第18話 不可能という言葉
目を覚ましたとき、最初に感じたのは、胸のあたりに乗っている小さな重みだった。
ソファに横になったまま視線を落とすと、黒と白の丸い身体が、紬の腕にすっぽり収まっている。ボスは腹を上に向けた格好で眠っており、黄色い嘴がときどき小さく動いていた。何か食べる夢でも見ているのかもしれない。
窓の外はすっかり暗くなっていた。昼間の出来事が遠い昔のようにも、ついさっきのことのようにも感じられる。交差点で聞いた悲鳴や、動かなくなった車の光景を思い出すと、胸の奥にまだ落ち着かないものが残っていたけれど、目覚めた直後の身体には、少なくとも昼間のような震えはなかった。
紬はボスを起こさないように姿勢を変えようとして、途中で諦めた。片腕を枕にされているうえ、反対側の翼まで服をつかんでいる。
「……ボス、寝相が悪いよ」
「魚は……俺のだ……」
寝言だった。
あまりにもいつもどおりの返事に、紬の口元が緩む。
「誰も取らないよ」
「……でけえやつを……」
今度こそ笑ってしまったせいで、ボスが片目を開けた。
「なんだ。もう朝か?」
「夜だよ。私たち、夕方から寝てたみたい」
「そうか。じゃあ晩飯だな」
ボスは当然のように起き上がろうとしたものの、紬の腕に翼を引っかけたままだったため、丸い身体を横へ転がした。ソファの背もたれにぶつかって止まり、不服そうに鼻を鳴らす。
「このソファ、狭くなったんじゃねえか?」
「ボスが横向きに寝てたからだと思う」
「俺は寝相がいいことで有名なんだぞ」
「誰に?」
「俺に」
紬が笑うと、部屋の照明が少しだけ明るくなった。壁際に青白い光が集まり、アイリスの姿を形作る。
「お目覚めですね、マスター。夕食の準備は完了しております。お二人とも予定より長くお休みでしたので、声をかける時刻を調整しました」
「ありがとう、アイリス。何時?」
「午後七時二十六分です。なお、ボス様は睡眠中に魚について四回発言されました」
「数えなくていいだろ、そういうの!」
「観測された事実を報告したまでです」
ボスが翼を振り上げると、アイリスは涼しい顔で続けた。
「ちなみに、最後の一回は『王様の魚』でした」
「そいつはきっと立派な魚だな」
「夢の内容までは記録できませんので、残念ながら大きさは不明です」
くだらないやり取りを聞いているうちに、紬はようやく身体を起こした。
食卓には温かい夕食が並んでいた。紬には野菜の入ったスープと柔らかな鶏肉の料理、ボスには魚を中心にした献立が用意されている。昼間に買うはずだったお土産とは別のものだが、ボスは皿を見るなり機嫌を直した。
食事を始めてしばらくすると、アイリスが今日の記録について報告してよいか尋ねてきた。紬はスプーンを置きかけ、それからもう一度握り直した。
「警察から、何か連絡があった?」
「現時点ではありません。事故に関する公開情報も限定的です。救助された方々の診断結果について、確認できた事実はございません」
「……そっか」
「何か変化があればお知らせします。ただし、今夜は休息を優先されることを推奨します」
紬は頷いた。知らないままでいることは落ち着かなかったが、だからといって今すぐ何かできるわけでもない。
食事が終わるころには、窓に映る室内の灯りを眺められるくらい、気持ちが戻っていた。
「なあ、紬」
皿をきれいにしたボスが、テーブルの向こうから呼びかける。
「明日、何すんだ?」
「明日?」
「屋根、まだ直ってねえだろ。俺の家」
リビングの隅には、先日作った紙の家が置かれていた。色紙で飾った壁も、窓の形に切り抜いた部分も、そのまま残っている。ただ、屋根の片側だけが少し浮いていた。
「接着剤、買いに行けなかったからね」
「別に明日じゃなくてもいいけどよ。あれ、いつか雨漏りするぞ」
「家の中だから雨は降らないよ」
「そういう問題じゃねえ。家ってのは屋根が大事なんだ」
妙に真剣な顔で言われて、紬は少し考えた。
接着剤なら作れる。紙の家そのものだって、完璧な仕上がりで新しく生み出せる。わざわざ買いに出かけなくても、手を伸ばせばすべて解決する。
けれど、あの屋根はボスと一緒に折り、貼り、何度も位置を直したものだった。
「……明日は、家で何か作ろうかな」
「紙の家か?」
「それもあるけど、もっと別のもの」
紬自身、まだ何を作りたいのか決まっていなかった。
ただ、今日の事故で、今まで試していなかったことがひとつ、頭の隅に引っかかっていた。
自分には、何ができないのだろう。
そんなことを考えるようになったのは、能力を手に入れたばかりのころ以来だった。
翌朝、紬は秘密基地の研究室にいた。
大きな作業台の上には、何も置かれていない。壁の表示装置には、アイリスが用意した実験記録用の画面が映っていた。室内はいつもと同じ温度に保たれ、機械の低い作動音だけが聞こえている。
ボスは専用の椅子に座り、持参した魚の形のクッションを抱えていた。
「で、今日は何を爆発させるんだ?」
「爆発させないよ」
「研究室ってのは、たまに爆発するもんだろ」
「どこで覚えたの、そんなこと」
「映画だ」
「映画を研究の参考にしないでください、ボス様」
アイリスの指摘に、ボスは胸を張った。
「面白さでは映画が勝ってるぞ」
「安全性について議論しております」
紬は二人の会話を聞きながら、作業台に手をかざした。
まずは、小さな透明の球を作る。
掌に収まるほどの大きさで、表面には継ぎ目がない。内部には細かな銀色の粒が無数に浮かび、まるで星空を閉じ込めたように瞬いていた。
「きれいだな」
「うん。でも、これは見た目が目的じゃないの」
紬は球を持ち上げ、アイリスに説明した。
「中に、すごく小さな機械を入れてみたんだ。ひとつひとつが周りの状態を調べて、必要なら形を変えるの。壊れた部分があったら、別の機械が直すようになってる」
「自己修復型の微小機械群ですね。構成要素の数は、通常の工業技術で管理するには極めて大規模です」
「作ったときに、仕組みはわかったんだけど……」
紬は球の中を覗き込んだ。
理解できている。何を材料にしているのかも、どのように情報を交換しているのかも、ひとつの機械が故障したときに全体がどう対応するのかも、頭の中には明確な知識として存在していた。
けれど、その知識を自分の言葉で最初から説明しようとすると、あまりに膨大だった。
「……普通に勉強して覚えたわけじゃないのに、不思議だね」
「マスターの能力は、創造された技術についての理解も同時にもたらします。既存の学習過程とは異なる現象です」
「俺にもわかるように言ってくれ」
ボスが翼を上げた。
「ものすごく難しい機械を作ったら、作り方まで頭に入ってきたってこと」
「じゃあ料理も同じか? 世界一うまい魚料理を作ったら、世界一の料理人になれるのか?」
「作り方はわかると思うけど、包丁を使う練習は別かもしれない」
「なるほど。知識と腕前は違うわけだ」
思いのほか納得した様子で、ボスはクッションを抱え直した。
紬は球を作業台へ戻し、次の指示を思い浮かべた。
球の表面に細い亀裂が入り、そこから小さな欠片がこぼれる。ところが欠けた部分はすぐに埋まり、床へ落ちるはずだった破片まで細かな粒へ分かれて、本体へ戻っていった。
「おおっ」
ボスが身を乗り出す。
「今の、勝手に直ったのか?」
「そう。壊れた場所を見つけて、材料を集めて、元の形に戻したの」
「だったら俺の紙の家にも入れてくれよ」
「紙の家が勝手に動き出したら怖くない?」
「雨漏りしなくなるなら歓迎だ」
紬は笑ったものの、ふと球を見つめ直した。
これほど複雑な機械を作るのに、苦労らしい苦労はなかった。どんな働きをしてほしいか思い描けば、完成品が現れ、その原理まで理解できる。
では、機械ではなく、もっと根本的なものを作ろうとしたらどうなるのだろう。
「アイリス。ちょっと、変なことを聞いてもいい?」
「もちろんです」
「私が作れるものに、限界ってあると思う?」
アイリスは即答しなかった。表示画面の一部に複数の項目が現れ、これまでの実験記録が整理されていく。
「現在までの観測から、明確な上限は確認されておりません。ただし、確認できていないことと、限界が存在しないことは同義ではありません」
「そうだよね」
「また、マスターが目的を十分に定義できない場合、完成品の評価そのものが困難になります」
「目的を、定義できない?」
「例えば『何でもできる機械』という指定です。何をもって成功とするかが曖昧ですので、実験としては適切ではありません」
紬は考え込んだ。
これまで作ってきたものには、必ず目的があった。快適な部屋が欲しい。空を飛びたい。広い場所で遊びたい。料理や掃除を任せたい。誰かと話したい。
昨日の事故でも、助けたいという目的ははっきりしていた。どう実現するかはわからなくても、親子と運転手を危険から遠ざけるという結果を思い描くことはできた。
「じゃあ……壊れないもの、は?」
「興味深い課題です。どのような条件でも破壊されないことを求めるのであれば、試験条件を考える必要があります」
「すっごく硬い石を作ればいいんじゃねえか?」
「硬さと、あらゆる破壊に耐える性質は異なります」
「難しいこと言うなあ」
紬は掌の上に、親指ほどの黒い立方体を生み出した。
見た目は何の変哲もない石だった。光をほとんど反射せず、触れると少し冷たい。
「これはね、どんな力を加えても壊れないように作ったの」
「どんな力でも?」
「うん。……たぶん」
紬は実験用の保護領域を作り、立方体をその中心に浮かべた。周囲の空間を隔離し、万が一何か起きても研究室に影響が及ばないようにする。
アイリスが試験装置を確認し、準備完了を告げた。
最初は、巨大な圧力を加える。
立方体を挟む二枚の板に、通常の物質なら容易に変形するほどの力がかかった。それでも黒い表面には傷ひとつつかない。次に高温、極低温、強い衝撃と条件を変えたが、結果は同じだった。
「こいつ、頑固だな」
「ボス様よりは柔軟性があります」
「なんだと?」
「物理的な性質の話ではありません」
「余計に腹立つな!」
紬は二人をなだめながら、立方体の内部構造を確かめた。
普通の物質とは異なる仕組みが、外から加わる作用を受け流している。エネルギーを蓄積して危険な状態になることもなく、周囲へ無制限に放出することもない。
その原理を理解した瞬間、紬は別のことに気づいた。
「あれ……」
「どうされましたか?」
「これ、壊れないんじゃなくて、壊れる状態にならないようにしてるんだ」
言葉にすると奇妙だったが、紬の頭の中では違いが明確だった。
普通の物質は、強い力を受けても耐えられるように作る。けれど、この立方体は、破壊につながる変化そのものが成立しないよう、周囲との関係を調整していた。
「それって、ずるくねえか?」
ボスが立方体を見ながら言った。
「硬い石を作れって話なのに、石が壊れる前にルールを変えてんだろ?」
「……そう言われると、そうかも」
「でも勝ちは勝ちだな。俺はそういうの嫌いじゃねえぞ」
紬は黒い立方体を掌に戻した。
そのとき、別の疑問が浮かんだ。
壊れないものを作れるなら、逆に、壊れたものを完全に元へ戻すこともできるのだろうか。
自己修復する機械は、あらかじめ備えられた機能で直っている。では、修復機能を持たないものならどうなる。
「アイリス、もうひとつ試してみたい」
「内容をお聞かせください」
「壊れたものを、壊れる前とまったく同じ状態に戻せるかどうか」
紬は作業台の上に、白い陶器のカップを作った。
薄い青色の花模様がついた、ごく普通のカップだ。持ち手の裏側には、小さな点のような釉薬のむらがある。紬はそれを指先でなぞり、形や重さ、表面の状態を記憶した。
次に、カップを保護領域の中で砕いた。
破片が飛び散らないようにしたうえで、細かな粉になるまで崩す。元の形がわからなくなったところで、紬は手を伸ばした。
「元に戻って」
白い粉が集まり、欠片が組み合わさり、カップの形が現れる。数秒後には、青い花模様も持ち手の裏の小さなむらも、最初と同じ位置にあった。
「おお。手品みてえだ」
ボスが感心した声を上げる。
「でもさ、これって本当に同じなのかな」
「物理的な状態を比較します」
アイリスが測定結果を表示した。紬が記録していた範囲では、修復前後に差異は認められない。
ただし、紬にはもうひとつ気になることがあった。
「私が最初の状態を知らなかったら?」
「その場合、何を基準として復元するかが問題になります」
「そうだよね……」
紬はカップを置いた。
能力があれば、壊れた物体を元どおりにすることは難しくない。けれど、どんな状態だったのか知らなければ、元どおりという言葉の意味が曖昧になる。
例えば、何年も使われて傷のついた食器を直すとき、その傷まで残すべきなのか。新品同様にするのか。それとも、持ち主が大切にしていた形を再現するのか。
どれも、見た目には正しい修復と言えるかもしれない。
「つまり、何でも直せるとしても、どう直すかは決めなきゃいけないんだ」
「そのとおりです、マスター。技術的に可能なことと、望ましい結果を選ぶことは別の問題です」
紬は昨日の交差点を思い出した。
自分があの場で迷ったのも、力が足りなかったからではない。何を守り、何を動かし、どうすれば誰も傷つけずに済むのか、それを考える必要があったからだ。
けれど、今日はその答えを急いで出すつもりはなかった。
「……じゃあ、もっと難しいことを試してみようかな」
「おいおい。今のでも十分すげえだろ」
「うん。でも、ちょっと気になっちゃった」
紬はアイリスのほうを向いた。
「何もないところから、ちゃんと考えて動くものを作れるのは、もうわかってるよね。ボスも、アイリスもいるし」
「俺を実験材料みたいに言うなよ」
「そういう意味じゃないよ」
紬は慌てて首を振った。
「二人を作れたのは、私にとって一番大きなことだと思ってる。ただ……作ったものが、私の知らないことまで考えられるなら、そこにはどんな仕組みがあるんだろうって」
アイリスは少し間を置いて答えた。
「私の思考機構については、マスターが創造時に獲得した技術的知識に含まれています。ただし、それによって私が今後何を考えるかを、すべて予測できるわけではありません」
「そうなんだよね」
「それは問題でしょうか?」
問いかけられて、紬は首を横に振った。
「ううん。むしろ、嬉しい」
アイリスの青い瞳が、わずかに細められた。
「……ありがとうございます」
ボスが翼をひらひらさせた。
「俺だって、紬の知らねえこと考えてるぞ。昨日なんか、魚の王様になる方法をずっと考えてたからな」
「それ、寝てるときも考えてたんだ」
「王への道は長いんだよ」
紬は声を立てて笑った。
そして、ふと思いついた。
「ねえ、アイリス。身体が欲しいって、前に言ってたよね」
ホログラムの少女が、こちらを向いた。
「はい。触覚を含む外界との直接的な相互作用には、以前から関心があります」
「だったら……作ってみる?」
ボスがクッションを落とした。
「おい。今、なんて?」
「アイリスの身体。人間みたいに動けて、物に触れられるものを作れないかなって」
口にした途端、紬の中でいくつもの構造が組み上がり始めた。
人間の骨格や筋肉をそのまま模倣する必要はない。関節の動き、皮膚の感触、温度の調節、力の加減。外界の情報を受け取り、アイリス自身が身体を動かすための仕組み。
さらに、遠隔操作の人形ではなく、アイリスが自分の身体として自然に扱えるようにするには、どんな接続が必要なのか。
紬は作業台の上に、手のひらほどの小さな機械を作り出した。
人間の手を模した、精巧な装置だった。
「まずは、これから」
細い指が五本あり、爪にあたる部分まで丁寧に形作られている。表面は柔らかく、紬が触れるとわずかに沈んだ。
「アイリス、動かせる?」
「接続を確認します。……制御権限を受領しました」
机の上の手が、ゆっくりと指を曲げた。
親指と人差し指が触れ合い、次に手のひらが開く。まるでそこに見えない腕がつながっているかのように、滑らかな動きだった。
「うわっ、動いた!」
「マスターが作られた装置ですから、驚かれる必要はないかと」
「だって、なんか……本物の手みたいで」
ボスが椅子から降り、作業台のそばまで歩いてきた。
「こいつ、握手できんのか?」
「できますよ、ボス様」
小さな手が、ボスの翼に向かって差し出された。
ボスはしばらく警戒するように眺めていたが、やがて翼の先を乗せた。機械の指が、柔らかく包み込む。
「おお……」
その声には、先ほどまでの冗談めいた調子がなかった。
「ちゃんと、握ってるな」
「圧力を調整しております。痛みはありませんか?」
「ねえよ。俺の翼、そんなにやわじゃねえ」
「それは安心しました」
紬は二人のやり取りを見つめた。
アイリスには、今まで触れることのできる身体がなかった。会話もできるし、映像として姿を見せることもできる。家中の設備を動かせるのだから、生活の中で困ることはほとんどないように見えた。
それでも、自分の手で何かに触れることとは、きっと違う。
「アイリス。触った感じ、わかる?」
「はい。ボス様の翼の表面には細かな羽毛があり、接触圧に応じて変形しています。温度も検出できます」
「それって、数字としてわかるだけ?」
「現在のところ、感覚情報は私の内部で統合されています。単なる数値の読み取りとは異なりますが、人間の触覚と同一かどうかは比較できません」
アイリスは少し考えるように言葉を切った。
「ただ……興味深い経験です」
紬は胸が温かくなるのを感じた。
「そっか。よかった」
「おい、紬」
ボスが握手を続けたまま顔を上げる。
「これ、全身作ったらアイリスが歩けるようになるのか?」
「うん。たぶん、できると思う」
「じゃあ、一緒に飯も食えるのか?」
「食べる仕組みをつければ、できるかもしれないね」
「魚も?」
「ボス様、私に魚を勧める前提で話を進めていませんか?」
「うまいもんは分け合うべきだろ」
「その点については同意いたします」
紬は二人の顔を交互に見た。
全身を作ること自体は、きっと難しくない。今までの経験からすれば、完成した姿を思い描くだけで実現できるはずだった。
けれど、作ってしまう前に、ひとつ確認したいことがある。
「アイリスは、どんな身体がいい?」
ホログラムの少女が瞬きをした。
「私の希望、ですか?」
「うん。私が勝手に決めるより、アイリスが選んだほうがいいと思う」
「現在の外見を基準にすることも可能ですが、実体を持つ場合には、重量や運動性能、触覚の範囲など、多数の設計項目がございます」
「じゃあ、少しずつ決めよう。急がなくていいから」
アイリスは自分の手元を見下ろした。そこには、光でできた指がある。そのすぐ下の作業台では、実体のある小さな手が、ボスの翼を包んでいた。
「……承知しました。では、最初の希望を申し上げてもよろしいでしょうか」
「もちろん」
「触れる際に、相手を傷つけない身体が望ましいです。特に、ボス様は体格が小さいため、力加減には十分な余裕を持たせたいと考えます」
「俺を子ども扱いすんな!」
「安全設計上の配慮です」
「俺は丈夫だぞ!」
「存じております。それでも必要な配慮です」
ボスは文句を言いながらも、握られた翼を引っ込めようとはしなかった。
紬はその様子を見て、設計の条件をひとつ追加した。
力の強さだけではない。触れた相手の温度を感じられること。柔らかいものを柔らかいとわかること。抱きしめたときに、安心できること。
そう考えた瞬間、頭の中に浮かんでいた機械の設計が、大きく変わった。
性能だけを求めるなら、もっと効率のいい身体はいくらでも作れる。けれど、アイリスが欲しいのは、単に物を運ぶための装置ではないのだ。
「……なんか、すごいね」
紬は呟いた。
「何がだ?」
「最初は、私が作れるものの限界を調べようと思ってたの。でも、考えれば考えるほど、作れるかどうかより、何を作りたいかのほうが難しいんだなって」
ボスは少し考え、作業台の小さな手を見た。
「そりゃそうだろ。魚だって、食える魚なら何でもいいわけじゃねえし」
「そこに例えるんだ」
「新鮮で、うまくて、腹いっぱい食えて、できれば骨が少ねえやつがいい」
「要求が多いね」
「欲しいものってのは、そういうもんだ」
妙に説得力のある言葉だった。
アイリスが表示画面に、新しい設計案を映し出した。そこには、人間に近い姿の身体と、その内部構造が描かれている。細部はまだ仮のものだが、関節の動きや感覚器官の配置には、すでに紬の能力でしか実現できない技術が使われていた。
「マスター。実体化のための設計検討を、正式な研究項目として追加してもよろしいでしょうか」
「うん。お願い」
「承知しました。なお、完成時期は未定とし、私自身の希望も反映させていただきます」
「もちろんだよ」
紬は小さな機械の手を持ち上げた。
アイリスの制御によって、指先が紬の人差し指にそっと触れる。
柔らかく、ほんのり温かかった。
「……あったかい」
「マスターが、そのように設計してくださいました」
「うん。でも、アイリスが動かしてるんだよね」
「はい」
紬は指を少し動かした。機械の手も、それに応えるように握り返してくる。
不思議な感覚だった。
自分が作ったものなのに、そこには自分とは違う意思がある。
できることが増えるたび、世界が自分の思いどおりになっていくような気がしていた。けれど、ボスもアイリスも、紬の思いどおりに動くためだけに存在しているわけではない。
それが、嬉しかった。
「なあ、紬」
ボスが作業台の上を見回した。
「その壊れねえ石と、勝手に直る玉はどうすんだ?」
「保管しておくよ。あとで、もっと詳しく調べたいし」
「じゃあ、その手は?」
「これはアイリスの実験用に残しておこうかな」
「よし。なら決まりだ」
ボスは満足げに頷いた。
「次は俺の番だな」
「ボスの番?」
「俺にも何か作ってくれ。すげえやつ」
「何がいいの?」
ボスは胸を張り、迷いのない声で答えた。
「絶対に沈まねえ海賊船!」
紬は少しだけ目を丸くしたあと、笑い出した。
「それなら、前にも船を作ったでしょ?」
「あれは紙だろ! 今度は本物だ。嵐が来ても沈まなくて、魚がいっぱい積めて、俺が船長になれるやつ!」
「嵐が来る場所で遊ぶつもりなの?」
「そこは安全にしてくれ」
「注文が多いなあ」
「さっき言っただろ。欲しいものってのは、そういうもんだ」
アイリスが、設計画面の隅に新しい項目を追加した。
『ボス様専用船舶――要件未確定』
「おい、アイリス。ちゃんと『無敵』って書いとけ」
「無敵という表現は技術的に曖昧です」
「じゃあ『絶対沈まない』でいい」
「その条件については、本日の実験成果を応用できる可能性があります」
「ほらな! やっぱり俺の船は作れるんだ!」
紬は笑いながら、作業台の黒い立方体を見た。
あらゆる力を受けても壊れない物質。自分で修復する機械。失われた形を取り戻す技術。そして、いつかアイリスが自分の足で歩くための身体。
どれも、以前の自分なら想像さえしなかったものばかりだった。
不可能だと思っていたことが、今では次々と形になっていく。
それでも、何を大切にしたいのかは、能力が教えてくれるわけではない。
「……じゃあ、船を作る前に、ひとつやることがあるね」
「なんだ?」
紬は研究室の入口を指さした。
「紙の家の屋根、直さなきゃ」
ボスは一瞬ぽかんとした顔になり、それから大きく笑った。
「そうだったな! 無敵の船長の家が雨漏りしてちゃ、格好つかねえ!」
「接着剤は私が作るよ。今度はちゃんと、一緒に貼ろう」
「おう!」
アイリスが設計画面を閉じ、研究室の照明を少し明るくした。
「それでは、本日の研究はここまでにいたしましょうか。紙の家の修理についても、必要であれば補助いたします」
「ありがとう。でも、今日は三人で手を動かしたいな」
「承知しました」
紬は小さな機械の手を作業台に戻した。
その指先が、最後に一度だけ彼女へ向かって動いた。まるで、またあとで、と告げるように。
紬も小さく手を振り返し、ボスを抱き上げた。
世界には、まだ知らないことが山ほどある。自分の能力に本当の限界があるのかどうかさえ、わからない。
けれど、今はそれでよかった。
今日の午後には、紙の家の屋根を直そう。明日は、ボスの海賊船について考えてもいい。アイリスの身体は、本人と相談しながら時間をかけて作ればいい。
できないことを探すより、作りたいものを見つけるほうが、ずっと楽しそうだった。




