第16話 救える命があるのなら
静止した交差点の中央で、小鳥遊紬は自分の右手を見つめていた。
指先に傷はなく、掌には何の変化もない。それなのに、ほんの少し意識を緩めただけで、周囲の時間が動き出そうとする。そう理解した今、手を下ろすことさえためらわれた。
目の前では、母親が幼い男の子を抱きしめたまま横断歩道に倒れている。二人に迫った乗用車は、母親の背中まであとわずかという位置で止まっていた。
救助を決意したところで、状況が好転したわけではなかった。親子を移動させようとしても動かず、車を無理に動かせば運転手を危険にさらすかもしれない。今の紬には、時間が止まったように見える現象の仕組みさえ分かっていなかった。
ただ、考えるための時間だけは手に入れている。
紬は一度、車から距離を取った。
近づきすぎると、視界に入るものが車体と親子だけになってしまう。少し離れて交差点全体を見渡せば、ほかの歩行者や周囲の建物も確認できた。
歩道へ飛び退こうとしている男性、買い物袋を落とした女性、交差点の角で自転車を止めようとしている人。全員が動きを止めていた。
道路上には、転がった黄色い玩具の車がある。
紬はそれを見つめ、ふと気づいた。
さっき、紙片を動かすことはできた。
ならば、ほかの物も動かせるのだろうか。
紬は足元の小石に意識を向けた。小石は何の抵抗もなく浮き上がり、ゆっくりと横へ移動した。
続いて、横断歩道の端に落ちていた玩具の車を浮かせてみる。こちらも問題なく動いた。
物を動かす能力は、失われていない。
紬は小石と玩具を元の位置に戻し、今度は乗用車の前輪を見つめた。
車体全体ではなく、タイヤだけに働きかけるつもりで、ほんのわずかな力を加えてみる。
何も起こらなかった。
同じ場所に落ちている小石は動かせるのに、車輪はぴくりともしない。
紬は眉を寄せた。
車と人間には共通点がある。どちらも、時間が止まった瞬間に動いていたものだ。
しかし、舞い上がった砂粒も静止していたし、先ほどの玩具だって転がっている途中だった。動いていたかどうかだけでは説明がつかない。
そこで紬は、別の可能性を考えた。
自分が止めたかったのは、車が親子に衝突するまでの出来事だった。
危険なものが動かないように、という願いが、無意識のうちに働いているのではないだろうか。
そうだとしたら、親子を動かせない理由も説明できるかもしれない。彼らが車の前へ戻ってしまうことまで防ごうとして、必要以上に固定している可能性がある。
「……止めることばっかり、考えてたから?」
紬は自分の声を聞きながら、少しだけ納得した。
これまでの実験では、思い描いた結果が曖昧なままだと、意図しない形で物が現れることがあった。逆に、完成後の状態まで具体的に考えれば、複雑な装置でも自然に創造できた。
今の現象も、それと似ているのかもしれない。
紬は親子の前に戻り、しゃがみ込んだ。
まず、二人を動かすことだけを考えるのはやめよう。
身体に負担をかけず、安全な歩道へ移動し、その場所で静止した状態を保つ。周囲の時間を動かさなくても、二人だけは移動できるようにする。
頭の中で、望む結果を一つずつ組み立てる。
母親の肩や腕を引っ張るのではなく、身体全体を均等に支える。男の子も同じように包み込み、二人が抱き合った姿勢を崩さない。服や髪だけが取り残されることもなく、呼吸や血液の状態にも不自然な変化を与えない。
紬はそこまで考えたところで、動きを止めた。
呼吸や血液。
時間が止まっているなら、それらも止まっているのだろうか。
もしそうなら、長く止め続けること自体が危険かもしれない。
しかし、今の自分は普通に呼吸できている。時間が止まっている範囲や対象は、最初から一様ではないのかもしれなかった。
分からないことは多い。それでも、目の前の親子が危険な位置にいることだけは変わらない。
紬は慎重に意識を集中させた。
「……二人とも、こっちへ」
母親の身体が、ほんのわずかに浮いた。
紬は息を呑んだ。
先ほどは何をしても動かなかった身体が、今度は確かに動いている。
男の子も母親に抱きしめられた姿勢のまま、ゆっくりと道路から離れた。
紬は慌てて二人を歩道の方へ導いた。
速度は、人が普通に歩くよりも遅い。少しずつ位置を変えながら、身体に不自然な力がかかっていないか確認する。
やがて二人は、交差点の角にある建物の壁際まで移動した。
紬はそこに柔らかな敷物を創造し、母親と男の子を静かに下ろした。道路から十分に離れた位置であることを確かめてから、敷物の下に衝撃を吸収する仕組みも加える。
倒れた姿勢を無理に起こさず、母親が子どもを抱いたまま休めるようにした。
「……できた」
思わず声が漏れた。
胸の奥に溜まっていた緊張が、少しだけ緩む。
だが、安心するにはまだ早かった。
車は依然として横断歩道の上にあり、運転手も乗ったままだ。親子がいなくなったことで直接の衝突は避けられるかもしれないが、このまま車が歩道へ突っ込めば、別の人が巻き込まれる可能性がある。
紬は立ち上がり、車へ向かった。
近くで見ると、車体の前部には縁石を乗り越えた際についたらしい傷があり、タイヤの向きも不自然だった。
運転席の人物は、両手でハンドルを握りしめている。
年齢までは分からない。顔は強張り、口が半開きになっていた。
紬はその表情を見て、胸が重くなった。
この人も、きっと怖かったのだ。
車がなぜ制御を失ったのかは分からない。運転手の不注意なのか、車に異常があったのか、それとも別の事情があるのか。今の紬に判断できることではなかった。
けれど、原因が何であれ、ここで命を失っていい理由にはならない。
紬は車の周囲を見渡した。
乗用車をそのまま移動させる方法もあるが、運転手の身体まで一緒に安全に移せるかは、まだ確かめていない。親子の移動に成功したとはいえ、車内の複雑な構造まで含めた移動は別の問題だった。
それなら、車を今の位置で安全に止める方法を考えたほうがいい。
紬は路面に手をかざした。
車体を支える透明な構造物を、車の周囲に創造する。
ただし、急に車を押さえつけるものではない。車の動きを徐々に受け止め、運転手に大きな衝撃が伝わらないよう、車体の各部分に合わせて力を分散する仕組みを持たせる。
さらに、車輪の下には路面との摩擦を調整できる層を設けた。
これまで秘密基地で創造してきた衝撃隔離装置や重力調整の仕組みを思い出しながら、紬は必要な機能を組み合わせていった。
目の前に現れた装置は、ほとんど透明だった。
車体の周囲を薄い膜のように包み、内部には複雑な力の伝達経路が組み込まれている。
紬には、その構造が理解できた。
どこに衝撃が加われば、どの部分が受け止めるのか。車体が傾いた場合、どの方向へ力を逃がすのか。運転手の身体へ伝わる加速度を、どのように抑えるのか。
創造した瞬間、それらの仕組みが頭の中に流れ込んでくる。
紬は少しだけ安心した。
少なくとも、この装置が何をするものなのかは分かる。
ただし、実際に動いている車を止めた経験はない。
だからこそ、最初から大きな力を加えるのではなく、時間を少しずつ動かしながら確かめることにした。
紬は車の前方から離れ、歩道側の安全な位置へ移動した。
親子が敷物の上にいることをもう一度確認する。
周囲の歩行者との距離も確かめた。
そして、時間の停止をほんの少しだけ緩めた。
タイヤの近くに浮いていた砂粒が、ゆっくりと落ち始めた。
車体がわずかに前へ進む。
その動きに合わせて、透明な装置が力を受け止めた。
紬は慎重に様子を見守った。
車はほとんど進まない。
しかし、完全に静止しているわけでもない。運転手の身体は、ほんのわずかに前方へ傾いた。
紬はすぐに時間を止め直した。
車体の位置を確認し、装置の内部構造を見直す。
衝撃を受け止める部分に負担が集中していたため、力を分散する範囲を広げた。さらに、運転席の座席とシートベルトが身体を支える状態を補助する仕組みを加える。
今度は、運転手の頭部や首に急な力が加わらないようにした。
紬は何度も装置の構造を確認し、もう一度だけ時間を緩めた。
車体が少し動く。
透明な膜がそれに合わせて変形し、力を吸収する。
運転手の身体には、先ほどよりも穏やかな動きが伝わっていた。
紬は停止状態へ戻し、装置をさらに調整した。
同じことを繰り返すうちに、車が進む距離は少しずつ短くなっていった。
やがて、時間を緩めても車体がほとんど動かない状態になった。
紬は額に浮かんだ汗を拭った。
身体を激しく動かしているわけではない。それでも、集中し続けることに疲れを感じていた。
車を安全に止められる見込みは立った。
あとは、時間を元に戻すだけ。
そう考えたとき、紬は別の問題に気づいた。
この透明な装置を、どうするのだろう。
事故現場に突然現れた正体不明の構造物など、誰が見ても不自然だ。
親子の下に敷いた敷物も同じだった。
今は人命が最優先だが、能力の存在を知られれば、今後の生活がどうなるか分からない。
紬は唇を結んだ。
秘密を守ることは、ずっと大切にしてきた。
ボスやアイリスと穏やかに暮らし、好きなことをして過ごす。そんな日常を失いたくなかった。
けれど、今ここで能力を使わなければ、誰かが命を落としていたかもしれない。
その事実を前にすると、秘密を守ることだけを優先する気にはなれなかった。
紬は車の周囲をもう一度見渡した。
装置は、役目を終えたあとで周囲に影響を与えず消えるようにできるだろうか。
以前、創造したスマートフォンを消そうとして、うまくいかなかったことがある。
しかし、それは既存の物を後から消そうとしたときの話だ。
最初から、一定の条件で形を変え、周囲へ影響を残さず別の場所へ収納される構造を持たせればいい。
紬は装置の仕組みを作り直した。
車の停止が完了したことを確認したあと、構造物を構成する部分が順番に分離し、紬の指定した収納空間へ移動する。路面や車体に何かが残らないよう、接触部分の状態も整える。
親子の敷物も、同じように後から回収できるようにした。
ただし、今すぐ消すつもりはなかった。
親子の安全が確認できるまでは、身体を支えるものを残しておいたほうがいい。
紬は装置の調整を終え、深く息を吐いた。
これで、できる限りの準備は整えた。
それでも、時間を戻すことには恐怖が残っていた。
もし装置が思ったとおりに働かなかったら。
もし親子が目を覚まさなかったら。
もし自分が見落としている危険があったら。
考え始めれば、いくらでも不安が浮かんでくる。
紬はその場にしゃがみ込み、膝の上で両手を握った。
誰かに相談したかった。
アイリスなら、今の状況を整理してくれるだろう。自分が気づかなかった問題を指摘し、必要な確認項目を教えてくれるかもしれない。
ボスなら、難しいことを考えすぎている自分に、もっと簡単な言葉をかけてくれる気がした。
けれど、今はどちらとも話せない。
紬は目を閉じた。
家を出るとき、ボスはいつもどおり魚の土産を頼んできた。
アイリスは経路を案内し、困ったら呼ぶように言ってくれた。
何も特別なことはなかった。
そんな日常の途中で、突然、命に関わる出来事が起きてしまった。
紬はゆっくりと目を開けた。
ボスなら、何と言うだろう。
きっと、怖いなら怖いと言えばいい、と言うかもしれない。
それでも助けたいなら、自分ができることをやれ、と。
実際にそう言ってくれるかは分からないが、紬は少しだけ気持ちが落ち着くのを感じた。
完璧な方法を見つけるまで、何もしないわけにはいかない。
今の自分にできる限りの準備をして、必要なら途中で調整する。
そのために、時間を止めているのだから。
紬は立ち上がった。
「……大丈夫。きっと、大丈夫」
小さく呟き、車と親子をもう一度確認する。
車は透明な装置に支えられ、横断歩道の上で静止している。親子は道路から離れた場所に移され、周囲の人たちとの間にも十分な距離がある。
紬は歩道の端に立ち、意識を集中させた。
時間を元に戻す。
ただし、いきなりすべてを解放するのではなく、車と周囲の動きを少しずつ確かめながら。
紬は慎重に、停止していた世界を動かし始めた。
最初に聞こえたのは、かすかなタイヤの音だった。
続いて、空中に舞っていた砂粒が落ち、風に飛ばされていた紙片がゆっくりと動き始める。
車体が前へ進もうとした。
透明な装置がその動きを受け止める。
車は小さく揺れたが、大きく跳ねることはなかった。
運転手の身体も、座席に支えられたまま前後にわずかに動くだけだった。
紬は息を詰めて見守った。
車の速度が落ちていく。
そして、完全に止まった。
紬は一瞬、何も考えられなくなった。
成功した。
少なくとも、車は誰にも衝突せずに止まった。
紬は装置の状態を確認し、周囲に危険がないことを確かめてから、残りの停止を解除した。
その瞬間、交差点に音が戻った。
人々の叫び声、車のエンジン音、遠くの信号機の音。さっきまで失われていた日常の音が、一度に押し寄せてくる。
「危ない!」
「きゃあっ!」
通行人たちは、車が突っ込んできた直後の反応を続けていた。
だが、彼らの目の前では、すでに車が停止している。
何が起きたのか分からない様子で、何人かが立ち尽くした。
紬は歩道の端で、静かにその光景を見つめていた。
車の周囲にある透明な装置は、役目を終えた部分から順番に収納されていく。
周囲の人々は事故そのものに気を取られており、その変化に気づいた様子はなかった。
紬は装置が完全に回収されたことを確かめると、親子の方へ目を向けた。
母親が、ゆっくりと顔を上げていた。
女性は自分の腕の中にいる男の子を見下ろし、それから周囲を見回した。
さっきまで横断歩道の中央にいたはずなのに、今は建物の壁際にいる。
何が起きたのか理解できないらしく、何度も道路と自分の足元を見比べていた。
「……え?」
母親の声が聞こえた。
男の子が小さく身じろぎをする。
「ママ……?」
「大丈夫? 痛いところはない?」
女性は慌てて子どもの身体を確かめ始めた。
男の子は驚いた様子で母親を見上げたが、すぐに泣き出した。
その泣き声を聞いた瞬間、紬の目に涙が浮かんだ。
泣いている。
声を出している。
母親に抱きついている。
それだけのことが、今はたまらなく嬉しかった。
紬は思わず二人のもとへ駆け寄りそうになった。
しかし、途中で足を止めた。
母親は子どもを抱きしめながら、周囲へ助けを求めるように視線を向けている。
近くにいた女性が駆け寄り、親子へ声をかけた。
「大丈夫ですか? 救急車、呼びましょうか?」
「すみません、私……何が……」
母親は混乱していた。
紬はその様子を見て、胸が痛んだ。
自分が二人を移動させたことを説明すれば、少なくとも突然場所が変わった理由は分かるだろう。
けれど、どう説明すればいいのか分からなかった。
時間を止めて、身体を浮かせて、歩道へ移しました。
そんなことを言って、信じてもらえるだろうか。
紬は口を開きかけ、結局何も言えなかった。
その間にも、周囲の人たちは動き始めていた。
誰かが緊急通報をしている。別の人は車の運転席へ近づき、窓越しに運転手へ声をかけていた。
運転手は呆然としていたが、呼びかけには反応しているようだった。
紬はそれを見て、少しだけ安心した。
少なくとも、運転手も意識がある。
親子も会話ができている。
大きな衝突は起きなかった。
紬はようやく、胸の奥に溜まっていた息を吐き出した。
そのとき、バッグの中でスマートフォンが震えた。
紬はびくりと肩を揺らした。
画面を見ると、アイリスからの通知が届いていた。
『マスター、現在位置で急激な移動情報の変化が確認されました。ご無事でしょうか』
紬は画面を見つめた。
アイリスからのメッセージ。
いつもなら、当たり前のように届くものだった。
それなのに今は、その短い文章がひどく頼もしく感じられた。
紬は震える指で返信を打った。
『大丈夫。事故があったけど、私は無事』
送信してすぐに、着信が入った。
アイリスからだった。
紬は周囲の騒ぎから少し離れ、スマートフォンを耳に当てた。
「……もしもし」
『マスター。お声が聞けて安心しました。現在、周辺で交通事故に関する通報が発生していることを確認しています。お怪我はありませんか』
「……うん。私は、怪我してない」
『承知しました。事故に巻き込まれた方はいらっしゃいますか』
紬は親子と運転手へ視線を向けた。
「……車が、突っ込んできて……でも、止められたから」
『止められた、というのは、マスターが能力を使用されたということでしょうか』
「……うん」
電話の向こうで、ほんの短い間があった。
『状況を詳しく伺いたいところですが、まずはマスターの安全を優先します。現場から離れられる状態でしょうか』
紬は周囲を見回した。
事故現場では、通行人たちが協力して親子と運転手の様子を確認している。
紬自身は車に接触していないし、怪我もしていない。
ただ、今すぐ立ち去っていいのかは分からなかった。
「……私、ここにいたほうがいいのかな」
『目撃者として事情を尋ねられる可能性はあります。無理にその場を離れる必要はありません。ただし、事故車両へ近づかず、安全な場所でお待ちください』
「……分かった」
紬は電話を切らずに、歩道の端へ移動した。
そこで初めて、自分の足が震えていることに気づいた。
力を使っている間は、怖さを考える余裕がなかった。
親子を移動させ、車を止めることだけに集中していた。
だが、すべてが終わった今になって、身体が恐怖を思い出したようだった。
紬は近くの壁に背中を預けた。
「……アイリス」
『はい、マスター』
「……怖かった」
口にした途端、涙が頬を伝った。
紬は慌てて目元を拭った。
「……もし、間に合わなかったらって……」
『はい』
「……助けられなかったら、どうしようって……」
言葉が続かなかった。
アイリスはすぐに何かを説明しようとはしなかった。
代わりに、落ち着いた声で答えた。
『マスターが無事で、本当によかったです』
その言葉を聞いて、紬はさらに涙が溢れそうになった。
アイリスは続けた。
『救助の結果については、後ほど確認できます。今は安全な場所にいてください。ボス様にも、マスターが無事であることをお伝えします』
「……ボス、心配するかな」
『おそらく、かなり心配されると思います』
紬は少しだけ笑った。
「……怒られちゃうかも」
『その可能性もあります。ただし、まず抱きしめられるのではないでしょうか』
紬は目を伏せた。
家に帰ったら、ボスを抱っこしたい。
あの温かい羽毛に顔を埋めて、何も考えずに休みたかった。
けれど、今はまだ帰れない。
紬は涙を拭い、事故現場へ目を向けた。
親子の周囲には、何人かの人が集まっていた。
母親は男の子を抱いたまま、何度も頭を下げている。
男の子は泣き止みかけていたが、まだ母親の服を強く握っていた。
その姿を見て、紬はふと思った。
もし、自分に力がなかったら。
もし、あの瞬間に時間を止められなかったら。
今ここにある光景は、まったく違うものになっていたかもしれない。
紬はスマートフォンを握り直した。
「……アイリス」
『はい』
「……私、能力を使っちゃった」
『そのようですね』
「……誰かに見られたかもしれない」
『その可能性は否定できません。現場の状況や記録については、後ほど確認しましょう』
「……うん」
紬は小さく頷いた。
秘密が知られることは怖い。
今までの生活が変わってしまうかもしれないと思うと、不安になる。
それでも、あの場面でもう一度同じ選択を迫られたら、きっと自分は同じことをするだろう。
紬はそう思った。
自分には、人を助けられる力がある。
それを知っていて、何もしないまま目の前の命が失われるのを見ていることなど、できなかった。
もちろん、すべての人を助けられるとは限らない。
今の自分には、能力の使い方が分からないことも多い。
時間を止めることさえ、今日初めて経験したばかりだ。
けれど、だからといって、何もしない理由にはならない。
紬は事故現場を見つめながら、静かに息を吸った。
救急車のサイレンが、遠くから近づいてくる。
人々の声が交差点に響き、車の運転手が警察への説明を求められている。
親子は安全な場所に座り、周囲の人たちに見守られていた。
紬はその光景を見て、ようやく自分がしたことを実感し始めた。
誰かの命を救うというのは、もっと特別なことだと思っていた。
勇敢な人が、迷わず行動するものだと。
けれど実際には、怖くて、迷って、何度も失敗しそうになった。
それでも、助けたいと思った。
ただ、それだけだった。
紬はスマートフォンを耳に当てたまま、小さく呟いた。
「……助かって、よかった」
アイリスは静かに答えた。
『はい。本当によかったです』
紬は頷き、もう一度親子へ目を向けた。
男の子が母親の腕の中で、ようやく少しだけ笑っていた。
その笑顔を見た瞬間、紬は今日、自分が何を守りたかったのかを理解した気がした。
万物創造で作れるものは、きっと数え切れないほどある。
けれど、目の前の誰かが生きていること、その人がこれから過ごすはずだった時間は、ただ物を作るのとは違う。
失われてから、同じものを作り直せばいいとは思えなかった。
だからこそ、間に合ってよかった。
紬は胸の前でスマートフォンを握りしめ、静かに目を閉じた。
怖さはまだ消えていない。
足の震えも、すぐには収まりそうになかった。
それでも、後悔だけはなかった。
もしまた、目の前で誰かの命が失われそうになったら。
そのときも、自分にできることをしたい。
紬はそう心に決め、ゆっくりと目を開けた。
交差点には、いつもの時間が流れていた。




