に目を落とした。
帆の数や大砲の配置はともかく、船首の魚の顔が妙に気になる。口を大きく開けたその魚は、勇ましいというより何かを食べたがっているように見えた。
「この魚は?」
「船の飾りだ。強そうだろ」
「う、うん。個性的だね」
「だろ? 俺もそう思う」
ボスは満足げに頷いた。
紬は椅子を引き、彼の向かいに座った。昨夜までの食卓にはなかった鉛筆や定規がきちんと並べられており、図面の端には小さな足跡のような汚れもついている。
どうやら本当に、朝から一生懸命考えていたらしい。
「それで、今日は船を作るの?」
「いや、まずは設計だ。いい船ってのは、ちゃんと考えてから作るもんだからな」
「……ボスがそれを言うんだ」
「何か文句あんのか?」
「ないよ。ちょっと感心しただけ」
紬が笑うと、ボスはますます得意そうに胸を張った。
『なお、現時点では船体の大きさが確定しておりません。ボス様からは「とにかくでかいもの」とのご希望をいただいておりますが、比較対象が必要です』
「大きさかあ。どれくらいがいいんだろう」
「俺の部屋は広くしろよ。あと、魚を保存する場所もいる」
「それは昨日も聞いたよ」
「大事なことは何度でも言うんだ」
紬は図面を見ながら、船内に必要なものを考えた。
ボスの部屋、紬の部屋、そしてアイリスの部屋。操舵室や食堂、展望できる甲板も欲しい。海へ出るなら、雨や波への備えも必要になるだろう。
もっとも、自然環境実験区画の海には、まだ大きな船を浮かべたことがない。船を完成させる前に、どのような航海を楽しみたいのかを決めたほうがよさそうだった。
「ねえ、ボス。前に作った海、覚えてる?」
「忘れるわけねえだろ。あそこで泳いだじゃねえか」
「うん。あそこなら船を浮かべられると思うんだけど、どこに行きたい?」
「そりゃ、まだ行ってねえ大陸だろ」
即答だった。
「前に遠くの方に見えてたやつだ。あそこを探検するんだよ」
「なるほど……」
紬は頷いた。
海も大陸も、すでに存在している。ただ、あの区画は作った直後に環境の安定性を確認しただけで、その後はアイリスに継続観測を任せていた。
船を浮かべるのであれば、まずは現在の状態を確かめておきたい。
「アイリス、あの区画の観測結果ってどうなってる?」
『長期観測データは蓄積されています。海流、大気循環、降水量、地形の変化などについて、確認していただきたい事項がいくつかございます』
「問題が起きてるの?」
『直ちに危険と判断される異常はありません。ただし、長期間にわたって安定した環境を維持するためには、いくつかの条件を見直すことが望ましい状態です』
紬は少し考え、図面を丁寧にまとめた。
「じゃあ、先にそっちを見に行こうか。船を作るのは、それからでも遅くないし」
「おう。ついでに海も見られるんだろ?」
「うん」
「だったら文句ねえな」
ボスは椅子から飛び降り、紬の足元までやってきた。
「ほら、連れてけ」
「はいはい」
「返事は一回でいい」
「今のは一回だよ?」
『ボス様。ご自身の発言にも同様の基準を適用されるのでしょうか』
「アイリス、お前は余計なこと言わなくていいんだよ!」
朝から賑やかな二人のやり取りを聞きながら、紬はボスを抱き上げた。
以前なら、こんなふうに誰かと予定を相談し、思いつきで行き先を変えることさえ苦手だったかもしれない。
けれど今は、面倒なことを面倒だと思わずに済んでいる。
それどころか、これから何が起こるのか、少し楽しみだった。
紬は行き先を思い浮かべた。
次の瞬間、三人は秘密基地の研究室に立っていた。
研究室の壁面には、自然環境実験区画へ続く入口が設けられている。以前に創造した広大な海と大陸は、その向こうで今も存在し続けていた。
紬はボスを抱いたまま、アイリスが表示した観測資料に目を通した。
巨大な立体地図の上を雲が流れ、海面の色がわずかに変化する。大陸の内陸部には乾燥した地域があり、山脈の周辺には降水量の多い地域が広がっていた。
それらは、創造したときに大まかな環境を定めた結果として生じているものだった。
『現在の観測結果です。大気と水の循環は成立していますが、地域ごとの降水量に偏りが見られます。また、一部の河川では土砂の移動が進み、流路に変化が生じています』
「……ちゃんと時間が経ってるんだね」
『はい。環境は固定された模型ではなく、設定された条件に従って変化を続けています』
紬は立体地図を拡大した。
山から流れ出た水が谷を削り、平野を通って海へ注いでいる。海流は大陸の形に影響され、風の流れとともに各地の気候を変えていた。
作ったときには、そこまで細かく意識していなかった変化だった。
「へえ……」
ボスが紬の腕の中から地図を覗き込んだ。
「これ、全部あの場所なのか?」
「うん。前に作ったところだよ」
「でっけえなあ」
「ボスも見たでしょ?」
「海からじゃ全部見えねえだろ。俺はまだ一つも大陸を探検してねえんだぞ」
確かに、そのとおりだった。
紬にとっては自分で作った場所でも、ボスにとってはまだ知らない土地が広がっている。地図を眺めるだけでは、そこにどんな景色があるのかも分からない。
彼が船を欲しがる理由を、紬は少しだけ理解できた気がした。
「アイリス、このまま何もしなかったら、どうなるの?」
『現時点では、直ちに環境全体が破綻する兆候はありません。ただし、地形や気候は変化を続けます。長期的な予測には不確定要素が多く、現状の観測だけで将来の安定性を保証することはできません』
「そっか……」
紬は地図の上を指でなぞった。
環境が変化すること自体は、必ずしも悪いことではない。現実の地球でも、雨が降れば川の水量が変わり、長い年月をかけて地形が変わっていく。
問題は、その変化が望ましくない方向へ進んだとき、どう対処するかだった。
「じゃあ、ずっと観測して、必要なときに私が直せばいいのかな」
『それも一つの方法です。ただし、マスターが直接対応することを前提とした場合、対応できない時間帯が生じる可能性があります』
「私が寝てるときとか?」
『はい。また、マスターが別のことに集中されている場合も同様です』
紬は小さく頷いた。
今までもアイリスは観測を続けてくれていた。しかし、環境そのものに手を加える必要がある場合、最終的には紬の判断と能力が必要になる。
それなら、いっそのこと自動で調整できるようにすればいいのではないか。
そう考えたところで、紬は首を傾げた。
「……あれ?」
『どうされましたか?』
「アイリス、私って、何かを作った後も、その状態をずっと維持できるよね?」
『はい。創造された対象は、マスターが継続して意識されなくても存在し続けています』
「じゃあ、状態を維持するだけじゃなくて……条件に合わせて変わるようにもできるのかな」
アイリスが立体地図の表示を一時停止した。
『具体的には、どのような動作を想定されていますか?』
「例えば、川の水が増えすぎたら、安全な範囲に収まるように調整するとか。逆に、雨が少なすぎる地域では、周りの環境に無理が出ないように雨を降らせるとか」
『環境の変化を検知し、あらかじめ定めた条件に基づいて調整する仕組みですね』
「うん。でも、それだと普通の自動制御とあんまり変わらないか……」
紬は考え込んだ。
高度な装置を作ることはできる。観測設備も、環境を調整する設備も、必要ならいくらでも用意できるだろう。
しかし、そうしたものを一つずつ作る必要があるのだろうか。
そもそも、自分が何かを創造するとき、完成した物の内部構造を最初から最後まで考えているわけではない。
それなのに、作ったものについては自然と理解できる。
ならば、創造する対象は物でなくてもいいのではないか。
「……アイリス」
『はい、マスター』
「私がやりたいのって、装置を作ることじゃないんだよね」
紬は立体地図に視線を戻した。
「この場所が、ちゃんと続いていくようにしたいの。私が見ていなくても、必要な変化が起きて、でも大きな問題があったら勝手に決めないで教えてくれるような……そういう仕組みそのものを作れないかな」
言葉にしてみると、考えていたことがはっきりした。
個々の問題を解決するための道具ではなく、問題が起きたときに適切な対応を選ぶための仕組み。
それを、創造する。
『実現できる可能性はあります。ただし、重要な確認事項がございます』
「なに?」
『何を問題と判断するか、誰の意思を優先するか、どこまで自動で変更してよいか。その条件が不明確なままでは、マスターの意図しない結果が生じるおそれがあります』
紬は納得した。
ただ「環境を良くする」と指定するだけでは、何をもって良いとするのか分からない。
例えば、海岸の地形が変わることを防ぐために、すべての波を止めてしまったらどうだろう。川の氾濫をなくすために、水の流れそのものを弱くしてしまうかもしれない。
それでは、せっかく作った自然環境が、変化のない模型になってしまう。
「じゃあ、まずは私たちが安全に利用できること。それから、自然な変化はできるだけ残すこと。大きな問題が起きそうなときだけ、被害を防ぐために必要な範囲で調整する……かな」
『その方針であれば、管理対象と許容範囲を整理できます。なお、本格的な生態系を導入する場合には、別途検討が必要です』
「うん。生き物については、まだ決めないでおこう」
紬は一度、目を閉じた。
頭の中に、自然環境実験区画の全体像が浮かぶ。
海と大陸、山と川、空を流れる雲。それぞれが互いに影響し合いながら、絶えず変化している。
そこへ、ひとつの条件を重ねた。
この環境が持つ自然な変化を尊重しながら、安全性を保つこと。小さな変動には必要以上に干渉せず、重大な問題が予測された場合には、まずアイリスへ知らせること。
そして、許可された範囲の調整については、紬が意識していなくても実行できること。
複雑な機械を組み立てる感覚はなかった。
何かが爆発的に生まれたわけでも、研究室の設備が光を放ったわけでもない。
ただ、自分の中で定めた条件が、自然環境実験区画の一部として成立したことが分かった。
「……できた」
『確認します』
アイリスの周囲に複数の情報画面が現れた。
立体地図の一部で、降水量の予測が変化する。海流や気圧の変化も、それに応じてわずかに調整されていた。
『管理条件の反映を確認しました。現在、許可された範囲内で環境調整が行われています』
「本当に、私が何もしなくても?」
『はい。マスターが直接操作されなくても、設定された条件に従って動作しています』
紬はしばらく、画面を眺めていた。
何かを作ること自体には、もう慣れている。
けれど、今までとは少し違った。
目の前に新しい物が増えたわけではない。それなのに、確かに自分の力が働き続けている。
「……すごい」
紬が呟くと、ボスが首を傾げた。
「何がすげえんだ? 海はさっきと変わってねえぞ」
「えっとね。私がずっと見てなくても、あの場所を安全に保てるようになったの」
「それって、アイリスがやってたのと違うのか?」
「アイリスは観測して、問題があったら教えてくれてたでしょ? でも、今度は私の力そのものが、決めた条件に合わせて働くようになったの」
「ふうん……」
ボスは少し考え、それから言った。
「つまり、お前が寝てても大丈夫ってことか?」
「うん。そういうこと」
「だったら最初からそう言えよ」
紬は笑ってしまった。
確かに、説明としてはそのほうがずっと分かりやすい。
けれど、ボスの言葉を聞いて、もうひとつ気づいたことがあった。
眠っている間も働くのなら、ひとつだけでなく、いくつもの条件を同時に成立させることもできるのではないだろうか。
「アイリス。今の仕組みって、別の場所にも使えるかな」
『理論上は可能と考えられます。ただし、対象ごとに適切な条件を設定する必要があります』
「じゃあ……ちょっと試してみたい」
紬は研究室を見渡した。
以前に作った実験設備、収納空間、各種の観測装置。どれも便利ではあるものの、使い方によっては危険が生じる可能性がある。
例えば、実験中に誰かが誤って危険な場所へ入ろうとしたら。あるいは、装置が想定外の動きを始めたら。
これまでも安全対策は施していたが、状況に応じた判断まで紬自身の力に任せることができれば、より柔軟な対応が可能になる。
「研究室では、危険なことが起きそうになったら、まず事故を防ぐこと。ただし、実験の邪魔になるような小さな変化には反応しない。あと、アイリスが必要な情報を確認できるようにして……」
紬は条件を一つずつ整理した。
無制限に安全を優先すれば、実験そのものができなくなるかもしれない。反対に、実験の自由を優先しすぎれば、危険な状況を見逃してしまう。
だから、判断の基準を決める。
人や生命に重大な危険が及ぶ場合には、実験の継続より安全を優先する。それ以外は、紬とアイリスが定めた条件に従って必要最小限の介入にとどめる。
そうした内容を思い描くと、研究室全体に新しい仕組みが組み込まれた。
『安全管理条件の反映を確認しました』
「じゃあ、確認してみようかな」
紬は作業台の上に小さな金属片を置いた。
それを加速させ、壁へ衝突する直前で停止させる。以前なら、衝撃を防ぐ装置を用意したり、紬自身が直接操作したりしていた実験だった。
今回は、危険を防ぐための装置を新しく作らない。
金属片が勢いよく動き出した瞬間、周囲の状況が自動的に判断され、壁へ衝突する前に速度が落ちた。
金属片は何事もなかったように作業台の上へ戻る。
「……あ、止まった」
『はい。設定された安全条件に従い、必要な範囲で運動状態が調整されました』
「これ、私が止めたわけじゃないんだよね」
『マスターが創造された仕組みによる動作です。今回の停止に、マスターによる個別の操作は必要ありませんでした』
紬は少しだけ興奮した。
今までは、何かをしたいと思うたびに、その結果を直接生み出していた。
しかし、今なら違う。
一度条件を定めれば、必要なときに必要なことが起きる。
それは、単に便利な装置を増やすこととは、まったく違う可能性を持っていた。
「じゃあ、同時にいくつか動かしても大丈夫なのかな」
『現時点で、明確な処理数の上限は確認されていません。ただし、対象が増えるほど条件間の矛盾を避けることが重要になります』
「そっか。じゃあ、少しずつ確認しよう」
紬は研究室の複数の作業台を使い、それぞれ異なる動きをする物体を用意した。
ある場所では球が一定の軌道を描いて回り、別の場所では細い棒が規則的に上下する。さらに離れた位置では、容器に入った水が一定の温度を保つように調整されていた。
どれも特別に珍しい現象ではない。
しかし、紬はそれらをひとつずつ操作しているわけではなかった。
それぞれに与えた条件が独立して働き、必要に応じて状態を変化させている。
紬が目を閉じても、動きは止まらない。
アイリスと会話をしていても、別の作業台では水温が保たれ、球は軌道を外れずに回り続けていた。
「……これ、すごく便利かもしれない」
『はい。マスターがすべての対象を常時意識する必要がなくなります』
「それに、私がいちいち考えなくてもいいんだよね」
『ただし、判断の基準はマスターが設定する必要があります。また、設定内容に問題があれば、その問題を含んだまま動作する可能性があります』
紬は頷いた。
万能の仕組みができたわけではない。
何をさせるのか、どこまで任せるのか。それを考える責任は、依然として自分にある。
けれど、少なくとも、できることの幅がまた大きく広がったのは確かだった。
「おい、紬」
ボスが足元から声をかけた。
「なんか難しいことやってるけどよ。結局、何が変わったんだ?」
「えっと……私が何かをしたいと思ったとき、ずっと自分で操作しなくてもよくなったの」
「ほう」
「例えば、船が沈まないようにしたいなら、船そのものにそういう条件を持たせられるかもしれないし、航海中に危険があったら、自動で安全を確保することもできると思う」
ボスの目が輝いた。
「じゃあ、俺の船は絶対に沈まねえのか!」
「そういう設計を目指せると思う。でも、どんな状況でも絶対に大丈夫かどうかは、ちゃんと確認しないとね」
「なんだ、まだ分かんねえのか」
「うん。そこは大事だから」
ボスは少し不満そうに嘴を尖らせたが、すぐに別のことを思いついたらしい。
「じゃあ、魚がなくならねえ船も作れるか?」
「魚を保存する仕組みなら作れると思うよ。でも、食べ物が勝手に増え続けるようにするのは、ちょっと考えないと」
「なんでだよ」
「だって、ボスが食べきれないくらい増えたら困るでしょ?」
「食いきれねえ魚なんてあるわけねえだろ」
『ボス様。船内の保管容量には限界がございます』
「だったら保管場所も増やせ!」
『船体の大部分が魚の保管施設となる可能性があります』
「それの何が悪いんだよ」
紬は二人のやり取りを聞きながら、肩を揺らした。
どれほど高度な能力を使えるようになっても、ボスの望みは相変わらず分かりやすい。
大きな船に乗って、まだ見ぬ大陸を探検し、おいしい魚をたくさん食べたい。
そんな願いを叶えるために、自分の力を使うのも悪くないと思った。
「ねえ、ボス」
「あ?」
「船のこと、もう少しちゃんと考えようか。安全な船にする方法は分かってきたし、あとはボスがどんな船に乗りたいかだと思う」
「おう! やっと本題に戻ったな!」
『ボス様。先ほどまでの研究も、船の安全性に関わる重要な内容でした』
「分かってるよ。だから待ってたんだろ」
ボスは当然のように言った。
紬は彼を見つめ、少しだけ目を細めた。
朝から早起きして図面を描き、研究室へ来てからも退屈そうにしながら待っていてくれた。
口では好き勝手なことを言っているけれど、ボスなりに紬のやりたいことを尊重してくれているのだろう。
「……ありがと、ボス」
「何がだ?」
「ううん。何でもない」
「変なやつだな」
ボスはそう言って、紬の足に体を寄せた。
紬がしゃがんで抱き上げると、彼はすぐに腕の中へ収まった。
体重はわずか一・五キログラム。小さくて、丸くて、温かい。
その重みを感じながら、紬は研究室の画面へ視線を向けた。
そこには、自然環境実験区画の観測結果が表示されている。
広大な海も、複数の大陸も、今この瞬間に存在し続けている。紬が直接見ていなくても、環境は変化し、必要な範囲で新しい管理条件が働いている。
研究室の安全機構も、同じように機能していた。
これまでは、自分の能力を使うたびに、ひとつの結果を生み出していた。
けれど今は、望んだ結果を生み出すための仕組みそのものを成立させられる。
それなら、これから先はどうなるのだろう。
紬はふと、そんなことを考えた。
必要なものを作り、必要な場所へ移動し、危険を防ぎ、壊れたものを元に戻す。そうしたことを、それぞれ独立した仕組みとして成立させられるなら、自分が直接操作しなければならない場面は、さらに少なくなるかもしれない。
ただし、それは自分が何もしなくてよくなるという意味ではなかった。
何を望むのか。
誰のために使うのか。
どこまでを許し、どこからは自分で判断するのか。
そうしたことを考える必要は、むしろ今まで以上に大きくなる。
「アイリス」
『はい、マスター』
「私の力って、もしかしたら……本当に、できないことがほとんどないのかもしれないね」
『現時点で、能力の明確な限界は確認されておりません。ただし、あらゆる事象が実現可能であると証明されたわけではありません』
「うん。それは分かってる」
紬は微笑んだ。
「でも、前よりずっと、いろんなことができる気がする」
『それは確かだと思います。今回の発見によって、能力の運用方法は大きく拡張されました』
紬はボスの背中を撫でた。
自分が手に入れた力は、どこまで広がっていくのだろう。
少し前なら、そんなことを考えるだけで胸が高鳴っていた。
今も、好奇心がなくなったわけではない。
ただ、以前とは少し違う気持ちがあった。
できることが増えたからといって、すべてを自分の思いどおりにしたいわけではない。
ボスにはボスの考えがあり、アイリスにはアイリスの願いがある。自分が作った存在だからといって、その意思まで決めてしまいたくはなかった。
そして、外の世界にも、数えきれないほどの人が暮らしている。
もし、いつか自分の力を誰かのために使うことがあったとしても、その人たちの意思を無視するようなことはしたくない。
紬はそんなことを考えながら、ボスの頭をそっと撫でた。
「なあ、紬」
「なに?」
「お前、また考え事してんだろ」
「……分かる?」
「分かるに決まってんだろ。お前、そういうとき黙るからな」
ボスは少しだけ体を起こし、紬の顔を見上げた。
「何でもできるようになったんなら、そんな難しい顔しなくてもいいじゃねえか」
「でも、何でもできるからこそ、ちゃんと考えないといけないこともあると思うんだ」
「そりゃそうだろ」
意外なほどあっさりとした返事だった。
紬が目を瞬かせると、ボスは続けた。
「船だって、何でもできるからって適当に作ったらつまんねえだろ。どんな船にするか考えるから面白えんじゃねえか」
「……うん」
「それに、お前が全部決める必要もねえだろ。俺の船のことは俺が決めるし、アイリスのことはアイリスが決めりゃいい。お前はお前のやりたいことを考えろよ」
紬はしばらく言葉を返せなかった。
難しい理屈ではない。
けれど、ボスの言葉は不思議なくらい自然に胸へ入ってきた。
「……そうだね」
「だろ?」
「うん。ありがと」
ボスは満足そうに頷き、紬の腕の中で体勢を変えた。
「だったら、まずは船だな」
「やっぱりそこに戻るんだ」
「当たり前だろ。俺は朝からずっとその話してんだぞ」
『マスター。設計会議を再開されますか?』
アイリスの問いに、紬は笑って頷いた。
「うん。今日はちゃんと、三人で考えよう」
紬は研究室の作業台を会議用に整え、朝の図面を手元へ呼び寄せた。
紙には相変わらず、大きな魚の顔をした船首が描かれている。ボスが何度も修正した跡があり、ところどころ鉛筆の線が濃くなっていた。
紬はその図面を見て、すぐに完成品を作るのはやめようと思った。
今なら、頭の中で完成した船を思い描くだけで、必要な設備を備えたものを生み出せるだろう。
けれど、それではボスが朝から考えた時間が、あまりにももったいない。
「まず、船の大きさから決めようか」
「おう。でっかいやつだ」
「どれくらい?」
「大陸が見えるくらい高いところがあって、海の上を速く走れて、魚がいっぱい入るやつだ」
『それぞれ異なる条件ですので、順番に整理しましょう』
「分かったよ。じゃあ、まずは俺の部屋だ」
「そこから?」
「船長の部屋が決まらねえと始まらねえだろ」
アイリスが新しい図面を表示し、ボスが翼を伸ばして自分の希望を伝える。
紬はそれを聞きながら、必要な部分を書き加えていった。
船体の大きさも、形も、まだ決まっていない。
けれど、これから作る船が、きっと楽しいものになるという予感だけはあった。
何でもできる力を持っているのに、たった一隻の船を作るために、三人であれこれ悩んでいる。
そのことが、紬にはたまらなく嬉しかった。
研究室の壁面では、自然環境実験区画の観測が続いていた。
広大な海では波が動き、遠くの大陸では雲が流れている。新しく設定した管理条件は、紬が図面に向き合っている間も、必要な範囲で働き続けていた。
紬はもう、それを一つずつ意識する必要がない。
できないことは、たぶんない。
そう思えるほどの力を手に入れた今、彼女が一番真剣に考えているのは、ボスの船長室にどんな椅子を置くかという問題だった。
「なあ、紬。この椅子、王冠つけられるか?」
「椅子に?」
「そうだ。船長の椅子なんだからな」
『ボス様。ご自宅の椅子にも王冠の装飾をご希望されますか?』
「いや、あっちはあっちで完成してんだ。船には船の格好よさってもんがあるだろ」
「ふふっ。そっか」
紬は鉛筆を手に取り、図面の端へ小さな王冠を描き足した。
自分の力に、どこまでの可能性があるのか。
その答えは、まだ分からない。
けれど、今はそれでよかった。
分からないことがあるなら、これから考えればいい。
作りたいものがあるなら、三人で相談すればいい。
そして、もし自分一人では決められないことがあったなら、誰かに話を聞いてもらえばいいのだ。
紬はボスとアイリスの声を聞きながら、船の図面に新しい線を引いた。
その手つきには、もう以前のような迷いはなかった。




