戻るための約束
四眼の民から託された銀色の種を、布で幾重にも包んだ。
《RESTORATION SEED》
復元の種。
装置に表示された文字を、もう一度確かめる。
単に植物を増やすための種ではないのかもしれない。
枯れかけた銀脈根を戻す。
温室を戻す。
あるいは、この施設そのものを戻す。
何を復元するためのものなのかは分からない。
ただ、これが四眼の民にとって貴重なものだということは、渡す時の動きだけでも理解できた。
最も内側のポーチへ収める。
マルチツールや石と触れない場所。
転倒しても潰れにくい位置。
それから、乾いた水路へ目を戻した。
四眼の民も同じ場所を見ている。
視線は一度、水路から私の空洞竹水筒へ移った。
水を求めている。
少なくとも、そう見える。
水筒には煮沸した雨水が残っていた。
北東への遠征用として持ってきた水。
帰路もある。
白柱平原。
竹林。
湖畔前線基地β。
仮拠点α。
ここですべて使えば、帰りの途中で水分を補給できるのは湖まで行ってからになる。
それでも、目の前の銀脈根は危機的と表示されている。
今日、水を与えなければ枯れるのか。
数日は保つのか。
分からない。
使える水の量も多くはない。
温室全体を満たすことはできない。
私は水筒を持ち上げた。
まず、自分で一口だけ飲む。
喉を潤す。
帰路で身体を動かすために必要な最低限。
残りは水路へ使う。
合理的とは言い切れない。
一株へ水を与えても、施設全体は直らない。
けれど、何もせず枯れるのを眺めて帰ることもできなかった。
「全部は無理でも……今ここにある分だけ」
言葉は通じない。
四眼の民は水筒と私を見ている。
水路へ注ぐ前に、水筒の外側も確認した。
亀裂や漏れはない。
蓋を外した時、内側に異物も見えない。
この水は、雨を集め、煮沸し、今日まで自分が飲んできたものと同じだ。
未知の植物へ与えるからこそ、普段より雑には扱えない。
湖水と雨水で植物の反応が変わる可能性もある。
今使うのは雨水。
量は少ない。
それでも、何を与えたかは正確に残す。
私はゆっくり蓋を外した。
*
乾いた水路へ水筒を傾ける。
透明な水が、細い流れとなって落ちた。
長い間、水がなかった表面へ吸い込まれる。
床の六角形模様を伝い、緩やかな傾斜を流れていく。
勢いをつけない。
一度に注げば、亀裂へすべて落ちてしまうかもしれない。
少しずつ。
水がどこへ向かうのかを見ながら量を調整する。
先ほど四眼の民が触れていた銀脈根。
残っている中では、まだ青い光を保っている一株。
水はその根元まで届いた。
最初は何も起こらない。
水が土へ染み込むだけ。
私は水筒を戻し、待った。
数秒。
葉の中を走る銀色の筋が、淡く光り始める。
根元から先端へ。
一度に強く輝くのではない。
細い脈を通って、弱い光がゆっくり広がる。
完全に垂れていた一枚の葉が、わずかに動いた。
風ではない。
地下温室の空気は静かだった。
葉は時間をかけ、数センチだけ持ち上がった。
劇的に蘇ったわけではない。
枯れた株が元へ戻ったわけでもない。
それでも、生きている反応だった。
植物が小さく息を吸ったように見えた。
光り始めた葉へ装置を近づける。
《STATUS:CRITICAL》
表示そのものは変わらない。
危機的な状態から回復したわけではない。
ただし、葉の水分反応を示す細い線が、わずかに上向いた。
数値として記録できるほどではない。
一回の給水で救えたと考えるのは危険だった。
今回確認できたのは、銀脈根がこの水を拒絶しなかったこと。
水を受け、短時間ながら生体反応を強めたこと。
それだけだ。
四眼の民は動きを止めている。
四つの瞳が銀脈根へ向き、次に私へ向いた。
胸へ手を当てる。
今度はそれだけではなかった。
ゆっくり頭を下げる。
「アル……シア」
これまでより、はっきりした声。
銀色装置が短く鳴る。
《LANGUAGE UPDATE》
《2 ENTRIES》
続いて翻訳候補が現れた。
《ありがとう》
《信頼度:41%》
確定ではない。
音の意味を誤って結び付けている可能性もある。
それでも、場面と行動は一致している。
水を与えた。
植物が反応した。
相手が頭を下げた。
そして発した言葉。
この惑星で初めて、感謝を伝えられたのかもしれない。
私は同じ言葉を返さなかった。
発音も意味も正確ではない。
代わりに、自分も軽く頭を下げた。
それで十分だった。
*
水を与えたことだけに満足してはいけない。
水路を見る。
水筒から注いだ量に対し、銀脈根へ届いた水は少ない。
途中で消えている。
私は水路へ近づき、濡れた跡を追った。
入口側。
水は表面を流れている。
中ほど。
細い亀裂。
そこで流れが二つに分かれていた。
一方は植物へ向かう。
もう一方は亀裂へ吸い込まれる。
さらに先には、より大きな割れ目。
水は床下へ漏れている。
表面へ染み込んだだけではない。
亀裂の周囲には、古い補修跡らしき色の違いもあった。
水路本体より少し濃い灰色。
細長い帯が継ぎ目へ残っている。
施設が正常だった時にも、補修が行われていたのかもしれない。
指で触れない。
マルチツールの柄で軽く叩く。
水路本体より少し鈍い音。
完全に同じ素材で直す必要はない可能性がある。
別の充填材で隙間を埋め、板を支えていた。
そう考えれば、現地の土や粘土を利用できる余地がある。
ただし、古い補修材の成分は採取しない。
今残っているものまで削れば、亀裂が広がるかもしれない。
形状と位置だけ記録した。
水路そのものが壊れている。
乾いていた原因は、水源がないことだけではなかった。
仮に大量の水を運んでも、このままでは多くが地下へ消える。
銀脈根すべてへ行き渡らない。
私は亀裂の幅を測った。
細いものは数ミリ。
大きなものは指が入る。
水路を構成する板同士の継ぎ目も開いている。
何かで埋める必要がある。
板を固定する。
水を通さない。
乾いたあとも割れない。
施設の素材へ悪影響を与えない。
条件は多い。
手元にあるもの。
ロープ。
予備の蔓。
燻製魚。
火花石。
マルチツール。
石。
どれも、この規模の水路を直す材料ではない。
粘土も持ってきていない。
接着剤に使っている樹脂は少量。
未知の施設へ直接塗ってよいかも分からない。
今ここで無理に直すことはできなかった。
四眼の民は、水路の途中まで歩いた。
最も大きな亀裂の前で止まる。
地面を指差す。
彼らが求めているのは、一度だけ水を注ぐことではない。
水が流れ続ける状態。
温室の灌漑設備を戻すこと。
それが本当の問題だった。
助けたいという気持ちだけでは直せない。
材料。
構造。
硬化時間。
耐水性。
実際に試した知識が必要になる。
*
「ごめん。今は、まだ直せない」
言葉が通じないことは分かっている。
それでも、何も伝えず立ち去りたくなかった。
私は胸へ手を当て、自分を指差す。
次に、温室の外。
帰る方向を指す。
水路の亀裂を指差す。
両手で、割れたものを寄せ、上から塗り固めるような動きをする。
最後に、もう一度自分を指す。
今は道具も材料もない。
一度戻る。
直す方法を考える。
必要なものを持って戻ってくる。
どこまで伝わるかは分からない。
身振りが別の意味に見える可能性もある。
私は同じ動きを急がず、もう一度繰り返した。
四眼の民は、最初から最後まで見ていた。
しばらく沈黙する。
引き止めない。
怒った様子もない。
やがて、ゆっくりうなずいた。
胸へ手を当てる。
「……アル」
装置が反応する。
《翻訳候補:「理解」》
《信頼度:53%》
これまでで最も高い数字。
確定ではない。
それでも、私が戻ること。
今は修理できないこと。
少なくとも、その一部は伝わったのかもしれない。
できないことを隠して、その場で壊すよりいい。
分からないことを認め、試してから戻る。
相手が待っている状況でも、その手順は変えられない。
私は復元の種が収まったポーチを確認した。
透明六角板。
エネルギーセル。
破損したデータスレート。
調査で得たものも確認する。
蒼輝石はまだ使っていない。
台座へ残してもいない。
持って帰る。
銀色殻だけは、第3補助フィルターへ組み込まれたまま。
施設は三一パーセントで稼働を続けている。
扉が閉じないことを確認し、四眼の民へもう一度頭を下げた。
時刻は午前十一時前。
施設を出る前に、私は温室の入口を振り返った。
四眼の民は亀裂の近くに立ったまま。
追ってはこない。
復元の種を渡した相手が、本当に戻るかを見送っているようにも見えた。
私は水筒を持ち上げ、空になったことを見せる。
次に材料を拾う仕草をし、外を指す。
最後に水路を指す。
相手はもう一度だけ、短くうなずいた。
その反応を、自分に都合のよい約束の成立と断定はしない。
それでも、帰ることを拒まれてはいなかった。
私は崩落した通路を戻り始めた。
*
狭い隙間を抜け、円形の制御室へ戻る。
壁の六角形結晶は、入った時と同じように弱く光っている。
突然暗くなることはない。
円盤へ収まった銀色殻も外れていない。
外へ出る。
冷たい施設内の空気から、白柱平原の温かい空気へ変わる。
宇宙服の表示を確認する。
新しい異常なし。
装置の電力。
施設の信号。
どちらも急変していない。
崖の上を見る。
四つの青い光は見えない。
別の四眼の民が観察している可能性はある。
私は武器を構えず、来た道を戻った。
帰路は、単に拠点へ帰るためのものではない。
次に戻るための材料を探す道になる。
白柱平原の白い地面。
遠征時には、ただ石灰質に似ていると記録した。
今度は少量を採取する。
マルチツールで表面を削る。
乾いている。
指でこすると細かな粉になる。
白灰色。
水路のひびを埋める材料として使えるかもしれない。
水を数滴加える。
じんわりと熱を持った。
激しく反応しない。
煙も異臭もない。
地球の石灰質の材料と似た性質なら、接着材やモルタルに使える可能性がある。
だが、同じ物質と断定はしない。
仮称、白灰土。
約二キログラム。
一度に大量は採らない。
反応を確かめる前に持てるだけ採っても、使えなければ荷物になる。
大きな葉で包み、粉が他の素材へ触れないよう分ける。
さらに森側へ戻る。
川に近づくほど、地面の湿り気が増す。
赤茶色の土を見つけた。
手袋越しに丸める。
崩れない。
強い粘り。
乾けば硬くなりそうだった。
赤粘土。
約三キログラム。
水分を失わないよう葉で包む。
石も選ぶ。
丸い小石だけでは、水路の底や側面へ並べにくい。
平らなもの。
厚さが近いもの。
重ねた時に大きく揺れないもの。
板石、八枚。
亀裂の上へ橋のように置く。
欠けた部分を補う。
試験用の小型水路を作る。
複数の用途を想定できる。
丈夫な蔓も七本採取した。
修復材そのものではない。
硬化するまで板石を固定する。
模型を組む。
運搬する荷物を縛る。
使い道はある。
白灰土は、乾燥した粉のままでは風で失われやすい。
葉で二重に包み、蔓で口を縛る。
袋の外側へ白い粉が付かないことを確認する。
赤粘土は逆に乾燥させたくない。
水分を含んだまま厚い葉で覆い、空気へ触れる面を減らす。
同じ土でも、保存方法は逆だった。
板石は八枚を一束にはしない。
四枚ずつに分け、身体の左右へ重さを振り分ける。
片側だけが重ければ、細道や根を越える時にバランスを崩す。
素材を得るだけでは足りない。
壊さず、安全に持ち帰って初めて使える。
荷物は重くなった。
白灰土。
赤粘土。
板石。
水を使い切った水筒。
遠征装備。
研究物。
来た時より歩く速度は落ちる。
急がない。
標識として残した木の切れ込みを一つずつ確認する。
道を間違えない。
疲労が増えれば休む。
施設へ戻るために材料を集めたのに、帰れなくなれば意味がない。
*
仮拠点αへ戻ったのは午後二時五分。
遠征は長かった。
木の上へ荷物を引き上げる前に、四つ目モグラたちの様子を見る。
群れは普段どおり活動している。
額に銀色の筋を持つ大きな個体が、白灰土を包んだ荷物へ鼻先を向けた。
だが近づかない。
私は巣穴や通り道を塞がない位置へ材料を置き、順番に木の上へ上げた。
復元の種。
最優先で安全な場所へ。
透明六角板。
エネルギーセル。
データスレート。
衝撃を受けないよう、保水繊維の間へ固定する。
白灰土と赤粘土は離して保管する。
水分や雨が入れば、意図せず反応する可能性がある。
板石は木の上へすべて上げない。
重い。
地上の資材置き場へ、崩れないよう重ねる。
αへ戻ったあと、持ち帰った部品の一覧も書き直した。
透明六角板。
用途不明。
四眼の民からの返礼。
エネルギーセル。
残量二パーセント。
接続先不明。
データスレート。
記録媒体。
読み取り不能。
復元の種。
銀脈根由来。
発芽条件不明。
これらはすぐ使う材料ではない。
試せるからといって、同じ日にすべて試さない。
修復材の検証と、文明部品の解析を同時に進めれば、失敗した時に原因を追えなくなる。
当面の優先順位は水路。
部品類は、状態を変えずに保管する。
ノートを開く。
新しい目標を書く。
第一。
銀脈根温室の水路修復。
必要になりそうなもの。
白灰土。
赤粘土。
板石。
水路の構造確認。
防水試験。
硬化試験。
第二。
四眼の民の言語を記録し、翻訳精度を上げる。
第三。
第3補助フィルターと施設全体の構造を調べる。
だが、すぐ工作へは入らなかった。
水分は減っている。
朝から遠征し、重い材料を運んだ。
頭の中も、水路と施設の情報で埋まっている。
この状態で配合試験を始めれば、量や手順を間違える。
まず生活のリズムを戻す。
水を得る。
食べる。
休む。
考えるのは、それからだった。
*
湖畔前線基地βへ向かった。
午後三時五分。
簡易拠点は無事だった。
倒木の座席。
石で囲った焚き火跡。
資材置き。
荒らされた形跡はない。
私は最初に湖水を汲んだ。
今日は念入りに処理する。
布を通す。
目に見える浮遊物を除く。
金属容器へ移す。
沸騰させる。
十分な時間、熱を保つ。
変色なし。
異臭なし。
青白い粒子も出ない。
火から下ろし、冷ます。
少量を飲む。
三十分。
体調に異常なし。
残りを空洞竹水筒へ移す。
遠征で使い切った水が戻る。
次に釣り。
赤紫果を骨針へ付ける。
湖面へ静かに落とす。
竿先が震える。
一匹。
二匹。
さらに二匹。
透明魚を四匹確保した。
二匹は、その場で焼く。
火を強くしすぎない。
骨を傷つけないよう、向きを変えながら完全に火を通す。
香ばしい匂い。
初めて食べた時は、一口ごとに身体の変化を待った。
今も安全確認は続けている。
それでも、この魚を異世界の未知の食物としてだけ見る感覚は薄れていた。
今は日常の食事。
この惑星で、自分が繰り返し食べているもの。
残り二匹は内臓を取り除き、竹製運搬筒へ入れる。
骨も鱗も捨てない。
修復材の試験へ、骨粉を使える可能性もある。
食後、湖面を見ながらノートを開いた。
温室の水路。
亀裂。
白灰土。
赤粘土。
板石。
いきなり本番へ塗るべきではない。
未知の施設の素材と反応し、さらに壊す可能性がある。
硬化前に水を流せば、すべて剥がれるかもしれない。
配合が硬すぎれば、水路が動いた時に割れる。
柔らかすぎれば、水圧に耐えない。
私は一つの仮説を書く。
――白灰土と粘土で、ひびを埋められないか。
その下へ、さらに書き足す。
――本番の前に、小さな水路模型を作る。
板石で底と壁を組む。
白灰土と赤粘土を配合する。
乾燥させる。
水を流す。
漏れ。
剥離。
ひび。
すべてを確認する。
失敗するなら、βで失敗する。
古代施設の水路では失敗しない。
それが、今できる最も確実な約束だった。
*
夕暮れ前にβを片付け、仮拠点αへ戻った。
持ち帰った魚を日陰へ吊るす。
水筒を固定する。
火を完全に消す。
防雨屋根と雨水回収装置を点検する。
異常なし。
武器は手の届く場所。
復元の種は、寝床から最も離れた安全な収納。
誤って身体で潰さない位置。
木の上へ横になる。
森の音が聞こえる。
葉。
夜の鳥。
地中を掘る四つ目モグラ。
遠くの水。
以前なら、そのすべてへ目を覚ましていた。
今は違う。
異常でない音を知っている。
そして、ここは帰って来られる場所だった。
今日、私は初めて四眼の民へ感謝されたかもしれない。
初めて、自分以外の命を助けるために水を使った。
初めて、戻って直すと約束した。
言葉が正確に通じた保証はない。
それでも相手は、理解という候補の言葉を返した。
約束は、伝わったかどうかだけで成立するものではない。
戻ると決めた自分が、本当に戻ることで初めて形になる。
目を閉じる。
明日は、白灰土と赤粘土を混ぜる。
小さな水路を作る。
壊してよい模型で、壊してはいけない施設を直す方法を探す。
温室に残った銀脈根。
四眼の民。
復元の種。
そのすべてが、次に戻る理由になっていた。




