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地図の警告


 朝日にかざした繊維は、昨日までとは明らかに違っていた。


 白く柔らかかった保水繊維。


 川の粒子を吸着したあとには青白く光り、少し硬くなった。


 そして一晩を越えた今、その一部が銀色へ変わっている。


 表面へ金属の粉が付着したようには見えない。


 指でこすっても剥がれない。


 繊維の一本一本が、内側から色を変えていた。


 私は銀色になった部分を軽く引いた。


 昨日より丈夫だ。


 それなのに、持ち上げた時の重さは少し減っている。


 乾燥しただけなら、軽くなることは説明できる。


 だが、強度が上がった理由にはならない。


 装置は、河川水の粒子を吸収した時に表示した。


《UNREFINED SOURCE DETECTED》


《REFINEMENT REQUIRED》


 未精製。


 精製が必要。


 その粒子を保持していた繊維が、一晩で銀色になった。


 偶然かもしれない。


 装置の近くへ置いていたことが影響したのかもしれない。


 夜間の低温や暗さが条件だった可能性もある。


 それでも、試すべき組み合わせは一つしかなかった。


 銀色の繊維と、銀色の装置。


 時刻は午前六時二十四分。


 私は昨日と同じように身体を命綱へ固定した。


 装置を落とさないよう、蔓を手首へ結ぶ。


 いきなり差し込まない。


 まず、銀色へ変わった繊維の先端だけを、透明なレンズへ軽く触れさせる。


 ピッ――。


 昨日より長く、はっきりした電子音が鳴った。


 レンズ全体が白銀色に光る。


 河川水を使った時のように、粒子が吸い込まれる様子はない。


 代わりに、銀色の繊維そのものがゆっくり光を失い始めた。


 金属のようだった色が、触れている部分から薄くなっていく。


 何かが繊維から装置へ移っている。


 表示が点灯した。


《POWER:1.6%》


 数字が変わる。


《2.3%》


《4.8%》


《8.1%》


《12.4%》


 一気に上がった。


 河川水を直接使った時には、容器一杯の粒子で〇・八パーセントしか増えなかった。


 銀化した繊維は、その十倍以上の電力を装置へ渡している。


 続いて、画面へ複数の項目が現れた。


《FIELD UNIT-7》


《POWER:12.4%》


《STATUS:LIMITED》


《LOCAL MAP:AVAILABLE》


《SCAN:OFFLINE》


《BEACON:OFFLINE》


 その下へ、短い表示。


《REFINED ENERGY ACCEPTED》


 精製済みエネルギーを受理。


「やっぱり、これが精製後なのか」


 河川水の粒子。


 保水繊維による吸着。


 一晩の変化。


 銀化。


 装置への供給。


 昨日まで別々だった現象が、一つの流れになった。


 繊維をレンズから離す。


 銀色だった部分は、白に近い色へ戻っている。


 触ると、少し脆くなっていた。


 完全に壊れたわけではない。


 だが、内部に蓄えていたものを使い切ったように見える。


 この繊維は、一度きりの電池なのか。


 もう一度粒子を吸着させ、夜を越せば再利用できるのか。


 試験は必要だ。


 ただ、今は装置の機能を確認する方が先だった。


 電力一二・四パーセント。


 完全起動ではない。


 状態も制限付き。


 それでも、昨夜は一瞬しか見えなかったLOCAL MAPが、今は使用可能になっている。


 私は画面へ指を近づけた。


 触れる前に、周囲を確認する。


 四つ目の生物たちは地上へ戻り始めている。


 森の鳴き声も朝のものへ変わった。


 すぐ近くに大型生物の気配はない。


 私はLOCAL MAPの表示へ触れた。



     *



 装置の上に、薄い青色の地図が浮かび上がった。


 平面の画面ではない。


 レンズの少し上へ光が投影され、地形らしい線が重なっている。


 表示範囲は広くない。


 現在地を中心に半径五百メートルほど。


 しかも、すべてが同じ精度で描かれているわけではなかった。


 私が歩いた場所。


 墜落した探査ポッド。


 仮拠点α。


 川までの道。


 上流へ少し進んだ範囲。


 長首草食獣を追った森。


 それらは細い線で表示されている。


 行っていない場所は、霧がかかったようにぼやけていた。


 装置が最初から完全な地図を持っているのではない。


 所有者が移動した場所を記録する。


 あるいは、周囲を少しずつ測定して地図を作る。


 そういう道具らしい。


 仮拠点αの位置には、小さな緑色の印が付いている。


 私自身の現在位置ではない。


 木の位置を示している。


 昨日、繊維を近づけた場所。


 装置が長く置かれていた場所。


 何らかの条件によって、拠点として記録されたのかもしれない。


 西の川は青い線。


 夜に強く光っていた区間だけ、少し太く描かれている。


 装置は、地形だけでなく粒子の状態も読み取っていた可能性がある。


 そして南。


 木の上から見た、円形の空き地。


 そこだけが赤い輪で囲まれていた。


 横には警告記号。


《ANOMALY》


 異常地点。


 偶然、木が生えていない場所ではない。


 装置も、あそこを周囲とは異なる場所として認識している。


 表示を拡大する。


 空き地の周囲、約二十メートルを細い破線が囲んでいる。


 さらに拡大すると、新しい文字が現れた。


《FIELD DISTORTION》


 翻訳補助が数秒考えたあと、意味を表示する。


 空間場の歪み。


 FIELD。


 装置本体に刻まれていた単語。


 FIELD UNIT-7。


 そして、空き地にあるFIELD DISTORTION。


 この装置は、あの場所を調べるための機器だったのかもしれない。


 だから木の枝に残されていた。


 あるいは、所有者があそこから逃げる途中で落とした。



 地図には、私が昨日引き返した地点も残っていた。


 長首草食獣を追った道は途中で細く終わり、その先だけが曖昧な霧に覆われている。


 その終点と赤い輪の間は近い。


 あの時、音が百メートルも離れていないように聞こえたのは、感覚だけではなかったのかもしれない。


 私は地図を回転させ、仮拠点αから赤い輪までの位置関係を見る。


 直線で向かえば近い。


 だが、近いことは安全を意味しない。


 むしろ、異常地点からこれほど近い場所で眠っていたことになる。


 仮拠点を捨てるべきか。


 一瞬、そう考えた。


 しかし、四つ目の生物たちはあの木の地下で暮らしている。


 夜になれば隠れるが、昼間は普通に活動している。


 昨夜も、木そのものへ直接危険が来たわけではない。


 現時点で拠点を移す根拠は足りない。


 赤い輪との距離を意識し、南側の音や生物の反応を監視する。


 今できるのはそれだった。


 私は赤い輪へ触れなかった。


 地図の端に、小さなコンパスのような記号がある。


 機能を確かめるため、慎重に一度だけ触れる。


 画面が切り替わった。


《LOG》


《Unit-7》


《Entries:1》


 記録は一件。


 開く前に、装置の電力を見る。


 一二・三パーセント。


 地図を表示しただけで、わずかに減っている。


 長時間使い続ける余裕はない。


 それでも、この一件が何なのかは確認する価値があった。


 私は記録を開いた。


 最初に聞こえたのは、強いノイズだった。


 映像は出ない。


 音声だけ。


 途切れた声。


『……Unit-7……』


 雑音。


『……Refined……required……』


 精製。


 必要。


 そのあと、聞き取れない部分が続く。


『……don't……go……』


 行くな。


『……Field……』


 そして最後だけ、突然明瞭になった。


『RUN.』


 逃げろ。


 記録はそこで終わった。



 再生が終わったあとも、数秒間だけノイズが残った。


 声の主が誰なのかは分からない。


 人間なのか。


 この星の文明を作った別の種族なのか。


 E.S.A.という組織名らしき刻印だけでは、出自を判断できない。


 ただ、恐怖だけは声に残っていた。


 短い一語を、壊れかけた装置へ残すほどの恐怖。


 私は聞き取れた断片をそのまま記録した。


 意味を補わない。


 聞こえなかった部分を想像で埋めない。


 後から装置の翻訳精度が上がれば、別の内容として復元できる可能性がある。


 私は再生し直さなかった。


 電力を使う。


 それ以上に、内容は十分だった。


 装置の以前の所有者は、空間場の歪みへ近づいた。


 そこで何かを見た。


 あるいは、何かが起きた。


 最後に残した言葉は、調査しろでも、修理しろでもない。


 逃げろ。


 昨日、四つ目の生物たちは「カコン」という音で一斉に穴へ潜った。


 長首草食獣は、私には何も見えない場所から全力で逃げた。


 木の上から見た空き地では、何かが不規則に木を叩いていた。


 地図はそこを異常地点と表示する。


 そして記録は、逃げろと言う。


 別々の警告が、すべて同じ場所を指している。


 偶然ではない。


 私は地図を閉じた。


 電力は一二・一パーセント。


 異常地点へ行く理由はない。


 少なくとも今は。


 水と食料。


 フィルターの劣化。


 夜を越すための拠点。


 解決すべき問題が残っている。


 危険を調べることより、生きるための範囲を広げる方が先だった。



     *



 午前七時。


 二日目の朝食を取る。


 非常食は残り一食。


 すべて食べれば体力は戻る。


 しかし、次の食料が確保できる保証はない。


 私は半分だけ切り分けた。


 残りは包装を閉じ、湿気と臭いが漏れないよう物資袋へ戻す。


 昨日ろ過した河川水を、約三百ミリリットル飲む。


 最初の試験では二ミリリットル。


 急性症状はなかった。


 今回は量を増やす。


 それでも、一度にすべて飲まず、何回かに分けた。


 ほんのり甘い。


 冷たい。


 飲んで三十分、身体の状態を確認する。


 吐き気なし。


 腹痛なし。


 めまいなし。


 呼吸異常なし。


 代謝率は昨日と同じ、三パーセント上昇。


 新しい表示が一つ現れた。


《水分吸収効率:+6%》


 水そのものの吸収が早くなったのか。


 ろ過後にも残っている成分が身体へ作用しているのか。


 装置が分類できない粒子が微量に残っているのか。


 有益な変化とは限らない。


 身体の代謝を上げ続ければ、別の負担になる可能性もある。


 それでも、現時点で急性毒性は見られなかった。


 私は水を日常飲料と決めず、引き続き状態を観察することにした。


 今日の探索先は、川の下流。


 昨日、上流には青緑色の植物帯と、長首草食獣がいた。


 さらに奥には危険の兆候がある。


 下流はほとんど調べていない。


 川幅が広がれば、魚や別の植物が見つかるかもしれない。


 異常地点とは反対方向。


 食料と水源を探す目的にも合っている。


 私は銀色の装置、蒼輝石、マルチツール、採水容器を持った。


 火花石と乾燥草も最低限。


 残りの物資は仮拠点αへ固定する。



 出発前に、宇宙服の外気浄化フィルターも確認した。


 表示は依然として低下したまま。


 朝になったから回復することはない。


 森の大気へ触れている限り、少しずつ消耗する。


 だから今日の探索も、目的なく歩き回ることはできない。


 下流で食料候補か、安全な水を見つける。


 何もなければ、一定の時刻で引き返す。


 装置の地図があっても、帰路の体力まで保証してくれるわけではない。


 午前七時四十二分。


 私は川に沿って下流へ歩き始めた。



     *



 下流へ進むにつれ、森の形が少しずつ変わった。


 木々の背が低くなる。


 幹の間隔は広がり、霧も薄い。


 川幅は広がり、流れは穏やかになった。


 同じ川でも、仮拠点付近とは別の水辺に見える。


 岸には泥の堆積した場所が増え、小さな植物が群生している。


 私は川だけでなく、その周囲に落ちているものを確認しながら歩いた。


 種。


 葉。


 実。


 食べられた跡。


 生物の糞。


 食料候補を探すなら、植物そのものより、それを利用している生物を見つける方が早い。


 しばらく進むと、川岸に低木の群れが現れた。


 高さは腰ほど。


 丸い葉の間に、直径三センチほどの実が付いている。


 深い赤紫色。


 黒光実のような金属光沢はない。


 地球の果実に近い見た目だった。


 だが、地面には落ちた実がほとんどない。


 代わりに、赤紫色の皮だけが大量に散らばっている。


 何かが中身を食べている。


 私はすぐには近づかず、少し離れて観察した。


 長首草食獣が現れた。


 昨日見た個体と同じかは分からない。


 低木へ首を伸ばす。


 しかし、実には触れない。


 食べているのは葉だけだった。


 実を避けている。


 毒だからか。


 単に好みに合わないのか。


 果実を消化できない生物なのか。


 一種類の生物が食べないだけでは判断できない。


 さらに待つ。


 小さな飛行生物が木々の間から現れた。


 鳥に似た形。


 翼は羽毛ではなく、半透明の膜でできている。


 そいつは低木へ止まると、赤紫の実を一つつついた。


 皮を破る。


 中の果肉だけを食べる。


 数口で飛び去った。


 地面に落ちていた皮と同じだった。


 少なくとも、あの生物は実を食料にしている。


 人間にも安全とは限らない。


 それでも、調査する候補にはなる。


 私はマルチツールで枝を軽く揺らした。


 虫は飛び出さない。


 花粉や粉も見えない。


 異臭もない。


 一本だけ枝を引き寄せ、実を五個採取した。


 その場で一つだけ割る。


 中身はゼリー状。


 黒光実とは違い、空気へ触れても蒸発しない。


 甘い香りがする。


 食べない。


 香りがよいことと、安全であることは別だ。


 皮と果肉を分け、容器へ保存する。



 五個のうち、一個は切開用。


 二個は外見を保ったまま。


 残り二個は、皮と果肉を分けて保存する。


 同じ実でも、空気へ触れた時間によって変化する可能性がある。


 容器には採取時刻と場所を記す。


 鳥が食べたからといって、すぐ自分の口へ入れない。


 まず、時間経過で色や匂いが変わるか。


 水へ入れた時に反応するか。


 加熱するとどうなるか。


 試せることはいくつもあった。


 仮称は赤紫果。


 鳥型生物は食べる。


 長首草食獣は実を避け、葉だけを食べる。


 毒性と栄養価は不明。


 食料が尽きる前に、少しずつ試験する必要がある。



     *



 下流をさらに見ると、川は大きく左へ曲がっていた。


 その先から、水の流れとは別の低い音が聞こえる。


 ゴォォ……。


 一定の轟音。


 滝かもしれない。


 地下へ水が落ちているのかもしれない。


 人工設備の音である可能性もある。


 この位置からは見えない。


 すぐ正体を見に行く前に、私は川の状態を調べることにした。


 上流と同じ粒子があるのか。


 量は増えているのか、減っているのか。


 採水容器を三本用意する。


 一つ目は岸辺。


 二つ目は、枝を使って流れの中央付近。


 三つ目は、可能な範囲で深い場所。


 川へ入らない。


 流れは穏やかに見えるが、深さも底の状態も不明だ。



 三本の容器は、蔓の結び方を変えて区別した。


 岸辺は一重。


 中央は二重。


 深場は三重。


 文字が読めない暗さでも、触れば採取場所が分かる。


 粒子は夜に光が強くなる。


 日没後に同じ三本を比べれば、昼間には見えない違いが現れるかもしれない。


 持ち帰る価値は十分にあった。


 まず岸辺の水。


 三十秒ほどで、青白い粒子が現れた。


 数は少ない。


 光も弱い。


 次に中央。


 二十秒ほどで粒子が沈み始める。


 仮拠点付近と同程度。


 最後に深場。


 十秒ほどで粒子が現れた。


 量が多い。


 一つひとつの光も強い。


 同じ場所の川でも、粒子は均一ではない。


 岸には少なく、中央、深場へ行くほど増える。


 流れによって中央へ集まるのか。


 重いため深い場所へ沈むのか。


 川底から供給されているのか。


 私は三本を並べ、外からの光を手で遮った。


 違いは明確だった。


 深場の水だけ、容器の内側を照らすほど光っている。


 観察していると、下流から流れてきた一枚の葉が、採水用の枝へ引っかかった。


 葉は容器の縁へ落ち、深場の水へ触れた。


 数秒後。


 葉脈だけが青白く光った。


 葉全体ではない。


 水を運ぶ細い筋に沿って、光が広がる。


 約一分で消えた。


 葉は変色していない。


 溶けてもいない。


 粒子は植物の内部へ入り、一時的に流れたのかもしれない。


 川沿いの植物が異常に青々としていたこととも関係する可能性がある。


 粒子は単なる鉱物の粉ではない。


 生物の内部へ入り、何らかの反応を起こす。


 私は赤紫果の容器を見た。


 食べる前に、粒子の有無も調べる必要があるかもしれない。


 時刻は午前八時三十四分。


 下流の轟音が、先ほどより大きく聞こえる。


 私は川面へ目を戻した。


 青白い粒子が、すべて下流方向へ流れている。


 水が下流へ流れるのだから、同じ方向へ動くのは当然に見える。


 だが、よく見ると速度が違う。


 水面に浮いた小さな葉。


 泡。


 それらより、青白い光の筋の方がわずかに速い。


 粒子だけが、水とは別の力に引かれている。


 下流の轟音の方向へ。


 そこに何かがあるのか。


 粒子を集める場所。


 装置。


 地形。


 あるいは、川底の形によって流れが違って見えるだけかもしれない。


 私は曲がり角の先を見た。


 進めば、轟音の正体を確かめられる。


 しかし、もう一つの疑問が残っていた。


 粒子は、どこから来る。


 水は上流から下流へ流れる。


 下流に引かれているように見えても、発生源が下流にあるとは限らない。


 川全体へ含まれているなら、まず濃度の変化を上流まで比較する方がよい。


 異常地点。


 装置の記録。


 轟音。


 新しい謎へ進む前に、自然の仕組みを一つずつ確かめる。


 私は下流へ向けていた足を止めた。


 今度は上流。


 百メートルごとに採水し、粒子の量を比べる。


 それで、少なくとも増えている方向は分かる。


 危険な場所へ踏み込まずに得られる情報を、先に集める。


 私は三本の水サンプルと赤紫果を物資袋へ固定した。


 装置の地図には、歩いた下流の道が新しい線として加わっている。


 赤い異常地点は、今も南で点滅していた。


 けれど、私はそこへ向かわない。


 警告を受け取ることと、警告された場所へ進むことは違う。


 今必要なのは、逃げろという声の正体ではない。


 この星で生きるために、川が何を運んでいるのかを知ることだった。



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