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第1話 霧に閉ざされた街

 

 海沿いの街には、朝の鐘が二種類あった。


 ひとつは、港が開く合図の鐘。


 からん、からん、と軽く鳴るその音が聞こえると、魚市場の屋根が開き、蒸気船の煙突から白い湯気がのぼり、坂道のパン屋から焼きたてのパンの匂いが流れてくる。


 もうひとつは、霧止まりの鐘。


 ごん、ごん、ごん、と三回だけ重く鳴る。


 その音が響いた日は、だれも街の外へ出ない。港へ続く門も、丘へ上がる鉄橋も閉じられ、旅人は宿にとどまり、子どもたちは窓の内側から海を見る。


 街に、白い霧が濃くなるからだった。


 その霧は、海から来るただの霧ではなかった。


 街の地下には、昔つくられた大きな蒸気機関と、海へつながる古い水路がある。長い年月のあいだに、古い機関から出る白い成分を含んだ蒸気が地下水路へ漏れ、冷たい海水に触れて、重たい霧になるようになった。


 本来なら、その霧は水路を通って海へ流れ、薄まっていくはずだった。けれど古い水路は少しずつ詰まり、流れが弱くなっている。行き場をなくした白い霧は、街の下にたまり、風のない朝に石畳の隙間や古い排気口から静かにしみ出してくるのだった。


 すぐに倒れてしまうようなものではない。けれど長く吸い込むと、喉の奥が乾き、胸がつかえ、息が浅くなる。だから霧止まりの日、外へ出る大人たちは防霧マスクをつける。濡らした布を中に入れた革のマスクで、長くは歩けないけれど、家と工房のあいだくらいなら息を守ってくれる。


 外へ出られる日は、年々少なくなっていた。


 けれど街の人たちは、もうそのことに少し慣れていた。


「今日は霧止まりだね」


「なら、洗濯は明日だ」


「市場も閉まるな」


 そんなふうに言って、窓の隙間に布を詰め、扉の下に古新聞を丸めて置く。


 リネアは、その慣れ方があまり好きではなかった。


「街が息を止めてるみたい」


 そう言うと、工房の奥で古いねじを磨いていた父が、片眉を上げた。


「また変なこと言いやがる」


「変じゃないよ。だって、ほら」


 リネアは壁にかかった小さな圧力計を指さした。針は少しずつ、少しずつ、苦しそうに震えている。


「地下の蒸気が、今日も行き場をなくしてる」


「お前は時計の針にも同情しそうだな」


 父はそう言ったけれど、笑ってはいなかった。


 リネアは、街のはずれにある古い修理工房で暮らしていた。工房といっても、半分は父の仕事場で、半分はリネアの実験室みたいなものだった。割れた羅針盤、止まった懐中時計、錆びた水圧計、片方だけのゴーグル、羽の折れた小型蒸気鳥。


 役に立つのか、役に立たないのか、わからないものばかり。


 けれどリネアは、それらを捨てなかった。


「まだ、何かになれるかもしれないでしょ」


 それがリネアの口ぐせだった。


 その日も霧止まりだった。


 街の上には白い幕がかかり、窓ガラスは曇り、港のほうから聞こえるはずの波の音も、遠くに押し込められていた。


 昼を過ぎても霧は晴れなかった。


 夕方、ようやく少しだけ風が動いた。港の鐘が一度だけ鳴り、外へ出てもいいという合図が出たころ、リネアは革の鞄を肩にかけ、防霧マスクを鼻と口に当てて工房を飛び出した。


「どこへ行く」


 父が声をかける。


「海!」


「霧が残ってるぞ」


「マスクしてる!」


「それでも長居はするな」


 返事のかわりに、リネアは片手を振った。


 霧止まりの翌朝や夕方には、海辺にいろいろなものが流れ着く。壊れた浮き、割れた瓶、遠くの港から来た木箱、古い機械の部品。リネアにとって、それは宝探しの日でもあった。


 浜辺には、いつもより多くの漂流物が打ち上げられていた。


 砂に半分埋もれた歯車。


 黒く曇ったガラス管。


 見たことのない形の小さな金具。


 リネアはそれらを拾いながら、ふと足を止めた。


 波打ち際に、長い影があった。


 最初は、流木だと思った。


 けれど近づくと、それは魚だった。


 大きな魚だった。けれど、図鑑で見た成魚ほどではない。まだ若い個体なのか、リネアが抱えるには大きすぎて、父の荷車なら運べるくらいの大きさだった。


 深い青と灰色が混じった鱗。古い鎧みたいな体。ゆっくり開いた口の奥から、かすかな泡がひとつ、ふたつ、砂の上へこぼれていた。


「……シーラカンス?」


 リネアは思わずつぶやいた。


 図鑑でしか見たことのない、深い海にいるはずの魚。


 そんなものが、なぜこんな浅い浜辺に流れ着いているのか、わからなかった。


 リネアはそっと膝をつき、シーラカンスのそばに手を近づけた。


 冷たい。


 でも、死んではいない。


 エラのあたりが、ほんのかすかに動いている。


 開きかけて、止まる。


 また開きかけて、苦しそうに閉じる。


「呼吸が、うまくできないんだ」


 リネアはあたりを見回した。少し離れた砂の上に、取っ手つきの浅い木箱が流れ着いている。古びているけれど、底はまだしっかりしていた。


 リネアはそれを引きずってくると、鞄から漂着物を包むための厚い布を取り出した。布を海水で濡らし、木箱の底へ敷く。


 治せるわけではない。


 ただ、工房に着くまで、この子の体とエラを乾かさないようにするだけだった。


 そこへ、坂道のほうから足音が聞こえた。


 父だった。リネアがなかなか戻らないので、心配して見に来たのだ。


「リネア!」


 父は波打ち際のシーラカンスを見て、眉をひそめた。


「……まさか、持って帰るつもりか?」


「うん」


「うん、じゃない」


「私、助けたい」


 リネアはまっすぐ父を見た。


 父は大きくため息をついた。


「……荷車を持ってくる。ここを動くな」


 父が工房へ戻っているあいだに、リネアは木箱へ少しだけ海水を入れた。深く張ると重くなりすぎる。だから底に浅く、濡れ布が乾かないくらいに。


 やがて父が低い荷車を引いて戻ってきた。ふたりでシーラカンスを木箱に移し、エラのまわりに濡れ布をそっとかける。


 父が木箱を荷車に乗せ、縄で固定した。リネアは横について、木箱の中の水がこぼれないように、何度も濡れ布を直しながら歩いた。


 工房に戻ると、リネアは工房の奥にある、部品洗いにも使う古い大きな水槽に海水を満たし、木箱からそっとシーラカンスを移した。父は蒸気管をつなぎ、温度計と小さな水圧計を取り付け、窓の隙間に厚い布を詰めた。


 リネアは水槽の横についた古い圧力弁を、ほんの少しだけ閉めた。


 深い海と同じにはできない。


 けれど、浅い水の中で体が急に軽くなりすぎないように、少しだけ水の重みを戻してやることはできる。


 シーラカンスは水槽の底に横たわったまま、ほとんど動かなかった。


 リネアはその横で、ずっとエラの動きを見ていた。


 開いて、止まる。


 閉じて、また少し震える。


 泳ぎを忘れたわけではない。


 この子は、息ができなくて泳げないのだ。


「エラを助ける仕掛けがいる」


 リネアは机の上に紙を広げた。


「それと、胸の中で呼吸の拍子を作るもの」


「魚にそんなものを作るやつがあるか」


 父が言った。


「あるよ。今から」


 リネアは鉛筆を握った。


 エラに添う、小さな呼吸の装置。


 魚を縛るものではなく、成長を邪魔しないもの。


 海の中でも、やさしく動き続けられる仕掛け。


 それから、白い成分を含んだ水を少しずつ澄ませる、小さな濾過の層。


 水の重みが急に変わらないように、そっと支える小さな圧力弁。


 夜が深くなるにつれて、街は静かになった。


 外では、白い霧がまた薄く窓をなでていた。


 リネアはランプの明かりの下で、何枚も設計図を描いた。


 父は文句を言いながらも、工具を研ぎ、古い部品箱を開け、使えそうな小さな真鍮板を机に並べてくれた。


 やがて、水槽の中でシーラカンスが一度だけ目を開けた。


 深い海の青を、少しだけ閉じ込めたような目だった。


 リネアはそっと水槽に近づいた。


「大丈夫。助けるから」


 まだ、そのときは。


 ただ、目の前の命を助けたいだけだった。



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