第14話 いつもどおりの休日
休日の朝、小鳥遊紬は目覚まし時計を止める必要もなく、布団の中でのんびりと目を覚ました。
カーテンの隙間から差し込む光は柔らかく、部屋の温度もちょうどいい。寝具には身体を支える機能が備わっているため、長時間眠っていても肩や腰が痛くなることはなかった。家事のほとんどを自動化して以来、朝から何かに追われるような感覚もなくなっている。
それなのに、今日は妙に落ち着かなかった。
理由は、腕の中にいるはずのボスがいないことだった。
普段なら、紬が目を覚ますころには温かな羽毛の感触があり、少し身体を動かせば黄色いくちばしが視界に入る。ところが今朝は、隣に小さなくぼみが残っているだけで、本人の姿が見当たらない。
「……ボス?」
呼びかけても返事はない。
紬は枕元の端末に手を伸ばしかけ、そこで思いとどまった。居場所を調べようと思えば簡単に分かるが、家の中にいるのなら、わざわざ調べるほどのことでもない。
それでも少し寂しくなって、布団を胸元まで引き寄せる。
「……早起きしたのかな」
そう呟いたところで、寝室の扉の向こうから何かを引きずる音が聞こえた。
続いて、聞き慣れた声がする。
「だから、そっちじゃねえって。もうちょい右だ、右!」
「ボス様。現在の位置であれば、扉の開閉には支障ありません」
「そういう問題じゃねえんだよ。見た目の話をしてんの!」
どうやらアイリスと何かをしているらしい。
紬は布団の中で首を傾げた。
普段のボスなら、朝食の時間になれば遠慮なく寝室へ入ってくる。自分が起きていることに気づいていないのか、それとも何か事情があるのか。
少し考えているうちに、扉の向こうが静かになった。
「……アイリス?」
小声で呼ぶと、寝室の壁際に淡い光が集まり、銀白色の髪を持つ女性の姿が現れた。
「おはようございます、マスター」
「おはよう。……ボス、何してるの?」
「現在、リビングで作業中です」
「作業?」
「はい。ただし、内容についてはボス様から口止めされています」
紬は瞬きをした。
「……アイリスも、秘密にするんだ」
「私も約束は守りますので」
少し得意そうに微笑むアイリスを見て、紬はそれ以上尋ねるのをやめた。二人が自分に隠れて何かを準備しているという状況は珍しく、何となく嬉しくもある。
ただ、気になるものは気になる。
「……いつ行ってもいい?」
「あと十分ほどお待ちください。ボス様が最終確認をされています」
「分かった」
紬は素直に頷き、もう一度布団に潜り込んだ。
十分钟という時間は、普段ならあっという間に過ぎてしまう。けれど、何かを待っていると妙に長く感じられるものだ。紬は天井を眺めたり、枕の位置を直したりしながら、リビングで起きていることを想像した。
新しいゲームだろうか。それとも、昨日の海に関係するものだろうか。
もっとも、ボスが自分から何かを準備するのであれば、魚が関係している可能性も十分にある。
そんなことを考えていると、扉が勢いよく開いた。
「おい紬! もう起きてんだろ!」
「……うん」
「だったら来い。準備できたぞ!」
入り口に立っていたボスは、なぜか胸を張っていた。
紬がベッドから降りると、彼は先頭に立って廊下へ向かう。いつもなら抱っこを求める紬も、今日はその後ろ姿についていくことにした。
リビングへ入った途端、紬は足を止めた。
テーブルの上には、色とりどりの紙で作られた飾りが並んでいた。窓際には小さな旗が張られ、ソファの前には丸いクッションが三つ用意されている。普段使っている家具の配置も少し変わり、部屋全体がどこか催し物の会場のようになっていた。
そして、テーブルの中央には大きな紙が一枚置かれている。
『本日は何もしない日』
太い文字でそう書かれていた。
「……何もしない日?」
「おう。今日は俺が決めた」
ボスは得意げに頷いた。
「昨日までいろいろ作ったり考えたりしてただろ。だから今日は実験禁止。仕事も研究もなし。好きなことして遊ぶ日だ」
紬は看板とボスを交互に見た。
「……でも、好きなことって、いつもしてるよ?」
「それが問題なんだよ。お前、遊んでるつもりで新しいもん作り始めるだろ」
「……そうかな」
「そうだろ。昨日だって、プールを広くする話が大陸まで増えたじゃねえか」
紬は反論できなかった。
アイリスが横から補足する。
「本日の企画はボス様の発案です。私は飾りつけと進行の補助を担当しました」
「……二人で準備してくれたの?」
「おう。お前が寝てる間にな」
紬はもう一度、部屋を見渡した。
旗の形は少しずつ違い、紙飾りにはペンギンや魚の絵が描かれている。中には不格好なものもあるが、それがかえって可愛らしい。
特に、看板の隅に描かれた丸いペンギンは、ボス本人が描いたものらしかった。短い翼を大きく広げ、頭には王冠まで載っている。
「……これ、ボスが描いたの?」
「おう。どうだ、似てるだろ」
「うん。すごく可愛い」
「格好いいって言え!」
紬が笑うと、ボスも満足そうにくちばしを上げた。
いつもなら、自分が何かを思いつき、ボスとアイリスに相談することが多い。ところが今日は、二人が自分のために予定を考えてくれている。
そのことが、紬には何より嬉しかった。
「……ありがとう。すごく楽しそう」
「まだ始まってもいねえぞ。礼は全部終わってからにしろ」
「はい」
紬は笑顔のまま頷いた。
こうして、三人だけの少し変わった休日が始まった。
最初にボスが取り出したのは、何枚かのカードだった。
「まずはこれだ」
「……カード?」
「今日やることを決めるんだよ。俺が考えた候補が入ってる」
カードには『おやつ』『映画』『お昼寝』『工作』『料理』『おしゃべり』と書かれていた。
紬は最後の一枚を見て、少し首を傾げる。
「……おしゃべりも、予定に入ってるの?」
「何となく話してるうちに時間が過ぎるのもいいだろ。別に立派なこと話す必要はねえし」
確かに、それはそうだった。
紬は普段、ボスと何でもない話をしている。好きな食べ物のこと、ゲームのこと、テレビで見かけたもののこと。人間相手なら何を話せばいいのか迷ってしまうのに、ボスとなら沈黙があっても気にならない。
「……じゃあ、全部やる?」
「全部やったら何もしない日じゃなくなるだろ!」
「でも、楽しそうだし……」
ボスはカードを見下ろし、少し考えた。
「まあ、時間はたっぷりあるからな。気が向いたやつからやりゃいいか」
「ボス様。企画開始から五分で、予定の自由度が大幅に上がりましたね」
「うるせえ。臨機応変ってやつだ」
アイリスは楽しそうに微笑んだ。
紬はカードを一枚選んだ。
『料理』
「……これ、やってみたい」
ボスは意外そうな顔をした。
「料理か? いつもの機械に任せりゃいいだろ」
「ううん。自分で作ってみたい」
家事を自動化してから、紬はほとんど台所に立っていない。料理が嫌いだったわけではないが、手間がかかることも確かで、便利な装置を作ってからはすっかり任せきりになっていた。
けれど、今日は何かを効率よく終わらせる必要がない。
だったら、時間をかけて料理をするのも面白そうだった。
「……三人で作れるものがいいな」
「私は物理的な調理作業には参加できませんが、手順の案内や計量の補助は可能です」
「それで十分だよ」
「俺は何すりゃいいんだ?」
紬は少し考えた。
ボスは背が低く、人間用の包丁やコンロを使うには身体の大きさが合わない。それに、無理をして危ない作業をさせる必要もない。
「……混ぜる係とか?」
「いいじゃねえか。俺に任せろ」
紬が選んだのは、ホットケーキだった。
朝食には少し遅く、お昼にはまだ早い時間だったが、休日なのだから気にしなくてもいい。紬は材料を台所に並べ、ボスが使いやすいよう低い作業台を用意した。
卵、牛乳、小麦粉、砂糖、ベーキングパウダー。必要なものは揃っているが、普段の調理装置のように、材料を入れれば完成するわけではない。
紬はアイリスに手順を確認しながら、まず卵を割ることにした。
「……久しぶりだから、ちょっと緊張する」
「卵割るだけだろ。大げさだな」
「ボス、やってみる?」
「……いや、俺は混ぜる係だからな」
紬は小さく笑い、卵をボウルの縁に当てた。
力加減が少し強かったらしく、殻に大きなひびが入る。慌てて両手で開くと、中身は無事にボウルへ落ちたものの、小さな殻の欠片まで一緒に入ってしまった。
「……あ」
「おい、殻入ったぞ」
「分かってる……」
紬はスプーンで欠片を取り除いた。
アイリスは横から手順を説明してくれるが、実際に手を動かすのは紬とボスだ。粉を量り、牛乳を加え、生地を混ぜる。簡単な料理のはずなのに、思っていたよりも気を使うことが多かった。
ボスは自分用の泡立て器を握り、作業台の上で一生懸命に生地を混ぜていた。
「どうだ、俺の腕前は」
「……上手だよ」
「だろ? こういうのは勢いが大事なんだよ」
「ボス様。勢いを重視しすぎると、生地が容器の外へ飛び散ります」
「分かってるって」
そう答えた直後、ボスが泡立て器を持ち上げた拍子に、生地が一滴、作業台へ落ちた。
三人の視線がそこに集まる。
「……今のは事故だ」
「ふふっ」
紬は笑いをこらえながら布巾を取った。
生地が完成すると、今度は焼く作業だ。紬はフライパンを温め、適量の生地を流し込む。丸く広がった表面に小さな泡が現れ、甘い香りが漂い始めた。
最初の一枚は、ひっくり返すタイミングを逃して少し焼き色が濃くなった。
二枚目は慌てて返したせいで形が崩れ、三枚目になってようやく、見本のような丸いホットケーキができた。
「……できた!」
「おお、いいじゃねえか!」
「きれいな焼き色です、マスター」
紬は嬉しくなって、皿に載せたホットケーキを眺めた。
万物創造を使えば、もっと見た目が整っていて、味も完璧なものを一瞬で用意できるだろう。実際、普段の食事はそうした便利さに支えられている。
けれど、自分で焼いた一枚には、それとは違う満足感があった。
「……なんだか、すごくおいしそう」
「食ってみりゃ分かるだろ」
ボスは待ちきれない様子で、自分の皿を見つめている。
紬は彼の身体に合わせた大きさに切り分け、三枚のホットケーキをテーブルへ運んだ。アイリスは食べられないため、代わりに二人の様子を見ながら感想を記録することにした。
紬が一口食べると、ほんのり甘い生地が口の中でほどけた。
「……おいしい」
「おう! 俺が混ぜたからな!」
「焼いたのは私だけど……」
「二人の合作ってことだろ」
その言い方が気に入って、紬は頷いた。
少し形の崩れたものも、焼き色が濃いものも、全部自分たちで作ったホットケーキだ。ボスは最初の一枚を気に入ったらしく、むしろ香ばしいところがおいしいと言っている。
アイリスが写真を撮影してもよいか尋ねると、紬は喜んで了承した。
「……あとで見返したいな」
「では、本日の記録として保存しておきます」
「失敗したやつも撮るのか?」
「もちろんです、ボス様。そちらも大切な思い出ですので」
ボスは少し不服そうだったが、結局は何も言わず、残りのホットケーキを平らげた。
食後、紬は食器を片づけながら、次のカードを選ぶことにした。
今度は『工作』だった。
「……何を作ろうかな」
「今日は万物創造なしだぞ」
「分かってるよ。手で作るんでしょ?」
「おう。普通の工作だ」
紬は棚から色紙や厚紙、はさみ、のりを取り出した。
ボスの身体に合った道具も用意してあるが、今日は新しく創造したものではない。以前から家に置いてあった、小さな手でも扱える工作用品だ。
最初に作るものを決めたのはボスだった。
「俺、船作る」
「船?」
「昨日の海で浮かべるんだよ。でっけえ海なんだから、船くらいあってもいいだろ」
「……紙の船だと、濡れちゃうよ?」
「じゃあ、濡れねえようにすりゃいい」
紬は少し考え、透明な防水フィルムを使うことを提案した。工作用の材料として家にあったものを使えば、紙の船でもしばらく水に浮かべられるはずだ。
ボスは大いに乗り気になり、厚紙を切って船体を作り始めた。
紬はその隣で、小さな家を作ることにした。
色紙を折り、屋根を載せ、窓を描く。大きさは手のひらに収まる程度で、特別な機能もない。ただ、少しずつ形になっていく様子が楽しかった。
アイリスは二人の作業を眺めながら、必要なときだけ助言する。
「マスター。その屋根は、接着面を少し広くすると安定すると思います」
「……ほんとだ。ありがとう」
「ボス様。船首と船尾の幅が異なっていますが、意図的な設計でしょうか」
「当たり前だろ。こっちが前なんだから尖ってるほうが速そうじゃねえか」
「なるほど。速度を重視した意匠なのですね」
「そういうことだ」
実際に速く進むかどうかは別として、ボスは自分の船を気に入っているようだった。
やがて、テーブルの上には小さな紙の家と、王冠の印が描かれた船が並んだ。
紬は家の窓を覗き込み、ふと思いついたように言った。
「……この家、ボスが入れそう」
「俺にはちっさすぎるだろ」
「ううん。ボスじゃなくて、ボスの人形」
紬は余った紙で、小さなペンギンを折った。
黒と白の紙を重ね、黄色いくちばしをつける。出来上がったものは本物のボスとは少し違っていたが、丸いお腹と短い翼のおかげで、それらしく見えた。
ボスは人形を眺め、しばらくしてから頷いた。
「まあ、悪くねえな」
「……気に入った?」
「おう。俺の家来にしてやる」
「家来なんだ……」
紬は笑いながら、紙のペンギンを家の前に置いた。
アイリスがその様子を撮影し、完成した作品を記録する。
「マスター。こちらの作品にも名前をつけますか?」
「……名前?」
「はい。保存する際に、作品名があると分かりやすいかと思いまして」
紬は小さな家を見つめた。
何となく作り始めただけで、特別な名前は考えていない。けれど、こうして形になると、何か呼び名が欲しくなる。
「……小さなおうち、かな」
「そのまんまだな」
「じゃあ、ボスの船は?」
「無敵艦隊ボス一号だ!」
「……長い」
「格好いいだろ!」
紬は吹き出してしまった。
ボスは真剣だったが、紙で作られた小さな船に『無敵艦隊』という名前がついているのが、どうにもおかしかった。
アイリスは二つの作品名を記録し、写真に添えた。
紬は完成した工作を眺めながら、何となく懐かしい気持ちになった。
子どものころ、紙や箱を使って何かを作ったことがある。上手にできたわけではなかったが、自分の手で少しずつ形にしていく時間は好きだった。
今は、望んだものを思い描くだけで作れてしまう。
それは便利で、楽しくて、何より自由だ。
けれど、手を動かして作る楽しさまで、なくなったわけではないらしい。
「……こういうのも、いいね」
「だろ? 俺は結構好きだぜ」
「うん。私も」
紬は紙の家をそっと持ち上げ、棚の空いている場所に飾った。
ボスの船も隣に置くと、二つの作品は不思議とよく似合っていた。
昼過ぎになると、ボスは次のカードを選ぶ前に、ソファへ飛び乗った。
「ちょっと休憩だ」
「……もう疲れた?」
「工作って意外と集中するんだな。腹もいっぱいだし、眠くなってきた」
紬はソファに腰を下ろし、ボスを膝の上に迎えた。
ふわふわした羽毛に指を埋めると、身体の奥まで温かさが伝わってくる。ボスは文句を言うこともなく、紬のお腹にもたれかかった。
アイリスが室内の照明を少し落とし、窓から入る光を柔らかく調整する。
「お昼寝のカードもありますが、いかがなさいますか?」
「……うん。少しだけ」
「俺も賛成だ」
紬は背もたれに身体を預けた。
いつもなら、眠くなればそのままベッドへ移動することもできる。けれど今日は、ソファでボスを抱いたまま過ごす時間が心地よかった。
アイリスは二人を見守りながら、今日撮影した写真を整理していた。
しばらくして、紬が目を閉じたまま尋ねる。
「……アイリスは、退屈じゃない?」
「いいえ。お二人が何を楽しむのか観察することも、私にとって興味深い時間です」
「……そっか」
「それに、今日は私も企画に参加していますから」
紬は薄く目を開けた。
「……アイリスも、何かやりたいことある?」
少し間があった。
「そうですね。もしよろしければ、午後に一つお願いしたいことがあります」
「……なに?」
「今日の出来事について、マスターとボス様のお二人から感想を聞かせていただきたいのです」
紬は不思議そうに瞬きをした。
「……感想?」
「はい。同じ出来事でも、お二人がどのように感じたのかは異なるかもしれません。その違いを知りたいと思いました」
アイリスらしいお願いだった。
紬は微笑み、頷いた。
「……いいよ。あとで話そうね」
「ありがとうございます」
その返事を聞いたところで、紬の意識は眠気の中へ沈んでいった。
目を覚ましたのは、それから一時間ほど経ったころだった。
膝の上ではボスが丸くなって眠っている。紬が少し姿勢を変えると、彼は片目を開けた。
「……もう起きんのか?」
「……うん。よく寝た」
「そうか。俺もだ」
ボスは大きく伸びをし、紬の膝からソファへ降りた。
アイリスが時刻を告げると、二人は思っていた以上に時間が過ぎていることに気づいた。
「……もうこんな時間?」
「おう。何もしない日って、意外と忙しいな」
「……ふふ。そうだね」
紬は残っているカードを見た。
『おやつ』『映画』『おしゃべり』
どれも楽しそうだったが、今はアイリスのお願いを聞きたかった。
「……ねえ、さっきの感想、話そうか」
「感想?」
ボスが首を傾げる。
紬が事情を説明すると、彼は納得したように頷いた。
「いいぜ。何から話す?」
アイリスは二人の前に、今日撮影した写真を並べた。
最初に映し出されたのは、少し焦げたホットケーキだった。
「まず、こちらについてお聞きします。マスターは、完成した料理を召し上がったとき、どのように感じましたか?」
「……おいしかった。あと、嬉しかったかな」
「嬉しかった、ですか」
「うん。自分で作ったから……かな。ちょっと失敗したけど、それも楽しかった」
アイリスは頷き、今度はボスに尋ねた。
「ボス様はいかがでしたか?」
「俺は普通にうまかったぞ。ちょっと焦げてるところも香ばしかったしな。それに、紬があんなに楽しそうに料理してるのは珍しかったから、そっちも面白かった」
紬はボスを見た。
「……そんなに楽しそうだった?」
「おう。三枚目がうまく焼けたときなんか、すげえ嬉しそうだったぞ」
「……そうなんだ」
自分ではそこまで意識していなかった。
アイリスは二人の返答を聞き、少し考えるような表情を浮かべた。
「興味深いですね。マスターは制作の過程に、ボス様は料理の味とマスターの反応に、それぞれ強く関心を持たれたのですね」
「……うん。そうかも」
次に表示されたのは、工作をしている二人の写真だった。
ボスが泡立て器の代わりに小さなはさみを握り、真剣な顔で厚紙を切っている。紬は隣で紙の家の屋根を貼りつけていた。
「こちらの写真では、何が印象に残っていますか?」
「俺は船だな。思ったよりちゃんとできた」
「……私は、ボスがすごく集中してたことかな」
「そりゃ集中するだろ。無敵艦隊なんだからよ」
「……紙だけどね」
「紙でも艦隊は艦隊だ!」
紬が笑うと、アイリスも口元を緩めた。
何枚かの写真を見ながら話しているうちに、紬はあることに気づいた。
同じ時間を一緒に過ごしていても、覚えていることは少しずつ違う。
自分が楽しいと感じた瞬間を、ボスは別の角度から見ている。アイリスはさらに違うところに興味を持ち、二人の反応を観察している。
それが、何だか面白かった。
「……アイリスは?」
紬が尋ねると、アイリスは顔を上げた。
「私、ですか?」
「うん。今日、一番楽しかったこと」
アイリスはすぐには答えなかった。
写真を一枚ずつ見つめ、それから穏やかな声で言った。
「私は、準備をしている時間が印象に残っています」
「……準備?」
「はい。今朝、ボス様と飾りつけをしているときです。どのように配置すればマスターが喜んでくださるか、二人で考えていました」
紬は少し驚いた。
自分が起きる前の出来事については、ほとんど知らない。
「……そうだったんだ」
「ボス様は看板の文字を大きくすることにこだわられましたし、私は色の組み合わせを提案しました。意見が合わない部分もありましたが、それも楽しい経験でした」
「おい、あれはお前が細かすぎたんだろ」
「ボス様が看板を斜めに設置しようとされたので、水平にすることを提案しただけです」
「ちょっと斜めのほうが格好よかったんだよ!」
紬は二人のやり取りを聞きながら、朝の看板を思い出した。
きれいに飾られた部屋の裏側で、そんな会話があったとは知らなかった。
自分のために二人が相談していたことが、改めて嬉しくなる。
「……私、今日の朝、すごく嬉しかったよ」
紬がそう言うと、ボスとアイリスは同時に彼女を見た。
「……起きたら二人がいなくて、ちょっと寂しかったんだけど」
「おう」
「……リビングに行ったら、あんなに準備してくれてて。びっくりしたし、嬉しかった」
紬は少し照れながら続けた。
「……何かを作ってもらうのも嬉しいけど、私のために考えてくれたのが、一番嬉しかったかも」
ボスは何も言わず、しばらく紬を見つめていた。
それから、照れ隠しのように顔をそらす。
「……まあ、喜んだならよかったじゃねえか」
「うん。ありがとう」
アイリスは柔らかく微笑んだ。
「そのように感じていただけたのであれば、準備した甲斐がありました」
紬は二人を見て、胸の奥が温かくなるのを感じた。
能力を得る前の自分なら、こんな休日を想像できただろうか。
誰かと一緒に料理をして、工作をして、昼寝をして、何でもない話をする。特別な場所へ出かけたわけでも、珍しいものを手に入れたわけでもない。
それでも、今日という一日は、きっと長く覚えている気がした。
紬はテーブルの上のカードを見つめた。
「……ねえ、ボス」
「何だ?」
「また、こういう日を作ってもいい?」
「いいに決まってんだろ。別に今日だけの決まりじゃねえし」
「……じゃあ、今度は私が準備したい」
ボスは少し考え、にやりと笑った。
「おう。ただし、俺を驚かせようとして家を城に変えたりするなよ」
「……しないよ」
「本当か?」
「……たぶん」
「たぶんって言ったな!」
紬は笑いながら、ボスを抱き上げた。
彼の身体はいつもどおり温かく、腕の中にすっぽりと収まる。ボスは紬の胸元に寄りかかり、残っているカードを眺めた。
「で、次は何する?」
「……映画かな」
「いいな。何見る?」
「……ボスが選んでいいよ」
「本当か? じゃあ、海の冒険ものだな!」
紬は思わず笑ってしまった。
昨日あれほど広い海を作ったのに、今日も海の話がしたいらしい。
けれど、ボスらしくていいと思った。
アイリスが映画の候補をいくつか表示すると、ボスは真剣な顔で画面を見比べ始めた。紬はその横顔を眺めながら、ソファの上で足を伸ばした。
窓の外では、いつの間にか日が傾き始めている。
特別なことは何もしていないつもりだったのに、気づけば一日が終わろうとしていた。
紬はふと、棚に飾った小さな紙の家へ目を向けた。
隣には、王冠の印が描かれた船が置かれている。どちらも少し不格好で、万物創造で作るものに比べれば、何の機能もない。
それでも、紬にはその二つが、どんな立派な創造物にも負けないほど大切に思えた。
「……アイリス」
「はい、マスター」
「今日の写真、全部残しておいてね」
「もちろんです」
「……あと、あの工作も、壊れないように飾っておきたいな」
「では、保管場所の環境を整えておきます。作品そのものには手を加えず、長く楽しめるようにしましょう」
「うん。お願い」
紬は満足そうに頷いた。
ボスが映画を決めたらしく、嬉しそうに声を上げる。
「よし、これにするぞ! 海賊が宝探しするやつだ!」
「……面白そう」
「だろ? こういうのは冒険が大事なんだよ」
アイリスが照明を落とし、壁いっぱいに映像を映し出した。
紬はボスを抱えたまま、クッションに身体を預ける。画面には青い海と大きな帆船が映り、勇ましい音楽が流れ始めた。
その光景を眺めながら、紬は小さく微笑んだ。
自分には、何でも作れる力がある。
けれど、こうして誰かと同じ映画を見て、笑ったり驚いたりする時間は、思いどおりに作るものではないのだろう。
今日のような一日が、これからも続けばいい。
そんなことを考えていると、腕の中のボスが画面を指さした。
「おい紬! あの船、俺のよりでけえぞ!」
「……そりゃそうだよ」
「くそっ、次はもっとでっけえの作るか!」
「……無敵艦隊ボス二号?」
「おう! 今度は本物の船だ!」
紬は笑い、アイリスも楽しそうに声を立てた。
映画はまだ始まったばかりだったが、ボスはすでに次の工作のことで頭がいっぱいらしい。
紬は彼の頭を撫でながら、画面の向こうに広がる海を見つめた。
明日になれば、また新しい実験を思いつくかもしれない。秘密基地の世界には調べたいことがたくさんあるし、いつか遠くの大陸へ行く約束もしている。
けれど、今は何も急ぐ必要がない。
紬はボスを抱き直し、隣に立つアイリスへ微笑みかけた。
「……今日は、いい休日だったね」
「はい。私もそう思います」
「まだ終わってねえぞ。映画はこれからだろ!」
「……うん。そうだね」
紬は笑いながら画面へ向き直った。
部屋には映画の音楽と、ときどきボスが上げる賑やかな声が響いている。
いつもどおりの家で、いつもどおりの三人が過ごす、少しだけ特別な休日だった。




