第17話 何事もなかったように
救急車のサイレンが近づいてくるにつれ、交差点に集まった人々の声は少しずつ落ち着きを取り戻していった。誰かが車の運転手に声をかけ、別の誰かが救急車を誘導するため道路の端へ移動している。つい先ほどまで命に関わる事故が起きかけていた場所には、混乱しながらも、それぞれにできることをしようとする人たちの姿があった。
紬は歩道の壁際に立ち、耳に当てていたスマートフォンを握り直した。アイリスとの通話はまだつながっている。自分の足が震えていることを悟られないよう、壁に背中を預けたまま、事故現場へ視線を向けた。
『マスター、救急車が現場へ到着するようです。通行の妨げにならない位置で、そのままお待ちください』
「……うん」
救急隊員たちは車両から降りると、周囲の人々に状況を確認しながら親子のもとへ向かった。母親は男の子を抱きしめたまま、何度も何かを説明しようとしている。しかし、そのたびに言葉が途切れ、自分でも何を話せばいいのか分からない様子だった。
無理もない、と紬は思った。
あの女性にとっては、車が迫ってきた次の瞬間、道路の中央から歩道の壁際へ移動していたことになる。しかも、どうやって移動したのかを覚えているはずがない。紬でさえ時間を止めた現象の仕組みを理解していないのだから、当事者が混乱するのは当然だった。
救急隊員が男の子の意識や痛みの有無を確かめ、続いて母親の状態を確認している。男の子は泣き疲れたようにしゃくり上げていたが、質問には頷いていた。母親も受け答えができている。ただし、転倒した際の怪我がないとは限らないため、二人とも詳しく診てもらうことになったようだった。
紬はその様子を見届け、胸の奥で小さく安堵した。自分の目で二人が動いていることを確認できたのは嬉しいが、専門家に診てもらえるなら、それに越したことはない。
問題は、そこからだった。
「そこの方、事故を見ていましたか?」
突然声をかけられ、紬の肩が跳ねた。
振り向くと、通報を手伝っていたらしい中年の男性が立っていた。落ち着いた口調だったが、知らない人に話しかけられたというだけで、紬の頭は一瞬真っ白になった。
「……え、あ……はい」
「車が来たところ、見えてました?」
「……見て、ました」
「そうですか。警察の人が来たら、話を聞かれるかもしれませんね」
男性はそれ以上問い詰めることなく、救急車の方へ戻っていった。
紬はその背中を見送りながら、心臓が妙に速く打っていることに気づいた。事故の直後より、たった今の会話の方が緊張した気さえする。
『マスター、通話を継続しますか』
「……お願い」
『承知しました。必要でしたら、質問への答え方を一緒に整理します』
その申し出に、紬は少しだけ救われた気持ちになった。自分の代わりに話してもらうことはできなくても、誰かがそばにいてくれると思うだけで違う。
やがて警察官が到着し、車の周囲にいた人たちへ順番に事情を尋ね始めた。紬にも声がかかったのは、それからしばらくしてのことだった。
若い警察官は、紬が事故の発生時にどこにいたのか、車がどちらから来たのか、親子がどうして転んだのかを確認した。紬はできる限り事実に沿って答えたが、能力について説明するわけにはいかなかった。
「横断歩道を渡ろうとしていたら、男の子が何かを落として……お母さんが追いかけて、転んで……」
「それで、車が近づいてきたんですね」
「……はい」
「その後、どうなりました?」
紬は言葉に詰まった。
時間を止めた。親子を移動させた。車を止めた。
そのどれも、普通の事故の説明としては成立しない。
紬は自分の足元へ視線を落とした。警察官が答えを待っている気配が伝わり、余計に焦りが募る。
「……車が、止まって……二人は、歩道にいて……」
「止まったところを見た、ということですか?」
「……はい。気づいたら、そうなってました」
嘘をつくことには抵抗があった。けれど、すべてを話す勇気もない。紬は曖昧な言葉を選んだ自分に、わずかな後ろめたさを覚えた。
警察官は何かを書き留め、続けてほかの目撃者からも話を聞いていた。どうやら、親子が道路の中央から歩道へ移動した経緯については、誰もはっきり説明できないらしい。
「私も、ぶつかると思ったんですけど……気がついたら車が止まってて」
「お母さんたち、さっきまであそこにいましたよね?」
「誰かが引っ張ったんじゃないの?」
「いや、そんな時間なかったと思うけど……」
周囲の会話が耳に入るたび、紬は落ち着かなくなった。
自分のしたことが、誰かに見つかるかもしれない。
その不安は、事故が無事に終わったからといって消えるものではなかった。
警察官から連絡先を尋ねられた際には、紬はさらに緊張した。目撃者として必要な確認だと理解していても、知らない人に自分の情報を伝えることには慣れていない。
必要なやり取りを終え、ようやく解放されたときには、全身から力が抜けそうだった。
『お疲れさまでした、マスター』
「……もう、帰っていいのかな」
『警察官から追加の確認が必要な場合は連絡すると説明されましたので、現時点では問題ないと思われます。お身体の具合はいかがですか』
「……ちょっと、疲れた」
『帰宅をお勧めします。買い物は別の日でも可能です』
紬はバッグを見下ろした。
工作用の接着剤と紙、それからボスに頼まれた魚。家を出たときには、どれも今日のうちに買うつもりだった。
けれど今は、店へ向かう気力が残っていない。
「……ボスの魚、買ってない」
『事情を説明すれば、ボス様も理解してくださるでしょう』
「……うん」
紬は交差点を振り返った。
救急車はまだ停車しており、親子の様子を確認している。事故車両の周囲では警察官が調べを続け、通行人たちは少しずつ普段の生活へ戻り始めていた。
紬はその光景を目に焼きつけるように見つめたあと、家へ向かって歩き出した。
来たときと同じ道だった。
花屋の前には色とりどりの鉢植えが並び、店先では店員が水やりをしている。歩道を行き交う人々の足取りも、すれ違う自転車の音も、何ひとつ変わっていないように見えた。
紬はその普通さに、少し戸惑った。
自分にとっては、今日という日が大きく変わってしまったのに。
世界は、何事もなかったように動き続けている。
それが不思議でもあり、少しだけありがたくもあった。
帰り道の途中、紬はふと立ち止まり、バッグの中のスマートフォンを取り出した。
「……アイリス」
『はい、マスター』
「……さっき、私が時間を止めてたとき……アイリスは、どうしてた?」
『私の記録上では、マスターからの通信が一時的に成立しなかったことと、位置情報に不連続な変化が生じたことが確認されています。ただし、その間に私自身の処理が停止していたかどうかは、現時点では判断できません』
「……そうなんだ」
『通常の通信障害とは異なる可能性がありますが、断定するには情報が不足しています。帰宅後、記録を照合してもよろしいでしょうか』
「……うん。でも、今日は難しいこと、あんまり考えたくない」
『承知しました。解析は私の方で進め、報告は後日にいたします』
紬はほっとした。
以前なら、新しい現象が起きたと知れば、すぐに秘密基地へ向かって実験を始めていたかもしれない。けれど、今は時間を止める能力の仕組みを調べることよりも、家へ帰って休むことの方が大切に思えた。
それでも、何も考えずに済ませていいことではないとも分かっている。
自分が時間を止めていた間、周囲の人たちは何を経験していたのか。親子の身体には影響がなかったのか。遠くにいるボスやアイリスまで止まっていたのか。
気になることは数え切れない。
だが、答えを急いで得ようとして、また危険なことをしてしまうのは避けたかった。
紬はスマートフォンをバッグに戻し、歩き慣れた道を進んだ。
家の近くまで来ると、ようやく少しだけ肩の力が抜けた。見慣れた建物の外観が視界に入っただけで、安心できる場所へ戻ってきたのだと実感する。
玄関の前で鍵を取り出し、扉を開ける。
その瞬間、家の中から小さな足音が聞こえた。
「紬!」
ボスだった。
丸い身体を揺らしながら廊下を駆けてきたボスは、紬の足元で急停止すると、勢いよく顔を上げた。
「お前、何やってたんだよ! アイリスから事故があったって聞いたぞ!」
「……ただいま」
「ただいまじゃねえ! 怪我はねえんだろうな!」
紬はしゃがみ込み、ボスを抱き上げた。
ふわふわした羽毛が腕に触れた途端、胸の奥に張りつめていたものがほどけていく気がした。ボスは何か言いかけたが、紬がいつもより強く抱きしめたことに気づいたのか、口を閉じた。
「……怪我は、してないよ」
「本当だな?」
「……うん」
ボスは紬の顔をじっと見上げた。
普段なら、魚の土産はどうしたとか、帰りが遅いとか、文句のひとつも言ってきそうなところだった。けれど今は、紬の様子を確かめることの方が大事らしい。
「……お前、顔色悪いぞ」
「……ちょっと、怖かったから」
紬がそう答えると、ボスは小さく息を吐いた。
「そりゃそうだろ。事故なんて、怖くて当たり前だ」
その言い方が妙に自然で、紬は少し笑ってしまった。
ボスは不思議そうに首を傾げたが、紬が笑っていることを確認すると、それ以上何も言わなかった。
リビングへ入ると、アイリスのホログラムが姿を現した。銀白色の髪を揺らしながら、いつもと変わらない落ち着いた表情で紬を迎える。
『お帰りなさいませ、マスター。まずはお休みになってください。室温と照明は、落ち着いて過ごせる設定に調整してあります』
「……ありがとう」
紬はソファへ腰を下ろし、ボスを胸元に抱えたまま背もたれに身体を預けた。
家の中は、出かける前とほとんど変わっていなかった。
棚には昨日作った紙の家と、ボスの船が並んでいる。紙の家の屋根は片側が少し浮いたままで、修理するための接着剤もまだない。
紬はそれを見て、何だかおかしくなった。
たった数時間前、自分はあの屋根を直すために外出したのだ。
それなのに、今はまるで別の一日を過ごしてきたような気分だった。
「……結局、何も買えなかった」
「買い物なんざ、明日でも来週でもできるだろ」
「……魚も、ないよ」
「魚?」
ボスは一瞬だけ目を丸くし、それから呆れたように首を振った。
「お前なあ。俺が魚のことしか考えてねえと思ってんのか?」
「……ちょっとだけ」
「失礼なやつだな!」
ボスはそう言いながらも、紬の腕の中から離れようとはしなかった。
「魚なら家で食えるだろ。今はお前が帰ってきた方が大事だ」
紬はボスの背中に頬を寄せた。
「……うん」
そのまましばらく、二人は何も話さなかった。
アイリスが飲み物を用意するよう調理装置へ指示を送り、テーブルに温かい紅茶が運ばれてくる。紬は片手でカップを持ち、もう片方の腕でボスを支えた。
紅茶の香りが、少しずつ気持ちを落ち着かせてくれる。
ボスは紬の胸元に収まったまま、何かを考えているようだった。
やがて、少し低い声で尋ねた。
「……で、何があったんだ?」
紬はカップをテーブルへ戻した。
事故のことを話すのは、正直に言えば気が進まなかった。思い出すだけで、あの車が迫ってくる光景が頭に浮かんでしまう。
それでも、ボスには話しておきたかった。
紬は言葉を選びながら、交差点で起きたことを説明した。
親子が横断歩道で転んだこと。車が迫ってきたこと。時間が止まったようになり、自分だけが動けたこと。そして、親子を安全な場所へ移し、車を止めたこと。
ボスは途中で口を挟まず、じっと聞いていた。
説明が終わると、しばらく沈黙が続いた。
「……時間を、止めたのか」
「……たぶん。正確には、まだ分からないけど」
「そりゃまた、とんでもねえことやったな」
ボスはそう言ったものの、いつものように大げさな冗談を続けることはなかった。
紬は不安になり、そっと顔を覗き込んだ。
「……怒ってる?」
「怒ってねえよ」
「……でも、危ないことしたから」
「危ないことはしたな。けど、目の前で人が轢かれそうになってたんだろ?」
「……うん」
「だったら、助けようとしたことまで怒る気はねえ」
紬は目を伏せた。
ボスは少し身体を動かし、紬の腕の中で向きを変えた。
「ただな、紬。お前が何でもできるからって、毎回ひとりで抱え込む必要はねえんだぞ」
「……でも、あのときは……」
「分かってる。俺もアイリスも、その場にはいなかった。だから、お前が自分で考えるしかなかったんだろ」
ボスはそこで一度言葉を切った。
「でも、帰ってきたら話せ。怖かったことでも、失敗したことでも、何でもいい。俺たちはお前の相棒なんだからな」
紬はボスを見つめた。
いつも偉そうで、魚の話になると妙に熱心で、ゲームに負ければ悔しがる小さなペンギン。
そんなボスが、今は誰よりも頼もしく感じられた。
「……ありがとう、ボス」
「礼を言うことじゃねえだろ」
ボスは照れ隠しのように顔を逸らした。
紬はその横顔を見て、ようやく心から笑うことができた。
アイリスは二人のやり取りを見守っていたが、少ししてから口を開いた。
『マスター、ひとつだけ確認してもよろしいでしょうか』
「……なに?」
『本日の事故について、マスターは今後も同様の状況で能力を使用したいとお考えですか』
紬は少し考えた。
すぐに答えられる質問ではなかった。
助けたいという気持ちはある。けれど、今日のようなことが何度も起きたら、自分はどうなるのだろう。
すべての事故を防ごうとすれば、世界中の出来事を監視し続ける必要があるかもしれない。誰かが困っていると知るたびに、自分が助けなければならないと思うようになったら、今まで望んできた自由な暮らしはどうなってしまうのか。
紬はそんな未来を想像し、少しだけ怖くなった。
「……目の前で、誰かが危ないときは……助けたい」
『はい』
「……でも、世界中の人を助けるとか……そういうのは、無理だと思う」
ボスが頷いた。
「そりゃそうだ。お前ひとりで全部背負う必要なんざねえ」
紬はボスの背中を撫でながら、続けた。
「……私、普通に暮らしたい。ボスと遊んで、アイリスと話して、好きなことして……でも、今日みたいなことがあったら、知らないふりはできないと思う」
アイリスは穏やかな表情で答えた。
『理解しました。マスターがご自身の生活を大切にしながら、目の前の人を助けたいと考えることは、矛盾しないと思います』
「……そうかな」
『はい。すべての問題を解決する義務を負うことと、助けられる場面で手を差し伸べることは、別の選択です』
紬はその言葉を聞き、少しだけ肩の力を抜いた。
能力を持っているからといって、何か特別な存在にならなければいけないわけではない。
誰かに命令されたわけでも、使命を与えられたわけでもない。
自分がどう生きたいのかは、自分で決めていい。
そのことを、今日の出来事は改めて考えさせてくれた。
「……私、ヒーローにはなれないと思う」
「なりたいのか?」
「……ううん」
「じゃあ、ならなくていいだろ」
ボスはあっさりと言った。
「お前はお前だ。俺の相棒で、アイリスのマスターで、家に帰ってきたら魚の土産を忘れるようなやつだ」
「……最後、余計」
「事実だろ」
紬は笑いながら、ボスの頭を撫でた。
アイリスも微笑んでいる。
いつもの会話だった。
けれど、今の紬には、その何気ないやり取りが以前よりも大切に感じられた。
しばらくして、アイリスが事故に関する情報を整理したと伝えてきた。
『現時点で確認できる範囲では、事故現場にいた親子と運転手は救急対応を受けています。ただし、負傷の程度や今後の経過について、確定した情報はありません』
「……そっか」
『また、事故の映像や目撃証言については、情報が断片的です。マスターの能力使用が第三者に認識されたと断定できる材料は、現在のところ確認できていません』
紬はほっとしかけたが、すぐに考え直した。
確認できていないだけで、誰も気づいていないとは限らない。
アイリスも、そのことを理解しているようだった。
『ただし、今後新たな情報が出てくる可能性はあります。必要に応じて状況を確認し、マスターへお伝えします』
「……お願い」
『承知しました。なお、警察や救急機関の業務を妨げるような行動は行いません。公開情報と、適切に確認できる範囲の情報を中心に整理します』
紬は頷いた。
秘密を守るためなら何をしてもいい、とは思わなかった。
今日助けた人たちが、これから必要な治療や説明を受けられることの方が大切だった。
アイリスはその考えを理解しているのだろう。紬が何も言わなくても、必要以上に踏み込まない方針を示してくれた。
ボスは二人の会話を聞きながら、ふと棚の方へ目を向けた。
「そういや、あの紙の家はどうすんだ?」
紬も視線を向けた。
屋根の片側が浮いた小さな家は、出かける前と同じ場所に置かれている。
「……接着剤、買えなかったから……今日は、そのまま」
「別にいいんじゃねえか。屋根がちょっと浮いてたって、住んでるやつはいねえんだし」
「……紙のペンギンが住んでるよ」
「そいつは雨漏りで困ってんのか?」
「……雨、降らないけど」
「じゃあ問題ねえな」
紬は思わず吹き出した。
昨日、あんなに真剣に作った小さな家が、今は少し傾いたまま棚に飾られている。それでも、何となく捨てがたい愛着があった。
完璧に作り直すことは簡単だ。
屋根を丈夫な素材に変えることも、雨が降っても壊れない家にすることも、万物創造なら難しくない。
けれど、紬はそうしようとは思わなかった。
自分の手で作ったものだから、直すときも自分の手で直したい。
昨日までなら、そんな気持ちは工作を楽しむためのものだった。
今は、それにもうひとつ意味が加わっていた。
自分にできることと、自分がしたいことは、必ずしも同じではない。
能力があるからといって、何でも能力で解決する必要はない。
紬は棚の小さな家を見つめ、少しだけ微笑んだ。
「……明日、買いに行こうかな」
「俺も行く」
「……ボスは、お留守番」
「またかよ!」
ボスが不満そうに声を上げる。
紬はその頭を撫でながら、楽しそうに笑った。
「……今度は、魚も買ってくるから」
「そういう問題じゃねえんだよ!」
ボスはそう言いながらも、どこか安心したような表情をしていた。
紬が普段どおりの会話を楽しめるようになったことが、嬉しいのかもしれない。
アイリスは二人を見つめ、控えめに口を開いた。
『次回の外出については、より安全な経路を提案できます。また、ボス様が同行できる方法についても、必要でしたら検討いたします』
「お、いいじゃねえか!」
「……え?」
紬は思わずアイリスを見上げた。
『もちろん、実際に同行するかどうかは、マスターとボス様のご希望次第です』
ボスは得意げに胸を張った。
「聞いたか、紬。俺にも外出の機会が来たぞ」
「……まだ、決まってないよ」
「細けえことはいいんだよ」
紬は苦笑した。
今日の出来事を考えると、しばらく外へ出ること自体が怖くなるかもしれないと思っていた。
けれど、ボスと一緒に買い物へ行く方法を考えるのは、少し楽しそうだった。
もちろん、実際に連れて行くとなれば、解決しなければならない問題は多い。喋るペンギンが店に入ってきたら、普通の人は驚くだろう。
それでも、今すぐ答えを出す必要はなかった。
紬はボスを抱え直し、ソファの上で姿勢を変えた。
ふわふわした羽毛が頬に触れ、心地よい温かさが伝わってくる。
アイリスが室内の照明を少し落とし、穏やかな音楽を流し始めた。
紬はその音を聞きながら、今日のことを思い返した。
もし時間を止められなかったら、どうなっていたのだろう。
その答えを考えるのは、まだ怖かった。
けれど、考えなければならないこともある。
能力の使い方をもっと理解し、安全に扱えるようになること。自分が助けた人たちのその後を、必要以上に踏み込まない範囲で見守ること。そして、秘密を守りながら、これからも自分らしく暮らしていくこと。
どれも簡単ではないかもしれない。
それでも、今すぐすべてを解決しなくていいのだと思うと、少しだけ気持ちが軽くなった。
紬はボスの背中を撫でながら、ぽつりと呟いた。
「……今日は、疲れちゃった」
「だろうな。もう寝ちまえ」
「……まだ、夕方だよ」
「関係ねえだろ。疲れてるなら休め」
ボスはそう言うと、紬の胸元で丸くなった。
紬はその姿を見て、自然と笑みがこぼれた。
「……ボスも、一緒に寝る?」
「仕方ねえな。付き合ってやるよ」
言葉とは裏腹に、ボスはすでに目を細めている。
アイリスが穏やかに微笑んだ。
『お二人とも、どうぞごゆっくり。夕食の時間になりましたら、お声がけします』
「……ありがとう、アイリス」
紬はソファに身体を預け、ボスを抱きしめたまま目を閉じた。
外では、車が走り、人々が行き交い、いつもどおりの時間が流れている。
今日、自分がしたことを知っている人は、ほとんどいない。
それでいいのだと思った。
誰かに褒められたいわけでも、特別な存在だと認められたいわけでもない。
ただ、あの親子がこれからも一緒に笑っていられるなら、それだけで十分だった。
紬は腕の中の温かさを確かめながら、眠りへ落ちていった。
棚の上では、屋根の少し浮いた紙の家と、ボスの作った小さな船が、夕方の柔らかな光を受けて並んでいた。




