勇者様、魔王討伐より先に図書館へ行く
「図書館に行きたいです」
俺がそう言った瞬間、神殿の空気が凍った。
いや、正確には凍ったように感じただけで、実際に温度が下がったわけではない。もし本当に温度が下がったなら、それはそれで魔法現象として記録したいところだ。
目の前の王女エリシアは、青い瞳をぱちぱちと瞬かせていた。
「えっと……勇者様。今、なんと?」
「図書館に行きたいです」
「魔王討伐ではなく?」
「はい」
「聖剣の授与でもなく?」
「はい」
「王城での歓迎式典でもなく?」
「できれば後回しで」
エリシアはゆっくりと両手で顔を覆った。
その隣で、白ひげの宮廷魔術師――名前はたしか、グライス導師とか言ったか――が震える声で言う。
「勇者様。お気持ちはわかります。ですが、魔王軍はすでに北方の砦を三つ落としております。一刻も早く勇者様には聖剣を手に取り、民を救う旅へ――」
「その前に、この世界の魔法体系を理解する必要があります」
「魔法体系、ですか」
「はい。さっきのファイアボールでわかりました。この世界の魔法は、ただの奇跡じゃありません。魔力という何らかの量があって、それが術式を通して熱や運動量や光に変換されている。なら、法則があるはずです」
「は、法則……」
「法則があるなら、最適化できます」
俺がそう言うと、グライス導師の顔が引きつった。
たぶん彼にとって魔法とは、長年の修練と神秘と伝統の結晶なのだろう。それを召喚初日の異世界人に「無駄が多いです」と言われたのだから、気分が良いはずがない。
わかる。俺だって、自分の専門分野に突然やってきた素人が「この理論、係数いじればよくないですか?」とか言い出したら、まずゼミ室の空気が三度くらい下がると思う。
もし俺がその分野の大家だったら、笑顔で「面白いですね」と言いながら、参考文献リストを百本渡す。
だが、さっき俺は本当に係数をいじって壁に穴を開けてしまった。
つまり、議論の前に実験結果だけが出てしまったのである。
「勇者様」
エリシアが一歩前に出た。
神殿の光を受けて、金色の髪がさらりと揺れる。さっきまで困惑していた顔は、今は真剣そのものだった。
「あなたは、魔法を学べば魔王を倒せるとお考えなのですか?」
「正直、まだわかりません」
「わからない?」
「はい。魔王がどれくらい強いのか、魔王軍の戦力がどれくらいなのか、そもそも魔王という存在が生物なのか現象なのか政治的指導者なのか、その辺りの情報が足りません」
「魔王は魔王です」
「それが一番困る説明です」
エリシアが少しだけむっとした。
王女相手に言うことではなかったかもしれない。だが、俺は悪くない。魔王という単語は情報量が多そうに見えて、実はほとんど何も説明していない。
魔王が個体名なのか、称号なのか、種族名なのか。寿命は。魔力量は。支配領域は。攻撃手段は。弱点は。配下との指揮系統は。
何もわからないまま「剣を持って倒してきてください」は、あまりにも作戦がふわっとしすぎている。
「俺は戦士じゃありません。なので、真正面から殴り合う前提で動くとたぶん死にます」
「そ、それは……」
「でも、観測して、理解して、準備していいなら、勝ち筋は作れるかもしれません」
神殿が静まり返った。
さっきとは違う沈黙だった。
笑われているわけでも、呆れられているわけでもない。
たぶん、この世界の人々にとって勇者とは、剣を抜き、光をまとい、魔王を打ち倒す存在なのだ。
だが俺は、そんな勇者にはなれない。
筋力七だし。
「……わかりました」
最初に口を開いたのは、エリシアだった。
「勇者様を王立大図書館へご案内します」
「殿下!」
グライス導師が叫ぶ。
「なりません! 勇者様にはまず、聖剣との適合を――」
「導師」
エリシアの声は静かだった。
しかし、その一言でグライス導師は口を閉じた。
「私たちは、勇者様を召喚しました。けれど、勇者様がどのように戦う方なのかを、まだ知りません。ならば、勇者様の望む方法を試すべきです」
「しかし……」
「それに」
エリシアはちらりと訓練場の壁を見た。
さっき俺が開けた黒い穴から、まだ薄く煙が立っている。
「初歩魔法であれをなさる方を、ただ剣の前に立たせる方が危険です」
それはそう。
俺もそう思う。
グライス導師は何か言いたそうだったが、結局、深くため息をついた。
「……承知いたしました。ただし、王立大図書館の禁書区画へ入るには、宮廷魔術師長の許可が必要です」
「禁書区画」
俺は思わず反応してしまった。
なんて魅力的な響きだろう。
禁書。閲覧制限。危険な知識。封印された術式。
研究者の心に悪い単語ばかりである。
「勇者様」
エリシアが俺を見た。
「目が輝いています」
「すみません。禁書という言葉に弱くて」
「弱いのですか?」
「かなり」
こうして俺は、異世界召喚から一時間もしないうちに、魔王討伐ではなく図書館見学へ向かうことになった。
神殿の外へ出ると、そこには巨大な城下町が広がっていた。
石畳の道。赤い屋根の家々。遠くに見える白い城。空には見たことのない鳥が飛んでいる。いや、鳥かどうかも怪しい。翼が四枚ある。あと尻尾が長い。
まずい。
全部気になる。
道端の街灯には、青白い光を放つ石が埋め込まれていた。炎ではない。電灯でもない。魔力発光だろうか。揺らぎが少ないから、燃焼より安定している。
馬車を引いている動物は馬に似ているが、額に小さな角がある。筋肉の付き方が少し違う。重力が低いなら骨格も違うかもしれない。
市場の屋台からは香ばしい匂いが漂ってくる。肉の串焼きらしい。だが、肉の由来がわからない。異世界初日の食事で未知のタンパク質を摂取するのはリスクがある。
「勇者様、どうされました?」
「情報量が多すぎます」
「じょうほうりょう」
「この街だけで論文十本くらい書けそうです」
「勇者様の世界では、街を見ると論文を書くのですか?」
「人によります」
エリシアは少し困ったように笑った。
その表情を見て、俺はふと我に返る。
彼女たちにとって、これは観光でも研究でもない。魔王軍に国を脅かされ、最後の希望として俺を呼んだのだ。
俺が浮かれている場合ではない。
「エリシア王女」
「はい」
「すみません。俺、少し不謹慎でした」
「え?」
「この世界のことが興味深すぎて、つい研究対象みたいに見ていました。でも、あなたたちは本気で困っているんですよね」
エリシアは驚いたように目を開いた。
そして、少しだけ表情を柔らかくした。
「……勇者様は、不思議な方ですね」
「よく言われます」
「ですが、謝ってくださる勇者様は初めてです」
「過去にも勇者が?」
「はい。伝承では三度。いずれも魔王が現れた時代に、異界より勇者が召喚されたとされています」
「その記録、図書館にありますか?」
「あります」
「読みます」
「今の流れで即答されるのですね」
エリシアは小さく笑った。
ようやく少しだけ緊張が解けた気がした。
王立大図書館は、城の東側に建つ巨大な石造りの建物だった。
柱は太く、壁には古代文字らしき装飾が刻まれている。正面の扉は俺の身長の三倍はあり、その上には金色の紋章が掲げられていた。
中に入った瞬間、俺は息を呑んだ。
見渡す限りの本棚。
吹き抜けの天井まで届く書架。
宙に浮かぶ光球。
階段を使わず上下に移動する小さな足場。
そして、紙とインクと古い木の匂い。
「……天国か?」
「勇者様?」
「いえ、こちらの話です」
俺の脳内で、魔王討伐の優先順位が一瞬危うくなった。
いや、駄目だ。目的を忘れるな。魔王を倒すために魔法を学ぶ。そう、これは必要な準備だ。断じて趣味ではない。九割くらい必要な準備だ。
「まず、初級魔法の教本をお願いします。できれば、子供向けのものから」
「子供向け、ですか?」
「はい。基礎概念を知るには、専門書より入門書の方がいいことがあります」
エリシアが司書に指示を出すと、数分後、机の上に分厚い本が積まれた。
『はじめての魔力』
『よい子の火水風土』
『詠唱と心のかたち』
『魔法陣はこわくない』
『宮廷魔術師への第一歩』
タイトルがかわいい。
内容はたぶんかわいくない。
俺は一冊目を開いた。
そこには、丸い文字と挿絵でこう書かれていた。
『魔力とは、すべての命に宿る神様からの贈り物です』
俺は本を閉じた。
「勇者様?」
「最初からかなり強い仮説が出てきました」
「仮説?」
「神様からの贈り物、という部分です。これは宗教的説明なのか、実証された事実なのか、切り分ける必要があります」
俺はもう一度本を開いた。
楽しくなってきた。
非常にまずい。
その時、背後から低い声が響いた。
「ふん。召喚された勇者がどれほどのものかと思えば、子供の本でお勉強とはな」
振り返ると、赤いローブを着た青年が立っていた。
年齢は俺と同じくらいか少し上。銀髪で、整った顔立ちをしている。いかにもエリート魔術師という雰囲気だ。
彼は俺を見下ろすように笑った。
「私は宮廷魔術師団第二席、レオン・ラザフォード。貴様が本当に勇者にふさわしいか、私が確かめてやろう」
出た。
異世界恒例、最初に絡んでくるエリート枠。
俺は本にしおりを挟み、立ち上がった。
「佐伯蓮です。よろしくお願いします」
「余裕だな。では問う。火球魔法において最も重要なのは何だ?」
レオンは勝ち誇ったように言った。
「詠唱か? 魔力量か? 精神集中か? さあ、異界の勇者よ。答えてみろ」
俺は少し考えた。
そして答えた。
「境界条件ですかね」
「……何?」
「あと初期条件」
レオンの眉がぴくりと動いた。
エリシアが小さく「あ」と言った。
グライス導師が額を押さえた。
どうやら、また何かを間違えたらしい。
だが仕方ない。
だって本当に、境界条件は大事なのだ。
魔法でも、たぶん。
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