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第2話 心臓の歯車

 リネアの工房では、その夜から次の日の夕方まで、灯りが消えなかった。


 霧止まりの鐘が鳴る日も、港の鐘が開く日も、リネアは机の前に座り続けた。父がパンを置いても、冷めたスープを置いても、気づかないことさえあった。


 水槽の中のシーラカンスは、まだ弱っていた。


 エラは動く。


 けれど、動きがそろわない。


 水を取り込もうとしても、途中でつかえてしまう。胸の奥で波がほどける前に、呼吸だけがばらばらになってしまうみたいだった。


 リネアが作りかけていたのは、エラに添える小さな濾過装置だった。薄い真鍮の膜と、貝殻を砕いた白い層。水を澄ませることはできる。けれど、それだけでは呼吸の動きは整わない。水槽の中へ入れると、シーラカンスの体はかえってこわばってしまった。


「違う」


 リネアは何度もつぶやいた。


「動かすんじゃない。呼吸を思い出せるようにしないと」


「呼吸を思い出す、ねえ」


 父は腕を組んだ。


「お前の言うことは、ときどき詩人みたいだな」


「発明家だよ」


「どっちでもいい。飯は食え」


 リネアは返事をしないまま、また水槽を見つめた。


 次の日の夕方、母が工房へやってきた。


 扉が開くと、パンとハーブ茶の匂いがふわりと入ってきた。母は港のそばで小さな宿屋を営んでいる。霧止まりで足止めされた旅人たちの世話をしていて、街の噂も、船の予定も、だいたい母のところに集まっていた。


「また顔色が悪いわね、リネア」


「この子のほうが悪い」


「あなたも十分悪いわ」


 母はそう言って、湯気の立つカップを机に置いた。


 それから、水槽の中のシーラカンスを見て、静かに息をのんだ。


「この子だったのね。港で話に出ていたシーラカンス」


「……まだ、そっとしておいてあげたいの」


「そうね。ごめんね」


 母はしばらくシーラカンスを見つめてから、ふと思い出したように言った。


「そういえば、うちに歌を歌う旅の子が泊まっているの」


「歌?」


「霧で街を出られなくなってしまってね。宿代のかわりに、夜になると食堂で歌ってくれるの。変なことを言うようだけれど……あの子が歌うと、霧の日でも宿の中が少しだけ穏やかになるのよ」


 リネアは顔を上げた。


「穏やかに?」


「うん。晴れるわけではないし、霧が消えるわけでもない。でも、みんなの肩から力が抜ける。待つことが、少しだけ怖くなくなるの」


 父は腕を組んだ。


「歌で霧が晴れるなら、鐘守はいらねえな」


「だから、晴れるんじゃないの。心が少し落ち着くのよ」


 母はやさしく言った。


 その言葉が、リネアの胸に残った。


 その夜、リネアは母の宿屋へ行った。


 宿の食堂には、霧で足止めされた旅人たちが集まっていた。港へ出られない船乗り、丘を越えられない商人、家へ帰れない親子。みんな少し疲れた顔をしていた。


 部屋の端に、旅の少女がいた。


 淡い色のケープを肩にかけ、小さな譜面筒を膝に置いている。年はリネアより少し上に見えた。けれど、その目はもっと遠くの場所を見ていた。


 少女は名乗らなかった。


 母も、ただ「歌の子」と呼んでいた。


 歌が始まると、食堂のざわめきが静かにほどけた。


 高くも低くもない声だった。強い歌ではない。けれど、音のひとつひとつが、霧の中に細い道を作るみたいだった。


 霧が消えるわけではない。


 けれど、その歌を聞いているあいだだけ、閉じ込められた部屋の空気がやわらかくなる。


 波のような歌だった。


 寄せて、返して、少し遅れて、また寄せる。


 リネアは、シーラカンスのエラの動きを思い出した。


 あの子に足りないのは、強さではないのかもしれない。


 呼吸が戻るための、拍子。


 次の日、リネアは旅の少女を工房へ連れてきた。


「歌ってほしいの」


 リネアが言うと、旅の少女は水槽を見て、少し驚いた顔をした。


「この子に?」


「うん。呼吸の拍子を、探したい」


 少女は少し考えたあと、うなずいた。


 工房の窓は曇っていた。外ではまた霧が濃くなりはじめている。


 旅の少女が歌い出すと、水槽の水面がかすかに震えた。


 シーラカンスのエラが、ゆっくり開いた。


 今度は、途中で止まらなかった。


 閉じて、また開く。


 歌に合わせるように、少しずつ呼吸が整っていく。


 リネアは目を見開いた。


「……拍子だ」


「え?」


 父が聞いた。


「この子は泳ぎを忘れたんじゃない。呼吸がうまくできなくて、泳げなかったんだ。歌の波があると、呼吸の拍子が戻る」


 リネアは机に飛びつき、紙を広げた。


「必要なのは、音を出す心臓。エラに呼吸の拍子を伝えて、濾過の層も同じ拍子で震わせる、小さなオルゴールみたいな心臓の歯車」


 リネアは小さな音写し機を取り出した。真鍮の針と薄い円盤だけでできた、まだ名前もない発明品だ。旅の少女の歌に合わせて針が震え、円盤に細い波線を刻んでいく。


 歌を閉じ込めるのではない。


 歌の形を奪うのでもない。


 その中にあった、呼吸のための揺れだけを、そっと写し取る。


 リネアはその波線を見て、胸に入れる小さな歯車と、細い櫛歯の長さを決めていった。


 鳴る速さではなく、間の置き方。


 開く力ではなく、戻るやわらかさ。


 エラに添う装置が、その音に合わせてやさしく震えるように。白い成分をほどく濾過の層が、同じ拍子でかすかに震えるように。水の重みを支える圧力弁も、急に閉じたり開いたりしないように。


 リネアは、淡く光る小さな歯車を、胸びれのあいだに置く胸当ての奥へおさめた。それが、この子の呼吸を助ける心臓の歯車になる。


 装置は、体に打ち込むものではなかった。


 薄い貝殻の羽のような濾過膜を、エラの外側にそっと添える。


 胸びれのあいだには、淡く光る小さな歯車を入れた胸当てを置く。


 それらを、海藻の繊維で編んだやわらかな帯で、体を締めつけないように支えた。


 成長したら、少しずつゆるめられる。


 外せる時がきたら、海の中でも自然に外れる。


 それは機械というより、リネアが作った小さな手当てだった。


「名前、つけるの?」


 旅の少女が聞いた。


 リネアは少し考えた。


「心臓の歯車」


 父が鼻で笑った。


「ずいぶん大げさな名前だな」


「だって、ここが拍子を作るんだよ。ここが止まったら、この子は呼吸できない」


 リネアは水槽に向き直った。


「お願い。もう一度だけ、歌って」


 旅の少女が歌う。


 心臓の歯車が、胸の奥で小さく回る。


 エラのそばの装置が、オルゴールに似た低い音を鳴らす。


 シーラカンスのエラが、ゆっくり開いた。


 閉じて、また開く。


 今度は、苦しそうに止まらなかった。


 水槽の底で、シーラカンスの体が少し浮いた。


 それは泳いだのではない。


 でも、泳ぎ出すための最初の呼吸だった。


 リネアは何も言えなかった。


 ただ、目の奥が熱くなった。


 旅の少女は歌い終えると、静かに笑った。


「息を思い出したんだね」


 リネアはうなずいた。


「うん。海へ帰るための息を」


 水槽の中で、シーラカンスの胸にある小さな歯車が、淡く光っていた。


 その光は、霧の向こうにあるはずの海の色に、少しだけ似ていた。

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