第15話 その瞬間、時間が止まった
小鳥遊紬が外出を決めたのは、昼食を終えてから間もないころだった。
きっかけは、リビングの棚に飾られた小さな紙の家だった。先日の休日に自分で作ったもので、隣にはボスが制作した『無敵艦隊ボス一号』が並んでいる。どちらも特別な機能を持たない工作品だが、紬は通りかかるたびに眺めていた。
その紙の家の屋根が、少し浮いていた。
「……あれ?」
手に取って確かめると、接着した部分が剥がれかけている。指で押さえれば元の位置に戻るものの、離すとまた隙間ができてしまった。
万物創造を使えば、修復することなど簡単だった。形を整え、材質を変え、二度と壊れないようにすることだってできる。
けれど、それでは何となく違う気がした。
「どうした、紬」
ソファの上でゲームをしていたボスが、画面から顔を上げた。
「……この前作ったおうち、ちょっと壊れちゃった」
「どれどれ」
紬が差し出すと、ボスは屋根の端を覗き込み、納得したように頷いた。
「のりが足りなかったんじゃねえか?」
「……そうかも」
「なら、また貼りゃいいだろ。まだ材料残ってんじゃねえの?」
「あるけど……もう少し、ちゃんとしたのが欲しいな」
紬は工作用品をしまった引き出しを開けた。色紙や厚紙はまだ十分にあるが、接着剤は普通の液体のりしかない。細かい部分を固定するには、少し使いにくかった。
工作用の接着剤を作ろうとして、紬はふと手を止めた。
「……買いに行こうかな」
「何を?」
「工作用の接着剤。あと、可愛い紙とか、飾りとか」
ボスはゲーム機を置いた。
「作れるだろ、お前なら」
「うん。でも……お店で見て選びたいなって」
自分で何でも作れるようになってから、買い物へ行く機会は随分と減った。食材も日用品も、必要なものは家で揃ってしまう。外へ出なくても困らない暮らしは快適だったが、だからといって街を歩くことまで嫌いになったわけではない。
店先に並んだ商品を眺めたり、思いがけず好みのものを見つけたりする楽しさは、今でも覚えている。
「いいじゃねえか。俺も行く」
ボスが即座に答えたので、紬は少し困った顔になった。
「……ボスも?」
「当たり前だろ。お前だけで楽しんでくるつもりかよ」
「そうじゃないけど……」
紬は彼の丸い身体を見下ろした。
身長四十センチほどの、言葉を話すペンギン。家の中ではすっかり見慣れた存在だが、街へ連れていけば目立つに決まっている。
何より、ボスの存在を他人にどう説明するのか、まだ考えていなかった。
紬が返事に迷っていると、アイリスのホログラムが窓際に現れた。
「外出をご予定でしたら、いくつか確認したいことがあります」
「……アイリス」
「まず、ボス様の同行についてです。一般の店舗へ入る場合、衛生上の規則や施設側の判断によって、動物の同伴を断られる可能性があります」
「俺はそこらの動物とは違うぞ」
「存じております。ただ、外見からその違いを理解していただくことは難しいでしょう」
ボスは不満そうにくちばしを曲げたものの、反論はしなかった。
紬は少し考え、ソファの隣に腰を下ろした。
「……じゃあ、今日はお留守番しててもらったほうがいいかな」
「おいおい、せっかく俺も行く気になったのによ」
「……ごめんね。でも、外で何か言われたら、私、うまく説明できないと思う」
その言葉を聞くと、ボスは紬の表情を見つめた。
彼女が知らない人との会話を苦手としていることは、誰よりもよく知っている。自分が一緒に行けば助けられる場面もあるだろうが、そもそも同行すること自体が余計な騒ぎを招くかもしれない。
「……まあ、しょうがねえか。今日は我慢してやるよ」
「ありがとう」
「その代わり、何か土産買ってこい」
「……何がいい?」
「うまいもん。できれば魚」
「工作用品のお店に魚は売ってないと思う……」
「帰りに寄ればいいだろ」
紬が笑うと、ボスは満足そうに頷いた。
アイリスは二人のやり取りが落ち着いたところで、外出先までの経路を端末に表示した。
「徒歩で行ける範囲に文具と工作用品を扱う店舗があります。混雑の少ない道を選ぶことも可能ですが、いかがなさいますか?」
「……うん。歩いて行きたい」
「承知しました。必要でしたら、端末からいつでも私をお呼びください」
紬は画面を眺め、少しだけ迷った。
アイリスに頼めば、買い物そのものを代行してもらうこともできるだろう。けれど今日は、店に行くこと自体が目的だった。
「……道は大丈夫。知ってるところだから」
「では、交通状況などにお気をつけください」
「うん」
紬は立ち上がり、外出の支度を始めた。
いつもの部屋着から淡い色のブラウスとスカートに着替え、小さなショルダーバッグに財布とスマートフォンを入れる。鏡の前で短い焦げ茶色の髪を整え、横髪を留める小さなクロス型のヘアピンが曲がっていないか確認した。
特別なおしゃれをしたわけではない。それでも、久しぶりに買い物へ出かけると思うと、少し気分が弾んだ。
リビングへ戻ると、ボスはすでにゲームを再開していた。
「……行ってくるね」
「おう。気をつけてな」
「お土産、忘れないから」
「そこが一番大事だぞ」
「……ふふっ」
紬はボスを抱き上げ、柔らかな頭を一度だけ撫でた。彼は慣れた様子で腕の中に収まり、紬の頬にくちばしを寄せる。
「まあ、あんまり遅くなんなよ。帰ったら続きやるんだからな」
「……うん」
紬は名残惜しそうにボスをソファへ戻した。
アイリスにも声をかけ、玄関へ向かう。
扉を開けると、外の空気が頬に触れた。家の中はいつも快適な温度に保たれているため、季節の変化を肌で感じる機会も少なくなっていた。
紬は小さく息を吸い込み、玄関の鍵をかけた。
今日は、普通の買い物を楽しもう。
そんな、何でもない予定だった。
家から少し歩くと、住宅街の静かな道が大きな通りへつながっていた。
休日の午後らしく、道路には車が行き交い、歩道には買い物帰りらしい人たちの姿があった。近くの公園から子どもの声が聞こえ、街路樹の葉が風に揺れている。
紬はショルダーバッグの位置を直しながら、ゆっくりと歩いていた。
道沿いの店には季節の商品が並び、飲食店の前には新しいメニューを知らせる看板が出ている。普段なら見過ごしてしまうような光景も、今日は少し新鮮に感じられた。
途中、花屋の店先で足を止めた。
色とりどりの花が並ぶ棚の一角に、小さな鉢植えが置かれている。丸みのある葉が可愛らしく、紬はしばらく眺めていた。
家の中に植物を置くのもいいかもしれない。
そう考えたものの、すぐには買わなかった。植物なら自分でも作れるし、自然環境実験区画にはすでに森林まで存在している。
けれど、目の前の鉢植えは、誰かが育て、店まで運んできたものだ。
同じ種類の植物を創造したとしても、それまでに積み重ねられた時間まで同じになるわけではない。
紬は少し迷ってから、帰りにもう一度見てみようと決めた。
そのまま歩き続け、信号のある交差点に差しかかったところで、スマートフォンが短く震えた。
画面にはボスからのメッセージが表示されていた。
『魚忘れんなよ』
紬は立ち止まり、思わず笑ってしまった。
まだ家を出てからそれほど経っていない。きっと、ゲームの合間に思い出したのだろう。
返事を打とうとして、歩道の端に立っていることに気づく。紬は少し後ろへ下がり、周囲の邪魔にならない場所で画面を操作した。
『忘れないよ。何がいい?』
すぐに返信が届いた。
『でっけえやつ』
「……それじゃ分かんないよ」
紬は小声で呟いた。
続けて、アイリスからもメッセージが入る。
『ボス様には、購入した食品をそのままお渡しになる前に、適切な調理方法をご確認ください』
どうやら二人とも、家でいつもどおり過ごしているらしい。
紬は安心し、端末をバッグにしまった。
交差点の向こうには、目的の文具店へ続く道がある。信号が変わるのを待ちながら、紬は買いたいものを頭の中で整理した。
接着剤、模様のついた紙、小さな飾り。それから、ボスが使いやすそうな工作道具も見てみたい。
店に入ってしまえば、予定より長居するかもしれない。そんなことを考えていると、歩行者用信号が青に変わった。
周囲の人たちが動き始める。
紬もそれに合わせて、一歩を踏み出した。
交差点は特別に大きいわけではなかった。片側一車線の道路が交わり、角には小さな商店と駐車場がある。見通しも悪くなく、日頃から多くの人が利用している、ごく普通の場所だった。
紬は横断歩道を渡りながら、向こう側の歩道へ目を向けた。
そこには、幼い男の子と母親らしい女性が立っていた。
男の子は小さなリュックを背負い、片手に黄色い玩具の車を持っている。女性は買い物袋を提げ、もう一方の手で子どもの手を握っていた。
二人は信号が変わったのを確認し、こちらへ向かって歩き始めた。
すれ違うとき、男の子が玩具を持ち上げた。
「ねえ、見て。これ、速いんだよ」
「うん。でも、前を見て歩こうね」
母親の声が聞こえた。
紬は何となく、その親子へ視線を向けた。
男の子は楽しそうに笑っている。玩具の車を動かす仕草に合わせて、小さな口からエンジン音のような声が漏れていた。
その姿が微笑ましくて、紬の口元にも自然と笑みが浮かんだ。
次の瞬間だった。
甲高い音が、交差点に響いた。
最初は何の音なのか分からなかった。
金属を引きずるような、耳に刺さる音。それに重なるように、誰かの短い叫び声が聞こえた。
紬が顔を上げると、交差点へ進入してきた一台の乗用車が視界に入った。
車は不自然な角度で傾きながら、横断歩道へ向かっていた。
前輪が縁石に乗り上げたのか、車体が大きく跳ねる。タイヤが路面を擦り、白い煙のようなものが立ち上った。
運転席の人物が何かを叫んでいるように見えたが、声までは聞き取れなかった。
紬は足を止めた。
車が、こちらへ来る。
そう理解するまでに、ほんのわずかな時間が必要だった。
周囲の人々が動き始める。
誰かが歩道へ飛び退き、別の誰かが大声を上げた。買い物袋が落ち、中身が道路に散らばる。
紬も逃げなければならないと思った。
けれど、そのとき視界の端で、小さな黄色いものが跳ねた。
男の子が持っていた玩具の車だった。
母親が急いで子どもを引き寄せようとした拍子に、玩具が手から滑り落ちたらしい。
黄色い車は横断歩道の上を転がり、二人の足元から離れていった。
男の子は反射的に、その玩具を追おうとした。
「だめっ!」
母親の叫び声が響く。
女性は子どもの腕をつかんだが、足をもつれさせ、その場に膝をついた。
男の子も引っ張られる形で転び、二人は横断歩道の中央付近に倒れ込んだ。
車は、すでにすぐ近くまで迫っていた。
紬の頭の中で、いくつもの考えが同時に浮かんだ。
逃げて。
立って。
危ない。
声を出そうとしたのに、喉が動かなかった。
車の速度も、二人との距離も、正確には分からない。ただ、このままでは間に合わないということだけが、恐ろしいほどはっきりしていた。
母親は子どもを抱き寄せ、自分の身体で覆うようにしていた。
男の子の顔は見えない。
紬は、その光景から目を離せなかった。
もし、何もできなかったら。
そう考えた瞬間、胸の奥が強く締めつけられた。
自分には力がある。
物を作り、重力を変え、空間を移動することさえできる。昨日までの自分なら想像もできなかったような現象を、今は当たり前のように起こせる。
それなのに、目の前で起きていることに、身体が追いつかない。
紬は一歩を踏み出した。
助けなければ。
そう思った。
けれど、次の瞬間には別の考えが浮かんだ。
どうやって?
車を止めるのか。
二人を移動させるのか。
自分が間に入るのか。
何が一番安全なのか。
失敗したら、どうなるのか。
普段の実験なら、アイリスと相談して準備を整え、危険を避けるための条件を考えることができた。うまくいかなければ、結果を記録して次の方法を試せばよかった。
だが、今は違う。
目の前にいるのは、実験用の人形でも、創造した装置でもない。
生きている人間だった。
間違えたときに、もう一度やり直せる保証などない。
紬の視界に、車の前部が大きく迫った。
母親が子どもを抱きしめる。
その背中へ、車体の影が落ちた。
紬は無意識に右手を伸ばした。
「……待って」
自分でも驚くほど小さな声だった。
それでも、頭の中では、たった一つの願いが強く形を結んでいた。
止まって。
お願いだから。
今だけでいいから。
何もかも、止まって。
その瞬間、音が消えた。
タイヤが路面を擦る音も、周囲の叫び声も、遠くで鳴っていた車のエンジン音も、すべてが途切れた。
紬は何が起きたのか分からず、伸ばした手をそのままに立ち尽くした。
目の前には、横断歩道へ突っ込もうとしていた車があった。
車体は傾いたまま、動いていない。
前輪の近くに舞い上がった細かな砂粒が、空中に浮かんでいる。
風に飛ばされていた紙片も、落ちかけた買い物袋も、道路へ転がっていた黄色い玩具の車も、すべてが途中の姿勢で止まっていた。
紬は瞬きをした。
見間違いではない。
車は、母親と男の子のすぐ手前で静止している。
母親は子どもを抱きしめた姿勢のまま、動かない。
横断歩道の向こうで逃げようとしていた男性も、片足を浮かせたまま止まっていた。
世界中の人が、突然、写真の中に閉じ込められてしまったようだった。
「……え?」
紬の声だけが、奇妙な静けさの中に響いた。
自分の声が聞こえる。
呼吸もできる。
心臓は激しく動いていて、足の裏には道路の硬さが伝わっている。
紬は恐る恐る、伸ばしていた右手を下ろした。
動く。
指も、腕も、身体も、いつもどおり動かせる。
けれど、周囲は何一つ変わらなかった。
紬はゆっくりと首を巡らせた。
空中に舞っている砂粒の一つが、目の高さにあった。
手を伸ばし、指先を近づける。
触れる寸前で、紬は動きを止めた。
もし、これに触れたらどうなるのだろう。
落ちるのか。
動くのか。
それとも、何かおかしなことが起きるのか。
そんな疑問が浮かんだが、確かめようという気持ちにはなれなかった。
今は、そんなことをしている場合ではない。
紬は車へ目を戻した。
車体の前端と、倒れている親子との距離は、ほんのわずかだった。
あと少し遅ければ、二人は車に巻き込まれていたかもしれない。
その事実を理解した途端、膝から力が抜けそうになった。
「……よかった」
口にしたものの、すぐに違和感を覚えた。
本当に、よかったのだろうか。
事故はまだ終わっていない。
車が止まっているだけで、親子は危険な場所に倒れたままだ。
それに、周囲の人たちがどうなっているのかも分からない。
紬は自分の手を見つめた。
何もかも止まってほしいと願った。
その直後に、世界が静止した。
偶然だとは思えなかった。
万物創造の応用として、時間そのものに干渉したのだろうか。
これまで重力を直接変えたり、空間を飛び越えたりすることはできた。だが、時間を止めようと考えたことは一度もなかった。
そもそも、時間を止めるとはどういうことなのか。
自分だけが動ける理由は何なのか。
停止した世界の中で呼吸できているのは、なぜなのか。
疑問はいくらでも浮かんできたが、今の紬には答えを考える余裕がなかった。
目の前にいる二人を助けなければならない。
紬は車と親子の間に視線を走らせた。
このまま車を遠くへ移動させれば、安全になるだろうか。
しかし、運転席には人がいる。
車だけを動かしてしまえば、乗っている人に何が起こるのか分からない。急に位置が変わったとき、車内の人間に衝撃が加わる可能性もある。
それなら、親子を歩道へ移せばいい。
そう考えたものの、二人は今、時間が止まったような状態にある。
触れても大丈夫なのか。
身体を動かしたときに、どこかを傷つけたりしないだろうか。
紬は唇を噛んだ。
普段なら、何かを試す前にいくらでも準備ができた。
だが、今は初めての現象を、いきなり人命がかかった状況で扱おうとしている。
怖かった。
力が足りないからではない。
何でもできるはずなのに、何をすれば本当に安全なのか分からないことが、恐ろしかった。
紬はバッグへ手を伸ばした。
アイリスに相談しよう。
そう思ったのだ。
スマートフォンを取り出し、画面を確認する。
表示は消えていなかった。
だが、時計の数字は変わらず、通知も届かない。
紬は画面に触れた。
操作はできる。
アイリスへ呼びかけるための画面を開き、音声入力を試した。
「……アイリス?」
返事はなかった。
もう一度呼んでも、何も起こらない。
紬は端末を見つめた。
アイリスの演算中核は、秘密基地の作業室にある。もし、今の現象がそこにまで及んでいるのなら、彼女自身も動けないのかもしれない。
ボスも。
家にいる二人のことを思い出し、紬の胸が痛んだ。
ほんの少し前まで、ボスは魚のお土産を楽しみにしていた。アイリスはいつもどおり、二人の生活を支えてくれていた。
その二人が、今どうなっているのか分からない。
紬は慌てて端末を握り直した。
「……どうしよう」
誰も答えてくれない。
静止した交差点には、自分の呼吸音だけが聞こえていた。
紬は目を閉じ、必死に考えた。
自分の能力なら、きっと何とかできる。
これまでにも、想像したものを作り、現象を変え、普通なら不可能なことを実現してきた。
だが、できることが多すぎるせいで、今はどの方法を選ぶべきなのか分からない。
もし、時間を戻せたら。
事故が起きる前に戻れば、誰も危険な目に遭わずに済むのではないか。
そんな考えが浮かんだ。
けれど、紬はすぐに首を振った。
時間を戻したことはない。
そもそも、今起きている現象が本当に時間の停止なのかも分からない。
分からないことを重ねれば、状況をさらに悪くしてしまうかもしれない。
紬はゆっくりと目を開けた。
まず、目の前の二人を安全な場所へ移す。
それが最優先だ。
車をどうするかは、その後で考えればいい。
紬は親子のもとへ歩み寄った。
近くで見ると、男の子は母親の胸に顔を埋めていた。小さな手が服を握りしめ、母親はその身体を守るように両腕を回している。
女性の顔には、恐怖の表情が残っていた。
紬は二人の前にしゃがみ込んだ。
「……大丈夫、だから」
自分に言い聞かせるように呟いた。
返事はない。
母親の肩に触れようとして、指先が止まる。
このまま動かしていいのか分からない。
けれど、何もしなければ、時間を戻したときに車が再び動き出すかもしれない。
紬は親子の身体を見つめ、慎重に考えた。
人間の身体を傷つけず、今の姿勢を保ったまま、安全な場所へ移動させる。
それだけなら、これまでに行った物体の移動と似ている。
ただし、今回は生きている人間だ。
紬は二人の身体に余計な力が加わらないよう、全身を包み込むように支えることを思い描いた。
そして、ほんの少しだけ、母親の身体を持ち上げようとした。
しかし、何も起こらなかった。
「……え?」
紬は戸惑った。
もう一度、同じことを試す。
今度は、二人を包み込むように重力を調整することを意識した。
それでも、親子は動かなかった。
紬の背中に冷たいものが走った。
能力が使えなくなったのだろうか。
試しに、足元に落ちていた小さな紙片を浮かせようとした。
紙片は、あっさりと持ち上がった。
紬は驚いて、そのまま紙片を元の位置へ戻した。
能力そのものは使える。
それなのに、時間が止まっているように見える人間には、同じように干渉できない。
理由は分からなかった。
自分が無意識に、動かしてはいけないものまで固定しているのかもしれない。
それとも、時間の停止と重力の操作が、互いに影響しているのだろうか。
紬は頭を抱えたくなった。
今まで、万物創造は思い描いたことを実現してくれる力だった。
ところが今は、自分が何を起こしているのか、正確に理解できていない。
それが、こんなにも心細いことだとは思わなかった。
紬は親子から少し離れ、交差点全体を見渡した。
車は停止している。
人々も動かない。
空中の砂粒も、そのままだ。
だが、紬自身は歩くことができ、物を動かすこともできる。
ならば、停止している対象と、自分が動かせる対象には、何らかの違いがあるはずだった。
紬は車へ視線を向けた。
運転席の人物は、ハンドルを握ったまま前方を見つめている。
その顔には、事故を避けようとする必死さが表れていた。
紬は初めて、運転している人もまた、危険な状況にいるのだと気づいた。
もし車を無理に動かしたら、運転手が傷つくかもしれない。
親子を助けることばかり考えていたが、車内の人間の安全も守らなければならない。
そう思うと、ますます慎重にならざるを得なかった。
紬は深く息を吸った。
まず、落ち着いて考えよう。
自分が今、何を止めているのか。
何を動かせるのか。
どうすれば、誰も傷つけずに済むのか。
目の前の状況を一つずつ整理しようとした、そのときだった。
不意に、遠くから微かな音が聞こえた。
紬は顔を上げた。
聞き間違いかと思ったが、確かに何かが鳴っている。
小さく、規則的な音だった。
どこから聞こえているのか分からず、紬は周囲を見回した。
そして、道路の向こう側にある信号機へ目を向けた。
歩行者用信号の青い光が、ほんのわずかに揺らいでいた。
紬は目を凝らした。
さっきまで、何も変化していなかったはずだ。
ところが今、青い表示が一瞬だけ暗くなり、また元の明るさに戻った。
点滅している。
ゆっくりと。
紬の心臓が大きく跳ねた。
「……うそ」
停止していたはずの世界に、変化が起きている。
紬は慌てて車を見た。
タイヤの近くに浮いていた砂粒が、ほんの少しだけ位置を変えていた。
風に舞っていた紙片も、先ほどとは違う角度になっている。
時間が、動き始めている。
紬は息を止めた。
自分が何かをしたのだろうか。
それとも、最初から長くは止められない現象だったのか。
分からない。
ただ一つ確かなのは、このままでは車が再び動き出すかもしれないということだった。
紬は親子へ視線を戻した。
母親はまだ子どもを抱きしめている。
車との距離は、あまりにも近い。
紬はもう一度、右手を伸ばした。
今度は、時間を止めることだけを考えた。
止まって。
お願い。
まだ、動かないで。
その願いに応えるように、信号機の光が再び静止した。
空中の砂粒も、動かなくなった。
紬は大きく息を吐いた。
どうやら、意識を向ければ停止した状態を保てるらしい。
けれど、いつまでもこうしているわけにはいかない。
紬は自分の手を見つめた。
今まで、力を使うことが怖いと思ったことは、ほとんどなかった。
どれほど大きなものを作っても、どれほど奇妙な現象を起こしても、秘密基地の中なら失敗をやり直せると思っていた。
だが、ここは現実の街だった。
目の前には、何も知らない人たちがいる。
自分の選択一つで、その人たちの未来が変わってしまうかもしれない。
紬は震える指を握りしめた。
怖い。
どうすればいいのか、まだ分からない。
それでも、逃げるという選択肢だけは、考えられなかった。
もし今、何もしないまま時間を戻してしまったら。
その先に何が起こるのか、想像するだけで胸が苦しくなる。
紬は親子の前に立った。
小さな男の子は、母親の腕の中にいる。
ほんの少し前まで、黄色い玩具の車を嬉しそうに見せていた子だった。
あの笑顔が、もう二度と見られなくなるかもしれない。
そんなことは、嫌だった。
「……絶対に、助ける」
紬は声に出して言った。
誰にも届かないはずの言葉だったが、不思議と胸の奥に残った。
万物創造で何ができるのか。
時間を止めたまま、どうすれば人を安全に動かせるのか。
分からないことは、まだたくさんある。
けれど、今は考える時間がある。
自分が止めた、この世界の中で。
紬は車と親子を交互に見つめ、もう一度、意識を集中させた。
助けるために必要なことを、一つずつ確かめよう。
どれほど難しくても、諦めるわけにはいかない。
静止した交差点の中央で、紬は初めて、自分の力を誰かの命のために使おうとしていた。




