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第3話 心臓の歯車とシーラカンス

 

 翌朝、港の鐘は鳴らなかった。


 霧止まりの鐘も、港開きの鐘も。


 ただ、街全体が白い息を飲み込んだまま、じっと黙っていた。


 窓の外は、昨日よりずっと白かった。霧が街の出口をふさぎ、港へ続く坂道も、丘へ向かう鉄橋も、先が見えなくなっている。


 母が工房へ駆け込んできたのは、朝の光がほとんど届かないころだった。


「今日は、どの道も閉まってる。港も、北門も、丘の道も」


「全部?」


 リネアが聞く。


 母はうなずいた。


「旅人たちも出られない。こんな濃い霧、久しぶりよ」


 父は窓の外を見て、低くうなった。


「地下のほうだな」


 リネアもわかっていた。


 工房の壁にかけた圧力計の針が、いつもより大きく震えている。街の下にある古い蒸気機関と地下水路。詰まった水路に白い霧がたまり、出口をなくして、街を内側からふくらませている。


 街が、本当に息を止めかけている。


 水槽の中で、シーラカンスがゆっくり動いた。


 心臓の歯車は安定していた。エラに添えた濾過膜も、胸びれのあいだの胸当ても、やわらかな帯に支えられて静かに水の中で揺れている。水圧計の針も、さっきより落ち着いていた。


 もう、海へ戻せる。


 リネアはそう思った。


 この子を助けるために作ったのだ。


 街の霧がどれだけ濃くても、この子をここに閉じ込めておく理由にはならない。


「海に返す」


 リネアが言うと、父は少しだけ驚いた顔をした。


「今日か」


「今日じゃないと、もっと霧が濃くなる。港の下の古い潮通し水路なら、海までつながってる。港は霧が濃すぎるけど、あそこなら石壁に守られてるし、海へ逃がせるかもしれない」


「危ないぞ」


「うん」


「それでも行くんだな」


「この子は、海へ帰れる」


 父は黙って、古い防霧ランタンを取ってきた。


「なら、明かりを持て」


 母は、厚い布と温かい飲み物を用意してくれた。


 旅の少女も、母と一緒に工房へ来ていた。外の霧が濃すぎて、宿へ戻るのも危ない。


「よかったら、霧が薄くなるまでここにいて。今、宿へ戻るのは危ないから」


 母がそう言うと、旅の少女は小さくうなずいた。


 今日は歌わなかった。ただ、リネアのそばに立って、水槽の中のシーラカンスを見つめていた。


「海へ帰るの?」


「うん」


「よかった」


 旅の少女は小さく言った。


 リネアたちは、あの日浜辺から運ぶのに使った取っ手つきの木箱をもう一度出した。中に新しい海水を浅く張り、海水で湿らせた厚い布を敷く。


 シーラカンスの体をそっと木箱へ移し、エラのそばの濾過膜と、胸びれのあいだの胸当てが水から出すぎないように、濡れ布をやわらかくかけた。海藻の繊維で編んだ帯は、体を締めつけず、静かに装置を支えていた。


 父が木箱を荷車に乗せ、縄で固定した。リネアは胸の小さな歯車の光を確かめながら、横を歩いた。


 リネアたちは防霧マスクをつけ、海水を入れ替えながら、シーラカンスを海へ続く古い水路まで運んだ。


 霧の中、街の音はほとんど聞こえなかった。いつもなら蒸気船の汽笛や市場の声があるはずなのに、今はランタンの火が揺れる音さえ大きく感じる。


 潮通し水路の入口は、港の倉庫の裏にあった。


 もともとは、満ち引きに合わせて海水を街の下へ通し、水をよどませないための古い水路だった。街では、その水路は海の下を抜け、沖の深い岩場まで続いていると言われている。石で組まれた小さな口の奥から、冷たい海水の匂いと、鉄の匂いと、白い霧の匂いがした。


 リネアは木箱の蓋を開けた。


「大丈夫」


 それはシーラカンスに言ったのか、自分に言ったのか、リネアにもわからなかった。


 シーラカンスはゆっくり水路へ入った。


 心臓の歯車が淡く光る。


 胸当ての奥の心臓の歯車が、オルゴールみたいな拍子でやさしく動く。


 そしてシーラカンスは、暗い水の中を泳ぎ出した。


 リネアは、水路の奥へ消えていく光を見送った。


「……帰れるかな」


 旅の少女がそっと聞いた。


「帰れるよ」


 リネアは答えた。


 でもその言葉が終わる前に、シーラカンスの光が、海のほうではなく、街の下へ曲がった。


「え?」


 リネアは思わず水路の縁に身を乗り出した。


 光は、海へまっすぐ抜ける口ではなく、街の下を巡る潮通し水路の奥へ向かっている。


 そこは、古い水路が詰まり、白い霧がたまっているあたりだった。


「どうして……」


 父が眉をひそめる。


 リネアは水路の暗がりを見つめた。


 シーラカンスは、逃げているようには見えなかった。


 海へ帰る道を間違えたようにも見えなかった。


 ただ、胸の小さな光を揺らしながら、白い霧の匂いがするほうへ、ゆっくり泳いでいく。


 自分を苦しくさせた水の奥へ。


 まだ息をしづらそうな、街の下へ。


 リネアは、何も言えなかった。


 それとも、ただ詰まった水路の流れに引かれただけなのかもしれない。


 けれどその背中は、どこか、何かを探しているようにも見えた。


 旅の少女は何も言わなかった。


 ただ、静かに歌い始めた。


 その歌は、水路の壁に当たって、深く、深く響いていった。


 暗い水の中で、シーラカンスの胸の心臓の歯車が強く光る。


 胸当ての奥の心臓の歯車が、やさしい拍子で動き続ける。


 しばらくは、何も起きなかった。


 ただ暗い水の奥で、シーラカンスの胸の光だけが小さく揺れていた。


 やがて、水路の奥から、こもった音がした。


 詰まっていた何かが、少しだけゆるんだのかもしれない。白く濁った流れが、ゆっくりと動き出した。


 シーラカンスが泳ぐたび、よどんでいた水が押され、潮通し水路の奥へ少しずつ流れが戻っていく。


 装置の内側では、薄い真鍮の膜と、貝殻を砕いた白い層が震えていた。霧に混じった白い成分は、そこでゆっくりほどけ、淡い灰色の粒になって水底へ沈んでいく。


 街の下にたまっていた白い霧は、一度に消えたわけではなかった。


 けれど、止まっていた水が動き始めた。


 逃げ場を失って重くなっていた霧が、シーラカンスの呼吸と、水路に戻った流れに合わせて、少しずつ薄まっていく。


 工房の圧力計の針が、ふっと軽くなった。


 宿屋の窓の曇りが、ゆっくり晴れた。


 閉じられていた北門の向こうで、白い壁のようだった霧に、細い道ができた。


 朝が来た。


 港の鐘が鳴った。


 からん。


 からん。


 その音は、久しぶりに街の端まで届いた。


 人々は窓を開けた。


 子どもたちはそっと外へ顔を出し、パン屋は扉を開け、市場の屋根がきしみながら上がっていく。


「霧が……薄い」


 だれかが言った。


「道が見えるぞ」


「港も開けられる」


「あのシーラカンスが、何かしてくれたのかもしれない」


 リネアは小さくつぶやいた。


 街の人たちは、何が起きたのか知らなかった。


 ただ、その朝、街は久しぶりに深く息をした。


 リネアは水路の入口に座り込んだまま、膝を抱えていた。


 シーラカンスの光は、もう見えなかった。


 海へ帰ったのか。


 街の下をまだ泳いでいるのか。


 それはわからない。


 けれどリネアには、どこか遠くで、オルゴールのような小さな呼吸の音がしている気がした。



 その日の午後、旅の少女は街を出ることになった。


 霧が薄くなり、丘へ続く道が開いたからだ。


 母は、旅の少女に包みを持たせた。父は何も言わず、古い小さな工具をひとつ渡した。


 リネアは工房の棚の前で、少し迷っていた。


 棚には、使いかけの部品や失敗した発明品が並んでいる。その中に、小さな貝細工の髪飾りがあった。


 白く光る貝の端に、月みたいな小さな巻き貝がひとつ付いている。耳に近づけると、波の音とも、誰かの声ともつかない、懐かしい音がすることがあった。


 旅の少女は、それを見つけて目を細めた。


「これ、きれい」


「気に入った?」


「うん」


「じゃあ、あげる」


 旅の少女は驚いた。


「いいの?」


 リネアはうなずいた。


「あなたの歌が、あの子の呼吸を思い出させてくれたから」


 旅の少女は、そっと髪飾りを受け取った。


「ありがとう」


 名前は、最後まで聞かなかった。


 旅の少女も、名乗らなかった。


 それでよかった。


 歌が残った。


 髪飾りが旅に出た。


 そして街の下では、シーラカンスが、今も静かに泳いでいるのかもしれない。


 霧が濃くなりそうな朝、リネアは工房の窓を開ける。


 耳を澄ます。


 遠い水路の奥から、オルゴールみたいな小さな音が聞こえる気がする。


 それは呼吸の音にも、海の音にも似ている。


 街の朝にも、少し似ている。


 リネアは笑って、机の上に新しい紙を広げる。


 まだ何かになれるものが、この街にはたくさんある。


 そう思いながら、彼女はまた、鉛筆を走らせるのだった。



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