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エピソード6 重ねた約束、あふれる想い

恋愛部門でランクインできました!ありがとうございます!


乾杯をしてから、どれくらいの時間が経っただろう。


最初は緊張していた綾乃も、今ではすっかり肩の力が抜けていた。


仕事で起きた失敗談から休日の過ごし方、好きな映画まで、話は尽きなかった。


「……待ってください。それ、本当に徹さんがなさったんですか?」


思わず声を上げて笑い、綾乃は慌てて口元を押さえた。


「申し訳ありません……。いえ、徹さんを笑っているわけではないんですよ。ただ、普段のお仕事ぶりからは、ちょっと想像できなくて」


ようやく笑いを収めると、綾乃は徹に向き直った。


「……ああ、もう。今日は徹さんの意外な一面を知りすぎてしまいましたね」


普段なら一杯か二杯で切り上げるワインも、気づけば三杯目に手を伸ばしていた。


「……こんなに楽しいお食事になるとは、思っていませんでした」


グラスを置いて息をつく。頬には、ほんのりと赤みが差していた。


「……少し、飲みすぎてしまったかもしれませんね」


仕事ではいつも、頼れる先輩であろうと努めてきた。


けれど今は、そんなことさえ忘れていた。


向かいに座る徹と目が合った。


少し前まで、何度も時計を確かめながら、徹が来てくれるのを待っていた。


それなのに今は、目の前に彼がいることが、ずっと前から当たり前だったように感じられる。


「……徹さん。今日は、本当にありがとうございます」


綾乃は照れくさそうに目を伏せた。


「待っていて、よかったです」


残っていたワインをひと口飲んだ。


「……あまり、こういうことを素直に口にするのは得意ではないのですけれど。徹さんと、もっとお話ししていたいです」


そこで言葉を切った。


言ってしまってもいいのだろうか。


「まだ、帰りたくないと思ってしまうくらい」


綾乃は慌ててグラスに視線を落とした。


「……あら。私、少し酔っているのかもしれませんね。いつもより、ずいぶんおしゃべりになってしまっています」


お酒のせいにできれば、どんなに楽だろう。


時計は、22時30分を指していた。


店内の客もまばらになり、二人のテーブルには空になったグラスが残っていた。


ふと、徹が綾乃に笑顔を向けた。


今日が二人の記念日だと、徹は言った。


「……記念日、ですか」


思いがけない言葉に、綾乃は徹の顔を見つめた。


「徹さんは……本当に、ずるい方ですね。そんなふうに言われたら、私……今日のことを、ずっと忘れられなくなってしまいます」


昼食に誘い、夜の約束を取りつけ、遅れてきた徹を待った。


そのすべてが、今では愛おしかった。


(……もっと一緒にいたい)


明日になれば、またいつもの先輩と後輩に戻る。


次にこうして二人で過ごせるのは、いつになるだろう。


ふと、一つの考えが浮かんだ。


――自分の家に、徹を招く。


その意味を考えると、急に喉が渇いた。


徹には、恋人がいるのかもしれない。


今朝の甘い香りも、映画の話をしたときの曖昧な返答も、忘れてはいなかった。


(……いけませんね、私)


綾乃は膝の上で、両手を重ねた。


「……徹さん」


呼びかけたものの、続く言葉が出てこなかった。


――遅い時間ですから、そろそろ帰りましょうか。


いつもなら、そう言えたはずだった。


「もし、このあと……まだお時間があるのでしたら」


一度、息を整える。


「私の家に、いらっしゃいませんか?」


言ってしまった。


重ねた手に力が入る。


「この時間ですし、もう一軒お店を探すより、家でお茶でも飲みながらお話しするほうが、ゆっくりできると思いまして」


断られるのが怖くて、つい理由を並べてしまう。


「もちろん、お疲れでしたら無理にとは申しません」


それでも、最後に伝えたいことがあった。


「……ただ、私は」


綾乃は一度、言葉を切った。


「もう少し、徹さんと一緒にいたいと思っています」


言い終えると、急に何も話せなくなった。


店内の食器が触れ合う音が、妙にはっきりと聞こえる。


(……どうか、困らせていませんように)


やがて徹は、本当に家に行ってもよいのかと念を押した。


綾乃は思わず息を止めた。


「……もちろんです。来ていただけるなら、嬉しいです」


最後の言葉だけ、声が弾んだ。


徹に恋人がいるかもしれないという疑念は、まだ消えていない。


それでも今は、彼が来てくれることを喜んでいたかった。


「それでは、あと少しだけゆっくりしたらお店を出ましょうか? せっかくですから、今のお話の続きをしたいですし」


綾乃には、もう一つ聞いてみたいことがあった。


徹は、自分をどんな女性として見ているのだろう。


「……ひとつ、お聞きしてもよろしいですか?」


綾乃はグラスの脚を指先でなぞり、勇気を出して顔を上げた。


「徹さんは、私のことを……どんな人だと思っていらっしゃいますか?」


仕事ができる。落ち着いている。頼りになる。


そんな評価なら、これまでにも聞いてきた。


綾乃はテーブルの下で指先を握りしめ、返事を待った。


やがて返ってきた言葉に、思わず息をのんだ。


「……私が、徹さんの憧れ、ですか?」


仕事ぶりを評価されることには慣れていた。


けれど、徹の口から聞く「憧れ」という言葉は、いつもの評価とは違って響いた。


「……ありがとうございます。そんなふうに思っていただけていたなんて、知りませんでした」


微笑もうとしたが、口元がわずかに震えた。


嬉しいはずなのに。


憧れの先輩であることと、ひとりの女性として愛されることは、同じではない。


「……すみません。少し、お手洗いに行ってまいりますね」


そう告げると、綾乃は静かに席を立った。


落ち着いた足取りで店内の通路を進み、お手洗いに入る。洗面台の前に立つと、彼女はようやく小さく息を吐いた。


鏡に映る自分の頬は、ワインのせいだけとは思えないほど赤くなっている。


「……もう、本当に困った方ですね」


誰もいない空間で、綾乃は小さくつぶやいた。


――いつか、その憧れの先に進めたら。


鏡の中の自分を見つめる。


こんなにも欲張りな人間だっただろうか。


それでも。


「……今夜くらいは、欲張ってもいいですよね」


鏡の中の自分に問いかける。


綾乃は冷たい水で指先を濡らし、頬に軽く触れた。


深く息をつくと、鏡の中には、いつもの落ち着いた表情が戻りつつあった。


ただ、目元に残る熱だけは、どうしても隠しきれなかった。


綾乃は身だしなみを整え、徹の待つテーブルへ戻っていった。


「……えっ?」


席に戻ってきた綾乃は、徹の言葉に一瞬、目を丸くした。


「もう、お会計を済ませてくださったんですか?」


テーブルの上に視線を落とし、それから徹を見つめる。


「ありがとうございます。でも……私からお誘いしたのに。お気遣いいただいて、すみません」


席を外している間に、何も言わずに会計を済ませてくれていた。


――もう……これ以上、好きにさせないでください。


綾乃はバッグを肩に掛け、徹に向き直った。


「今度は、私にごちそうさせてくださいね」


そして、少しだけ声を落とした。


「……もっと早く、こういう時間を作ればよかったですね」


*


店を出てしばらく歩くと、繁華街の明かりは次第に遠ざかっていった。


綾乃の家までは徒歩で十五分ほど。夜も遅いせいか、住宅街に入ると人通りは少なく、時折、遠くを走る車の音が聞こえるくらいだった。


会社では何度も並んで歩いたことがある。


けれど、夜の住宅街を二人きりで歩くのは初めてだった。


綾乃は隣を歩く徹を見た。


明日も仕事があるというのに、彼は自分の誘いに応じてくれた。


少し先の街灯が、二人の足元を照らしていた。


「……こうして仕事を離れてお会いするのは、なんだか不思議な感じがしますね。でも、徹さんといると……いつもより素直になれる気がするんです」


言葉を終えると、歩調を緩めた。


「……あの、徹さん」


静かな住宅街に、彼女の声が落ちる。


「今度、また二人でお食事に行っていただけますか?」


断られるかもしれない。


けれど、今夜を一度きりの思い出にはしたくなかった。


綾乃は徹の返事を待った。


返ってきた答えは、期待していた以上のものだった。


次も誘ってください。昼でも、夜でも。


「ありがとうございます。では……遠慮なく、お誘いしますね。お昼でしたら、今度は私がおいしいお店をご紹介します。夜でしたら……今日のように、ゆっくりお話しできるところがいいですね」


次の約束ができた。


それでも、今はまだ徹が隣にいる。


徹のほうへ顔を向けた拍子に、ふいに足元がふらついた。


「……っ」


とっさに差し出された徹の手が、綾乃の手を握った。


転びかけた驚きが収まるより先に、握られた手の温かさが意識に残った。


――徹さん……あなたは、本当に。


頬に熱が集まる。お酒のせいにできることが、今はせめてもの救いだった。


「い、いえ……そこまでしていただかなくても、大丈夫です」


握られた手を意識しながら、なんとかそう答えた。


すると徹は、必要ならおんぶもしますよ、と冗談まで言ってきた。


綾乃は思わず彼を見上げた。


「……もう。徹さんったら」


困ったように眉を下げながらも、綾乃の口元は緩んでいた。


「さすがに、それは困ります。明日、会社でお顔を合わせるのが恥ずかしくなってしまいますから」


そう答えながらも、握られた手はそのままだった。


綾乃は、つないだ手にそっと力を込めた。


気持ちを知られてしまいそうになり、慌てて指の力を緩める。


綾乃は前を向き、なるべく自然な声で続けた。


「……こうして手を貸していただけると、確かに安心します」


少し照れくさくなって、冗談を口にした。


「徹さんって、紳士なんですね。普段から後輩に優しいのは知っていますけれど……こういうところは、今まであまり知りませんでした」


そして、ふと声を落とす。


「……徹さんは、ほかの女性にも、こんなふうに自然に手を差し伸べられるんですか?」


徹にとって、この手は単なる気遣いなのだろうか。


それとも、少しは特別な意味があるのだろうか。


「……いえ、すみません。変なことを聞いてしまいましたね」


綾乃は前を向いた。


街灯の下を通り過ぎると、二人の影が長く伸びた。


つないだ手を、恋人同士のものだと思ってはいけない。


そう自分に言い聞かせながらも、綾乃は手をほどけずにいた。


ガラス張りのエントランスにたどり着いた。


「……ここです」


綾乃は名残惜しそうに、徹の手をほどいた。


「少々、お待ちくださいね」


バッグから鍵を取り出す。


指先には、まだ徹の温もりが残っているような気がした。


綾乃は指を曲げ、それからオートロックを解除した。


「どうぞ。こちらです」


綾乃は徹を中へと招き入れた。


エレベーターに乗り、十二階のボタンを押す。


鏡面仕上げの壁に、二人の姿が映っていた。


いつもは一人で乗るエレベーターに、今日は徹がいる。


階数表示がひとつ上がるたび、自分の部屋が近づいてくる。


綾乃は、バッグの持ち手を握り直した。


十二階に到着すると、二人は静かな廊下を歩いた。


部屋の前まで来ると、綾乃は徹を振り返った。


「……あの、徹さん」


名前を呼んでから、言葉に詰まった。


「いえ……なんでもありません」


鍵を開け、玄関の扉を押す。


「どうぞ、お入りください。スリッパはこちらを使ってください」


徹を招き入れ、玄関の扉を閉めた。


途端に、外の音が遠ざかった。


会社でも、店でもない。


自分の家に、徹がいる。


綾乃は靴をそろえながら、ひとつ深呼吸をした。


リビングには、いつものように柔らかな間接照明が灯っていた。


ソファとローテーブル、窓辺の小さな観葉植物。


物は少なく、室内はきちんと整っていた。


「どうぞ、そちらのソファにお掛けください。今、コーヒーを淹れますね」


リビングへ案内しながら、綾乃は自分の落ち着かなさに苦笑した。


「……すみません。私のほうが緊張してしまっていますね。普段はこんなこと、ないのですけれど」


綾乃はキッチンへ向かい、棚からコーヒー豆を取り出した。


まずは、いつもどおりにコーヒーを淹れよう。


そうすれば、少しは落ち着ける気がした。


豆を挽き、お湯を注ぐ。慣れた手順を繰り返すうちに、香ばしい香りが部屋に広がっていった。


二人分のコーヒーを淹れ終えると、カップをトレーに載せてリビングへ戻った。


「お待たせしました。私のお気に入りのコーヒーです。徹さんのお口にも合うといいのですが」


徹の前にカップを置き、自分も向かい側のソファに腰を下ろす。


徹がひと口飲み、コーヒーの味を褒めてくれた。


「まあ、本当ですか? よかったです。お湯の温度には、少しこだわっているんですよ」


綾乃はカップを両手で包んだ。


「でも、徹さんにおいしいと言っていただけると、嬉しいですね」


照れくさくなって、コーヒーをひと口飲んだ。


「そういえば、徹さんもコーヒーがお好きなんですよね。普段はどんなものを飲まれるんですか? 紅茶などもお好きですか?」


徹の好きなものを、ひとつずつ知っていきたい。


いつか彼がコーヒーを飲むとき、自分のことを思い出してくれたら。


そんな未来を、綾乃はひそかに思い描いていた。


「そうなんですね。コーヒーも紅茶もお好きなんですね。でしたら、今度いらっしゃるときは紅茶もご用意しておきますね。……あ、いえ」


綾乃は言葉を止めた。


「今度も来ていただけることを、すっかり期待してしまいました」


そして、徹がカップに目を留めたことに気づくと、綾乃は自分のカップを見下ろした。


「ああ、こちらですか? ありがとうございます。実は、これ、私も気に入っているんです」


徹の手元にあるのは、落ち着いた紺色のカップ。綾乃のものは白いカップで、二つ並べると色違いになっている。


「少し前に見つけたんです。派手ではありませんけれど、形がきれいでしょう?」


綾乃は二つのカップを見比べた。


「……あら。こうして見ると、色違いで揃えておいてよかったですね」


向かい合って使う二つのカップを見ているうちに、ふと想像してしまった。


――二人で暮らしているみたい……。


綾乃は慌ててコーヒーをひと口飲み、話題を変えた。


「徹さんが普段は気軽にコーヒーを淹れていらっしゃるというのも、意外でした。もっと細かいところまでこだわっていらっしゃるのかと思っていましたから」


綾乃はカップをテーブルに置いた。


「もしよろしければ、今度、徹さんにもおいしい淹れ方をお教えしましょうか? そんなに難しいことではありませんから」


言葉を切り、いたずらっぽく目を細めた。


「……ただし、教えるからには、ちゃんと覚えていただきますよ。会社の後輩に仕事を教えるときと同じくらい、丁寧に指導してしまうかもしれません」


いつもの頼れる先輩らしい冗談。


けれど、そのあとに続いた言葉は、違っていた。


「それに……こういうことなら、また徹さんと一緒に過ごす口実にもなりますから」


綾乃はカップを持ち上げ、口元を隠した。


――踏み込みすぎたかもしれない。


カップ越しに、徹の反応を窺う。


「……もちろん、徹さんさえよろしければ、ですけれどね」


ぜひ教えてほしいという返事に、綾乃の表情がぱっと明るくなった。


「まあ、本当ですか? それはぜひ。次は一緒に淹れてみましょう。私がお手本をお見せしますから」


綾乃はカップをテーブルに置いた。


「……それに、コーヒーを淹れるときだけでなく、またこうしてお話しできたら嬉しいです」


ふと時計を見ると、もう日付が変わっていた。


「……もう、こんな時間なのですね」


徹が帰ろうとする気配を見せた。


当然だ。朝になれば、また仕事がある。


笑顔で送り出さなければ。


「……徹さん。遅い時間までお引き止めしてしまって、すみません。朝からお仕事もありますし、そろそろお帰りになったほうがいいですよね」


そう言いながらも、綾乃は立ち上がれなかった。


テーブルの上のカップに、そっと指先を添える。


「……ただ」


言いかけて、わずかに視線をそらす。


ここで何も言わずに帰してしまえば、次にいつ二人きりで過ごせるか分からない。


綾乃はカップから指を離した。


「私、今夜は本当に楽しかったんです。徹さんと、会社ではできないお話もたくさんできましたし……」


一度、息を吸う。


「あと十分だけ、いかがですか?」


徹の返事を待つ前に、綾乃は慌てて付け加えた。


「もちろん、お疲れでしたら、遠慮なくおっしゃってくださいね」


十分で足りるはずがない。


それでも、もう少しだけ。


綾乃は徹の返事を待った。


徹も、綾乃と一緒にしてみたいことがたくさんあるのだという。


「……徹さんも、私と一緒にしたいことが……たくさん?」


思いがけない返事に、綾乃は目を見開いた。


そして、徹の提案を聞くと、綾乃は考えるように首を傾けた。


「二人でしたいことのリスト……ですか。いいですね。そういうの、私も好きです」


綾乃は立ち上がり、リビングの棚からメモ帳とペンを取り出した。


普段は仕事に使っている、飾り気のないメモ帳。


そこに、徹と二人で叶えたいことを書いていく。


向かい側のソファへ戻りかけて、綾乃は足を止めた。


同じメモ帳を見るのなら、隣に座ったほうが自然だろう。


そう自分に言い聞かせ、徹の隣に腰を下ろした。


メモ帳をテーブルに置き、ペン先を紙に添えた。


「では、まずは……何にしましょうか」


考えたあと、最初の項目を書き込む。


『一緒においしいコーヒーを淹れる』


「これは決まりですね。徹さんに、私の淹れ方を覚えていただく約束をしましたから」


綾乃は書き終えた一行を、しばらく眺めていた。


「それから……映画を一緒に観るのも、いいかもしれませんね。観終わったあとに、感想を話し合ったりして。私は、同じ作品でも人によって受け取り方が違うところが面白いと思うんです」


二つ目を書き足す。


『一緒に映画を観て、感想を話す』


「あと、お料理も。私、料理はそれなりにしますけれど、誰かと一緒に作る機会はあまりないんです」


綾乃は三つ目の項目を書き足した。


『一緒に料理をする』


仕事の予定を立てることには慣れている。


けれど、徹との予定を考えるのは、まるで勝手が違った。


綾乃はペンを止めた。


本当は、もっと書きたいことがあった。


いつか、徹がこの部屋を訪れるのが、ごく自然な日常になること。


それはまだ、約束として書けることではなかった。


綾乃は息をつき、ペンを握り直した。


「……あ、それと。これは少し、わがままかもしれませんけれど」


彼女はメモ帳の余白に、ゆっくりと書き足した。


『予定を決めずに、のんびりおしゃべりする』


「今日みたいに、特別なことをしなくてもいいんです。ただ一緒にいて、いろいろなお話をして……気づいたら、また時間が過ぎているような」


そこまで話して、綾乃は言葉を切った。


「私は、そういう時間も大切にしたいです」


やがて、綾乃はメモ帳を徹にも見えるように、二人の間へ寄せた。


「さあ、徹さん。次はあなたの番です」


そして、会社ではめったに見せない無邪気な笑顔を浮かべた。


「あと十分で、いくつ書けるでしょうね。……私、こういうのは意外と欲張りなんですよ?」


徹が挙げた最初の案を聞いて、綾乃は思わず顔を上げた。


「……カフェ巡り。覚えていてくださったんですね」


昼食のとき、自分から提案した約束だった。


それを徹のほうから挙げてもらえたことが、嬉しかった。


「それから、公園のベンチでお話しすることと……今夜のお店に、もう一度行くことですね」


綾乃はひとつずつ確かめながら、メモ帳に書き足していった。


二人でしたいことリスト


・一緒においしいコーヒーを淹れる

・一緒に映画を観て、感想を話す

・一緒に料理をする

・予定を決めずに、のんびりおしゃべりする

・お互いのおすすめのカフェを巡る

・公園のベンチで、のんびりお話しする

・今夜のお店に、もう一度行く


綾乃は書き上がったリストを眺めた。


どれも、ささやかな予定ばかりだった。


けれど、その一つひとつに、徹と過ごす未来があった。


最後の項目に目を留める。


『今夜のお店に、もう一度行く』


「……これは、特に嬉しいです」


綾乃はその文字を指先でなぞった。


「あのお店は、私にとって特別な場所になりましたから」


昼と夜、同じ店で過ごした時間。


そのどちらも、忘れたくなかった。


時計を見ると、午前0時15分になろうとしていた。


「……あら。十分だけのつもりが、すっかり長引いてしまいましたね」


綾乃はメモ帳に視線を戻した。


「このリスト、私が預かっていてもいいですか? ひとつ実現するたびに、印をつけていきたいんです」


そして、少しだけ得意げに顔を上げた。


「私からもお誘いしますから……覚悟しておいてくださいね」


綾乃はメモ帳を閉じ、テーブルに置いた。


名残惜しさを押し隠し、徹に向き直った。


「徹さん。今日は、本当にありがとうございました」


玄関へ向かいながら、綾乃はリビングを振り返った。


テーブルには、二人で書いたメモ帳が残されている。


「……次は、あのリストの最初の一つを叶えましょうね」


玄関のドアの前で足を止めた。


また会える。


それなのに、徹を見送ることが、どうしようもなく寂しかった。


「……会社では、またいつもどおりですね」


綾乃は玄関のドアノブに手をかけた。


徹を見送るため、いつものように微笑もうとする。


「それでは、徹さん。気をつけてお帰りくださいね」


そう言うつもりだった。


けれど。


徹の顔を見上げた。


ドアノブから、手が離れた。


一歩、近づく。


気づけば、彼の唇に自分の唇を重ねていた。


いけない。


そう思ったのに、離れることができなかった。


ずっと胸の奥に押し込めてきた想いが、今はもう抑えられなかった。


徹は驚いた様子だった。


それでも、綾乃を突き放すことはなかった。


――拒まれて、いない。


どれほどの時間、唇を重ねていたのだろう。


綾乃には、もう分からなかった。


気づいたときには、唇が離れていた。


ほんのわずかな距離を隔てて、二人の間に静寂が落ちた。


綾乃は動けなかった。


――私、今……。


謝るべきなのか。それとも、徹の気持ちを尋ねるべきなのか。


何か言わなければと思うほど、言葉が出てこない。


このキスで、ようやく近づけた距離さえ失ってしまったのかもしれない。


綾乃は、ぎゅっと指先を握りしめた。


それから、ゆっくりと息を吸った。


「……それでは、徹さん」


自分でも驚くほど、いつもと変わらない声が出た。


「今日は、本当にありがとうございました」


綾乃は微笑みを崩さなかった。


玄関のドアを開け、静かに脇へ寄った。


けれど、ドアに添えた指先は、かすかに震えていた。


徹が玄関を出ようとする、その瞬間。


「……徹さん」


思わず名前を呼んでしまった。


あのキスが、気の迷いではなかったと伝えたい。


けれど、それを口にしてしまったら――。


振り返った徹を前にしても、綾乃は言葉を続けられなかった。


「……お気をつけて」


ドアが閉まる。


カチャリ、と小さな音がして、徹の姿が見えなくなった。


綾乃はしばらく、その場から動けなかった。


やがて、ドアに背中を預けるようにして、ゆっくりと目を閉じる。


「……私、何を……」


声が震えた。


片手で口元を覆う。


さっきまで、確かにそこにあった感触が、まだ消えていないような気がした。


「……どうしましょう……」


誰もいない玄関に、綾乃の声だけが落ちた。


取り返しのつかないことをしてしまった。


それなのに、後悔だけではなかった。


徹は、拒まなかった。


突然のことに戸惑っていただけかもしれない。そう分かっていても、期待せずにはいられなかった。


――もう、今までどおりではいられない。


次に会ったとき、徹はいつものように笑いかけてくれるだろうか。


あのキスを、どう受け止めたのだろう。


答えを知るのが怖い。


それでも、早く会いたかった。


綾乃はそっと、唇に触れた。

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