第19話 世界でいちばん快適な家
リビングに戻ったボスは、紬の腕から降りるなり、部屋の隅に置かれた紙の家へ駆け寄った。
白い厚紙で作った壁には色紙の窓が並び、玄関の上にはボス自身が選んだ金色の星が貼られている。屋根の片側が浮いてしまっていることを除けば、先日完成させたときとほとんど変わらない。もっとも、住人になる予定のペンギンは身長四十センチほどあるため、実際に中へ入るには少々窮屈な造りだった。
「よし。修理を始めるぞ!」
ボスは翼を腰に当て、建築現場の監督のように胸を張った。
「監督さん、まずは接着剤を用意しないと」
「おう。頼んだ」
「監督は何もしないんだね……」
「俺は全体を見る仕事だからな」
紬が笑いながらローテーブルの前に座ると、アイリスが天井の照明を調整した。紙の家に影が落ちないよう、作業台代わりのテーブルだけが少し明るくなる。
「マスター、接着剤の種類はいかがなさいますか。紙に適した水性のもの、乾燥時間を短縮したもの、接合部分の強度を高めたものなどが考えられます」
「普通の工作用でいいかな。乾くまで少し待つくらいのほうが、作ってる感じがするし」
「承知しました」
紬は掌の上に、小さな白い容器を作り出した。細いノズルのついた、ごくありふれた工作用接着剤だ。能力を使えば屋根を完全に固定することなど一瞬でできるのに、わざわざ手作業で貼り直そうとしている自分が、少しおかしかった。
浮いていた屋根を持ち上げ、接合部分に薄く接着剤を塗る。ボスは反対側から屋根を押さえようとしたものの、翼では細かな力加減が難しいらしく、最初の一押しで家全体を横へ滑らせてしまった。
「おっと」
「ボス、もうちょっと優しくね」
「わかってる。今のは建物の強度試験だ」
「修理する前に壊さないでよ」
紬が位置を直すと、今度はボスも慎重に翼を添えた。二人でしばらく屋根を押さえていると、アイリスが乾燥の進み具合を知らせてくれる。
「接着部分は安定しました。通常の取り扱いであれば問題ない状態です」
「完成だな!」
ボスが勢いよく翼を上げたので、紬は慌てて紙の家を支えた。
「もう少し乾かしてから遊ぼうね」
「仕方ねえな。新築祝いは後回しだ」
「修理だから、新築じゃないよ」
「細けえことはいいんだよ」
紬は接着剤の容器を片づけ、改めて室内を見渡した。
自分が暮らしているこの家は、能力を手に入れる前とは比べものにならないほど便利になっている。料理も掃除も洗濯も、必要なときには自動で済ませられる。室温は常に快適で、照明は生活に合わせて変化し、秘密基地には普通の住宅では考えられないほど広大な設備が存在していた。
それなのに、今こうして紙の家を修理している時間のほうが、何でも自動で片づくことより楽しく感じられる。
「……ねえ、アイリス」
「はい、マスター」
「この家って、もう十分便利だと思う?」
「一般的な住宅と比較した場合、生活支援機能は極めて充実しています。ただし、改善の余地がないとは申し上げられません」
「やっぱり、そうだよね」
紬はソファの背もたれに視線を移した。
昨日、ボスを抱いたまま眠っていた場所だ。柔らかくて座り心地もいいけれど、横になると腕の置き場に困ることがある。ボスが胸元に乗ってくると、落とさないように姿勢を保たなければならず、眠っている間に身体が固まってしまうこともあった。
そう考えると、気になることはいくつも見つかる。
「今日は、家をもっと快適にしてみようかな」
「ほう?」
ボスが振り返った。
「今でも十分すげえ家だろ。何を増やすんだ?」
「増やすっていうより、暮らしやすくするの。例えば、あのソファ」
紬が指さすと、ボスは得意げに頷いた。
「あれはいいぞ。寝心地がいい」
「でも、ボスと一緒に寝ると、ちょっと狭いんだよね」
「やっぱり狭くなってたんじゃねえか!」
「ボスが大きくなったわけじゃないからね」
「俺はまだ成長期かもしれねえだろ」
人工生命体であるボスに通常のペンギンと同じ成長過程があるのかどうか、紬は確かめたことがない。ただ、少なくとも創造してから今まで、身長も体重も大きく変わってはいなかった。
「じゃあ、ボスが成長しても困らないようにしようか」
「おう。将来はでっかい船長になる予定だからな」
「身体が大きくなることと、船長になることは関係ないと思いますが」
アイリスの指摘を聞き流し、ボスはソファへ飛び乗った。
紬はその隣に腰を下ろし、背もたれへ身体を預けた。今まで使っていたソファは、柔らかさを優先したために、長時間同じ姿勢でいると腰が少し沈みすぎる。そこで内部の支持構造を調整し、座る人の体格と姿勢に合わせて圧力が分散するようにした。
見た目にはほとんど変化がない。しかし、座り直した瞬間、身体を支える感覚が明らかに違っていた。
「あ……これ、いいかも」
「何が変わったんだ?」
「座ってみて」
ボスは隣で腹ばいになり、翼を左右へ広げた。
「おお。なんか、ふわっとしてるな」
「沈みすぎないようにしてあるの。横になると、また形が変わるよ」
紬が身体を倒すと、座面が自然に広がった。肘掛けの位置も変わり、横になった紬の腕を支える部分が現れる。ボスが胸元へ移動すると、その周囲だけがわずかに柔らかくなり、小さな身体が転がり落ちないようになった。
「おい、こいつ動くぞ!」
「身体に合わせて形が変わるようにしたんだ」
「じゃあ、俺が寝返り打っても落ちねえのか?」
「うん。無理に押さえつけたりしないで、安全な範囲で支えてくれるよ」
ボスはさっそく横向きになり、反対側へ転がり、最後には腹を上にして寝そべった。そのたびに座面が形を変えるため、本人はすっかり面白くなったらしい。
「すげえな。これなら船の寝床にも使えるぞ」
「海賊船の設備が、またひとつ増えたね」
「当然だ。船長の睡眠は大事だからな」
紬はボスの腹を撫でながら、ソファの調整を続けた。眠っている間に身体へ負担がかからないこと、起き上がりたいときには邪魔をしないこと、座って本を読むときには背筋を自然に支えること。細かな条件を加えるたび、家具の内部構造が変化していく。
完成したソファは、外から見れば以前と同じ、落ち着いた色合いの家具だった。
けれど、その座り心地は、紬がこれまで知っていたどんなソファとも違っていた。
「マスター、ひとつ確認してもよろしいでしょうか」
「うん?」
「この機能を、ほかの家具にも適用されますか?」
「そうだね。ベッドとか、椅子とか……あ、でも全部が勝手に動くのは嫌かも」
「理由をお聞かせください」
「なんとなく、落ち着かない気がするの。自分で動かしたいときもあるし」
アイリスは少し考えた。
「では、使用者が明確に望んだ場合のみ形状を変える設定とし、通常は安定した状態を維持するのはいかがでしょう」
「それがいいな」
「俺の椅子は動いていいぞ」
ボスが自分の専用椅子を指さした。
「どんなふうに?」
「座ったら、偉そうになるやつ」
紬は首を傾げた。
「偉そう……?」
「王様の椅子みたいにな。背もたれがでっかくて、肘掛けが立派で、座ったら『おお、船長様』って感じになるやつだ」
「ボス様のご要望は、座り心地ではなく演出面の改善と理解しました」
「そうだ。わかってんじゃねえか」
アイリスが映像でいくつかの椅子を表示すると、ボスは真剣な顔で比較を始めた。赤い布張りの豪華な椅子、木彫りの装飾がついたもの、金色の縁取りがあるもの。最後に選んだのは、意外にも落ち着いた濃紺の椅子だった。
「これだな。派手すぎると品がねえ」
「さっき金色の椅子を気に入ってなかった?」
「あれはちょっと金が多すぎた」
紬はボスの専用椅子を、選ばれた形に変えた。背もたれは少し高くなったが、四十センチの身体に合わせて座面の高さを調整してある。翼を置く場所も広く、座ると身体が自然に安定する。
ボスは椅子へ移動し、満足げに腰を下ろした。
「うむ。苦しゅうない」
「船長じゃなくて王様になってるよ」
「兼任だ」
「お忙しいですね、ボス様」
「まあな」
アイリスが椅子の周囲に一瞬だけ金色の光を散らすと、ボスはたいそう気に入ったらしく、もう一度同じ演出を要求した。
紬は笑いながら、その光を必要なときだけ出せるようにした。常にきらきらしていては落ち着かないし、何より食事中に目が疲れてしまいそうだった。
ひとつ手を加えると、ほかにも気になるところが出てくる。
紬は立ち上がり、リビングの窓へ近づいた。
外はよく晴れていた。窓から差し込む日差しは気持ちがよかったが、時間帯によっては眩しく感じることもある。これまではカーテンや照明で調整していたものの、せっかくなら自然な明るさを保ちながら、眩しさだけを抑えられないだろうか。
紬は窓ガラスの構造を変えた。
透明度を維持したまま、強すぎる光や熱の入り方を調整する仕組みを加える。外の景色はそのまま見え、室内の温度も変わらない。ただ、目を細めたくなるような光だけが和らいだ。
「おお。眩しくなくなったな」
椅子から降りてきたボスが、窓際に立った。
「これなら昼寝の邪魔にならねえ」
「夜はちゃんと暗くなるようにするよ。外の明るさがわからなくなるのは、ちょっと嫌だから」
「自然な昼夜の変化を残しつつ、室内環境を調整する方針ですね」
「うん。便利にしすぎて、外の季節までわからなくなるのは寂しいし」
紬は窓を開けてみた。
風が室内へ流れ込み、カーテンの裾が揺れる。空気の入れ替えは自動で行えるが、こうして窓を開けたときの感覚は残しておきたかった。
アイリスが外気の状態を確認し、室内の環境制御を一時的に調整する。
「現在の外気は快適な範囲です。自然換気を優先しても問題ありません」
「じゃあ、しばらく開けておこうかな」
「俺は風があるほうが好きだぞ」
ボスが胸の羽毛を揺らしながら言った。
「海の風みてえで気持ちいい」
「今度、秘密基地の海にも行こうね」
「おう。船も作らなきゃいけねえしな」
紬は頷いた。
大きな海を作ったとき、そこには波も風も、遠くまで続く空も用意した。けれど、あの場所はまだ、完成した世界というより、これから何を置こうか考えている広大な庭に近い。
ボスの海賊船を浮かべるなら、港も必要になるだろう。船を造る場所、魚を食べながら休める場所、アイリスがいつか身体を持ったときに一緒に歩ける海岸。
考え始めると、作りたいものが次々と増えていった。
「……あれ?」
紬は窓の前で、ふと動きを止めた。
「どうしましたか、マスター」
「家を快適にするって、どこまでが家なんだろうって思って」
「定義によります。建物本体に限定することも、敷地や生活に利用する空間全体を含めることも可能です」
「秘密基地も、海も、私たちの家みたいなものだよね」
「生活圏という意味では、その認識で差し支えありません」
紬は窓の外を眺めた。
自分の部屋だけが快適なら、それで十分だと思っていた時期もある。けれど、ボスが生まれ、アイリスが加わり、三人で過ごす場所が増えるにつれて、家という言葉の意味も少しずつ変わっていた。
それぞれが好きなことをできて、疲れたら帰ってこられる場所。
そういう家を作れたら、きっと素敵だと思う。
「アイリス。ちょっと相談してもいい?」
「はい」
「この家の中で、ボスと私がそれぞれ好きなことをしてても、ちゃんと一緒に暮らしてるって感じられるようにできないかな」
言ってから、紬は自分でも曖昧な説明だと思った。
けれど、アイリスはすぐに答えを出そうとはしなかった。
「具体的には、どのような場面を想定されていますか?」
「例えば、私が本を読んでるときに、ボスが遊びたいこともあるでしょ。でも、ずっと相手をしてると本が読めないし、だからって別の部屋に行ってもらうのも寂しいし……」
「俺は一人でも遊べるぞ」
ボスが口を挟んだ。
「うん、知ってる。でも、近くにいたいときもあるかなって」
「そりゃ、あるな」
ボスはあっさり認めた。
「紬が何かやってる横で、俺は俺のことやってりゃいいんだよ。たまに話しかけるくらいでな」
「そう、それ」
紬は嬉しくなって頷いた。
「同じ場所にいるけど、お互い邪魔にならない感じ」
「では、リビングの一部を可変式の共有空間として整備する案はいかがでしょう」
アイリスが室内に立体映像を映した。
今のリビングを基準に、家具の配置を変えた案がいくつか現れる。大きなテーブルを中心にしたもの、ソファを囲むもの、窓際に小さな作業場所を設けたもの。どれも便利そうだったが、紬はひとつずつ眺めながら、少しずつ好みを伝えていった。
「テーブルは、あんまり大きくなくていいかな。工作するときだけ広がるようにしたい」
「承知しました」
「ボスが遊ぶ場所は、私の座るところから見えるほうがいいな」
「俺の遊び場、広いほうがいいぞ」
「わかってるよ」
「あと、魚を食う場所も必要だ」
「それは食卓でいいんじゃない?」
「遊びながら腹が減ることもあるだろ」
「食べこぼし対策が必要ですね」
アイリスの真面目な返答に、紬は笑ってしまった。
相談を重ねるうちに、リビングの一角には低い棚と広めの床スペースが設けられた。ボスが使う道具はそこへまとめ、遊ぶ内容に合わせて床の材質や広さを調整できる。紬が工作をしたいときにはテーブルが広がり、読書をするときには照明が手元だけを照らす。
さらに、ボスが水遊びをしたくなった場合でも、床が濡れたままにならないよう、排水と乾燥の仕組みを組み込んだ。ただし、室内に大きなプールを出すのは危ないので、水遊び専用の場所へ移動する仕組みも用意する。
「おおっ。俺の場所ができた!」
ボスは新しい床スペースを歩き回り、棚の高さを確かめた。
「ここに船を置いて、こっちに宝箱を置いて……あとは大砲だな」
「大砲は危ないから、飾りだけね」
「わかってるって」
その返事に少し不安を覚えた紬は、念のため危険な発射機構を持つものが室内に現れないよう、安全条件を設定した。
ボスは棚の前で腕を組むように翼を重ね、満足そうに頷いている。
「これなら俺の秘密基地にもなるな」
「秘密基地なら、もうあるでしょ?」
「あれはみんなの秘密基地だ。ここは俺のだ」
「そっか」
紬は自分の座る場所から、その一角を眺めた。
ボスが遊んでいる姿が自然に目に入る。声をかければすぐに届く距離で、けれど、それぞれの時間を過ごす余裕もある。
想像していたより、ずっと居心地がよさそうだった。
「マスター」
アイリスが呼びかけた。
「共有空間の整備に関連して、もうひとつ提案がございます」
「なに?」
「私の将来的な実体化を考慮し、現在の段階から移動経路と家具の配置に余裕を持たせてはいかがでしょうか」
紬はアイリスの姿を見た。
銀色の髪と青い瞳を持つ少女は、いつものように床の少し上へ浮かぶ映像として現れている。今のアイリスには、家具の間を歩く必要がない。壁の向こうへ移動することもできるし、狭い場所に入り込んでも身体をぶつける心配はなかった。
けれど、いつか実体のある身体を持てば、そうはいかなくなる。
「あ……そうだね。今のままだと、アイリスが歩きにくいところもあるかも」
「はい。もっとも、身体の寸法はまだ決定しておりませんので、現時点では余裕を持った設計に留めることを推奨します」
「うん。あとで変えられるようにしておこう」
紬は家具の配置を少し調整し、通路を広げた。
椅子の脚に足をぶつけないようにすること、暗い場所でも安全に歩けること、重いものを持っているときには扉が邪魔にならないこと。今まで自分のために考えていたことを、アイリスの未来の身体にも当てはめてみる。
すると、これまで見落としていた不便さがいくつも見つかった。
「……アイリスって、今までこんなこと気にしなくてよかったんだね」
「そうですね。現在の私は物理的な移動制約をほとんど受けません」
「身体ができたら、不便になることもあるのかな」
「可能性はあります。ただし、それ以上に得られる経験があると考えております」
「例えば?」
「マスターやボス様と同じテーブルを囲むこと。自分の手で物を持つこと。床を歩き、扉を開け、椅子に座ることです」
アイリスはそこで少し言葉を区切った。
「現在の私にも、それらを代行する手段はあります。しかし、自分の身体で行うことには、別の意味があるのではないかと考えています」
紬は頷いた。
「じゃあ、アイリスの椅子も用意しておこうか」
「まだ身体は完成しておりませんが」
「うん。でも、場所だけ先に決めてもいいでしょ?」
紬は食卓の椅子をひとつ増やした。
今まで自分とボスのために使っていた食卓には、もともと余裕があった。そこへ、アイリスがいつか座るための椅子を置く。形や高さは仮のものだが、ほかの家具とよく馴染んでいた。
アイリスはしばらく、その椅子を見つめていた。
「……ありがとうございます、マスター」
「まだ座れないけどね」
「それでも、嬉しく思います」
ボスが食卓のほうへ歩いてきた。
「おい、アイリス。俺の隣に座るのか?」
「配置上は、その予定です」
「じゃあ、魚を分けてやるよ」
「その際は、食事機能の有無も検討しなければなりませんね」
「ちゃんと食える身体にしろよ。うまいもん食えねえのは損だぞ」
「ご意見として記録いたします」
紬は三脚の椅子が並んだ食卓を見て、なんだか嬉しくなった。
たったひとつ椅子が増えただけなのに、家の中の景色が少し変わったように感じられた。
その後も、三人で家の改善を続けた。
玄関には、帰宅した人の荷物を無理なく受け取れる収納を設けた。洗面所では水温や鏡の明るさを使う人に合わせて調整し、浴室には転倒や急激な温度変化を防ぐ仕組みを追加した。洗濯物は自動で片づけられるものの、紬が自分で畳みたいときには作業を引き継げるようにする。
便利な機能を増やすだけなら、いくらでもできた。
けれど、紬は途中から、何を自動化しないかについても考えるようになっていた。
料理は任せられる。それでも、自分で作りたい日には台所を使いたい。掃除も自動で済むが、机の上に置いた大切なものを勝手に動かされたくないときもある。照明や音楽は気分に合わせて調整してほしいけれど、何も言っていないのに先回りされすぎるのは落ち着かない。
「アイリス、私が何もお願いしてないときは、あんまり勝手に変えなくていいからね」
「承知しました。安全に関わる場合を除き、生活環境の大きな変更には確認を行う方針といたします」
「うん。それがいい」
「ただし、ボス様が危険な行動を取られた場合には、必要な介入を行います」
「俺は危険なことなんかしねえぞ」
ボスはそう言いながら、いつの間にか新しい棚の上へ登ろうとしていた。
紬が振り向くと、ちょうど片方の翼を棚板へかけたところだった。
「ボス?」
「……いや、これは登れるかどうかの確認だ」
「危ないから降りようね」
「わかったよ」
ボスが床へ戻ると、アイリスは棚の高さをわずかに調整した。無理に登ろうとしなくても中のものを取り出せるようにするためだ。
紬はその様子を見て、またひとつ気づいた。
快適な家というのは、危険をすべて消し去る場所ではないのかもしれない。
何もできないほど安全に囲われていたら、ボスはきっと退屈してしまう。自分だって、何でも先回りしてもらえば、好きなことを試す楽しみがなくなってしまうだろう。
失敗しても大丈夫なようにしておくことと、失敗する機会そのものを奪うことは違う。
「……アイリス、家の基本方針をひとつ決めてもいい?」
「はい。どのような内容でしょうか」
「安全は大事。でも、私たちが自分でやりたいことは、できるだけ自分でやれるようにしたいの」
「理解しました。危険を減らしつつ、選択と行動の自由を維持する方針ですね」
「うん」
紬はボスを見た。
「ボスも、それでいい?」
「当たり前だろ。俺が船長になるのに、全部誰かにやってもらってたら格好つかねえからな」
「じゃあ、船の操縦も自分で覚えなきゃね」
「……そこはアイリスに教えてもらう」
「喜んでお手伝いいたします、ボス様」
アイリスの返答に、ボスは満足そうに頷いた。
昼食を挟み、午後になっても、三人の家づくりは続いた。
ただし、大がかりな改装はほとんど必要なかった。紬の能力なら壁の位置を変えることも、部屋を増やすことも簡単にできる。けれど、今の家にはすでに十分な広さがあり、何より慣れ親しんだ間取りを変えてしまうことに抵抗があった。
そこで紬は、生活の中で不便を感じたときだけ、必要な部分を変えられる仕組みを整えた。
家具の配置はいつでも元へ戻せる。室内の機能は記録され、変更前の状態も保存される。ボスが気に入らないと感じたら、専用スペースだけ以前の配置へ戻すこともできるし、アイリスの身体が完成したあとで、新しい動線を考え直すこともできる。
家そのものが、三人の暮らしに合わせて少しずつ変わっていく。
それは、最初から完璧な家を作るより、ずっと楽しそうだった。
「マスター、現在の改装内容を一覧にまとめました」
アイリスが空中に表示したのは、家全体の立体図だった。
リビング、寝室、台所、浴室、玄関。さらに、秘密基地へつながる設備や、生活を支える各種機能まで、細かな情報が整理されている。
「すごい……こんなに変えたんだ」
「変更点の大半は、外観ではなく内部機能です。建物の基本構造と主要な間取りは維持されています」
「そっか。見た目はあんまり変わってないもんね」
「俺の椅子は立派になったぞ」
「それは大きな変化だね」
紬が笑うと、ボスは満足そうに胸を張った。
アイリスは続けて、現在の家に残っている改善候補をいくつか示した。睡眠環境の細かな調整、生活用品の管理、季節に応じた空気の変化、将来の身体を持つアイリスのための設備などだ。
紬はその一覧を眺め、すぐにすべてを実現しようとは思わなかった。
必要になったら作ればいい。
そう考えられること自体が、自分の能力のいちばん贅沢な使い方なのかもしれない。
「今日は、これくらいにしようかな」
「承知しました。変更内容は保存済みです」
「まだ作れるもん、いっぱいあるんじゃねえのか?」
ボスが不思議そうに尋ねた。
「うん。でも、全部いっぺんに作らなくてもいいかなって」
「なんでだ?」
「明日やることがなくなっちゃうでしょ」
ボスは少し考え、それから大きく頷いた。
「そりゃ困るな。俺の船も、まだ作ってねえし」
「そうだね。船はちゃんと考えてから作ろう」
「じゃあ、明日は設計会議だな!」
「明日って決まったの?」
「船長が決めた」
紬は笑いながら、ソファへ腰を下ろした。
新しく調整した座面が身体を支え、背中の疲れが自然に抜けていく。窓からは柔らかな午後の日差しが入り、開けた窓の向こうから風の音が聞こえていた。
ボスは自分の専用スペースで紙の家を眺め、屋根がきちんと固定されていることを確かめている。
アイリスは食卓のそばに立ち、まだ誰も座っていない三脚目の椅子を見つめていた。
「……アイリス」
「はい、マスター」
「身体ができたら、最初に何をしたい?」
アイリスは少し考えた。
「以前は、物に触れることそのものに関心がありました。しかし、実験用の手で触覚を得たことで、希望が少し具体的になりました」
「どんなふうに?」
「この家の中を、自分の足で歩いてみたいです」
紬は微笑んだ。
「うん。きっと、楽しいよ」
「そう願っております」
ボスが紙の家から顔を上げた。
「歩けるようになったら、俺の船にも乗せてやるぞ!」
「ありがとうございます、ボス様。その際は乗船時の安全対策についても検討いたします」
「心配すんな。絶対沈まねえ船にするんだからよ」
「沈まないことと、転倒しないことは別の問題です」
「お前は本当に細けえな!」
いつものやり取りに、紬は肩を揺らして笑った。
こんなふうに過ごせるなら、家の設備がどれほど特別なものなのかは、あまり重要ではないのかもしれない。
世界中のどんな住宅より高性能な家を作ることは、きっとできる。
けれど、世界でいちばん快適な家というものがあるとしたら、それは性能を比べて決めるものではないのだろう。
好きな人たちがいて、好きなことができて、疲れたら安心して休める場所。
紬にとっては、今この瞬間のリビングが、何よりも居心地のいい場所だった。
「なあ、紬」
ボスが近づいてきた。
「どうしたの?」
「そのソファ、俺も乗っていいか?」
「もちろん」
紬が腕を広げると、ボスは慣れた様子で膝の上へ登ってきた。丸い身体を抱き寄せると、温かな羽毛が腕に触れる。
ソファが二人の姿勢に合わせて形を変え、ちょうどいい位置で身体を支えた。
「……おお。こりゃいいな」
「でしょ?」
「うむ。世界一のソファだ」
ボスはそう言って、満足そうに目を細めた。
アイリスが室内の明るさを少し落とし、紬の手元に置かれた本だけが読みやすいように調整する。
「マスター、お飲み物はいかがでしょうか」
「うん。温かい紅茶がいいな」
「承知しました」
「俺は魚」
「ボス様、先ほど昼食を召し上がったばかりですが」
「おやつだよ、おやつ」
紬はボスの頭を撫でながら、笑って答えた。
「じゃあ、少しだけね」
「よし!」
ボスが嬉しそうに翼を動かす。
紬は本を開き、柔らかな日差しの中で最初のページに目を落とした。
隣にはボスがいて、すぐそばにはアイリスがいる。これから先、家の形がどれほど変わっても、この時間だけは変わらずに残しておきたい。
そう思いながら、紬は腕の中の小さな温もりを、そっと抱き直した。




