第12話 お金より大切なもの
小鳥遊紬は、テーブルの上に置かれた一枚の封筒を、もう十分ほど眺めていた。
差出人は見慣れた公共料金の請求元で、封筒そのものに怪しいところはない。中身もごく普通の利用明細だ。それなのに、紬は開封したところで手を止め、ソファに座ったまま動かなくなっていた。
理由は単純だった。支払いという行為が、ひどく面倒に感じられたのである。
以前なら、請求書が届くこと自体に疑問を抱かなかった。電気を使えば電気代がかかり、水を使えば水道代が発生する。生活にはお金が必要で、そのためには収入が要る。誰かが決めたというより、世の中がそういう仕組みで動いているのだと、ずっと受け入れてきた。
けれど今の紬の家には、普通の家庭では見かけないものがいくつもある。
料理を作り、洗濯を終わらせ、床の隅まで掃除してくれる装置。外からは想像もつかない広さの秘密基地。自分で動く椅子に乗ったペンギンと、銀白色の髪をした人工知能。
必要なものの大半は、欲しいと思えば自分で作れてしまう。
そんな暮らしの中で届いた請求書は、紬に忘れかけていた現実を思い出させた。
「……お金って、まだ必要なのかな」
膝の上でくつろいでいたボスが、片方の目だけを開けた。丸い身体を少し動かし、紬の手元にある紙を見上げる。
「必要だろ。魚屋に行って『俺の相棒は何でも作れます』って言ったところで、魚は売ってくれねえぞ」
「魚なら作れるよ?」
「そういう話じゃねえ。世の中の店は、客が何を作れるかじゃなくて、金を払えるかで商売してんだよ」
「……それは、そう」
紬は請求書をテーブルに戻し、ボスの頭に顎を載せた。ふわふわした羽毛に頬を寄せると、考え事をしている間に固くなっていた肩から、少し力が抜ける。
部屋の端では、アイリスのホログラムが浮遊式端末に向かっていた。秘密基地の設備記録を確認していたらしいが、二人の会話を聞いて顔を上げる。
「マスター。生活費について、現在の状況を整理しましょうか」
「うん。お願い」
「まず確認ですが、マスターが創造した設備によって、食料品や日用品の購入頻度は以前より大幅に減っています。一方で、既存の契約に基づく支払いは残っています。能力があることと、社会制度上の義務がなくなることは別問題です」
「……だよね」
「なお、今後の支出額を正確に把握するには、契約内容と利用実績の確認が必要です。創造した設備が外部の電力や水道をどの程度使用しているかも、項目ごとに分けて調べるべきでしょう」
アイリスの説明に合わせて、端末にいくつかの項目が並ぶ。紬はそれを見ながら、請求書の端を指先でつついた。
家の中を便利にすることばかり考えていたせいで、今まで生活費そのものにはあまり意識が向いていなかった。買い物に行く回数が減ったことは実感していたものの、毎月いくら使わなくなったのかと聞かれると、すぐには答えられない。
もっとも、答えを知ったところで何かが変わるとも思えなかった。
「私、もう食べ物も服も作れるし、電気だって自分で用意できるんだよね」
「技術的には可能です。ただし、既存設備の契約変更や外部供給からの切り替えを行う場合は、別途検討が必要になります」
「そこが面倒なんだよな、お前は」
ボスが呆れたように言うと、紬は彼の身体を抱き直した。
「だって、書類とか電話とか、いっぱいありそう」
「いっぱいあるかどうかも調べてねえだろ」
「調べたら、いっぱいあるって分かっちゃうかもしれないし……」
「分からねえまま怖がってるほうが面倒くせえだろ」
正論だったので、紬は返事の代わりにボスの背中を撫でた。
アイリスは二人のやり取りを見守りながら、端末の表示を切り替えた。
「生活費の削減については、私が候補を整理できます。マスターに必要な判断だけをお願いする形にすれば、負担は減らせるでしょう」
「それ、すごく助かる」
「ただし、ひとつ興味深い問題があります」
「なに?」
「マスターは、お金をどの程度必要としているのでしょうか」
紬は首を傾げた。
いくら持っているか、ではない。どの程度必要なのか。
似たような言葉なのに、考え始めるとまったく違う質問に思えた。
「……普通に暮らせるくらい?」
「その『普通』が、以前とは変化しています」
アイリスが指先を動かすと、端末に家の簡単な見取り図が映し出された。そこには実際の部屋だけでなく、秘密基地へ通じる扉も示されている。
「マスターは現在、通常なら購入や維持に相当な費用を要する設備を、ほぼ自由に用意できます。衣食住に関する不足も、能力を使用すれば多くの場合は解消可能です。それでも現金が必要になる場面は存在します。問題は、その場面をどれだけ重視するかです」
「つまり、金持ちになる必要があるかってことか?」
「近いですね、ボス様。正確には、マスターが望む生活に必要な経済的条件を考える、ということです」
ボスは少し考え、紬の腕の中からテーブルへ飛び降りた。短い足で請求書の横まで歩くと、紙を踏まないように立ち止まる。
「じゃあ紬、お前、金が山ほどあったら何したい?」
「え?」
「何でもいいぞ。でっけえ家に住むとか、毎日うまいもん食うとか、欲しいもん全部買うとか」
「……それ、もうできる」
「だよな」
「旅行とか?」
「行きたいところがあるのか?」
紬は口を開きかけ、そこで考え込んだ。
行ってみたい場所は、確かにある。写真で見た青い海や、雪の積もった山、夜空いっぱいに星が広がる景色。けれど、行きたいと思うことと、実際に出かけることの間には、これまでずいぶん大きな距離があった。
移動の手配、宿泊先の予約、慣れない場所でのやり取り。そうしたことを想像するうちに、結局は家で過ごすほうを選んでしまう。
今なら、以前よりずっと簡単に移動できるかもしれない。瞬間転移という方法も覚えた。ただし、秘密基地の外で試したことはまだなく、行き先の安全や人目の問題も残っている。
「……行ってみたい場所はあるけど、旅行の準備が嫌かも」
「お前らしい答えだな」
「ホテルで受付の人と話すのも、ちょっと……」
「そこまで含めて旅行だと思ってんのかよ」
「だって、話さないと泊まれないでしょ?」
「俺が代わりに話してやるよ。相手が俺を見てどうなるかは知らねえけどな」
その光景を想像して、紬は吹き出した。
フロントに立つ小さなペンギンが、偉そうに部屋の予約を確認する。受付の人はきっと、宿泊者名簿を見るどころではなくなるだろう。
「それは……大騒ぎになりそう」
「失礼だな。俺は礼儀正しく交渉するつもりだぞ」
「ボス様の交渉能力は高いと思われますが、第一声から状況説明が必要になる可能性があります」
「アイリスまで言うのかよ」
三人で笑ったあと、紬はもう一度お金のことを考えた。
欲しいものを買うためのお金。どこかへ行くためのお金。安心して暮らすためのお金。
そのどれもが大切だったはずなのに、今は以前ほど切実ではない。かといって、必要なくなったと断言するのも違う気がする。
「……でもさ、アイリス。お金を作ることも、できると思うんだよね」
その言葉に、アイリスは表情を引き締めた。
「通貨を物理的に複製するという意味であれば、能力上は可能性があります。ただし、実際に使用することは法的にも社会的にも重大な問題を生じさせます。行うべきではありません」
「うん。それは分かってる。偽札を使いたいわけじゃないよ」
「承知しました」
「ただ、普通の人が一生懸命働いて買うものを、私は作れちゃうから……なんか、不思議だなって」
紬は自分の手のひらを見つめた。
何もない空間から、食事も道具も、普通なら存在しない技術さえ生み出せる手。けれど見た目は、覚醒する前と何も変わらない。
以前の自分なら、高価なものを欲しいと思っても、値札を見て諦めることがあった。手に入れるためにどれくらいお金を用意しなければならないかを考え、欲しさと面倒くささを天秤にかけていた。
今は、値段を気にせず作れてしまう。
それが嬉しくないわけではない。むしろ、すごく嬉しい。欲しいものを我慢しなくていいし、壊れても直せる。便利なものを思いついたら、誰かが商品化してくれるのを待つ必要もない。
ただ、欲しいものを何でも手に入れられることと、毎日を楽しく過ごせることは、同じではなかった。
紬は、ボスがまだいなかった頃の部屋を思い出した。
家事をしなくてよくなり、食事も自動で用意され、好きなだけくつろげるようになった日。あのときは、理想の暮らしを手に入れたつもりだった。
実際、快適だった。
けれど、面白いことが起きても話す相手がいないという事実は、どんな装置を作っても変わらなかった。
その後、ボスが生まれ、アイリスが加わった。
今の部屋は以前より賑やかで、思いどおりにいかないことも増えた。ゲームで負ければ悔しいし、ボスは勝手に人のお菓子を狙うし、アイリスは紬が見て見ぬふりをしていた問題まで正確に指摘してくる。
それでも、一人で何でもできた頃より、ずっと楽しい。
「……お金で買えないものって、こういうことなのかな」
「急にどうした?」
「ううん。ちょっと思っただけ」
紬が微笑むと、ボスは怪訝そうな顔をしたものの、それ以上は追及しなかった。
アイリスはしばらく考える様子を見せてから、別の質問を口にした。
「マスター。仮に、非常に大きな金額を合法的に得られる機会があったとして、興味はありますか」
「……ある、かな?」
「意外ですね」
「えっ、意外?」
「マスターは金銭そのものへの執着が比較的薄いと推測していました」
「お金がいっぱいあったら、安心すると思う。あと、請求書を見て考え込まなくて済みそう」
「なるほど。金額の大きさよりも、将来の選択肢と安心感を重視しているのですね」
そう言われると、しっくりきた。
紬は大きな宝石を身につけたいわけでも、豪華な車を何台も並べたいわけでもない。そういうものを欲しくなれば作れるし、今のところ特に興味もない。
それでも、通帳の数字が減っていくのを見れば気になるし、支払いの心配がない生活には憧れる。
お金が欲しいというより、お金のことで困りたくないのだ。
「だったら稼げばいいじゃねえか」
ボスがあっさり言った。
「……どうやって?」
「お前、何でも作れるんだろ。世の中の人間が欲しがるもんを作って売ればいい」
「それは、できるけど……」
紬は想像してみた。
自分が作った便利な道具を誰かに見せる。相手が驚き、性能について質問する。説明し、値段を決め、売買の約束を交わす。
その時点で、もう気が重かった。
仮に相手が喜んでくれたとしても、次は別の人が来るかもしれない。もっと詳しい説明を求められたり、どうやって作ったのか聞かれたり、会社を作らないかと誘われたりする可能性もある。
知らない人から電話がかかってくる未来まで想像したところで、紬はソファの背もたれに沈み込んだ。
「……やっぱり、いいや」
「早えな!」
「だって、売るのって大変そう」
「売る前から諦めるなよ」
「でも、作るのは簡単なのに、売るのは大変なんだよ?」
「普通は逆なんだよ!」
ボスの叫びに、アイリスが小さく笑った。
「確かに、マスターにとって製造はほとんど障害になりません。一方、販売には相手との合意、取引の管理、品質や安全性への責任などが伴います。特に既存技術を大きく超える製品の場合、注目を集める可能性が高いでしょう」
「ほら……」
「ただし、販売方法を工夫する余地はあります。第三者への委託や、私による情報整理も考えられます」
「アイリスが全部やってくれるの?」
「私が支援できる範囲は広いと思います。しかし、社会の中で行う取引について、マスターの責任まで消せるわけではありません」
紬は口を尖らせた。
能力で作ったものを売れば、お金を得られるかもしれない。それ自体は魅力的だ。けれど、手に入れたお金のせいで自由な時間が減るなら、本末転倒のようにも感じる。
ボスはテーブルの上を歩いて紬の近くまで戻り、ソファへ登ろうとした。紬が手を差し出すと、その手に足を載せ、慣れた様子で腕の中へ収まる。
「お前さ、金が欲しいのか、面倒が嫌なのか、どっちなんだ?」
「……両方」
「欲張りだな」
「ボスだって、魚もゲームもプールも欲しがるでしょ」
「俺は欲しいもんがはっきりしてるからいいんだよ」
「そういう問題?」
「そういう問題だ」
紬は納得できないまま、ボスの丸いお腹を撫でた。
確かに、ボスの言うことにも一理ある。彼は食べたいときには食べたいと言い、泳ぎたいときにはプールへ向かう。欲しいものを遠慮なく口にするくせに、手に入れたあとまで際限なく欲しがるわけではない。
昨日のゲームでも、負けたときは本気で悔しがっていたが、勝ったあとはそれ以上の景品を要求することもなかった。ただ、もう一戦やろうと誘ってきただけだ。
もしかすると、欲しいものが分かっているというのは、それだけで立派なことなのかもしれない。
「……じゃあ、ボス。もしお金が無限にあったら、何する?」
「そうだな。まず魚を買う」
「魚、作ってあげるよ?」
「店で選んで買うのも楽しそうじゃねえか。で、うまいもん食って、面白そうなゲームを探して……あとは、お前とどっか行く」
「私と?」
「一人で魚食ってゲームしてても、そのうち飽きるだろ。せっかくなら、お前が行きたがってる場所にも付き合ってやるよ」
紬はボスの顔を見つめた。
彼は照れたように目を逸らし、付け加える。
「まあ、変な場所に連れていかれたら文句は言うけどな」
「……うん。ありがとう」
「礼を言うほどのことじゃねえよ」
紬はボスを胸元に引き寄せた。小さな身体から伝わる温かさは、どんな高価な寝具よりも落ち着く。本人にそう言ったら、きっと妙な顔をするだろうから、今は黙っておくことにした。
すると、アイリスが二人を見ながら口を開いた。
「私にも、ひとつ質問してよろしいでしょうか」
「うん?」
「マスターは、何かを得るために努力することを、無駄だと感じるようになりましたか」
紬は少し驚いた。
万物創造があれば、大抵のものは簡単に手に入る。努力して技術を覚えなくても、欲しい装置を作れば、その仕組みまで理解できる。普通なら何年もかかるような研究さえ、最初の一歩を飛び越えられることがある。
それなのに、アイリスは努力について尋ねてきた。
「……無駄とは思わないよ。でも、わざわざ大変なことをしなくてもいいかな、とは思う」
「その違いに興味があります」
「うーん……たとえば、料理を作るのって大変でしょ? 私は装置に任せちゃうけど、自分で料理するのが好きな人もいるよね」
「はい」
「その人にとっては、作る時間も楽しいんだと思う。でも、私にとっては……食べるほうが楽しい」
ボスが大きく頷いた。
「それは俺も同意する」
「ボスは食べるのが好きなだけでしょ」
「悪いか?」
「悪くないよ」
紬は笑ってから、言葉を探した。
「だから、何かを頑張るのが嫌っていうより、好きじゃないことに時間を使いたくないのかも。……頑張るなら、好きなことを頑張りたい」
「なるほど」
アイリスは、何かを確かめるように目を伏せた。
「私も、昨日の対戦では勝利そのものより、予想していなかった行動に対応する過程を楽しんでいました。最適な手順を最初から知っていたとしても、実際に試すことには別の価値があるのかもしれません」
「アイリスはゲーム、強かったもんな」
「ボス様も後半は興味深い戦術を使用されていました」
「だろ? 俺だってやるときゃやるんだよ」
「特に、操作を誤った結果が有効な回避行動になった場面は、予測が難しいものでした」
「それ褒めてねえだろ!」
紬は声を上げて笑った。
アイリスも楽しそうだった。作業を手伝うために生まれた彼女が、仕事とは関係のない遊びを気に入っている。そのことが、紬には嬉しかった。
自分で何でも作れるからこそ、他の誰かが何を面白いと感じるのかは、作ってみるまで分からない。
ボスがゲームで勝つと得意げになることも、アイリスが予想外の展開を喜ぶことも、紬があらかじめ決めた行動ではない。
そう考えると、万物創造という名前のわりに、自分には作れないものがある気がした。
相手の気持ちを、自分の思いどおりにすること。
もちろん、そういう性質を持つ存在を創造することは、技術的にはできるのかもしれない。けれど、それでは今ここにいるボスやアイリスとは違ってしまう。
自分の考えに反対したり、思いがけない冗談を言ったりするからこそ、一緒にいて楽しいのだ。
紬がそんなことを考えている間に、アイリスは請求書の内容を整理し終えていた。
「マスター。現時点で支払いが必要な項目と、今後見直せる可能性がある項目を分けました。期限が近いものについては、後回しにしないことをお勧めします」
「……やっぱり、払わなきゃだめ?」
「はい。少なくとも、請求書を見つめ続けても支払いは完了しません」
「手厳しいな、お前」
「事実を申し上げました」
紬は観念して端末を手に取り、必要な手続きを確認し始めた。途中で分からない項目が出るたびにアイリスが説明してくれるので、思っていたほど時間はかからない。
ボスは膝の上に戻り、紬の手元を覗き込んでいたが、数字の並んだ画面に飽きたのか、やがて丸くなって目を閉じた。
手続きを終えると、紬は大きく伸びをした。
「……終わった」
「お疲れさまです、マスター」
「思ったより簡単だったかも」
「最初からやってりゃ十分で終わったんじゃねえのか?」
「それを言わないで……」
紬はソファに深く座り直し、天井を見上げた。
支払いを終えたからといって、突然お金持ちになったわけではない。将来の心配がすべて消えたわけでもないし、世の中の面倒な仕組みがなくなったわけでもない。
それでも、今の自分には以前より多くの選択肢がある。
欲しいものを手に入れるために、必ずしもお金を稼ぐ必要はない。遠くへ行くための方法も、いつか自分で用意できるだろう。暮らしの中で嫌だったことを、ひとつずつ減らしていくこともできる。
ただし、自由というのは、何もしなくてよくなることではないらしい。
何をするか、自分で決められること。
紬には、そのほうがずっと大切に思えた。
「ねえ、アイリス」
「はい、マスター」
「私、お金持ちになりたいっていうより、好きなことをして暮らしたいんだと思う」
「それは、これまでのマスターの行動とも一致しています」
「でも、お金がないと困ることもあるから、必要な分はちゃんと考えたい。……あんまり面倒じゃない方法で」
「最後の条件が、最も難しいかもしれませんね」
「ええ……」
「ですが、考える価値はあります。無理に結論を急ぐ必要もありません」
紬は頷いた。
すぐに何かを売り始めるつもりはないし、突然大きな事業を始める気もない。自分が作れるものの価値については、まだよく分からないことが多すぎる。
けれど、いつか誰かの役に立つものを作ることがあってもいい。
それでお金をもらうこともあれば、もらわないこともあるだろう。
大事なのは、誰かに言われたからではなく、自分でそうしたいと思えるかどうかだ。
「……よし」
紬は端末を持ち直し、実験記録とは別の新しいページを開いた。
何か大きな計画を書こうとしたわけではない。ただ、今日考えたことを忘れないようにしたかった。
画面の上に、短い見出しを入力する。
『これからの暮らしで大切にしたいこと』
その下に、まず『自由な時間』と書いた。
続いて『安心して暮らせること』。それから『好きなことを楽しむこと』。
四つ目の項目を考えていると、ボスが薄目を開けた。
「何書いてんだ?」
「これから大切にしたいもの」
「へえ。魚は?」
「ボスの大切なものでしょ」
「お前だって食うだろ」
「私は……」
紬は少し迷い、四つ目の欄に『おいしいご飯』と書き足した。
ボスが満足そうに頷く。
「分かってんじゃねえか」
「ボスに言われたからだけどね」
「きっかけなんざ何でもいいんだよ」
アイリスが画面を覗き込み、穏やかに尋ねた。
「マスター。そこに、私が提案してもよろしいでしょうか」
「もちろん」
「『大切な人たちと過ごすこと』はいかがでしょう」
紬の指が止まった。
ボスも顔を上げ、アイリスを見た。
「……それ、いいね」
紬は五つ目の項目を追加した。
文字を打ち終えると、画面に並んだ言葉を眺める。どれも当たり前のことばかりで、立派な目標とは言えないかもしれない。
それでも、今の自分が本当に欲しいものは、きっとこの中にある。
紬は端末を閉じ、ボスを抱き上げて頬を寄せた。
「ねえ、ボス。今日の晩ご飯、何がいい?」
「魚」
「それは知ってる。どんな魚?」
「うまいやつ」
「……それ、選ぶの難しくない?」
「何でも作れるんだろ。期待してるぜ、相棒」
紬は笑いながらアイリスを見る。
「アイリスも、何かしたいことある?」
「食事のあと、三人でゲームをしたいです。昨日とは違う対戦形式を試してみたいので」
「お、いいじゃねえか。今度は俺が勝つ」
「楽しみにしています、ボス様」
夕食を食べて、ゲームをして、眠くなったら寝る。
そんな一日を過ごすために、今の紬は途方もない力を持っている。
少し贅沢な使い方なのかもしれないが、別に構わないと思った。
世界中の財宝を集めたところで、この二人と過ごす夕食がもっと楽しくなるとは限らないのだから。
「じゃあ、今日はちょっと豪華にしようかな」
紬がそう言うと、ボスはすぐに顔を輝かせた。
「おっ、いいな。で、何が出るんだ?」
「それは……食べるときのお楽しみ」
「もったいぶりやがって」
アイリスが夕食の候補をいくつか表示し、ボスがその中から魚料理を真剣に選び始める。紬は彼の背中を撫でながら、自分の食べたいものを考えた。
テーブルの端には、支払いを終えた請求書がまだ置かれている。
紬はそれを片づけるようアイリスに頼みかけ、途中で思い直して、自分の手で封筒に戻した。
ほんの小さな用事だったが、今日はそれくらいなら面倒だと思わなかった。




