四眼の民
六日目の朝。
保存実験中の魚は、煙の香りを残したまま乾いていた。
腐敗臭はない。
虫に荒らされた跡もない。
完全な保存食と呼ぶには、まだ試験が足りない。
それでも、釣った魚をその日のうちにすべて食べ切らなくてもよい可能性が生まれた。
湖へ行けない日を越えるための食料。
遠くへ探索するための携帯食。
そのどちらにも使える。
私は燻製魚を少量だけ残し、朝食には別の透明魚を焼いた。
煮沸しておいた雨水を飲む。
食後、身体の状態を確認する。
痛みなし。
発熱なし。
吐き気なし。
前日までの食事による異常もない。
今日、向かう場所は決まっていた。
北東。
四つ目の生物が地面へ三本の線を引き、顔を向けた方角。
湖で銀色の装置がフィルターモジュールを検出した方角。
二つの手掛かりが一致している。
装備がなかった頃なら、向かわなかった。
水と食料が不安定なままでも、向かわなかった。
しかし今は違う。
仮拠点αには雨水がある。
湖畔前線基地βでは魚を確保できる。
燻製魚を少量持ち運べる。
防護服。
弓。
槍。
帰る場所と、進むための準備が揃った。
未知の施設を調べるためではない。
戻れなくなるほど無理をしないために、ここまで整えてきた。
私は遠征装備を一つずつ並べた。
偽装防護服。
葉や保水繊維の固定に緩みはない。
透明魚の鱗も外れていない。
竹骨弓。
弾性繊維の張りは保たれている。
矢は十本。
練習用の通常矢が六本。
骨矢が四本。
竹槍。
穂先の骨と樹脂、蔓の固定に異常なし。
マルチツール。
空洞竹水筒。
中には煮沸した雨水。
燻製魚の試作品。
ロープ。
火花石。
銀色の装置。
蒼輝石。
銀色殻。
銀脈根。
青白い石。
透明魚の口から見つけた銀色の小粒。
特殊素材は、用途の分からないものまで持っていく。
装置が何に反応するか分からない。
ただし、建築資材や余分な食料は置いていく。
遠征では、持てる量より、動ける重さを優先する。
出発前、四つ目の生物たちの巣を通った。
群れはいつものように地面を掘り、殻を運んでいる。
その中で、額に銀色の筋を持つ大きな個体だけが動きを止めた。
四つの目が私を見る。
次に、北東を見る。
鳴かない。
地面へ線も引かない。
ただ、同じ方角へ顔を向けた。
偶然かもしれない。
それでも、私は小さくうなずいた。
相手に意味が通じたとは思わない。
自分が、その方向へ進むと決めたことを確認するためだった。
時刻は午前七時十八分。
私は北東へ歩き始めた。
*
最初の五百メートルは、すでに知っている範囲だった。
湖。
湖畔前線基地β。
竹林。
生物が近寄らない銀節竹。
以前は、ここまで来るだけでも未知の探索だった。
今は地形を知っている。
足場の悪い場所。
枝が低く伸びている場所。
水が溜まりやすい窪地。
どこを通れば音を立てずに進めるかも、ある程度分かる。
銀節竹へ近づきすぎない。
装置の高エネルギー警告が出る範囲を避ける。
竹同士が風でぶつかる。
コン……。
以前のような応答音は返ってこなかった。
私は立ち止まらず、その先へ進んだ。
ここから先は、地図の線がない。
装置を確認する。
距離は表示されない。
ただ、矢印だけが北東へ向いている。
以前より揺れが少ない。
目的地へ近づくほど、方向が安定しているように見える。
帰り道を失わないため、木へ小さな印を残す。
樹皮を大きく剥がさない。
マルチツールの先で、進行方向からだけ見える短い切れ込みを一つ。
数十メートル進む。
次の木へ同じ印。
地面にも、特徴のある石や根を覚える。
装置が動かなくなっても帰れるよう、複数の手掛かりを残す。
道中で動物の鳴き声は聞こえる。
だが、仮拠点周辺とは種類が違う。
短く高い声。
葉の上を走る軽い音。
姿は見えない。
追わない。
目的は生態調査ではなく、北東の信号だった。
午前八時十分。
地面の色が変わった。
黒や茶色だった土が、白くなる。
砂ではない。
細かな石灰質の粉に似ている。
足を置いても深く沈まない。
雨のあとにもかかわらず、泥になっていない。
木々も減っている。
空が広く見える。
代わりに、高さ一メートルほどの白い柱が群生していた。
遠くからは植物の茎に見えた。
葉はない。
枝もない。
表面は滑らか。
私は一本へ直接触れず、竹槍の柄で軽く押した。
硬い。
だが、石のような音ではない。
次に手袋越しで触れる。
温かい。
周囲の空気や地面より、わずかに温度が高い。
生きている植物の発熱か。
地中から熱を運んでいるのか。
人工物なのか。
断定できない。
装置が短く鳴った。
ピッ。
これまでより強い振動。
画面が自動で点灯する。
《SIGNAL STRENGTH》
《41%》
初めて、方向ではなく信号強度が表示された。
目的地へ近づいている。
白い柱状物が信号を伝えているのか。
地下にある何かが近いのか。
私は柱の間を進んだ。
接触しないよう距離を取る。
足跡は少ない。
四つ目のモグラのものも、長首草食獣のものも見当たらない。
植物らしき柱だけが、白い地面から規則性なく立っている。
百メートルほど進んだところで、風景が途切れた。
森が終わる。
その先に、巨大な岩壁が立っていた。
*
高さは少なくとも五十メートル。
左右へどこまで続いているのか、一度には見通せない。
自然の崖に見える。
だが、表面には規則正しい六角形が並んでいた。
一つ。
その隣に同じ大きさの六角形。
さらに上。
さらに横。
自然の割れ目なら、すべてが同じ角度と大きさになるとは考えにくい。
黒光実から作られた銀色殻。
その内側に現れた六角形構造と似ている。
崖の中央。
蔓や苔に覆われた場所へ、円形の人工物が半分埋まっていた。
直径は約二メートル。
銀色。
土や植物に覆われながらも、腐食した様子はない。
装置が大きく震える。
《FILTER MODULE》
《SIGNAL:89%》
間違いない。
湖で検出されたフィルターモジュールの信号は、ここから出ている。
私はすぐ円盤へ近づかなかった。
まず頭上。
崖の縁。
周囲の柱。
地面。
逃げられる方向。
確認する。
その時。
コン……。
頭上から、一度だけ音がした。
竹林で聞いた音。
私は反射的に見上げた。
崖の縁。
人間ほどの大きさの細長い影が立っていた。
白灰色の身体。
そして、顔の位置に四つの青い光。
目。
そう認識した瞬間、影は岩陰へ消えた。
動きは速い。
しかし、飛びかかってはこない。
矢も石も飛んでこない。
私は弓へ手を伸ばさなかった。
竹槍は歩行用として持ったまま。
構えない。
今、敵意を示したのは相手ではない。
こちらが武器を向ければ、状況を変えることになる。
しばらく待つ。
再び姿は現れない。
私は円盤へ近づいた。
*
表面の土と苔を、手とマルチツールで少しずつ除いた。
力任せに剥がさない。
植物の根が内部の部品へ入り込んでいる可能性がある。
表面を傷つければ、使えるものまで壊す。
円盤の中央に、小さな六角形の窪みが現れた。
私は布へ包んだ銀色殻を思い出した。
形。
大きさ。
ほぼ同じ。
殻を取り出し、はめ込めば、何かが起きるかもしれない。
だが、まだ使わない。
円盤の役割は分からない。
起動した時、周囲へ何を放出するかも分からない。
まず、周囲を調べる。
円盤の周りだけ、地面が少し柔らかい。
そこへ足跡が残っていた。
私のものではない。
四つ目モグラの小さな足でもない。
長さは約二十センチ。
細長い三本指。
数も一つではない。
土の乾き方から見て、古くはない。
昨夜から今朝に付いたもの。
先ほど崖の上にいた存在の足跡かもしれない。
その時、また音がした。
コン……コン……。
今度は二回。
私は身体を急に向けず、視線だけを上げた。
崖の縁。
四つの青い光。
その隣に、もう四つ。
二体。
身体の輪郭は細長い。
立ったまま、こちらを観察している。
武器らしいものは持っていない。
身を隠す動きもない。
私は円盤から手を離し、その場で動かなかった。
弓は背中。
槍の穂先は地面へ向ける。
相手が動かないなら、自分も動かない。
約三十秒。
互いに距離を保ったまま、何も起きなかった。
やがて二体は、崖の向こうへ姿を消した。
追わない。
登る方法もない。
姿を見せたこと自体が警告なのか、観察なのかも分からない。
敵意がないと断定はできない。
ただし、現時点で攻撃行動はない。
それ以上の意味を付けない。
崖の側面を調べると、裏へ回り込む細い道が見つかった。
幅は人一人分。
草はほとんど踏まれていない。
自然にできた獣道のようにも見える。
装置の表示。
《SIGNAL:96%》
目的地は、ほぼこの先。
時刻は午前九時十二分。
水分。
体力。
帰路。
まだ問題はない。
私は細道へ入る前に、その場へしゃがみ、装備をすべて点検し直した。
*
偽装防護服。
破損なし。
葉の一部が白い地面の粉を帯びているが、固定に緩みはない。
竹骨弓。
弓弦の張りは良好。
矢、十本。
竹槍。
穂先の固定に異常なし。
マルチツール。
刃こぼれなし。
空洞竹水筒。
雨水は約七割。
燻製魚。
少量。
銀色の装置。
電力一二・三パーセント。
信号強度九六パーセント。
蒼輝石。
銀色殻。
銀脈根。
青白い石。
銀色の小粒。
ロープ。
火花石。
予備の蔓。
余分な荷物はない。
今すぐ撤退することもできる。
進むこともできる。
細道へ入るなら、相手が一体だけとは限らない。
崖の上には少なくとも二体いた。
内部に何体いるかは分からない。
それでも、彼らは私を見ながら攻撃しなかった。
装置の信号は、崖の中を指している。
「行こう」
私は立ち上がった。
午前九時二十分。
崖裏の細道へ足を踏み入れた。
足場は岩。
苔は少ない。
雨のあとでも滑りにくい。
ただし道幅は、人一人が通れる程度しかない。
左側は崖の壁。
右側は斜面。
竹槍を横へ向ければ、壁や地面へ引っかかる。
穂先を下げ、歩行を補助するように使う。
二十メートル。
風が変わった。
正面から冷たい空気が流れてくる。
外気温との差。
崖の中へ空気が動いている。
内部へ通じる空間がある。
三十五メートル。
道がゆるやかに下り始めた。
周囲は静か。
鳥も鳴かない。
虫の音もない。
壁の六角形の溝だけが、ごく弱く青白く光っている。
装置が一度だけ震えた。
《ACCESS NODE》
《3m》
初めて、正確な距離が表示された。
あと三メートル。
最後の角を曲がる。
高さ四メートルほどの入口。
円形の扉。
完全には閉じていない。
人一人が通れるほどの隙間を残し、半分だけ開いている。
そして、その前に一体の存在が立っていた。
*
身長は私とほぼ同じ。
全身は白灰色。
腕も脚も細い。
衣服を着ているのか、身体そのものがその色なのか、距離があり判断できない。
顔には、四つの青い瞳。
四つ目モグラと同じ数。
だが、体格も姿勢も違う。
二本の脚で立っている。
こちらを正面から認識している。
武器は見当たらない。
逃げない。
その存在は、ゆっくり右手を上げた。
掌をこちらへ向ける。
攻撃の構えではない。
止まれ。
待て。
そう伝えているように見える。
私は足を止めた。
竹槍を地面へ立てる。
弓へも触れない。
相手は手を上げたまま動かない。
言葉はない。
今まで出会った生物とは違う。
距離を取り、こちらの動きを見て、手で意思を示している。
明確な知性。
私は急な動きを避けながら、荷物を地面へ下ろした。
何かを渡す。
敵意がないことを示す。
最初に思い浮かんだのは、食料ではなかった。
銀脈根。
四つ目モグラが、銀色殻を返す時に差し出したもの。
表面に青白い結晶。
内部に銀色の脈。
この存在の白灰色の身体と、胸元にかすかに見える銀の線。
関係があるかもしれない。
大切な試料だ。
一つしかない。
それでも、信頼を示すなら、不要なものを差し出すべきではない。
私は銀脈根を両手で取り出した。
相手から見える位置へ持つ。
ゆっくり地面へ置く。
二歩下がる。
両手を開く。
何も持っていないことを見せる。
四つの瞳が、私から銀脈根へ移った。
すぐには動かない。
二十秒ほど。
静寂。
やがて、一歩だけ前へ出た。
足音はほとんどしない。
銀脈根の前へしゃがむ。
細い指先が、根へ触れた。
銀色の筋が淡く光る。
相手は根を持ち上げなかった。
代わりに、自分の胸元へ軽く当てる。
その瞬間、白灰色の身体の内側から、同じ模様の銀色の筋が浮かび上がった。
銀脈根と同じ。
長くは続かない。
一瞬だけ。
それでも、共通する構造があることは見えた。
銀脈根は、ただの植物ではない。
少なくとも、この存在と何らかの関係を持っている。
相手は根を地面へ戻した。
受け取らない。
だが、拒絶するように遠ざけもしない。
その横へ、別のものを置いた。
透明な薄い板。
手のひらほどの大きさ。
ガラスに似ている。
しかし、触れていないのに冷たい印象がない。
表面には、六角形の模様が浮かんでいる。
返礼。
そう判断できる行動だった。
銀脈根を見せた。
自分との共通性を示した。
根を返した。
別のものを差し出した。
四つ目モグラと行った交換に似ている。
この星の異なる生物の間で、物を渡し返す行動が通じる。
相手が顔を上げた。
四つの瞳がゆっくり細くなる。
敵意は感じない。
そして、初めて声を発した。
「……アー……ル」
鳴き声ではない。
音を区切り、こちらへ伝えようとしている。
言葉。
名前。
意味は分からない。
腰の銀色装置が反応した。
《UNKNOWN LANGUAGE》
《PATTERN STORED》
《1 ENTRY》
未知言語。
音声パターンを一件記録。
翻訳はできない。
だが、装置は今の発声を言語として認識した。
私はすぐ真似をしなかった。
発音を間違えれば、別の意味になる可能性がある。
ただ、透明な六角板を受け取る前に、相手を見る。
相手は手を引き、地面の板を残している。
私はゆっくり近づき、板を拾った。
軽い。
表面の六角形が、角度によって淡く見える。
銀脈根も回収する。
贈り物は受け取られなかった。
しかし、接触は拒絶されなかった。
相手は返礼を渡し、言葉を発した。
この惑星で初めての、知的生命体との平和的な接触。
私は心の中で、彼らを四眼の民と呼ぶことにした。
正しい名は、まだ分からない。
目の前の一体は、円形の扉へ視線を向けた。
次に私を見る。
右手はもう上げていない。
道を塞いでもいない。
進めと命じるわけでもない。
止まれと拒むわけでもない。
選択をこちらへ残している。
扉の向こうから、冷たい風が流れていた。
銀色装置の信号は、ほぼ最大。
そして私の手には、四眼の民から渡された透明な六角板がある。
未知の施設へ進む前に、私は一度だけ深く呼吸した。
ここから先は、自然を観察するだけの探索ではない。
誰かが残した場所へ、誰かに見られながら足を踏み入れることになる。




