エリート魔術師に、境界条件と言ったら決闘になった
「境界条件ですかね」
俺がそう答えた瞬間、王立大図書館の一角に、妙な沈黙が落ちた。
巨大な本棚。宙に浮かぶ光球。古い紙の匂い。机の上には『よい子の火水風土』と『はじめての魔力』。
その前で、宮廷魔術師団第二席を名乗る青年――レオン・ラザフォードは、きれいな銀髪を揺らしながら眉間に皺を寄せていた。
「……境界条件?」
「はい」
「火球魔法において、最も重要なのが?」
「はい。もちろん初期条件も大事です」
「しょき、じょうけん」
レオンが、まるで異国の呪文を聞いたような顔をした。
いや、実際ここでは異国の概念なのかもしれない。
俺は少し説明を試みることにした。
「たとえば火球を作るとして、どこに、どのくらいの半径で、どれだけの魔力密度を持つ領域を作るか。周囲の空気との相互作用をどう扱うか。放熱するのか、閉じ込めるのか。そういう条件をちゃんと決めないと、同じファイアボールでも威力や形が変わりますよね」
「変わるのは当然だ。術者の精神力と魔力量が違うのだからな」
「それも変数の一つだと思います」
「変数」
レオンの額に青筋が浮かんだ。
しまった。相手が怒っている。
大学のゼミでもたまにあった。説明している側は丁寧に言っているつもりなのに、聞いている側には「お前の前提が間違っている」と聞こえてしまうやつだ。
俺は両手を軽く上げた。
「すみません。別に魔術師の修練を否定したいわけではなくて」
「否定しているだろう」
「いや、していません」
「火球魔法の本質を、精神でも詠唱でもなく、何だ。境界条件? 初期条件? 聞いたこともない言葉で煙に巻いているだけではないか」
レオンの赤いローブが、わずかに揺れた。
同時に、空気が熱を帯びる。
周囲の司書や利用者が、そっと距離を取った。慣れている動きだった。どうやら、彼は普段からこういう圧を出すタイプらしい。
エリシア王女が慌てて間に入る。
「レオン、控えなさい。勇者様は召喚されたばかりなのです」
「殿下。だからこそです」
レオンは深く一礼した。
礼儀は正しい。だが、目は全然納得していない。
「この者が本当に勇者であるならば、王国の命運を託すに足る力を示すべきです。初歩魔法で壁に穴を開けたと聞きましたが、偶然かもしれません。暴走かもしれません。魔法の本質も知らぬ者を、勇者として認めるわけにはいきません」
「暴走ではありません」
俺は思わず口を挟んだ。
そこは重要だった。
暴走と制御された出力は違う。再現性があるなら実験結果だが、一回限りなら事故である。
「では、再現できるのか?」
レオンが鋭く俺を見た。
「条件が同じなら、ある程度は」
「ならば証明してみせろ」
「ここでですか? 図書館ですよ」
「この建物の地下は訓練場になっている」
展開が早い。
俺は『はじめての魔力』を見た。まだ五ページしか読めていない。神様からの贈り物仮説の検証すらできていない。
だが、レオンは完全にやる気だった。
グライス導師は額を押さえている。エリシアは困った顔をしている。司書は無言で本を回収し始めている。手際が良すぎる。もしかしてこの図書館、魔術師同士の口論から決闘に発展する流れに慣れているのか。
「勇者様」
エリシアが小声で言った。
「無理に受ける必要はありません」
「いえ、大丈夫です」
「本当に?」
「はい。ちょうど、実戦形式で魔法を観察できます」
「実戦形式」
エリシアが、とても心配そうな顔をした。
すみません。でも本当にありがたい。
この世界の標準的な魔術師が、戦闘中に魔法をどう使うのか。俺にとっては貴重なデータだ。
「レオンさん」
「さん?」
「その勝負、受けます。ただし、殺し合いではなく、威力と制御の比較という形でお願いします」
「ふん。怖じ気づいたか」
「いえ、図書館の本を燃やしたくないので」
その瞬間、司書たちが一斉に俺を見た。
初めて、少しだけ好意的な視線を感じた。
どうやらこの世界でも、本を大事にする人は信用されるらしい。
俺たちは図書館の地下にある魔術訓練場へ移動した。
地下とは思えないほど広い空間だった。天井は高く、壁には幾何学模様の魔法陣が刻まれている。中央には石でできた的が三つ並んでいた。
てっきり的に向かって火球を撃ち、威力を比べるのだと思っていた。
だが、レオンは的の前ではなく、俺の正面に立った。
「……あの、的は?」
「決闘だと言ったはずだ」
「聞いていた話と少し違いますね」
「安心しろ。致命傷にならぬよう加減はする」
俺は思わずエリシアを見た。
エリシアは明らかに止めたそうな顔をしている。だが、グライス導師が小声で説明した。
「宮廷魔術師同士の決闘では、防護結界の中で攻防を行います。命に関わる攻撃は結界が弾きます」
「つまり、安全装置つきの模擬戦ですか」
「そのようなものです」
「なるほど」
なるほど、ではない。
俺は戦士ではない。運動も苦手だ。高校の体育でバスケットボールを顔面で受けたことがある。
その俺が、宮廷魔術師団第二席と向かい合っている。
状況としてはかなり悪い。
「勇者様、無理をなさらず――」
「大丈夫です」
俺はそう言った。
大丈夫ではない。
だが、ここで逃げると、この世界の魔術師たちに俺のやり方を認めさせるのは難しくなる。
それに、実戦形式で魔法を見る機会は貴重だった。
怖い。
でも、見たい。
研究者の悪いところである。
グライス導師が杖を掲げた。
「双方、決闘の目的は力量の確認である。命を奪う攻撃は禁止。防護結界が危険と判断した場合、即座に中断する」
レオンが頷く。
俺も頷いた。
足元に淡い光が走り、訓練場全体を覆う半透明の膜が浮かび上がった。
防護結界。
これも気になる。
だが、今はそれどころではない。
「始め!」
グライス導師の声が響いた。
次の瞬間、レオンの詠唱が始まった。
「火の精霊よ、我が意に従い――」
レオンの右手の前に、赤い光が集まっていく。
拳大の火球が生まれ、周囲の空気が熱で揺らいだ。
速いかどうかは、まだわからない。
だが、あれが自分に向けられているという事実だけで、十分に怖かった。
「灼熱の息吹となりて敵を穿て――ファイアボール!」
火球が放たれた。
こちらへ。
的ではなく、俺へ。
「うわっ」
情けない声が出た。
俺は横へ跳んだ。
跳んだ、というより転がった。
火球が頬の横を通過し、背後の結界にぶつかって爆ぜる。熱風が髪を揺らした。
怖い。
普通に怖い。
ファンタジーの魔法バトルは、観客席で見るべきものだ。少なくとも博士課程二年が生身で参加するものではない。
「避けるだけか、勇者!」
レオンが二発目を構える。
俺は床に片膝をつきながら、火球の軌道を思い出した。
速い。だが、直線的だ。
火球の表面では魔力が渦を巻き、熱を閉じ込めている。球の外側に、薄い膜のような境界がある。あれが崩れれば、内部の熱は拡散する。
つまり、火球は爆弾ではなく、膜で包まれた熱の塊だ。
なら、狙うべきは中心ではない。
境界だ。
「ファイアボール!」
二発目が来る。
俺は右手を伸ばした。
自分でも正気ではないと思う。
火球の進路に、細い魔力の線を置く。熱線ではない。攻撃ではない。ただ、火球の表面をわずかに切るための干渉線。
赤い球が、その線に触れた瞬間。
ぼふっ。
火球は俺に届く前に、空中で崩れた。
爆発ではなく、熱い風になって散る。
レオンの目が見開かれた。
「なっ……!」
「やっぱり、境界がある」
俺は息を吐いた。
手が震えている。
怖さのせいもある。だが、それ以上に、見えた。
火球の構造が。
この世界の魔法の弱点が。
「貴様、何をした!」
「表面の魔力流を乱しました。たぶん、火球は外側の膜で熱を閉じ込めているので」
「膜……?」
「境界条件です」
「またそれか!」
レオンが三発目、四発目を連続で放つ。
今度は軌道が違う。
一発は正面。もう一発は少し高い位置から、落ちるように迫ってくる。
俺は正面の火球に干渉線を当てる。
一発目が崩れる。
だが、二発目への反応が遅れた。
「まず――」
熱が迫る。
避けきれない。
その瞬間、身体が勝手に動いた。
火球を壊すのではなく、横から押す。
魔力の流れを一方向に偏らせる。
火球は軌道を逸らし、俺の肩すれすれを通って結界にぶつかった。
背中に汗が噴き出す。
「今のは危なかったです」
「当然だ! 決闘だからな!」
「決闘って大変ですね」
「今さらか!」
レオンが吠えた。
だが、その顔から余裕が消えていた。
彼は強い。たぶん、この国でも相当な実力者なのだろう。詠唱は速く、火球の制御も上手い。連射もできる。
ただ、魔法を“壊される”ことに慣れていない。
攻撃を防がれることはあっても、術式そのものを分解される経験は少ないのだ。
「ならば、これはどうだ」
レオンの周囲に、赤い光点が三つ浮かんだ。
三つの火球。
同時展開。
「火の精霊よ、三つの牙となりて――」
「それはまずいですね」
俺は素直に言った。
一つなら見える。二つならギリギリ対応できる。
三つは無理だ。
脳の処理が追いつかない。身体も追いつかない。俺は戦闘経験ゼロの大学院生である。
なら、全部を個別に処理しない。
まとめて条件を変える。
俺は足元に魔力を流した。
床。空気。自分の周囲半径二メートル。
そこに薄い膜を張るイメージ。
防御結界ではない。そんな高等な魔法は知らない。
ただ、こちらに入ってくる魔力流の境界を乱す領域を作る。
言うなら、魔法版の乱流発生装置。
「ファイアボール!」
三つの火球が同時に飛ぶ。
俺は動かなかった。
動けなかった、とも言う。
火球が俺の周囲に入った瞬間、表面が揺らいだ。
一つ目が崩れる。
二つ目が逸れる。
三つ目は半分だけ形を保ったまま、俺の目の前まで来た。
まずい。
俺は反射的に右手を振った。
熱線が走る。
火球の中心を貫く。
目の前で赤い光が弾け、熱風が全身を叩いた。
結界が光り、衝撃を吸収する。
俺は尻もちをついた。
沈黙。
レオンは肩で息をしていた。
俺も息が荒い。
勝った、という感じではない。
生き残った、という感じだった。
「……貴様」
レオンが低く言った。
「今の防御は何だ」
「わかりません」
「わからない?」
「今作りました」
「今」
「はい」
レオンの顔が、怒りを通り越して真顔になった。
「貴様、本当に何なんだ」
「大学院生です」
「それは職業なのか?」
「身分です」
「意味がわからん!」
レオンが叫んだ。
その時、訓練場の奥の扉が、音もなく開いた。
黒いローブをまとった小柄な女性が立っていた。
年齢はわからない。少女にも見えるし、老女にも見える。不思議な雰囲気をまとっている。長い黒髪。眠そうな目。手には分厚い本。
グライス導師が慌てて背筋を伸ばした。
「魔術師長……!」
エリシアも目を丸くする。
「ミレーユ先生」
黒ローブの女性は、俺とレオンと、まだ揺らいでいる結界を順番に見た。
そして、ぽつりと言った。
「面白いことをしているね」
声は静かだった。
だが、その一言で場の空気が変わった。
この人が、宮廷魔術師長。
禁書区画に入る許可を出せる人物。
つまり、いま最も仲良くすべき相手である。
俺は慌てて立ち上がり、服についた埃を払った。
「佐伯蓮です。異世界から来ました」
「知っているよ。初歩魔法で訓練場の壁に穴を開けた勇者様だろう?」
「事故ではありません」
「そこを気にするんだ」
ミレーユ先生は薄く笑った。
それから、俺の足元に残っている魔力の揺らぎに視線を落とす。
指先に淡い青い光が灯った。
「魔力流の乱れ。局所的な境界破壊。火球の安定条件そのものに干渉したのか。面白い。雑だけど、発想が違う」
「雑ですか」
「雑だね。制御が甘い。このままだと、出力を上げた時に自分の腕も焼くよ」
俺は固まった。
それは普通に困る。
ミレーユ先生は、今度はレオンの方を見た。
「レオン」
「は、はい」
「君も悪くなかったよ。三重展開はきれいだった。ただ、相手が悪い」
「相手が、悪い……」
「普通の魔術師は火球を避けるか防ぐ。でも彼は、火球が火球であるための条件を壊している。君たちの戦い方とは、見ている場所が違う」
レオンは黙った。
悔しそうだった。
だが、反論はしなかった。
彼も見たのだ。
自分の火球が、届く前に崩れるところを。
ミレーユ先生は俺に向き直った。
「君、図書館に来たんだって?」
「はい。魔法体系を基礎から学びたくて」
「いいよ。禁書区画も許可する」
周囲がどよめいた。
俺も驚いた。
「いいんですか?」
「いい。ただし条件がある」
「条件」
ミレーユ先生は本を閉じた。
「明日から、私の研究室に来なさい」
「研究室」
その単語に、俺の心臓が反応した。
異世界にも研究室があるのか。
あるのか、研究室。
「そこで君の魔法を測る。分解する。記録する。必要なら解剖する」
「最後だけ不穏でした」
「冗談だよ。たぶん」
「たぶん」
ミレーユ先生は楽しそうに笑った。
レオンが声を上げる。
「魔術師長! お待ちください! 私はまだこの者を勇者と認めたわけでは――」
「レオン」
ミレーユ先生は彼を見た。
「君も来なさい」
「え?」
「比較対象がいる。標準的な上級魔術師のデータは貴重だ」
「ひ、比較対象……」
レオンの顔が引きつった。
俺は少しだけ同情した。
だが、比較対象は大事である。
とても大事である。
ミレーユ先生は俺に向き直った。
「佐伯蓮。君は魔法を神秘ではなく、法則として見ている。なら、この世界の魔術師たちとは違うものが見えるかもしれない」
「はい」
「ただし覚えておきなさい」
彼女の眠そうな目が、少しだけ鋭くなった。
「法則を知る者は、法則に殺されることもある」
訓練場の空気が冷えた。
今度は、比喩ではなく本当に少し温度が下がった気がした。
ミレーユ先生は背を向ける。
「明日の朝、北塔へ来なさい。まずは君の魔力を測る」
「わかりました」
「それと」
彼女は扉の前で振り返った。
「境界条件という言葉、あとで詳しく聞かせて」
俺は思わず頷いた。
異世界召喚二日目の予定が決まった。
魔王討伐ではない。
聖剣の修行でもない。
宮廷魔術師長の研究室で、魔力測定である。
正直に言おう。
かなり楽しみだった。
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