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うちのぺんぎんが日本政府と交渉している件  作者: むぎちゃ
第2章 何でもできる私と、変わりはじめた世界
23/80

第24話 信頼を取り戻すために

 首相官邸の執務室に置かれた白い箱は、昨夜から何一つ変わっていなかった。


 冷蔵庫ほどの大きさをしたその装置は、白を基調とする滑らかな外装に青い線が走り、正面の表示には「停止中」の三文字が浮かんでいる。人類が長年追い求めてきた技術の到達点かもしれないものが、重厚な執務机から数メートル離れた場所に、まるで以前からそこにあった備品のような顔で収まっていた。


 高瀬隆一は、その装置を眺めながら昨夜の出来事を思い返していた。


 小鳥遊紬と名乗った若い女性が、話すペンギンを抱えて突然現れたこと。国家に協力する代わりに、ごく当たり前の私生活を守ってほしいと求めたこと。そして自分が、その要求を正面から受け入れたこと。


 あの場で交わした言葉に嘘はなかった。少なくとも、交わした瞬間には。


 それだけに、その後の自分の判断が許し難かった。


「総理、準備が整いました」


 入室した三浦誠司が、薄い書類を一冊だけ机に置いた。普段なら複数の資料を抱え、要点を手際よく説明する男だが、今朝はその動作にも慎重さがにじんでいる。


「神谷君からの最終報告は」


「調査は完全に中断しています。取得できた身元情報はありません。関連する作業記録については、経緯を検証できるよう保全しました。これ以上の照合は行わせていません」


「そうか」


 高瀬は書類に目を落とした。


 そこには、昨夜から今朝にかけて政府側が行った判断と作業が、余計な形容を排して記されていた。誰が指示し、誰が実行し、どの段階で遮断されたのか。技術担当者の神谷悠斗は、紬との約束を知らされないまま命じられた調査に着手していた。彼が知っていたのは、国家安全保障上の重要案件に関する照合を求められたということだけだった。


 問題は、指示を出した側にあった。


「神谷君には、こちらの責任であることを伝えたか」


「はい。彼の作業に問題がなかったと言うつもりはありませんが、今回の約束違反を決定したのは私たちです。本人にも、その点は明確に説明しました」


「彼を処分して幕引き、という話にはしない」


「承知しています」


 高瀬は報告書を閉じた。


 政府には、危険を予測し、国民を守る責任がある。得体の知れない力を持つ相手について、可能な限り情報を集めたいと考えること自体は、職務上の感覚として理解できた。


 しかし、その感覚を理由に約束を破ってよいわけではない。


 紬は、国家に何かを要求して押しかけてきたわけではなかった。彼女が差し出そうとしたのは、途方もない価値を持つ技術だった。その代わりに望んだものは、金銭でも地位でもなく、普段どおりに暮らす自由である。


 そして政府は、最初に守ると約束したものを、最初の夜に踏みにじった。


「説明の順番を確認したい」


 三浦が書類の最後のページを開く。


「まず、私たちが調査を指示した事実を認めます。そのうえで、約束に反すると理解していたこと、実際に何を行ったか、調査がどこまで進んだかを説明します。再発防止策は、その後です」


「言い訳はしない。安全保障という言葉で包めば、こちらの責任が軽くなるわけではないからな」


「はい」


「それと、先方が協力を打ち切ると言った場合の対応も整理しておこう」


 三浦の指が、書類の端で止まった。


「……引き留めない、ということですね」


「説得することまで禁じる必要はない。だが、拒否されたら受け入れる。あの装置が惜しいからといって、彼女をここに縛りつける権利は我々にはない」


 高瀬が視線を向けた先では、核融合炉が変わらず停止状態を示していた。


 昨日まで存在しなかった可能性が、今は手の届く場所にある。電力供給のあり方を変え、産業を支え、災害時に失われるはずだった生活を守れるかもしれない。


 だからこそ、失うことが怖かった。


 その恐れが、自分たちに何をさせたのか。高瀬は、もう十分に理解していた。


「連絡を頼む」


「承知しました」


 三浦は卓上の通信機器に手を伸ばした。紬たちとの連絡に使うため、双方が認めた経路を通じて、短い謝罪と面会の申し入れを送る。


 返事が来るまでの数分間、高瀬は執務机に戻らなかった。


 椅子に座って待つには、あまりに居心地が悪かった。


 紬の秘密研究室では、ボスがテーブルの上に腹ばいになっていた。


 丸い体をぺたりと広げ、短い翼を左右に投げ出した姿は、事情を知らない人間が見れば昼寝をしているようにしか見えない。しかし、その目は開いており、目の前の小さな画面をじっと見つめていた。


「……まだ来ねえな」


「先ほどから四回目です、ボス」


 銀白色の髪をしたアイリスのホログラムが、テーブルの向こう側で穏やかに答える。


「時間の経過を報告しているだけだ」


「三分ごとに同じ報告をする必要性については、検討の余地があります」


「うるせえ。気になるもんは気になるんだよ」


 ボスは嘴を閉じ、研究室の奥へ視線を移した。


 紬はソファに腰掛け、両手でマグカップを包んでいた。中身はすでにぬるくなっているはずだが、飲む様子はない。昨夜、アイリスから政府による身元調査の事実を知らされて以来、彼女は何度も何かを言いかけ、そのたびに口を閉じていた。


 怒っているのか、悲しんでいるのか。ボスにも簡単には決めつけられなかった。


 ただ、昨日の官邸で、紬がどれほど勇気を振り絞っていたかは知っている。


 初対面の相手と向き合うだけでも疲れ切ってしまう彼女が、自分の意思で国家の最高責任者の前に立ち、少しでも誰かの役に立てるならと技術を差し出した。その直後に、自分が一番怖がっていたことをされたのだ。


 たとえ身元が判明しなかったとしても、なかったことにはできない。


「紬」


 呼びかけると、彼女はカップから顔を上げた。


「無理して話さなくていいからな。向こうが何を言おうと、お前が嫌だと思ったらそこで終わりだ」


「……うん」


「俺が勝手に決めることもしねえ。昨日は俺がほとんど喋っちまったけど、最後に決めるのはお前だからな」


 紬は小さく頷いたものの、すぐには返事をしなかった。


 少ししてから、マグカップをテーブルに置く。


「……私、あの人たちが怖かったわけじゃないんだ」


「ん?」


「最初は怖かったけど……総理大臣の人、ちゃんと話を聞いてくれたから。ボスの話も、私の話も。だから、少しだけ安心して……」


 言葉の先を探すように、紬の視線が揺れた。


「……信じても、いいのかなって思った」


 ボスは何も言わずに聞いていた。


「なのに、私のこと、調べようとしてたんだよね」


「ああ」


「約束したのに」


「そうだ」


 ボスは慰めるために事実を曖昧にすることはしなかった。調査を止められたから大丈夫だとか、偉い人にも事情があるのだとか、そんな言葉で紬の落胆を小さく扱いたくなかった。


「でもな、紬。お前が人を信じようとしたことまで、間違いだったと思う必要はねえぞ」


 紬が顔を上げる。


「約束を破ったのは向こうだ。お前じゃねえ。次にどうするかは、向こうの話を聞いてから決めればいい」


「……うん」


 そのとき、アイリスの視線がわずかに動いた。


「マスター。政府側から連絡が入りました」


 紬の肩がぴくりと跳ねる。


「高瀬総理大臣および三浦官房長官より、直接説明と謝罪を行いたいとの申し入れです。接続を許可するかどうかは、マスターのご判断に委ねられています」


「……今?」


「はい。先方は待機しています。ただし、応答を急ぐよう求める文面はありません」


 紬はボスを見た。


 ボスは腹ばいの姿勢から立ち上がり、短い足でテーブルの端まで歩いてくる。


「聞くだけ聞いてみるか?」


「……ボスも、一緒にいてくれる?」


「当たり前だろ。俺がいなきゃ誰があいつらに文句言うんだよ」


 紬の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。


「……それは、そうかも」


「そこは『頼りにしてる』って言うところだろ」


「……頼りにしてるよ」


「おう。最初からそう言え」


 アイリスが控えめに微笑む。


「それでは、接続を準備します。なお、マスター側の映像は送信しない設定にもできます」


 紬は少し考えてから首を振った。


「……顔を見て、話したい」


「承知しました」


 研究室の壁面に、通信画面が浮かび上がった。


 画面の向こうに現れたのは、昨日と同じ二人だった。


 高瀬は執務机の前に立ち、その隣に三浦がいる。背後には白い核融合炉の一部が映っており、正面表示の「停止中」も確認できた。


 紬はその文字を見て、ほんの少し安堵した。少なくとも、あの装置が勝手に動かされている様子はない。


「小鳥遊さん、ボスさん。お時間をいただき、ありがとうございます」


 高瀬が頭を下げた。


 昨日のような、相手の反応を確かめるための間はなかった。


「最初に、私たちがあなた方との約束を破ったことを謝罪します。身元を調べないと明確に約束しておきながら、その後、政府の担当者に調査を命じました。これは誤解でも、担当者の独断でもありません。私と三浦官房長官の判断です。申し訳ありませんでした」


 三浦も深く頭を下げる。


「私からもお詫びします。調査を行わないという条件を理解したうえで、その実施を指示しました。責任は私たちにあります」


 紬は膝の上で手を握りしめた。


 相手が頭を下げること自体に慣れていない。しかも、画面の向こうにいるのは日本の総理大臣と官房長官だ。どう反応すればよいのかわからず、困ったようにボスを見る。


 その視線を受けたボスは、画面の正面に進み出た。


「頭を下げりゃ済むと思ってるなら、話はここまでだぞ」


「そう思ってはいません」


 高瀬は顔を上げ、まっすぐ答えた。


「謝罪で取り消せる行為ではないことも承知しています。まず、何をしたのかを隠さず説明させてください」


「じゃあ聞く。なんで調べた?」


 ボスの問いは短かった。


「俺たちは昨日、そこを一番大事な条件として話したよな。総理も三浦も、それでいいって言った。忘れたわけじゃねえだろ」


「忘れてはいません」


「なら、なんでだ」


 高瀬は一度だけ三浦を見たが、答えを譲らなかった。


「あなた方の持つ力が、私たちの理解をはるかに超えていたからです。協力関係を築くにしても、何も知らないままでよいのかという不安がありました。私は、その不安を理由に調査を認めました」


「つまり、怖かったから約束を破ったってことか」


「端的に言えば、そのとおりです」


 高瀬は続けた。


「国家の責任者として、未知の技術や力を警戒することは必要です。しかし、だからといって、合意した条件を一方的に無視してよいことにはなりません。私たちは警戒と不信を取り違えました」


「不信、ねえ」


 ボスは嘴をわずかに上げた。


「昨日、紬はあんたらに何かしたか? 脅したか? 金を出せって迫ったか?」


「いいえ」


「むしろ、あんたらの役に立つかもしれねえ物を作って渡したよな」


「そのとおりです」


「で、その返事が身元調査か。ずいぶん景気のいいお礼じゃねえか」


 三浦の表情が苦くなる。


「反論できません」


「しなくていい。聞きたいのは、そこまでして何が知りたかったのかだ」


 高瀬は、調査対象が氏名の照合だけではなかったことを説明した。住居、家族関係、勤務先、過去の記録。紬が触れてほしくないと明言した領域に、政府は手を伸ばそうとしていた。


 調査を担当した神谷には、紬との合意内容を伝えていなかったことも明かした。彼は命令を受けて作業し、アイリスによる遮断を受けて中断した。現時点で紬の身元に関する情報は取得できていない。


 ボスは途中で口を挟まず、最後まで聞いた。


 説明が終わると、研究室に短い沈黙が訪れる。


「……家族も?」


 それまで黙っていた紬が、か細い声を出した。


 高瀬の視線が彼女に移る。


「はい。調査対象に含めようとしていました」


「……私だけじゃ、なかったんですね」


「そうです」


 紬は俯いた。


 自分の秘密が知られることは怖い。しかし、家族や身近な人たちが、何も知らないまま調査の対象になるかもしれなかったという事実は、それとは別の重さを持っていた。


「……私、普通に暮らしたいだけなんです」


 言葉が途切れそうになるのを、紬は何とかつなぎとめた。


「何か悪いことをしたわけじゃないし、誰かを困らせたいわけでもなくて……。ただ、できることがあるなら、少しは役に立てるかなって思って……」


 ボスが彼女の足元に寄り添う。


「……それなのに、知らないところで調べられるのは、嫌です」


 高瀬は彼女の言葉が終わるまで待った。


「小鳥遊さん。あなたの言うとおりです。あなたが普通に暮らすことに、政府の許可は必要ありません。協力を申し出たことを理由に、その自由を差し出させてよいはずもありません」


「……でも、調べたんですよね」


「はい。私たちが間違えました」


 その答えを聞いても、紬の表情はすぐには晴れなかった。


 高瀬も、許してほしいとは言わなかった。


「で、これからどうすんだ?」


 ボスが尋ねると、三浦が一歩前に出た。


「今回の調査については、指示の発出から中断までの経緯を記録し、関係者に対して調査禁止の範囲を改めて明示します。今後、あなた方に関する照合や追跡を独断で開始できないよう、政府内の取り扱いを整理します」


「整理って、便利な言葉だな」


「おっしゃる意味は理解しています。書類を作っただけで信用していただけるとは考えていません」


 三浦は眼鏡の位置を直した。


「今回の件では、担当者が約束を知らないまま動きました。今後は、協力に関わる職員に対して、守るべき条件を必要な範囲で明示します。ただし、小鳥遊さんの個人情報を共有することはしません。そもそも、私たちには共有できる身元情報がありませんから」


「その『今後』ってのが信用できねえんだよ。昨日も約束したばっかりだろ」


「そのとおりです」


「だったら、俺からも条件を一つ追加する」


 ボスは翼を広げ、画面の向こうの二人を見据えた。


「次に同じことをしたら、協力はそこで停止だ。身元を調べる、後をつける、家族や知り合いを探る。やり方が違っても、紬の生活を暴こうとしたら同じだと思え」


 高瀬は頷いた。


「受け入れます」


「まだある。政府の誰かが勝手にやったから知らねえ、なんて言い訳もなしだ。総理が直接命じたかどうかなんて、こっちには関係ねえからな」


「承知しました。政府側の責任として扱います」


「あと、協力を止めるかどうかは紬が決める。俺は代わりに話すけど、こいつの人生まで勝手に決めるつもりはねえ」


「それも、最初から変わらない約束です」


 ボスはすぐには返事をしなかった。


 相手の言葉に筋は通っている。少なくとも、今回の高瀬は責任を部下に押しつけることも、国家の事情を盾に押し切ることもしなかった。


 しかし、昨日も同じように真剣な顔で約束を交わしたのだ。


「……なあ、総理」


「はい」


「俺は別に、あんたらに一生疑うなって言ってるわけじゃねえんだ」


 ボスは翼を下ろした。


「紬の力を見て、不安になるのはわかる。俺だって、こいつが何でも作れるって知ったときは、こりゃとんでもねえことになるぞと思ったからな」


「ボス……」


「事実だろ。最初は便利な物を作って喜んでたやつが、今じゃ総理大臣の前に核融合炉を置いてるんだぞ。展開が早すぎんだよ」


 紬が小さく抗議しかけると、ボスは振り返って片方の翼を上げた。


「でもな、だからって怖がってる相手の家まで調べていいことにはならねえ。心配なら心配だって言えばいい。聞きたいことがあるなら、まず本人に聞け。それで紬が答えたくねえって言ったら、そこまでだ」


 高瀬はしばらく考えてから答えた。


「私たちは、話し合う前に知ろうとしました。その順序が間違っていたのだと思います」


「そういうこった」


「今後、必要な確認があれば、あなた方に正面から相談します。回答を拒まれた場合は、その意思を尊重します」


「その代わり、こっちも何でも『秘密』で済ませるつもりはねえよ。技術の安全性とか、実際に使う人間に関わることなら、ちゃんと説明する。紬もそこはわかってる」


 紬は頷いた。


「……うん。危ないことにならないようには、したいです」


 高瀬の顔に、わずかな安堵が浮かぶ。


 ただし、それは許されたという安堵ではなかった。少なくとも、対話を続ける余地がまだ残されている。そのことへの感謝だった。


「マスター。私からも、一点よろしいでしょうか」


 それまで会話を見守っていたアイリスが口を開いた。


 高瀬と三浦の視線が、紬の隣に立つ女性のホログラムへ向かう。


「もちろんです。アイリスさん」


「今回の調査について、技術的な状況を確認しておきます」


 アイリスは紬の方へ顔を向け、続けてよいかを目で尋ねた。紬が頷くと、彼女は落ち着いた声で説明を始める。


「政府側から行われた照合は、私が検知した段階で遮断しました。マスターの身元に結びつく情報は取得されていません。今回の経路については、再度の試行があっても同様に防護できる状態です」


 三浦が尋ねた。


「その防護は、今後も維持されると考えてよろしいでしょうか」


「はい。ただし、私が把握していない行為まで、すべて事前に検知できると断言するつもりはありません。今回のような情報照合に対しては、十分な防護を維持しています」


「わかりました」


「なお、調査を防げることと、調査を許容することは別問題です」


 アイリスの声は変わらず丁寧だった。


「技術的に失敗するから試みても構わない、という解釈はお控えください。マスターの私生活を尊重することは、私の防護機能とは独立した約束です」


「その点は理解しています」


 高瀬が答える。


「あなたが止めてくれたから被害がなかった、という理由で責任を軽くするつもりはありません」


「ありがとうございます。その認識を共有できたのであれば、私から申し上げることは以上です」


 アイリスは一礼した。


 ボスが横目で彼女を見る。


「お前、意外と優しく言うんだな」


「必要なことはすべてお伝えしましたので」


「もっとこう、『次やったら世界中のパソコンを反省文で埋め尽くします』くらい言うかと思ったぞ」


「そのようなことをすれば、無関係な方々の業務に支障が生じます」


「そこは真面目に返すのかよ」


「加えて、反省文の提出は自発的でなければ教育的効果が薄いと考えます」


 ボスは一瞬黙り、それから小さく笑った。


「お前も結構、言うじゃねえか」


 紬もつられて笑いかけたが、すぐに口元を押さえた。


 重たい話の最中に笑ってしまったことを気にしたらしい。しかし、高瀬はそれを咎めるどころか、表情を少し和らげた。


 画面越しに向き合っているのは、国家の最高責任者と、普通に暮らしたいと願う一人の若い女性だ。その間に立つのが、四十センチほどのペンギンと、銀髪の人工知能である。


 常識からすれば、何もかもが奇妙な組み合わせだった。


 それでも、今この場で交わしている話は、難解な科学技術よりもずっと単純なことだった。


 約束を守る。


 破ったのなら認める。


 そして、もう一度相手と向き合う。


 言葉にすれば簡単なことほど、実際に行うのは難しい。


「小鳥遊さん」


 高瀬が改めて紬に呼びかけた。


「ここまでの説明を聞いて、あなた自身がどうしたいかを教えていただけますか。もちろん、今すぐ決める必要はありません」


 紬はボスを見た。


 ボスは何も言わず、彼女の返事を待っている。


 アイリスも同じだった。二人とも、紬がどんな答えを出しても受け入れるつもりなのだとわかった。


 だからこそ、紬は自分で考えたかった。


 昨日、官邸へ向かうと決めたのは、誰かに頼まれたからではない。自分が持つ力を、自分だけの便利な生活のために使い続けることもできた。けれど、世界には困っている人がいて、電気が足りずに不自由している場所があり、災害で家を失う人もいる。


 自分にできることがあるのなら、少しくらい役に立ちたい。


 その気持ちは、昨夜の出来事があっても消えていなかった。


 ただ、怖さが増したことも確かだった。


「……私、まだ、ちょっと怖いです」


 高瀬は頷いた。


「当然だと思います」


「また調べられたり、急に家に来られたりしたら……どうしようって、思います」


「そうしたことが起きないよう、私たちが責任を持って対応します」


「……はい」


 紬は膝の上の手を開き、もう一度握った。


「でも、あの装置が本当に役に立つなら……使ってほしいです」


 高瀬は口を開きかけたが、紬がまだ話そうとしているのを見て待った。


「ただ……昨日みたいに、何も知らないところで何かされるのは嫌なので。何かあるときは、ちゃんと話してほしいです」


「約束します」


「……それと、無理なことは、無理って言ってもいいですか」


「もちろんです」


「私、そんなに上手に話せないし……何でもすぐに決められるわけじゃないので」


「急がせるつもりはありません。協力の内容も時期も、相談して決めましょう」


 紬は小さく息を吐いた。


「……じゃあ、協力は、続けたいです」


 その言葉を聞いた瞬間、ボスの丸い背中から力が抜けた。


 彼は何か言いかけたが、結局、紬の足元に寄り添うだけにした。


 高瀬は深く頭を下げる。


「ありがとうございます。あなたの意思を尊重します。そして、今回失った信頼を、今後の行動で取り戻せるよう努めます」


「……はい」


 紬はそれ以上、言葉を重ねなかった。


 許した、と口にすることはできなかったし、今後絶対に大丈夫だと信じ切ることもできなかった。


 それでも、自分の気持ちを伝えられた。


 今は、それで十分だと思えた。


「さて、じゃあ次の話だ」


 ボスが画面の前に出ると、三浦が姿勢を正した。


「昨日の炉、まだ動かしてねえよな?」


「はい。ご覧のとおり停止状態を維持しています。外装に手を加えることも、内部を調べることもしていません」


「よし。そいつはちゃんと守ってくれたんだな」


 三浦は苦笑を浮かべた。


「その点だけ評価いただいても、今回の失敗が帳消しになるとは思っていませんが」


「当たり前だ。けど、守ったことまで無視するつもりもねえよ」


 ボスは短い翼を組むようにして考えた。


「このまま総理の部屋に置いとくわけにもいかねえだろ。試験するなら、ちゃんとした場所がいる」


「その件については、専門家を交えた確認の準備を進めたいと考えています」


 高瀬が答える。


「ただし、あなた方の了承を得るまでは、装置を移動させることもありません」


「研究するのはいいけど、分解はなしだぞ。前に話したとおり、外から性能や安全性を確かめるだけだ」


「承知しています」


「それと、ちゃんとした研究者を連れてこい。俺たちが安全だって言っただけで、国中の人間が納得するわけじゃねえからな」


 三浦が頷いた。


「専門家による検証は不可欠だと考えています。担当者の選定を進めます」


「よし。じゃあ、準備ができたら連絡してくれ。こっちも予定があるからな」


「もちろんです」


 ボスは満足そうに頷いたが、そこで何かを思い出したように首を傾げた。


「そういや、昨日頼んだ魚はどうなった?」


 三浦が一瞬、言葉を失う。


「……魚、ですか」


「おう。茶と魚を頼んだだろ。茶はともかく、魚の話がどっか行っちまったぞ」


「昨日は、その後の対応が立て込んでおりまして……」


「俺たちだって立て込んでたんだよ。政府に裏切られたりな」


「……返す言葉もありません」


 高瀬が小さく咳払いをした。


「次にお越しいただく機会があれば、魚も用意しましょう」


「おっ、言ったな? 総理の約束だからな?」


「ええ」


「今度こそ守れよ。魚の約束まで破ったら、俺は相当怒るぞ」


 紬が慌てて口を挟む。


「ボス、そこは別に……」


「別じゃねえ。信用ってのは小さいことからだろ」


 そう言われると、紬も反論しづらい。


 アイリスが横から付け加えた。


「なお、ボスの食事については私の管理下で十分な量を提供しています。官邸で追加の魚を召し上がる場合は、食べ過ぎにご注意ください」


「おい、余計なこと言うな!」


「健康管理は重要ですので」


「俺の楽しみを国家機密みてえに管理すんじゃねえ!」


 思いがけないやり取りに、高瀬が声を漏らして笑った。


 三浦も眼鏡の奥で目を細める。


 紬は恥ずかしそうに俯いたが、先ほどまでの硬い表情は少しだけ和らいでいた。


 ただ、その空気に甘えて話を終わらせることは、誰もしなかった。


 高瀬は最後にもう一度、紬へ向き直る。


「小鳥遊さん。今日お話ししたことは、こちらの責任で記録し、守ります。もし私たちの対応に不安があれば、遠慮なく伝えてください」


「……わかりました」


「そして、改めて申し訳ありませんでした」


 紬は少し迷ってから、小さく頭を下げた。


「……説明してくれて、ありがとうございました」


 それは謝罪をすべて受け入れたという意味ではない。


 高瀬にも、その違いは伝わっていた。


 通信が終了すると、執務室には再び静けさが戻った。


 三浦は画面の消えた通信機器を見つめたまま、しばらく動かなかった。


「……協力を続けていただけるとは、正直、思っていませんでした」


「私もだ」


 高瀬は椅子に腰を下ろした。


「彼女たちは、こちらが何をしたのか理解したうえで、それでも話を聞いてくれた。だからこそ、今度は行動で応えなければならない」


「はい」


「三浦君。今日の約束を、私の名前で関係者に徹底してくれ。協力の価値が大きいからこそ、相手の自由を軽んじてはならない。そこを取り違える者が出ないように」


「承知しました」


 三浦が退出したあと、高瀬は停止中の核融合炉に目を向けた。


 昨日は、この装置が日本にもたらす未来のことばかり考えていた。


 今は、その未来を託そうとしている相手が、どれほど繊細な勇気を振り絞ってここへ来たのかを考えていた。


 その違いを忘れないことが、最初の一歩なのだろう。


 一方、研究室では、通信が切れたあとも紬がしばらくソファに座っていた。


 ボスはテーブルから飛び降りると、短い足で彼女のところまで歩いてきた。


「お疲れさん」


「……うん」


「よく喋ったな」


「……あんまり喋れてないよ」


「俺からしたら十分だ。言いたいこと、ちゃんと言えたじゃねえか」


 紬は膝に乗ってきたボスを両腕で抱き上げた。ふわふわした体を胸元に寄せると、いつもの温かさが伝わってくる。


「……ねえ、ボス」


「なんだ?」


「私、続けるって言ってよかったのかな」


「それは俺が決めることじゃねえよ」


「……そうだよね」


「でも、後悔してるのか?」


 紬は少し考えた。


「……まだ、わかんない。でも、やめたいわけじゃない」


「なら、それでいいんじゃねえか」


 ボスは彼女の腕の中で姿勢を変え、顔を見上げた。


「昨日までのことが消えるわけじゃねえし、明日になったら全部信用できるようになるわけでもねえ。だけど、今すぐ全部決めなくたっていいだろ」


「……うん」


「嫌になったらやめりゃいい。困ったら相談すりゃいい。俺もアイリスもいるんだから、一人で抱え込むなよ」


 紬はボスの頭を撫でた。


「……ありがとう」


「おう」


 アイリスが二人を見守りながら、研究室の照明を少し柔らかく調整した。


「マスター。本日の対話内容は、必要な範囲で記録しました。政府側からの今後の連絡についても、合意した経路を通じてお伝えします」


「……ありがとう、アイリス」


「どういたしまして。なお、精神的な負担が大きかったと推測されますので、本日は休息をお勧めします」


「そうだな。今日はもう何もしねえでいいぞ」


 ボスが賛成すると、アイリスはわずかに首を傾げた。


「ボスについては、先ほどから食事の予定を確認されているようですが」


「休息と食事は両立するだろ!」


「もちろんです。では、昼食の希望を伺います」


「魚!」


「予想どおりのご回答です」


 紬は二人のやり取りを聞きながら、ようやく自然に笑った。


 政府との関係がどうなるのか、まだわからない。自分が作った核融合炉が本当に役に立つのかも、これから確かめなければならない。


 不安は残っているし、昨夜のことを簡単に忘れるつもりもなかった。


 それでも、今日、自分の言葉で嫌だったことを伝えられた。そして、どうしたいかも決められた。


 誰かに守ってもらうだけではなく、自分で選ぶことができたのだ。


「……ボス」


「ん?」


「お魚、私も食べようかな」


「おっ、いいじゃねえか。今日は何にする?」


「……鮭がいい」


「よし、決まりだ。アイリス、鮭二人前!」


「承知しました。ただし、ボスの分量は体格に合わせて調整します」


「そこは大盛りにしてくれよ!」


 いつものように始まった二人の言い合いを聞きながら、紬はボスを抱え直した。


 胸の中には、まだ消えない小さな痛みがある。


 けれど、その痛みを抱えたままでも、前に進んでいいのだと思えた。


 窓のない研究室の中で、紬は久しぶりに、今日の昼ご飯を楽しみにしていた。

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