水を分けるもの
蒼輝石を物資袋へ収めたあと、私はしばらく木の根元に立っていた。
穴の中へ戻った四つ目の生物たちは、もう姿を見せない。
地面に残ったのは、殻を引きずった細い跡だけだった。
私が置いた八個の殻は、すべて地下へ運ばれた。
その代わりのように、青白く透き通った小さな石が手元にある。
交換。
返礼。
あるいは、まったく別の意味。
人間の言葉で決めつけることはできない。
それでも、彼らが私をただの外敵として見ていないことだけは確かだった。
時刻は午後一時十八分。
空腹は強くなっている。
水分も減っている。
疲労も無視できない。
ここで新しい探索へ出るべきではなかった。
午前中に作った仮拠点αは、身体を枝へ固定し、転落を防げる程度の場所にすぎない。
眠ることはできる。
だが、硬い枝へ直接身体を預ければ、十分に休めない可能性が高い。
夜の気温も分からない。
今ある保水繊維が、寝床として使えるかもしれない。
それに、粒子を失った水も残してある。
まずは生活基盤を整える。
そのあと、安全な場所で実験を続ける。
私は蔓、保水繊維、二種類の水、蒼輝石をまとめ、仮拠点αへ登った。
*
午前中に結んだ命綱は、まだ緩んでいなかった。
結び目を指で押し、蔓の表面に裂け目がないことを確かめる。
木の揺れによって、枝と擦れた部分だけが少し白くなっていた。
今夜一晩だけなら耐えるかもしれない。
しかし、何度も登り降りすれば劣化する。
私は残った蔓を使い、身体を固定する主索とは別に、補助の結び目を追加した。
一本が切れても、すぐには落ちないようにする。
木を登る際に毎回荷物を背負うのも危険だった。
物資袋の重みで身体の重心が後ろへ引かれる。
そこで、枝から地上まで蔓を垂らし、荷物を引き上げるための簡単な吊り紐を作った。
結び目へ袋を掛ける。
少し引く。
蔓が伸びる。
だが切れない。
袋を地面へ戻し、中身を半分に分けて試す。
今度は安定して上がった。
完璧ではない。
滑車もないため、荷物の重さはそのまま腕へかかる。
それでも、片手で木へしがみつきながら荷物を運ぶより安全だった。
次に、足場の隙間へ横方向の蔓を増やした。
身体が眠っている間にずれても、枝の間から直接地面へ落ちないようにする。
私は作った固定部へ体重をかけた。
一度。
二度。
結び目は動かない。
朝よりも、少しだけ手順が早くなっていた。
どう結べば力が分散するか。
どの部分が擦れるか。
材料の強さだけではなく、使い方によって安全性が変わることが分かってきた。
最後に、八枚の保水繊維を寝床へ敷く。
一枚だけでは薄い。
二枚。
三枚。
重ねるほど、枝の硬さが和らいでいく。
すべて敷き終え、その上へ座った。
沈む。
柔らかい。
水を含んでいるため湿ってはいるが、冷たくはなかった。
むしろ、じんわりと温かい。
背中を幹へ預け、脚を伸ばす。
午前中は、枝の形が宇宙服越しにも身体へ食い込んでいた。
今は繊維が間へ入り、圧力を分散している。
眠れる場所が、休める場所へ変わった。
その違いは大きい。
生存に必要なのは、危険から逃げることだけではない。
疲労を回復させ、次の日も判断できる身体を保つこと。
拠点とは、物を置く場所ではなく、状態を戻せる場所なのだと思った。
私は数分間、そのまま目を閉じた。
眠らない。
ただ呼吸を整える。
フィルターを通る空気の音。
遠くの鳴き声。
枝が風に揺れる小さな振動。
身体の緊張が少しずつ抜けた。
時刻を確認する。
午後一時半を過ぎたところだった。
まだ実験を進める時間はある。
私は粒子を失った水の容器を取り出した。
*
見た目は普通の水だった。
新鮮な河川水と並べても、色では区別できない。
最初の河川水には、採取して三十秒ほどで青白い粒子が沈殿した。
この水にも、初めは同じ粒子があった。
それを黒光実が取り込み、白い繊維へ変わった。
粒子がなくなったあと、水そのものに何が残っているのか。
安全になったのか。
あるいは、粒子とは別の危険があるのか。
飲む段階ではない。
まず接触。
私は実験場所を寝床から離した。
容器が倒れても、繊維や食料を濡らさない枝の分岐へ固定する。
医療キットを手の届く位置へ置く。
最初に、マルチツールの先端を水へ入れた。
十秒。
変色しない。
表面が溶ける様子もない。
泡も発生しない。
引き上げて、布で拭う。
次に、手袋を着けたまま人差し指を触れさせる。
冷たい。
粘りはない。
油分のような感触もない。
一分ほど触れても、手袋に変化は起きなかった。
ここから先は、皮膚へ直接触れる試験になる。
宇宙服を完全に脱ぐ必要はない。
右手の手袋だけを外す。
大気は呼吸不適と判定されているが、皮膚へ触れること自体に警報は出ていない。
それでも、露出は最小限にする。
私は右手の人差し指の先だけを水へ入れた。
十秒。
痛みはない。
三十秒。
痺れもない。
皮膚の色も変わらない。
一分。
熱くも冷たくもならない。
普通の水へ触れているのと変わらなかった。
私は指を引き上げた。
その瞬間、指先が青白く光った。
「……え?」
ごく短い光。
半秒もなかった。
爪の先から、細い線が走ったように見えた。
すぐ消える。
痛みはない。
指を曲げる。
感覚はある。
脈拍も変わらない。
もう一度水へ入れることはせず、そのまま観察を続ける。
ヘルメットのライトを消した。
木の上が少し暗くなる。
自然光の中で指先を見る。
皮膚は光っていない。
だが、爪の脇に極小の点があった。
青白い。
針先より小さい。
マルチツールの拡大機能を使う。
小さな結晶のように見える。
指先で触れると、簡単に砕けた。
粉になった光は、空気中へ散る前に消えた。
粒子は失われたはずだった。
しかし、完全に何もなくなったわけではないのかもしれない。
水へ溶けていた成分が皮膚へ触れ、空気中で結晶化した。
あるいは、目に見えないほど少量の粒子が残っていた。
どちらかは分からない。
重要なのは、短時間の皮膚接触では急性の異常が起きなかったこと。
そして、粒子を失った水にも、まだ青白い光に関係する現象が残っていたことだった。
私は手を乾かし、手袋を戻した。
実験記録へ書く。
皮膚接触、一分。
痛み、痺れ、変色なし。
引き上げ時、指先が約〇・五秒発光。
爪の間へ極小結晶。
結晶は接触により崩壊し、空気中で消失。
飲用可否は不明。
安全とは書かない。
異常なし、と確認できた範囲だけを書く。
現在の私には、未知の物質を正確に分析する装置がない。
だからこそ、手順と条件を残す必要がある。
後から別の結果が出た時、何が違ったのかを比べられるようにするためだ。
*
水を見ているうちに、別の疑問が生まれた。
黒光実を水へ入れると、内部のゼリーが保水繊維へ変わった。
その繊維は、水を吸う。
ならば、繊維へ水を通すことはできるだろうか。
単に吸い込むだけか。
ゆっくり通過させるのか。
そして、新鮮な河川水を通した時、青白い粒子はどうなるのか。
私は残った繊維の一部を取り出した。
寝床へ敷いたものをすべて使う必要はない。
一枚だけ外す。
黒光実の殻は、すでにモグラへ渡してしまった。
手元には実験で割れた小さな欠片が残っている。
その中から、湾曲した部分を選ぶ。
簡易的な受け皿として使えそうだった。
蔓の細い繊維をほぐし、保水繊維を円すい状へまとめる。
締めすぎれば水が通らない。
緩すぎれば、粒子もそのまま抜けるかもしれない。
最初は中間。
形を維持できる程度に固定する。
下へ空のサンプルチューブを置いた。
漏斗と呼べるほど整った道具ではない。
それでも、上から水を入れ、繊維を通過した水を分けて集めることはできる。
最初に使うのは、粒子を失った水。
少量を注ぐ。
水はすぐには落ちなかった。
繊維の中へ吸い込まれる。
少し待つ。
一滴。
また一滴。
ゆっくりと下の容器へ落ち始めた。
繊維は水を保持する。
だが、完全に止めるわけではない。
通過した水の見た目は変わらない。
透明。
沈殿もない。
繊維の表面には、ごく薄い白い膜が残っていた。
水に残っていた何かを捕らえたのか。
単に乾いた成分が付着しただけか。
これだけでは判断できない。
次は新鮮な河川水。
採取したまま密閉していた容器を開ける。
底には青白い粒子が沈殿している。
振らないよう、上澄みから少しずつ注ぐ。
水が繊維へ染み込む。
数秒後、繊維が青白く光り始めた。
強い光ではない。
内部へ細い筋が走る。
黒光実を水へ沈めた時と似ている。
光は十秒ほどで弱くなり、消えた。
下へ落ちた水を観察する。
透明。
待つ。
三十秒。
一分。
底に青白い粒子がほとんど現れない。
繊維が捕らえた。
少なくとも、通過前の水にあった目に見える粒子は、通過後にはほとんど残っていない。
私は使用後の繊維を触った。
少し硬くなっている。
湿って柔らかいはずなのに、繊維同士の結びつきが強くなったように感じる。
両端を持ち、軽く引く。
前より抵抗がある。
青白い粒子を吸着することで、繊維の性質そのものが変わった。
保水繊維。
そして、粒子を吸着した強化保水繊維。
同じ素材でも状態が違う。
粒子を水から取り除けるなら、飲用へ近づく可能性がある。
しかし、粒子が毒であるとは限らない。
取り除けば安全になるとも限らない。
長首草食獣は粒子を含む川の水を飲んでいた。
粒子がこの星の生命へ必要なものという可能性もある。
それでも、人間の身体へ与える影響を切り分けるには、粒子を含む水と含まない水を比較する価値があった。
私はろ過後の水へ、先ほどと同じ手順を行った。
マルチツール。
異常なし。
手袋越し。
異常なし。
右手の人差し指を一センチだけ浸す。
十秒。
三十秒。
一分。
皮膚に変化はない。
指を引き上げる。
今度は光らなかった。
前回のような一瞬の青白い線もない。
爪の間に結晶も見えない。
五分待つ。
脈拍。
呼吸。
皮膚。
異常なし。
違いは、繊維を通したかどうか。
発光現象を起こしたのは、水そのものではなく、繊維が取り除いた何かである可能性が高い。
私は粒子を吸着した繊維へ触れた。
一瞬だけ、青白い光が走った。
同時に、ヘルメット内で短い電子音が鳴る。
《未知エネルギー反応:微弱》
初めて見る項目だった。
放射線警告ではない。
化学汚染でもない。
センサーが分類できないエネルギー反応。
数値は小さく、危険域を示してはいない。
だが、光って見えるだけの物質ではないことは確かだった。
繊維は粒子を捕まえただけなのか。
内部に保存しているのか。
別の形へ変換したのか。
まだ分からない。
分からないが、粒子を含む水と、ろ過した水を分ける方法はできた。
簡単な漏斗。
ただそれだけの道具が、観察できなかった違いを作り出した。
*
次に進むべき段階は、口へ入れる試験だった。
危険はある。
だが、水源を確保できなければ、どのみち生存は続かない。
非常用飲料水二リットルを温存している間に、現地の水を使えるか判断しなければならない。
一気に飲む必要はない。
皮膚接触で異常がなく、粒子を除去した水から始める。
量は最小限。
医療キットを準備し、安静にして経過を観察する。
私はろ過装置を使い、時間をかけて水を集めた。
繊維は水を大量に保持するため、効率はよくない。
注いだ量のすべてがすぐ下へ落ちるわけではない。
何度も待ち、繊維を軽く押し、容器へ落とす。
繰り返すうちに、通過速度が遅くなった。
目詰まりしているのかもしれない。
青白い光も、最初より弱くなっている。
吸着できる量には限界がある。
それでも約一・三リットルを確保できた。
すべてを飲むつもりはない。
比較と、今後の試験用。
仮拠点αへ戻り、身体を命綱へ固定する。
医療キットを右手側へ置く。
宇宙服の生体モニターを開く。
現在の脈拍、体温、呼吸数を記録する。
空腹によって数値が乱れないよう、非常食も準備した。
ただし、水の反応と食事の反応を同時にしない。
まず一滴。
私は容器の縁へ付いた水を、舌先に触れさせた。
冷たい。
わずかな甘み。
金属のような味はない。
苦くもない。
五秒。
舌の痺れなし。
三十秒。
喉の痛みなし。
吐き気もない。
二分待つ。
異常はない。
次に、約二ミリリットル。
口に含む。
すぐには飲まない。
粘膜へ刺激がないことを確認してから、ゆっくり飲み込んだ。
時刻を記録する。
五分。
脈拍に変化なし。
十分。
腹痛なし。
十五分。
呼吸異常なし。
私はその間、身体を動かさなかった。
症状が出た時、疲労や運動の影響と混ざらないようにする。
十六分ほど経った頃、生体モニターが反応した。
《代謝率:+3%》
赤ではない。
警告でもない。
緑色の表示。
体温は、試験前より〇・二度高い。
発熱と呼ぶほどではない。
身体の内側が少し温かくなった感覚がある。
原因は水かもしれない。
緊張が解けたためかもしれない。
空腹や、それまでの作業による変化かもしれない。
一度の試験では断定できない。
私はそれ以上飲まなかった。
次に、非常食を一食だけ開けた。
高カロリーの栄養バー。
味は淡く、口の中の水分を奪う。
少量ずつ食べ、宇宙船の飲料水を最低限だけ使う。
現地のろ過水を大量に飲むことはしない。
食事を終えたあとも、拠点で経過を観察した。
一時間。
吐き気なし。
腹痛なし。
めまいなし。
発疹なし。
呼吸異常なし。
代謝率の表示だけが、+3%のまま残っている。
身体が温かい。
集中しやすいようにも感じる。
だが、感じ方は記録へ混ぜない。
数値として確認できたのは、代謝率と体温のわずかな上昇。
長期的な影響は不明。
飲用可能とは断定できない。
ただし、少量摂取による急性症状はなし。
そこまでだった。
時刻は午後三時五十五分。
非常食は残り一食。
宇宙船の飲料水二リットルは、まだほぼ手つかず。
ろ過済み河川水は約一・三リットル。
完全な解決ではない。
それでも、水の問題には初めて道筋ができた。
*
身体の状態が安定していることを確認し、私は銀色の装置を取り出した。
朝、枝の隙間から見つけた人工物。
何度も調べたいと思いながら、後回しにしてきた。
安全な拠点。
医療キット。
食事。
休息。
必要な条件がようやく揃った。
装置を布で拭く。
長さは約十センチ。
重さは百五十グラムほど。
金属に見えるが、アルミでもチタンでもない。
触ると少し冷たい。
表面には継ぎ目がほとんどなく、どうやって組み立てたのか分からない。
探査ポッドの部品よりも、製造精度が高いように見えた。
汚れを落とすと、小さな刻印が現れる。
《E.S.A.》
《Unit-7》
その下に、見たことのない文字列。
宇宙服の翻訳補助を向ける。
ほとんど認識しない。
一つだけ、既知の単語へ近いものとして表示された。
《FIELD》
フィールド。
分野。
領域。
場。
意味の範囲が広すぎる。
用途は分からない。
側面には、押せそうなボタンが一つある。
私は押さなかった。
まず外部から反応を見る。
マルチツールの先で軽く触れる。
何も起きない。
蒼輝石を取り出し、ゆっくり近づける。
石の内部の光は変わらない。
装置も反応しない。
次に、黒銀鉱石。
変化なし。
最後に、粒子を吸着した強化保水繊維を近づけた。
ピッ。
装置が鳴った。
私は動きを止めた。
ボタンには触れていない。
それでも、透明なレンズ部分へ細い青い線が走る。
暗かった内部に、文字が浮かんだ。
《POWER:0.8%》
読める。
少なくとも表示部分は、私の知る共通規格に対応している。
次の文字列。
《ENERGY SOURCE NOT DETECTED》
エネルギー源を検出できません。
装置は壊れていない。
完全ではないが、起動できる。
ただし、残っている電力は〇・八パーセント。
そして、強化保水繊維を近づけた時だけ反応した。
私は繊維を遠ざけた。
表示が暗くなる。
もう一度近づける。
ピッ。
同じ表示。
偶然ではない。
川の青白い粒子。
それを吸着した保水繊維。
四つ目の生物から返された蒼輝石。
銀色の装置。
すべてが同じ青白い光に関係している。
だが、蒼輝石には反応せず、強化保水繊維には反応した。
光の色が同じだからといって、同じ性質とは限らない。
装置が繊維のエネルギーを検出したのか。
繊維を特定の部品として認識したのか。
あるいは、繊維から漏れる微弱な粒子が、眠っていた回路を一瞬だけ刺激したのか。
答えはない。
表示には、エネルギー源なしとある。
装置が必要としているものは、まだ見つかっていない。
ボタンを押せば、残った〇・八パーセントを使い切る可能性がある。
今は押さない。
動くと分かっただけで十分だった。
私は装置と繊維を離して保管した。
もう一度記録する。
E.S.A. Unit-7。
FIELDの文字。
残存電力〇・八パーセント。
エネルギー源未検出。
蒼輝石、黒銀鉱石には反応なし。
粒子吸着後の保水繊維に反応。
書き終えたところで、私は気づいた。
今日行ったことは、どれも別々の問題から始まっている。
眠れる場所を作る。
川の水を調べる。
未知の粒子を取り除く。
飲める可能性を確かめる。
拾った人工物を調べる。
それが、保水繊維を中心に一つへつながり始めている。
黒い実から生まれた繊維は、寝床になった。
水を分けた。
粒子を捕らえた。
そして、古い装置を目覚めさせた。
この星の物は、それぞれ独立して存在しているのではないのかもしれない。
生命。
水。
鉱物。
技術。
見えない何かで、最初からつながっている。
私がその仕組みを知らないだけだ。
ヘルメットの表示へ、外気浄化フィルターの残量が小さく映っている。
時間は減り続けている。
それでも、今朝よりは前へ進んでいた。
答えは一つも得ていない。
だが、使える水ができた。
休める寝床ができた。
そして、壊れていない装置が一つある。
この星の仕組みを理解できれば、生き残る方法も見つかるかもしれない。
私は暗くなった銀色のレンズを見つめた。
〇・八パーセント。
わずかに残された力。
それを使うのは、必要な時だけでいい。




