最初の夜
銀色の装置から強化保水繊維を離すと、レンズの青い線はすぐに消えた。
《POWER:0.8%》
《ENERGY SOURCE NOT DETECTED》
残された表示も暗くなり、装置は再び冷たい金属の塊へ戻った。
側面のボタンは、まだ押していない。
押せば何かが起きる。
それだけは分かる。
だが、残存電力は〇・八パーセントしかない。
どの機能が動くのか。
一度押したら止められるのか。
装置の全電力を使い切るのか。
音や光を出し、この森にいる何かへ居場所を知らせる可能性もある。
今の私には、押す理由より、押さない理由の方が多かった。
装置が壊れていないこと。
青白い粒子を吸着した繊維へ反応すること。
現時点では、それだけ分かれば十分だった。
私は銀色の装置と強化保水繊維を離して固定した。
時刻は午後四時十八分。
太陽はまだ空にある。
しかし、森の中ではすでに影が長くなり始めていた。
この惑星の日没時刻も、夜の長さも分からない。
初めての夜を迎える前に、やるべきことがある。
火を起こすための材料。
暖を取るための枝。
火口になる乾いた草。
そして、明日以降の実験に使う河川水。
火を実際に使うかどうかは、材料を集めてから判断すればいい。
準備がないことと、準備して使わないことは違う。
私は装置の調査を切り上げ、川へ向かうことにした。
*
何度か往復した道は、朝より短く感じた。
目印にした木。
紫色の苔が途切れる場所。
地面から二つの根が橋のように伸びている地点。
一つずつ覚えた地形が、ただの森を道へ変えている。
だからといって、警戒を緩めることはしない。
同じ道でも、時間が変われば現れる生物も変わるかもしれない。
頭上。
左右。
足元。
ときどき後ろ。
確認の順番は変えなかった。
川へ着いた時、光はすでに斜めから差していた。
水面の反射が、昼間より赤みを帯びている。
最初に探したのは、火花を出せる石だった。
地球でいう火打石と同じ鉱物がある保証はない。
形だけで判断することもできない。
川岸の乾いた場所にある石を選び、二つずつ軽く打ち合わせる。
鈍い音。
砕けやすい石。
粉になる石。
何度試しても、火花は出ない。
数十個目。
黒灰色の薄い石を、別の硬い石へ当てた。
キンッ。
それまでとは違う、高い金属音がした。
私は同じ角度でもう一度打つ。
小さな光が飛んだ。
すぐに消えた。
見間違いではない。
マルチツールの背を使い、少し強く叩く。
今度は、はっきりと火花が出た。
火そのものではない。
だが、細かく乾いた火口へ移せれば、着火できる可能性がある。
同じ特徴を持つ石を探す。
黒灰色。
表面は滑らかだが、割れ口が鋭い。
打ち合わせると高い音を出す。
三個確保した。
仮に火花石と呼ぶ。
次は枝。
地面に落ちているものを何でも持ち帰るわけにはいかない。
湿っている枝。
内部が腐っている枝。
表面に菌のようなものが付いた枝。
未知の虫が潜んでいる可能性のある空洞。
一つずつ避ける。
折った時に乾いた音がするもの。
外側だけでなく、断面まで乾燥しているもの。
太さの違う枝を集める。
細い枝は着火用。
中くらいの枝は火を維持するため。
太い枝は長く燃やすために使えるかもしれない。
ただし、燃焼時に毒性の煙を出す可能性はある。
実際に火へ入れる前に、少量で試す必要がある。
十八本。
これ以上増やすと、持ち帰る時に視界と両手を塞ぐ。
乾いた草も二束集めた。
川辺の植物のうち、完全に枯れ、触れても粉や液体を出さないものだけを選ぶ。
手袋で揉む。
細く裂ける。
水分はほとんど残っていない。
火口として使える可能性は高い。
枝と草は、蔓で二つの束へ分けた。
一つが崩れても、すべてを失わないようにする。
最後に、新鮮な河川水を採取した。
ろ過用の水とは別に、約二リットル。
粒子を失わせないよう密閉する。
容器の底には、時間が経つにつれて青白い粒子が沈み始めた。
昼間なら、光へ透かさなければ見落とすほど弱い。
これが夜にどう見えるのか。
その時の私は、まだ知らなかった。
帰り道。
仮拠点αへ近づいたところで、地面の穴から四つ目の生物が顔を出した。
私を見る。
以前なら、少し動いただけで穴へ引っ込んでいた。
今回は逃げない。
「キッ」
一匹が鳴いた。
別の穴から出ていた個体も、その声を聞くと動きを止めた。
四つの目がこちらを見ている。
殻を渡したことを覚えているのか。
蒼輝石を受け取った私を、同じ個体として認識しているのか。
確かめる方法はない。
それでも、群れ全体の警戒が以前より弱くなっていることは分かった。
私は立ち止まらず、急ぎもせず、いつもの速度で木へ向かった。
こちらから近づかない。
友好的と判断したからといって、距離を無理に縮めない。
信頼があるなら、それを試す必要はない。
仮拠点αへ戻った時刻は、午後五時四十二分。
空は青紫色から橙色へ変わり始めていた。
巨大な輪を持つ惑星の縁が夕日に照らされ、空へ長い弧を描いている。
美しい。
だが、その景色へ見入っている時間はなかった。
森の奥から、昼間には聞かなかった鳴き声が始まっている。
低い声。
短く途切れる声。
地面の下から響くような振動。
夜に活動する生物が目を覚まし始めている。
*
荷物を木の上へ引き上げる。
火花石。
乾燥草。
乾いた枝。
新鮮な河川水。
枝は寝床のすぐそばへ積まない。
生物や虫が付いている可能性がある。
少し離れた枝へ吊し、一度ずつ表面を確認する。
乾燥草は密閉せず、風が通る場所へ置く。
湿気れば火口として使えなくなる。
火花石は、見つけた三個すべてが同じように使えるわけではなかった。
一つは火花が強い代わりに、縁が欠けやすい。
一つは丈夫だが、角度が合わなければほとんど反応しない。
最後の一つはその中間。
私は石の特徴が分かるよう、蔓の巻き方を変えた。
強い火花を出す石には二重。
丈夫な石には一重。
暗闇の中でも手触りで選べるようにする。
実際に必要となる時、石の違いを確かめている余裕があるとは限らない。
乾燥草も、火口用の細かな部分と、火を移すための長い部分へ分けておく。
まだ一度も火を起こしていない。
それでも、使う直前まで準備しておくことはできる。
火を起こす準備はできた。
しかし、私は火花石を手にしたまま考えた。
火は暖かい。
光になる。
夜の生物を遠ざける可能性もある。
同時に、別の生物を引き寄せる可能性もある。
この森で煙がどのような意味を持つのか分からない。
墜落地点とは違い、仮拠点αは今のところ目立っていない。
火をつければ、その利点を自分で捨てることになる。
保水繊維の寝床は温かい。
宇宙服にも保温機能がある。
今夜、火がなければ確実に凍えるという情報はない。
ならば、火は使わない。
必要になった時に起こせる状態だけ作っておく。
私は火花石を乾燥草と別の場所へ固定した。
不用意にぶつかり、火花が出ないようにする。
次に、新鮮な河川水を確認した。
そこで、違和感に気づいた。
容器の底が、昼間より明るい。
夕闇で見えやすくなっただけではないように感じる。
私は容器を手で覆い、外から入る光を遮った。
青白い粒子が、はっきりと光っている。
一つひとつの明るさが増している。
昼間は沈殿して静止しているように見えた粒子が、わずかに浮き上がり、ゆっくり動いていた。
夜になると性質が変わる。
温度。
光量。
この星の大気。
何が条件なのかは分からない。
だが、昼間と夜間で同じ状態ではない。
私は容器を寝床の近くへ固定し、少し離れて観察した。
装置の表示。
《ENERGY SOURCE NOT DETECTED》
強化保水繊維へ反応した装置。
その繊維が保持しているものは、川の青白い粒子だ。
ならば、粒子そのものを装置へ与えればどうなる。
すでに保水繊維を近づける実験は行っている。
蒼輝石と黒銀鉱石には反応しなかった。
新鮮な河川水は試していない。
装置全体を水へ沈めるのは危険だ。
防水性は不明。
内部へ水が入れば、残っている電力まで失う。
透明なレンズ部分だけ。
数ミリ。
異常があればすぐ引き上げられる姿勢で試す。
私は枝の上で身体を命綱へ固定した。
水の容器を倒れない場所へ移す。
銀色の装置を蔓で手首へ繋ぐ。
落として川の水へ完全に沈めないためだ。
レンズを水面へ近づける。
一センチ。
変化なし。
五ミリ。
容器の粒子が、わずかに揺れた。
レンズの先端だけを水へ触れさせる。
チッ。
小さな電子音。
私は手を止めた。
青白い粒子が動いている。
水の流れではない。
容器は揺れていない。
最初は数粒。
次に、その周囲。
やがて容器全体の粒子が、レンズへ向かって流れ始めた。
黒光実へ集まった時と似ている。
ただし、今度は速い。
粒子がレンズへ触れるたび、透明だった部分へ青い光が満ちていく。
装置の表示が点灯した。
《POWER:0.8%》
数字が動く。
《1.0%》
《1.2%》
《1.4%》
《1.6%》
止まった。
続いて、別の表示。
《FIELD CALIBRATION...》
画面が一瞬乱れる。
私はすぐに装置を引き上げられるよう指へ力を入れた。
《WARNING》
《UNREFINED SOURCE DETECTED》
《REFINEMENT REQUIRED》
未精製エネルギーを検出。
精製が必要。
表示が消えると同時に、粒子の移動も止まった。
水の中を見る。
青白い粒子は、ほとんど残っていない。
保水繊維でろ過した後の水に近い。
装置自身が粒子を吸収した。
そして、残存電力は一・六パーセント。
装置を水から離しても、数字は戻らない。
一時的に反応したのではない。
実際に充電された。
効率は高くない。
二リットル近い水に含まれていた粒子を使い、増えたのは〇・八パーセントだけ。
しかも未精製と判定された。
ならば、装置が本来使うエネルギーには、別の形がある。
粒子を集める。
何らかの方法で精製する。
そのあと装置へ供給する。
保水繊維は、粒子を吸着して保持できる。
黒光実は、粒子を使って繊維を作る。
この星には、粒子を扱うための自然の仕組みと、人工の仕組みが両方存在する。
画面が暗くなる直前、別の文字が一瞬だけ現れた。
《LOCAL MAP》
地図。
私は表示を読み直そうとした。
だが消えていた。
電力が足りないのか。
一定以上の残量が必要なのか。
今はまだ使えない。
それでも、装置が単なる測定器ではないことは分かった。
地図を持っている。
この周辺を知っている。
誰かが、この装置を使ってこの森を歩いた。
あるいは、この星の地形情報が最初から記録されている。
私は新しい記録を書き始めた。
夜間、河川水中の粒子の発光が強くなる。
銀色装置のレンズを河川水へ接触。
粒子を吸収。
電力〇・八から一・六パーセントへ上昇。
未精製エネルギー。
精製が必要。
LOCAL MAPの表示。
書いている途中、木の下から鳴き声がした。
「キッ……キッ……」
四つ目の生物たち。
昼間の短い声とは違う。
間隔が短く、落ち着きがない。
私は枝の隙間から地面を見た。
穴の周囲にいた個体が、一匹ずつ地下へ戻っていく。
残っていた個体も、周囲を何度も見回したあと、穴へ消えた。
数十秒で、地上からすべての姿がなくなった。
日没だからか。
夜行性の捕食者が現れるからか。
昼間に聞いた「カコン」の何かが動き始めるからか。
分からない。
ただ、現地生物が一斉に隠れる時間に、地上へ残る理由はなかった。
*
午後六時十分。
探索は終わり。
実験も終わり。
私は木の上の仮拠点αへ身体を収めた。
最初に、乾いた枝を手の届く範囲へ数本だけ置く。
火を起こすためではない。
何かが木へ登ってきた時、音を出す、押し返す、枝の隙間を塞ぐ。
使い道はいくつかある。
残りは寝床から少し離れた場所へ束ねる。
乾燥草を寝床の下へ薄く敷く。
保水繊維の湿り気が直接枝へ触れ続けないようにするためでもある。
その上へ保水繊維を重ねる。
身体の周囲へ回し、胸から脚まで包む。
夜の空気が冷え始めていた。
昼間には「少し温かい」程度だった繊維の効果が、今ははっきり分かる。
体温を逃がさない。
発熱しているのか、断熱しているだけなのかは分からない。
どちらにしても、眠るには役立つ。
次に隠蔽。
周囲の枝葉を完全には切らず、蔓で寝床の前へ寄せる。
遠くから見た時、人型の輪郭が直接見えない程度。
枝を折りすぎれば、木の外観が変わり、逆に目立つ。
自分が外を確認できる隙間も必要だった。
下から見上げる。
できないため、木を降りて確認することも考えた。
しかし、四つ目の生物たちはすでに地下へ消えている。
今から地上へ降りる方が危険だ。
今日は木の上からできる範囲でよい。
身体を命綱へ固定する。
物資袋も別の蔓で幹へ結ぶ。
銀色の装置。
蒼輝石。
残った非常食。
飲料水。
医療キット。
手を伸ばせる位置を確認する。
火は起こさない。
煙も光も出さない。
私は夜の森に対して、存在しないものになることを選んだ。
午後七時四分。
空は完全に暗くなった。
それでも、闇ではなかった。
西の川が青白く光っている。
遠くからでも、流れの形が分かる。
まるで地上へ細い星空が流れているようだった。
森の中にも、小さな光が点滅している。
一つ。
二つ。
消える。
別の場所で光る。
植物なのか。
虫のような生物なのか。
目なのか。
判別できない。
夜の暗さは、地球で知っている暗闇とは違っていた。
空には星が見える。
巨大な輪を持つ惑星も、太陽の光をわずかに反射している。
それでも森の中は、光が地面まで届かない。
代わりに青白い点だけが浮かび、距離感を狂わせる。
近くにある小さな光が遠く見え、遠くの川がすぐ下にあるように感じる。
私は視界だけを信じないことにした。
枝の振動。
葉の擦れる向き。
鳴き声の大きさ。
昼間に覚えた木々の位置。
見えるものと、覚えている地形を照らし合わせる。
夜の森では、見えないことより、誤って見えることの方が危険なのかもしれなかった。
私は一つひとつを追わなかった。
動くものを目で追えば、自分も動く。
葉の隙間から、必要な範囲だけを見る。
昼間とは違う鳴き声が増えた。
木の高い場所を何かが移動する音。
地面を擦る音。
遠くで短く響く低い声。
ときどき、すべてが同時に止まる。
静寂が来るたび、身体が緊張する。
それでも、何も起きない。
保水繊維の中は温かかった。
枝の硬さも感じにくい。
宇宙服のフィルター音を聞きながら、私は少しずつ眠りへ落ちた。
*
何かの音で目が覚めた。
時刻を確認する前に、動きを止める。
暗い。
川の青白い光が、枝の隙間からわずかに見える。
コツ……。
木を叩くような音。
一回。
昼間の「カコン」より小さい。
近い。
私は呼吸を浅くした。
音は木の下からではない。
自分がいる幹にも、振動は伝わっていない。
隣の木。
視線だけを動かす。
葉と枝の黒い形。
何も見えない。
光る目もない。
枝が揺れているようにも見えない。
数十秒。
何も起きない。
コツ。
もう一度。
先ほどより近く聞こえた。
同じ木の別の位置なのか。
何かが移動しているのか。
確認したい。
昼間、円形の空き地で木を叩いていた何か。
現地生物が逃げる音。
装置が地図を持っている。
すべてが頭へ浮かぶ。
だが、暗闇で正体を確かめることに意味はない。
ライトを点ければ、こちらの位置を知らせる。
枝を動かせば、音を出す。
木から降りるのは論外だった。
好奇心より、生存。
私は保水繊維の中へ身体を伏せたまま、観察だけを続けた。
一分。
二分。
遠くで何かが鳴く。
三分。
隣の木から、わずかに葉が落ちる音。
四分。
何も見えない。
五分ほど経つと、木を叩く音は止んだ。
何かが去った音もなかった。
ただ、森の通常の音が少しずつ戻った。
私はすぐには眠らなかった。
あと十分。
異常なし。
さらに十分。
変化なし。
ようやく身体の力を抜く。
見なかった。
追わなかった。
正体は分からないまま。
だが、生きている。
今夜の目的は、それで達成していた。
*
鳥に似た声で目が覚めた。
今度は、夜の低い声ではない。
高く、二つに割れる鳴き声。
朝日が枝の間から差し込んでいる。
時刻は午前六時十八分。
二日目。
私は無事に最初の夜を越えた。
身体を動かす。
首。
肩。
腕。
脚。
怪我はない。
保水繊維の寝床のおかげで、枝の上で眠ったとは思えないほど疲労が抜けている。
空腹と喉の渇きはある。
それでも、判断力が落ちるほどではない。
命綱も切れていない。
荷物もすべて残っている。
地面を見る。
四つ目の生物たちは、まだ出ていない。
夜の音の主が残した痕跡も、木の上からは見えなかった。
川の光は弱くなっている。
太陽が昇ったため見えにくいだけか。
粒子そのものの発光が落ちたのか。
次の夜に比較する必要がある。
私は身体へ巻いていた保水繊維を外した。
寝床へ戻す。
その時、一枚だけ色が違うことに気づいた。
昨日、銀色の装置の近くへ置いていた強化保水繊維。
青白かった部分が、銀色へ変わり始めている。
表面へ金属を薄くまとったような色。
光っているのではない。
繊維そのものが変色している。
触れる。
昨日より軽い。
それなのに、引っ張るとさらに丈夫になっている。
夜の間に何が起きた。
低温。
暗闇。
時間。
装置の近くに置いたこと。
吸着していた粒子。
可能性はいくつもある。
装置は河川水の粒子を「未精製」と判断した。
そして今、粒子を保持していた繊維が、一晩で銀色へ変わった。
「まさか……」
精製。
私は銀色へ変わった繊維と、眠ったままの装置を見比べた。
朝の森に、四つ目の生物の鳴き声が戻り始める。
新しい一日が始まった。
そして手元には、昨日まで存在しなかった素材が一つ増えていた。




