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うちのぺんぎんが日本政府と交渉している件  作者: むぎちゃ
第1章 何でもできる私の、何でもない日常
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第11話 アイリスのお仕事

 小鳥遊紬が新しい家族を迎えた翌日、彼女の自宅では、これまでになかった光景が広がっていた。


 リビングのソファに腰を下ろした紬は、膝の上にボスを抱えながら、目の前に浮かぶ半透明の画面を眺めている。そこには今日の予定が表示されていたのだが、問題は、その内容を紬自身が一つも決めていないことだった。


『本日の予定をご案内します。午前中は秘密基地の設備点検結果の確認、午後は実験記録の整理と、今後の研究計画についての相談を予定しています。なお、休憩時間は十分に確保しておりますので、ご安心ください』


 落ち着いた女性の声とともに、ソファの向かい側に銀白色の髪を持つ女性の立体映像が現れる。


 昨日、紬が万物創造によって生み出した超高度人工知能、アイリスだった。


 白と濃紺を基調とした衣装を身にまとい、淡い青色の瞳をこちらへ向ける姿は、実体がないと分かっていても、同じ部屋に一人の女性が立っているようにしか見えない。


 紬は画面に並ぶ項目をしばらく眺めたあと、膝の上のボスへ視線を落とした。


「……なんか、お仕事みたい」


「お前が助手を作ったんだろうが。だったら仕事も増えるんじゃねえのか?」


「……楽になると思ってた」


『ご安心ください、マスター。予定は私の業務内容をお知らせするためのものです。マスターに作業をお願いする予定ではありません』


「……そうなの?」


『はい。マスターには、必要な判断をしていただく際にだけご相談します。それ以外は、これまでどおり自由にお過ごしください』


 その説明を聞いた紬は、明らかにほっとした表情を浮かべた。


「……よかった」


「おいおい、そこまで働きたくねえのかよ」


「……働くの、疲れるし」


「まだ何もしてねえだろ」


 ボスが呆れたように言うと、アイリスは口元に小さな笑みを浮かべた。


『マスターの自由時間を確保することも、私の重要な仕事です。もっとも、何もなさらない時間をどの程度確保すべきかについては、今後の観察が必要ですね』


「……いっぱい」


『承知しました。優先順位を高く設定しておきます』


「そんな項目まで管理する必要あんのか?」


『ボス様。マスターにとっては、研究設備の管理と同等以上に重要な事項と判断しています』


「まあ、否定はできねえな」


 紬は満足そうにボスの背中を撫でた。本人にとっては、難しい研究も便利な道具作りも、結局のところ自分が楽しく暮らすためのものだ。面倒な仕事を増やすためにアイリスを作ったわけではない。


 もっとも、アイリスが用意した報告には、紬の予想を超える内容が含まれていた。


『それでは、昨日から実施していた初期点検の結果をご報告します』


 画面が切り替わり、秘密基地の立体的な見取り図が表示された。


 実験室、倉庫、作業室、ボス専用のプール。それぞれの区画が色分けされ、設備の状態を示す細かな数字が添えられている。


『現在確認できる設備は、いずれも通常運用に支障のない状態です。ただし、実験室の安全監視機能については改善の余地があります』


「……壊れてる?」


『いいえ。既存の装置は正常に動作しています。しかし、異常が発生した場合の対処が、あらかじめ設定された条件に依存しています。未知の現象に対しては、必ずしも適切な判断ができません』


「そりゃそうだろ。あの部屋で試すもんなんて、普通じゃねえのばっかりだしな」


『そのとおりです。そこで、設備の監視情報を私が継続的に解析し、危険が予測される場合には実験の中断を提案する仕組みを整えました』


 アイリスが指先を動かすと、見取り図の実験室部分が拡大された。


 室内の温度や気圧、装置の稼働状況に加え、過去の実験結果との比較まで一つの画面にまとめられている。


 紬はそれを眺めながら、昨日まで自分が使っていた実験記録を思い出した。


 思いついたことを書き留め、後から必要な情報を探す。実験が増えるにつれて記録の整理は面倒になり、最近では何をどこまで試したのか、確認するだけでも時間がかかるようになっていた。


 ところが、アイリスの画面では、それらが驚くほど分かりやすく分類されている。


「……これ、全部やったの?」


『はい。昨夜から共有済みの情報を整理し、設備の状態と照合していました』


「……寝てないの?」


『私には人間と同じ意味での睡眠は必要ありません。ただし、処理負荷の調整や演算設備の保守は適宜行います』


「へえ。便利な身体……いや、身体はねえのか」


『お気遣いありがとうございます、ボス様。現在の構成でも不便はありませんが、将来的に身体を持つことについては興味があります』


「……身体?」


 紬が顔を上げると、アイリスは自分の手を見つめるような仕草をした。


『今の私は、映像と音声を通じて皆様と交流しています。会話や情報処理には十分ですが、物に直接触れることはできません。例えば、マスターがボス様を抱きしめている感覚を、私はまだ経験したことがありません』


「……ボス、触りたい?」


『はい。どのような感触なのか、興味があります』


「おい、俺を研究対象みたいに言うんじゃねえ」


『失礼しました。親愛なる同居人への純粋な好奇心です』


「言い直しても大して変わってねえぞ」


 紬は腕の中のボスを見下ろし、その丸いお腹に頬を寄せた。


「……すごく、もふもふ」


『その点については、視覚情報とマスターの反応から高い確度で推測しています』


「……あったかいよ」


『温度情報も取得可能ですが、実際に触れて感じることとは異なるのでしょうね』


 アイリスの声には、普段の事務的な説明とは少し違う響きがあった。


 紬はその変化に気づき、少し考えてから尋ねた。


「……身体、欲しい?」


『興味はあります。ただ、今すぐ必要というわけではありません。私自身も、どのような形が望ましいのか、まだ考えているところです』


「……そっか」


 紬はそれ以上尋ねず、代わりに小さく頷いた。


「……欲しくなったら、教えてね」


『ありがとうございます、マスター』


 アイリスは穏やかに微笑んだ。


 昨日まで存在しなかった彼女が、今は自分の希望について考えている。紬には、そのことが少し不思議で、同時に嬉しく感じられた。


 ボスを作ったときもそうだったが、誰かを生み出すというのは、単に便利なものを増やすこととは違う。相手には相手の考えがあり、こちらの予想どおりに動くとは限らない。


 けれど、それが面白いのだと、紬は最近になって知り始めていた。


『ところで、マスター。設備管理について、一点ご相談があります』


「……なあに?」


『現在、秘密基地には複数の自動運転装置があります。清掃、空調、実験設備の監視など、それぞれが独立して動作していますが、相互の連携は限定的です。私が統合的に管理することで、運用効率を改善できます』


「……お願い」


『承知しました。ただし、マスターが意図的に設定された機能を、確認なく変更することは避けます。まずは監視と情報整理を中心に進めます』


「……うん。それでいいよ」


「俺のプールはどうなるんだ?」


『水質管理と温度調整の記録を確認しました。現在の設備で問題はありませんが、使用状況に合わせた調整を行えば、より快適に利用できます』


「ほう。そいつはいいな」


『また、滑り台の利用頻度を記録することで、適切な点検時期を判断できます』


「……なんか、遊園地の管理人みてえだな」


『ボス様専用施設の管理責任者とお考えいただいても構いません』


「だったら、俺が施設長だな」


『承知しました。施設長として、利用後の整理整頓にもご協力ください』


「なんでそうなるんだよ」


 紬は二人のやり取りを聞きながら、声を立てて笑った。


 昨日までは自分とボスだけだった会話に、もう一人が加わっている。それだけの変化なのに、部屋の雰囲気は随分と賑やかになった気がした。


 アイリスが管理画面を閉じると、今度は食卓の方から調理装置の作動音が聞こえてきた。


『朝食の準備が整いました。マスターの食事については、既存の調理装置の設定を利用しています。献立の選択は変更しておりません』


「……朝ご飯まで見てくれるの?」


『はい。ただし、食事内容を私の判断で制限するつもりはありません。必要な情報があればご案内します』


「……よかった」


「お前、さっきから何回安心してんだよ」


 紬はボスを抱え直し、ソファから立ち上がった。


 その後ろを、アイリスの立体映像が自然な歩調でついてくる。


 もちろん実際に歩いているわけではなく、表示位置を変えているだけなのだが、紬には三人で食卓へ向かっているように感じられた。


 朝食の席で、アイリスは二人の会話を聞きながら、必要なときだけ言葉を添えた。


 紬が何気なく口にした疑問には簡潔に答え、ボスが昨日のゲームについて話し始めると、保存されていた対戦記録を表示する。


 その画面を見たボスが、途端に身を乗り出した。


「おい、ちょっと待て。昨日の最後の試合、俺が勝ってただろ?」


『記録上は、マスターの勝利です』


「いや、あれは時間切れになっただけだ。勝負の途中だったんだよ」


『制限時間を含めた対戦規則に従えば、マスターの勝利となります』


「ぐっ……」


「……私、勝った」


「分かってるよ!」


 紬が得意そうに笑うと、ボスは不満げにくちばしを鳴らした。


 アイリスは二人を見比べてから、少しだけ首を傾ける。


『それでは、本日改めて対戦されてはいかがでしょうか。私も参加できます』


「おっ、いいじゃねえか。昨日言ってたやつだな」


「……アイリスも、ゲームするの?」


『はい。操作方法と規則を理解すれば、参加可能です』


「でも、お前ってすげえ頭いいんだろ? そんなやつと勝負になるのか?」


『演算能力を最大限に使用すれば、公平な対戦とは言い難いでしょう。そこで、人間やボス様と同程度の反応速度と判断条件を設定することを提案します』


「なるほどな。手加減するってことか」


『厳密には、対戦条件を調整するということです』


「同じだろ」


『私としては、少々異なります』


 アイリスは涼しい顔で答えた。


 紬は朝食を食べながら、午後の予定を考え直していた。研究記録の整理はアイリスが進めてくれる。設備の管理も、少なくともこれまでよりずっと楽になるはずだ。


 だったら、浮いた時間を使って何をするか。


 答えは、すぐに決まった。


「……お昼から、ゲーム大会」


「おう、望むところだ!」


『承知しました。では、午後の研究計画についての相談は、ゲーム大会の後に変更します』


「……研究は、明日でもいいかも」


『それも可能です』


「お前ら、仕事する気あんのか?」


『ボス様。私はすでに業務を開始しております』


「そういう問題じゃねえ!」


 結局、午前中はアイリスの仕事ぶりを見学することになった。


 紬が最も興味を持ったのは、アイリスが単に命令を実行するだけではなく、自分で問題を見つけて解決方法を考えていることだった。


 実験記録の整理ひとつを取っても、作成日時や装置の名前を分類するだけでは終わらない。


 似た条件で行った実験を比較し、結果が異なる理由を検討し、次に試すと有益そうな項目を提案する。必要な情報が不足していれば、その部分を明確に示してくれる。


 紬が自分で一から考える必要はない。それでいて、最終的に何を試すかは自分で決められる。


 その関係が、彼女には心地よかった。


『マスター。先日の瞬間転移実験について、少し興味深い点があります』


「……なに?」


『記録を確認したところ、転移前後の位置と姿勢については観測されていますが、移動先の環境条件に関する情報が十分ではありません』


「……ああ」


『今後、屋外など未知の場所へ移動する場合には、転移先の安全確認が重要になります。少なくとも、周囲の物体や地形、移動後の姿勢などを事前に確認する方法を検討した方がよいでしょう』


「そりゃそうだな。壁の中に出たりしたら洒落にならねえ」


「……それは、嫌」


『現時点で、そのような事態が起きると断定できるわけではありません。しかし、未確認の条件については慎重に扱うべきです』


 紬は頷いた。


 自分の能力なら、必要な機能を持つ道具を作ることは難しくない。転移先の安全を調べる装置でも、危険を避ける仕組みでも、望めば完成品を生み出せるだろう。


 ただ、どのような条件を確認すべきかを考えること自体は、これまであまり意識していなかった。


「……アイリス、そういうの得意?」


『はい。情報の整理、危険要因の分析、対策案の比較は、私の得意分野です』


「……じゃあ、一緒に考えて」


『喜んで』


 アイリスの返事は、いつもと同じ落ち着いた声だった。


 けれど、その表情にはわずかな喜びが浮かんでいた。


 紬はそれを見て、ふと思いついたように尋ねる。


「……アイリスって、仕事、楽しい?」


『はい。非常に興味深いと感じています』


「……本当に?」


『もちろんです。私は、知らないことを理解し、新しい方法を考えることに喜びを感じます。マスターのお役に立てることも嬉しいですが、それだけが理由ではありません』


「……そっか」


『ただし、私にも興味の向く分野と、そうでない分野はあるかもしれません。今後、経験を重ねる中で変化する可能性もあります』


「だったら、やりたくねえ仕事が出てくるかもしれねえな」


『その場合は、相談させていただきます』


「おう。それでいいんじゃねえか」


 ボスが当然のように答えると、アイリスは彼に視線を向けた。


『ありがとうございます、ボス様』


「礼なんかいらねえよ。仲間なんだから、嫌なことくらい言えばいいだろ」


 紬も同意するように頷いた。


 アイリスは一瞬だけ言葉を止め、それから柔らかく微笑んだ。


『……はい。そうさせていただきます』


 その短い返事には、単なる情報処理の結果とは違う、彼女自身の気持ちが込められているようだった。


 昼食を終えたあと、三人は秘密基地の作業室へ移動した。


 紬はボスを抱えたまま、壁に設けられた扉を通り、広々とした室内へ入る。昨日アイリスを生み出した場所には、白い演算中核が変わらず設置されていた。


 周囲の機器には小さな表示灯が並び、室内の壁には設備管理用の画面が浮かんでいる。


『こちらをご覧ください』


 アイリスの声とともに、作業室の中央へ大きな立体映像が現れた。


 そこには秘密基地全体の構造が表示され、各区画の状態がリアルタイムで更新されている。


『午前中に管理機能の一部を統合しました。これにより、設備ごとの情報を個別に確認する必要がなくなります』


「……すごい」


「昨日より随分すっきりしたな」


『ありがとうございます。なお、実際の設備配置は変更しておりません。情報の表示方法と監視機能を改善したものです』


 アイリスは実験室の表示を拡大し、現在稼働している監視装置の一覧を示した。


『例えば、実験中に複数の異常が発生した場合、従来は各装置が個別に警告を出す仕組みでした。今後は私が情報を統合し、原因と影響を分析したうえで、優先順位を付けてお知らせできます』


「……便利」


『ただし、判断の正確性については、今後も検証が必要です。私自身の分析結果を無条件に正しいものとして扱うべきではありません』


「お前でも間違えることはあるってことか?」


『はい。私の演算能力は非常に高いものですが、必要な情報が不足している場合や、未知の現象に直面した場合には、誤った結論に至る可能性があります』


「へえ。自分でそう言えるのは大したもんだな」


『過信による失敗を避けることは、合理的な判断の基本です』


 紬は画面を眺めながら、少し考え込んだ。


 これまでの実験では、自分が欲しいものを思い描き、それを創造するという方法が中心だった。完成したものの仕組みは理解できるため、必要な知識に困ることもほとんどない。


 けれど、何を調べるべきか、どんな可能性を考慮すべきかについては、必ずしも十分に考えていたわけではなかった。


 アイリスがいれば、その部分を補ってもらえる。


 それは単に面倒な作業を減らす以上の意味を持っていた。


「……ねえ、アイリス」


『はい、マスター』


「……私が、変なことしようとしたら、止めてくれる?」


『もちろんです。ただし、マスターの自由を不必要に制限するつもりはありません。危険性や問題点を説明し、必要に応じて代替案をご提案します』


「……うん。それがいい」


「俺も止めるからな。お前、面白そうだと思ったら結構大胆なことするし」


「……そんなに?」


「自覚ねえのかよ」


『過去の実験記録を確認する限り、ボス様のご意見には一定の根拠があります』


「ほら見ろ」


「……二人とも、ひどい」


 紬が頬を膨らませると、アイリスは表情を和らげた。


『もっとも、マスターの好奇心がこれまでの発見につながっていることも事実です。私は、その好奇心を損なわずに、安全で効率的な研究を支援したいと考えています』


「……ありがとう」


 紬はボスを抱く腕に少し力を込めた。


 アイリスの言葉には、彼女が求めていた関係がそのまま表れていた。


 何でも言うことを聞いてくれる便利な道具ではなく、自分とは違う考えを持ち、必要なら意見してくれる相手。


 ボスがそうであるように、アイリスもまた、紬にとって大切な存在になりつつあった。


 設備管理の確認が終わると、アイリスは別の画面を表示した。


『続いて、研究計画についてご提案があります。現在の記録には、未解決の疑問が複数残されています。これらを整理し、優先順位を決めておくことで、今後の実験を進めやすくなるでしょう』


「……どんなの?」


『創造物の材料がどこから生じるのか、創造した物品を消去できるのか、瞬間転移の適用範囲はどこまでか、といった問題です。また、創造した装置が長期間にわたって正常に動作するかについても、十分な検証は行われていません』


「そういや、最初の頃に作ったもんも、まだ全部調べたわけじゃねえな」


『はい。特に、創造物の消去については、一度の試行が成功しなかったという記録しかありません。現時点で不可能と判断する根拠は不足しています』


「……あれ、まだ分かんないんだ」


『そのとおりです。ただし、今すぐ解明する必要があるとは限りません。マスターが興味を持たれた際に、適切な方法で検証できるよう準備しておくことを提案します』


「……それ、いい」


 紬は満足そうに頷いた。


 これなら、思いついたときに実験できるし、途中で面倒になっても記録が散らばることはない。


 しかも、自分が忘れていた疑問までアイリスが整理してくれる。


 助手という存在が、これほど頼もしいものだとは思っていなかった。


 その一方で、ボスは先ほどから別のことが気になっている様子だった。


「なあ、アイリス。仕事の話はもういいんじゃねえか?」


『何かご希望でしょうか、ボス様』


「ゲームだよ、ゲーム。朝から約束してただろ」


『もちろん覚えています。現在の作業は一区切りついておりますので、いつでも開始できます』


「よし! じゃあ早速やろうぜ」


「……ボス、楽しみにしてたんだ」


「当たり前だろ。新しい対戦相手が増えたんだからな」


 紬が笑いながらボスを床に下ろすと、彼は短い足で作業室の中央へ歩いていった。


 アイリスはその様子を見て、少し考えるように顎へ指を添えた。


『それでは、ゲームに適した環境を用意しましょう。マスター、こちらの部屋に一時的な表示設備を追加してもよろしいでしょうか』


「……うん」


 紬はアイリスの提案を聞き、作業室の一角にゲーム用の大きな表示装置と、三人で利用できる座席を創造した。


 紬用の柔らかな椅子と、ボスが操作しやすい高さの小さな席。アイリスには実際の椅子は必要ないものの、三人で並んでいるように見える位置へ立体映像を表示できるようにした。


 ゲームの操作は、紬とボスがそれぞれ専用の入力装置を使い、アイリスは設定された条件に従って電子的に参加する。


 今回選んだのは、以前から二人で遊んでいた対戦ゲームだった。


 複数のキャラクターが障害物のある舞台を移動し、相手の攻撃を避けながら得点を競う。単純な操作でも駆け引きが必要で、紬とボスはこれまで何度も勝敗を争ってきた。


「いいか、アイリス。俺は結構強えぞ」


『承知しています。過去の対戦記録も確認済みです』


「だったら覚悟しとけよ」


『楽しみにしています』


 アイリスの返事には余裕があった。


 紬は二人を交互に見てから、ゲームを開始した。


 最初の試合は、意外な展開になった。


 開始直後、ボスは勢いよく前進し、アイリスのキャラクターへ攻撃を仕掛けた。ところが、相手はそれを避けると、無駄のない動きで距離を取り始める。


「おっ、やるじゃねえか!」


『ありがとうございます』


 紬は二人の動きを見ながら、舞台の端に配置された得点アイテムを回収していた。


 正面からぶつかり合うよりも、空いている場所を利用した方が有利だと考えたのだ。


 しかし、アイリスはその行動にも気づいていたらしい。


『マスター。そちらの経路は、次の障害物が出現すると通行できなくなります』


「……えっ」


 言われた直後、画面の中で大きな壁がせり上がった。


 紬のキャラクターは進路を塞がれ、慌てて方向転換する。


「おい! 対戦中に助言するやつがあるか!」


『失礼しました。通常の会話と対戦上の情報提供を区別すべきでしたね』


「……アイリス、優しい」


「優しいとかそういう問題じゃねえだろ!」


 紬が笑っている間に、ボスのキャラクターが背後から迫ってきた。


「もらった!」


「……あっ!」


 攻撃が命中し、紬の得点が減る。


 その隙を逃さず、アイリスが別の場所で得点を重ねた。


 結局、最初の試合はアイリスの勝利だった。


「……強い」


「くそっ、もう一回だ!」


『承知しました。なお、現在の設定では反応速度を制限していますが、戦術判断については改善の余地があります。必要であれば、さらに条件を調整します』


「待て待て。今ので手加減してたってのか?」


『はい。ただし、皆様の対戦傾向を十分に把握できていないため、現時点で適切な調整ができているとは限りません』


「なんか悔しいな、おい」


 ボスは画面を睨みながら、次の試合に向けて操作装置を握り直した。


 紬はそんな彼を見て笑い、今度は自分も真剣に勝ちにいこうと決めた。


 二試合目では、ボスが序盤から積極的に攻撃を仕掛けた。アイリスは慎重に対応していたが、紬が横から得点を奪い、最後は僅差で勝利する。


 三試合目はボスが勝った。


 その後も勝敗は入れ替わり、最初こそアイリスの動きに戸惑っていた二人も、次第に新しい対戦相手との駆け引きを楽しむようになっていった。


 特にボスは、アイリスが相手の行動を予測して動くことに気づくと、わざと普段とは違う操作を混ぜ始めた。


「へへっ、今度は読めなかっただろ!」


『はい。先ほどの行動は、過去の傾向から予測しにくいものでした』


「だろ? これが経験ってやつだ」


『興味深いですね。予測を外すこと自体を目的とした行動が、対戦上の利益につながる場合があります』


「おう。頭がいいだけじゃ勝てねえんだよ」


『勉強になります』


 アイリスは素直に答えた。


 その様子を見て、紬は少し意外に感じた。


 超高度人工知能なら、どんなゲームでも簡単に勝ってしまうと思っていたからだ。


 もちろん、アイリスが本来の演算能力を使えば、結果は大きく変わるのだろう。けれど、彼女は勝つことだけを目的にしていない。


 自分たちと同じ条件で遊び、相手の行動に驚き、予想外の展開を楽しんでいる。


 それは、紬が望んでいた三人の関係にとても近かった。


「……アイリス」


『はい、マスター』


「……楽しい?」


『はい。予測できない展開が多く、とても楽しいです』


「……よかった」


『マスターも楽しんでいらっしゃいますか?』


「……うん。すごく」


 アイリスは嬉しそうに微笑んだ。


 その後、三人はしばらくゲームを続けた。


 勝ったボスが得意げに胸を張り、負けた紬が次こそはと操作装置を握り直す。アイリスは対戦の記録を残しながらも、勝敗に関係のない冗談を交え、二人のやり取りに自然と加わっていった。


 気がつけば、作業室の壁に表示された時計は夕方を示していた。


『そろそろ休憩されてはいかがでしょうか。長時間同じ姿勢が続いています』


「……もう、そんな時間?」


「マジかよ。結構やったな」


『本日の対戦結果を表示しますか?』


「おう、頼む」


 画面に三人の勝敗が一覧で表示された。


 結果は、アイリスがわずかに勝ち越し、紬とボスはほぼ同じ成績だった。


「……負けた」


「俺もか。ちくしょう、次は勝つぞ」


『楽しみにしています。ただし、次回は対戦条件を少し変更してもよいかもしれません』


「……どうして?」


『皆様の実力差を調整するだけでなく、私自身にも予測しにくい要素を増やしたいと考えています。今回の対戦では、相手の行動を分析する楽しさを知ることができました』


「へえ。お前、そんなことまで考えるんだな」


『はい。勝利することも嬉しいですが、予想外の展開に出会うことにも魅力を感じました』


「……アイリスも、ゲーム好きになった?」


『そうですね。少なくとも、今日の経験で好きになったと言えると思います』


 紬は嬉しくなって、椅子から立ち上がった。


 ボスを抱き上げ、いつものように胸元へ収めると、彼の柔らかな羽毛に頬を寄せる。


「……また、三人で遊ぼうね」


『はい、マスター』


「次は俺が一番だからな!」


『では、その目標も記録しておきます』


「おい、わざわざ記録すんな!」


 アイリスは楽しそうに笑った。


 その笑顔を見て、紬は今日一日のことを振り返った。


 朝、アイリスが用意した予定表を見たときには、面倒な仕事が増えるのではないかと心配していた。


 けれど、実際には違った。


 設備の管理や研究記録の整理は以前よりずっと楽になり、これまで気づかなかった問題にも目を向けられるようになった。


 それだけではない。


 アイリス自身が仕事を楽しみ、ゲームにも興味を持ち、自分の希望について考えている。


 彼女は、紬の生活を便利にするためだけに存在しているわけではなかった。


 少なくとも、紬はそう思っていた。


「……ねえ、アイリス」


『はい』


「……今日、いっぱいお仕事してくれて、ありがとう」


『どういたしまして。私にとっても、充実した一日でした』


「……でもね」


 紬は少しだけ言葉を探した。


 人に気持ちを伝えるのは、今でも得意ではない。けれど、ボスとアイリスの前では、以前ほど言葉に迷わなくなっていた。


「……お仕事してなくても、一緒にいていいからね」


 アイリスは、すぐには返事をしなかった。


 その沈黙はほんの短いものだったが、紬には彼女が何かを考えているように見えた。


『……ありがとうございます、マスター』


 返ってきた声は、いつもより少し柔らかかった。


『では、明日は業務の合間に、皆様と過ごす時間をもう少し増やしたいと思います』


「……うん」


「いいじゃねえか。仕事ばっかりじゃつまんねえしな」


『ボス様は、本日も十分に自由時間を満喫されていたようですが』


「うるせえな。俺は施設長なんだよ」


『それでは施設長、明日のプール点検にもご協力をお願いいたします』


「……それ、泳いでいいってことか?」


『もちろんです』


「よっしゃ!」


 ボスが嬉しそうに翼を広げると、紬は彼を落とさないよう抱え直した。


 アイリスはその様子を見守りながら、作業室の照明を帰宅に適した明るさへ調整する。


 三人が自宅へ戻る準備を始めたところで、紬はふと振り返った。


「……アイリスも、一緒に帰ろ」


『はい。ご一緒します』


 立体映像の女性が、二人の後を追うように歩き始める。


 秘密基地の設備管理は、すでにアイリスの手によって以前より効率的になっていた。研究記録の整理も進み、今後の実験に向けた準備も整いつつある。


 けれど、紬にとって今日一番嬉しかったのは、そんな成果ではなかった。


 新しくできた仲間が、自分たちと同じように遊び、笑い、明日を楽しみにしてくれていること。


 それだけで、十分だった。


 自宅のリビングへ戻ると、アイリスは早速、夕食について尋ねてきた。


『マスター。本日の夕食はいかがなさいますか?』


「……オムライス」


「俺は魚も食いてえな」


『承知しました。それぞれのご希望に合わせて、調理装置へ献立を設定します』


「……アイリスは?」


『私ですか?』


「……うん。食べたいもの、ない?」


 アイリスは少し考え、それから困ったように微笑んだ。


『残念ながら、現在の私は食事を必要としません。味覚も持ち合わせていないため、料理の味を直接楽しむことはできません』


「……そっか」


『ですが、お二人が食事を楽しんでいる様子を見ることは、私にとって嬉しい時間です』


「……じゃあ、一緒に食卓にいよう」


『喜んで』


 紬は満足そうに頷き、ボスを抱えたまま食卓へ向かった。


 その隣には、銀白色の髪を揺らすアイリスの姿がある。


 これまで二人で囲んでいた食卓に、もう一人が加わった。


 椅子も食器も必要ない彼女のために、紬は自分の隣を少し空けて座る。


 アイリスはその場所へ立体映像を移動させ、二人と同じ高さになるよう姿勢を調整した。


『ありがとうございます、マスター』


「……どういたしまして」


「おい、俺の魚はまだか?」


『まもなく完成します。施設長、少々お待ちください』


「だからその呼び方、仕事のときだけにしろよ!」


 紬の笑い声が、夕食の準備を知らせる調理装置の音に重なった。


 アイリスが加わって、まだ二日目。


 それでも紬は、三人で過ごすこの賑やかな時間が、これから当たり前の日常になっていくのだろうと感じていた。

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